十話・落とし物
ロスタリアの国土は狭い。
それこそ聖教国や帝国に比べれば『猫の額』とでも言えるほどの土地しか持たない。
しかし、それでも罪科の塔への行軍には五日もの時を要した。
原因は、魔獣との遭遇が多かったためだ。
シドは動かなかったものの、戦力としては軍や魔術師に加えて、アッシュたちとミスティアもいる。
だから大した脅威でもなかったものの……単純に会敵の頻度が桁外れだった。
そのせいで、塔に近づくにつれて行軍は遅くなっていった。
大軍で動いていることを考慮しても、塔の近くでは異常なほど魔獣に手を焼かされた。
だがそんな中なんとかノヴィエ……すなわち魔王の領域のすぐそばにたどり着いた。
そして、設営した拠点の片隅でアッシュは小さくつぶやく。
「よく見えるな」
早朝、雪の降る空の下に立っていた。
軍勢が拠点にしたのは、塔から離れたなだらかな高地だった。
だから、ここからだとよく見えるのだ。
彼方にそびえる元凶の地、すなわち罪科の塔の姿が。
「…………」
何も言わず塔を見つめていた。
すると背後から誰かに声をかけられる。
「アッシュ様、ここにいたんですか。おはようございます」
振り返るとノインがいた。
立ち並ぶ天幕の群れを背にたたずんでいる。
「……ああ、おはよう」
彼女に挨拶を返し、アッシュはまた塔へと視線を戻した。
すると彼女も横に並び、同じように塔を見つめ始める。
「不思議ですね」
「なにが?」
「何もなかった場所に、あんな塔が立つんですから」
それは、確かにそうだった。
罪科の塔は魔導塔よりも高く、そしてただひたすらに異様な姿をしていた。
漆黒の塔はねじくれて歪な形で伸びているが、これは恐らく階層ごとに違う形が連なっているからだろう。
しかも、その階層はことごとくが幾何学的な形ではない。
物心つく前の子供がこね上げたような、醜悪で無意味な構造が天を貫くようにして伸びているのだ。
突然現れたことを抜きにしても、倒壊しないというだけで十分に現実離れしている。
と、考えながらアッシュは言葉を返す。
「あの塔がある場所には、元は大きな街があったそうだ」
すると、ノインが目を向けてくる。
先を促すような瞳に一瞬だけ視線を合わせた。
そしてアッシュは言葉を継いだ。
「それで、塔から一番近い街の住人には、一瞬であの塔が現れたように見えたらしい」
「それは……」
「考えても分からない、ということだ」
つまりはそういうこと。
あの塔がどうやって生まれたかなど、人智の及ばぬことなのだ。
神やその敵……つまり魔王にしか知り得ないことなのだろう。
「あの」
不意にノインが声を漏らす。
「…………」
今度はアッシュが無言で先を促す。
意図は伝わったようだった。
彼女はうなずいて、おずおずとコートのポケットから何かを取り出した。
「それは?」
見たところごく質素な、鈍い色のペンダントだった。
貴金属ではなく、ごくありふれた金属で作られているらしい。
けれど首に巻く紐の長さからして、ノインのものではないだろう。
だから聞くと、彼女は答える。
「泊まっていたテントの近くで拾ったんです。届けようと思うんですが、どうしたらいいか分からなくて」
「兵士の私物ならとりあえずは物資の担当者に届けるべきだろう。少なくとも、聖教国ではだが」
所持者不明の物資は、なんであれ改めて配給されるまでは軍の所有物だ。
だから、聖教国では落とし物も軍の物資として届け出る。
この上で、持ち主が名乗り出て引き取るのがルールだった。
もっとも、実際は大半の兵士が落とし物を横領してしまう。
拾った兵士が横領しなくても、物資の担当者が横領する。
二つの横領をくぐり抜けることはめったにない。
だから、余程大切なものでないと落とし物について問い合わせたりはしない。
落とした時点で諦めるのが暗黙の了解だ。
「……それは、えっと」
ふと見ればノインは混乱していた。
聖教国では……とつけたせいで、どうすればいいのか分からないらしい。
彼女の様子を見て頭をかく。
どうすればいいのか迷っていた。
しかし、こちらにはなにか予定があるわけでもない。
拠点の守りのためにも出歩くわけにはいかなかったので、魔獣を狩りにも行けない。
では、彼女に付き添っても構わないだろうと判断する。
「もしよければ一緒に届けに行こう」
「いいんですか?」
「構わない」
言って、アッシュは塔に背を向けて歩き始める。
物資を管理する場所に行くつもりだった。
もちろんどこで管理しているかは分からないが、こうした拠点のテントの配置には大抵似通った意味があるのだ。
たとえば物資を扱うのであれば、きっと広けた道が側にあるに違いない。
それらしいところを当たっていれば見つける自信はある。
「ありがとうございます」
歩いていると礼を言われた。
別に大したことではないので、アッシュは短く答えた。
「気にしなくていい」
一瞥をやり、ちゃんとついてきているかだけ確認しておく。
そして野営地の外れから、中心へ向けて歩き始める。
するとノインが驚きがにじむ声で語りかけてくる。
「なんだかここは、あらためて見るとすごいですね」
「そうだな」
ロスタリアが動員した軍勢は三万を超える。
だから野営地もここだけではなく、四つほどに分割されていた。
しかし、四分の一とはいえやはり大軍である。
野営地は、さながら大きな集落のような様相を呈している。
「!」
そうしてしばらく歩いていると、白い天幕の影から兵士に引かれた馬が急に出てきた。
三頭ほどまとめて通っている。
ぶつかることもなかったが、近くで見た馬が不思議なのかノインがまじまじと見つめていた。
アッシュは兵士に話しかける。
「なぁ。悪いが、少しいいか?」
目の前を横切ろうとしていたが、声をかけると止まってくれた。
自力で探すつもりだったが、やはり道を聞くほうが賢いやり方だろうと思ったのだ。
すると、こちらの身分も察しているのか丁寧な様子で受け答えを返してくる。
「ええ、はい。なんでしょうか?」
頷いて、話をする前にロスタリアの兵士の兵装を観察してみた。
彼の装備は凡庸な鎖帷子に鉄兜、武器は持っていない。
こちらは兵士でも簡単な魔術を使えるそうなので、なにか触媒を持っているのだろうか。
「…………」
じっと見つめる。
すると兵士は直立不動し、こわばった表情でこちらを見返していた。
なんだか申し訳なくなったから観察を中断し、本来の目的を果たすことにする。
「落とし物を拾った。どこに行けばいい?」
「お、落とし物ですか……?」
かなり困惑したようだったが、一応の答えを見つけたようだった。
口をもぞつかせながらも答える。
「それでしたら、あちらの司令部の天幕に持って行ってください」
兵士の彼が、こちらから見て左手の奥を指差して言う。
どうやら、アッシュの推測は見当違いだったらしい。
司令とはいえ末端はなんでも事務をこなす。
従って人事……つまり人間の管理についても取り扱っているのだろう。
そういう訳で、ロスタリアでは持ち主を探すのに司令部をあたるのかもしれない。
聞いて良かったと思いながら、小さく頭を下げておく。
「どうもありがとう」
「い、いえ、そんな……。では、失礼します」
答えを聞き届けて、ノインの方に視線を移す。
するとまだ彼女はじっと馬を見つめていた。
一礼して離れていく兵士に連れられ、遠ざかる三頭を名残惜しそうに見送った。
「…………」
なんとなく、その様子が気になって問いを投げかける。
「気になるのか? 修道院にも馬はいたはずだが」
すると彼女は小さく頷いた。
「世話はさせてもらえなくて。ずっと羨ましかったんです」
「そうか」
家畜の世話は黒ローブの仕事だったという事だろう。
憶測を巡らせて歩きだす。
落とし物を届けなければならなかった。
歩きながら、まだ姿が見えないアリスについて聞く。
まさか寝込んでいるということもないはずだが。
「そういえばアリスは?」
「あたしが起きた時はまだ寝ていました」
「そうか」
ノインは修道院で暮らしていただけあって、規則正しい生活は板についている。
だがアリスの方はというと、段々と寝起きが悪くなってきている。
移動の疲労を考慮して、いつも少し寝坊させていたせいかもしれなかった。
近頃はもう自分では起きない。
だが、それは必要な時に起こせばいいだけだ。
なので特に気にはしていなかった。
「それにしてもここはたくさん馬がいますね」
やがて、歩いているとノインがまた口を開く。
アッシュは頷いた。
「確かに」
歩いているとそこそこの頻度で馬とすれ違う。
これは、馬を伝令や輸送にしか使わない聖教国では珍しいことだった。
だから考えていると、理由に思い当たったので伝えておく。
「ロスタリアには魔術騎兵がいると聞く。きっと彼らの馬なんだろう」
「……魔術騎兵?」
彼女は不思議そうに問い返してきた。
アッシュは、なんと答えるべきか少し迷う。
「…………」
魔術騎兵とは、名前の通り魔術を扱う騎兵である。
馬の機動力で戦場を駆け、高威力の魔術をばら撒く上級の兵科だ。
彼らの精強さは音に聞こえていて、手綱をほぼ使わずに馬を駆る。
さらに右手に武器、左手に杖を持ち、巧みに二つを扱うのだとか。
しかしそもそも、ノインは騎兵を知っているのかすら分からない。
だから、なるべく噛み砕いた言葉で伝える。
「馬に乗って、魔術を使う兵士だ。聖教国の兵隊は馬に乗らないが、こちらの人間はみな馬術ができるようだ」
「どうして乗らないんでしょうか」
そんな言葉を交わす横を、馬に乗った兵士が通り過ぎていった。
今のは恐らく、拠点間の連絡の任を負う伝令兵だろう。
などと考えながら答える。
「馬に乗って突撃するようなことも昔はしていた。君がもらった『騎士』という役職もその名残だ」
聖教国にも昔は騎士がいた。
人を殺すのみの魔獣は馬を狙わないからだ。
さらに、大威力の騎兵突撃には一定の効果があったためだ。
そのためかつての戦では、戦場の花形として扱われた時期もあったと聞く。
だから、この名残りで今も将校を騎士と呼ぶ。
しかし、今はもう廃れた戦術だった。
アッシュはそれを彼女に伝える。
「でも、今はもう馬よりも魔術を使う」
魔術が発達するにつれて騎兵突撃は廃れ、騎士たちはむしろ魔術を修めるようになった。
ロスタリアでは、馬と合わせた独自の戦術が発達したようだが。
すると、ノインが合点がいったようにため息を吐く。
「はぁ……。アッシュ様も馬に乗れるんですか?」
乗れる……のは乗れるはずだ。
しかし言い切ることが難しい質問で、困ったから頭をかいた。
小さく咳払いをして答える。
「実は、あまり得意ではない。手綱があればまっすぐ走ることくらいはできるが」
昔から得意ではなかったが、今は拍車がかかっているような気がする。
なにしろアッシュは魔物で、馬に嫌われている。
背に乗ると怖がって進まないのだ。
もちろん、馬はあまり今のアッシュには必要ないので嘆くこともないが。
と、その時。
「…………」
前から少年が……シドが一人で歩いてきていた。
だが、相手が何も言わないのなら黙ってすれ違うつもりだった。
きっとシドもそうだったのだろう。
「…………」
明らかに目が合ってもなお、互いに無関心に視線を逸らす。
道の反対側を気にすることなく歩いていた。
だがノインは、彼女だけはアッシュたちとは違った。
「おはようございます、シド様」
「お前は……大食い女か。言っとくけどもうクッキーはないぞ」
丁寧に腰を折ったノインに、足を止めたシドが不思議そうに返す。
「お、大食い女……?」
暴言を受けた彼女は見るからに動揺していた。
思えば、悪口を言われるのは初めてではないだろうか。
アッシュの知る限りのことではあるが。
困ったように、また恥ずかしそうにノインが反論する。
「……クッキーがほしくて話しかけたんじゃありません。大食いじゃありません」
しかし反論する彼女に、シドが冷ややかな笑いを返す。
「嘘を言うな僕は見たぞ。昨日の夜なんてパンを五個も食べてたな。豚がどんぐりかきこんでるみたいだったぞ」
「ぶ、豚……」
追撃に早くも限界を迎えたか、ノインは言葉に詰まり始めた。
だから彼女の肩を軽く叩く。
すると助けを求めるような視線を向けてきた。
「…………」
それに応じたわけでもなかったが、アッシュは前に進み出る。
「あまり言わないでくれ。悪いが用事がある」
「用事?」
意外にも聞き返してきた。
その、彼の紫の瞳を見ながら、アッシュはあくまで短く答える。
「落とし物を届けに行く」
「落とし物だと?」
意外そうな顔のシドは、またなにか勇者の噂を思い出しているのかもしれない。
二、三回小刻みに頷いて、さらに問いを重ねてきた。
「ちなみに何を拾ったんだ? 食い物か?」
「ペンダントですよ!?」
若干怒ったような声のノインに皮肉気な笑みを返す。
それから、彼は止めていた歩みを再び進めた。
歩き去りながら口を開く。
「ペンダントはここいらじゃ兵士のお守りだ。届けてやれば喜ぶだろうな」
そんなことを言い残して去っていった。
残されたノインは困ったような息を漏らした。
「あたし、使徒様と上手くやれるでしょうか……」
「多分、大丈夫だろう」
きっと、普段はこうしてからかわれるのはミスティアの役目だ。
今のはシドのほんの気まぐれだったのだろう。
だからたまに矛先が向けられることはあっても、心配するほどのことではないと思った。
なのでそんな答えを返すと、ノインは小さく息を吐いて歩き出した。
「では、行きましょう」
「ああ」
「そういえば……あたし、大食いに見えますか?」
唐突に投げられた問いに、アッシュは一瞬だけ迷って首を横に振る。
「そんなことはないと思う」
―――
それから無事にペンダントを届けることができた。
だからアリスを起こして食事を摂ることにした。
そして、まずは起こすために寝泊まりする天幕に向かっていた。
するとその途中、ノインが思わずといった様子で声を漏らす。
「喜んでもらえるでしょうか」
「なにが?」
「落とし物を届けて……」
「ああ。……多分喜ぶだろう」
ロスタリアではまた違うのかもしれないが、基本的に落とした物が返ってくることはかなり稀だ。
そんなふうに望みが薄くても探しに来るなら、よほど大切なものであるはずだ。
であれば探し主が喜ぶことは言うまでもない。
だからアッシュが頷いてみせると、彼女はどこか上の空な様子で小さく呟く。
「そうですよね。……ありがとうございます」
目を伏せる彼女が、何を思っているのかは分からない。
だがなにか、なにか彼女にとって大切なことを考えているのだろう。
そう判断したから、アッシュはもう立ち入ることはしない。
ただ黙って帰る道を歩き続けた。




