1000UA記念短編・海
本編開始前の話。
「……君。生きてるか?」
そんな声をかけられて、俺は目を覚ます。
「……っ、あ……」
瞬間、思い出すのは戦いのこと。
魔獣の群れ。倒れる仲間。ちぎれた腕。捨てられた剣。
それから、俺に斬りかかってきた蟲の魔獣だ。
「落ち着いてくれ」
そんな声とともに軽く頬を張られる。
その衝撃で自分を取り戻し、痛みを自覚する。
「うっ……」
「落ち着いて、俺の肩に腕を回せ。背負って運ぶ」
そんな言葉と共に軽く背中を叩かれ、血の塊を吐く。
痛みが酷い。
なのに、腰から下の感覚がない。
軽く持ち上げられ、背負われて、しかしそんなことどうでもいいくらいの痛みが……。
「―――――」
その時。
何かを呟く声が聞こえて、それで痛みが少しずつ和らいでいく。
「……楽になったか?」
そんな問いが投げられる。
答えることもできずにただ頷いた。
でも実際痛みは引いていたので、俺はようやく現在の状況に目を向ける。
「…………」
人と魔獣の死体。
数え切れないほどそれらが転がる死屍累々。
血と、なんとも言えない悪臭。
骸に群がる烏の声。
死が満ちた地獄を傾きかけた夕日が照らし、救いようがないその光景を紅く色づけている。
そして、俺を背負う誰かの背中はいっそ意外なほどに小さなものだった。
歳としては、十五かいくらだろうか。
はだけたフードから覗く黒髪、白い外套。
足取りは力強く、また迷いがない。
死体の海を歩む彼は、一体どこに向かっているのだろうか。
「あんた……どこに……」
息も絶え絶えにそう問いかけると、平坦な声で答えが返る。
そしてそれは、意外なものだった。
「いや、決めていない。どこか、行きたい場所はあるか?」
「本隊に、帰らないと……」
「ああ、そうだな」
調査が甘かった。
だから魔獣の大軍が乱入してきた。
それが不運の始まりだった。
陣のどてっぱらに噛み付かれた。
それから魔獣は、散々に仲間を殺し、恐慌に陥った聖教国軍の一部は瞬く間に敗走した。
残った戦力で魔獣の掃討を続けたが、劣勢は明白だった。
魔獣どもが全て……いや、それは違うのだったか。
骸の勇者というやつが、殿を務めて、味方は逃げられたのだったか。
なにもかもが死にもの狂いの中で、よく覚えていなかった。
「――――――」
俺を背負う少年は、絶えず何かを呟いている。
聞いているとなんだか気が安らいで、もう戦わなくてもいい気がしてきた。
「なぁ、あんた」
「……すまないが、俺は忙しい。できるだけ話しかけないでほしい。それともなにか、行きたい場所でも決まったのか?」
静かな声が尋ねてきた。
俺は少し考えて答える。
「……ああ」
思い返すのは、仲間とした馬鹿話だった。
このあたりの海は澄んでいて、きれいな女がいつも遊んでいるのだとか。
……まぁ、戦役中にそんなことがあるとも思えなかったが、それでもなんだか楽しい話だったし。
あとは、俺は海を見たことがない。
「海を、見たい」
「海か。骨が折れそうだな」
話していると痛みが戻ってきた。
すまないと、そう言おうとした口が苦痛に塞がれる。
「うっ……」
呻いた俺になにも言わず、少年はただ何かを呟き始める。
そうすると、俺の傷の痛みはまた和らぎ始めた。
「―――――」
ほとんど絶え間なく何かを呟きつつ、少年は足を早めたようだった。
俺の傷を気遣ってか、走り出すことはなかったが。
「もう、駄目なのかな?」
死が溢れる光景をどこまでも歩き続ける。
それを見ているとどうしようもなく弱気が込み上げてきて、俺は思わずそんなことを口にする。
「なにが?」
「全部だよ。勇者もいないし、こんなの、どうしようもないよ」
この地域には、禁忌領域から大量に獣共が流れ込む。
だから守備隊が大規模な防衛戦を常に展開していて、俺たちは守備隊への増援だった。
だが、その加勢がこのザマだ。
これでは、もう人間にはどうしようもないのではないだろうか。
「そうかもしれない」
小さくそう答えて、また少年は呟きに戻る。
彼の声は早くて、おまけに潜められていて、今の俺には聞き取れない。
「あんた、どこから来たんだよ。俺は……東の方でさ。水とパンのリンダムと言えば……少しは有名だろ」
「ああ」
短く答えて、彼はまた呟きに戻る。
全く不思議なことだった。
……いや、俺にも本当は、よく分かっている。
ただ怖かった。
恐ろしくて、動かない口を無理に動かす。
「いい水があって、だから、パンが、美味いんだ。ローランの賛美節には、あたりのパン職人が全員集まってきて、腕を競い合う。俺も、ほんとは、パン屋に、なりたくて…………なぁ、あんた、聞いてるのか?」
「聞いてる」
涙が頬を伝う。
それに構わず俺は言葉を続ける。
「親父が……作る……パンが……好き……で……俺も……いつ……か」
口が上手く回らなくなってきた。
視界もぼやけてきて、その代わりのようにして恐怖が膨れ上がる。
少年の肩に爪を立てて、けれどそんなささやかな力もすぐに抜ける。
……ほんの少し、少年の足が早まった気がした。
「そろそろだな」
俺がほとんど喋れなくなって、しばらく経った。
死の原野を抜けて、丈の高い草が生える場所に行き着いた。
視界の隅が黒く染まってきて、けれども草を揺らす風の音は心地よく耳に届く。
そこは死体の山よりはよほど気の利いた場所だった。
「…………」
何も言えないまま小さく頷いて、俺は……泣くのをやめた。
やがて草原も抜けて、坂道に差しかかる。
それを少年の足は迷いなく登っていき、やがて夕日を受けて輝く海がぼんやりと、目に入った。
少年が俺を下ろし、背を支えてくれる。
座り込んだ俺は、海を見ながら意識が遠のくのを感じた。
「……俺、もう駄目なんだろ?」
「――――」
少年はやはり何かを――いや、治癒魔術の詠唱を呟きながら、視線だけを俺に向けたようだった。
「ありがとな。もう駄目なのに、ここまで連れてきてくれて」
呟きを止めて、少年がその瞳に初めて感情の色を宿す。
刹那走ったそれは、悔恨だろうか。
少年の手を探ると、やはりメダルのようなものがあった。
少年の手から外し、俺はもういいのだと首を横に振る。
すると彼は、目を伏せたままぽつりと言葉を漏らす。
「痛みを取っただけだ。治癒魔術は下手だが、魔力はいくらでもある。気にしなくていい」
「そっ……か」
不意に、意識する間すらなくまぶたが落ちる。
そして、急速に思考がどこかに漏れていく。
まるで穴の空いたコップから水がこぼれるように。
「ありがとな、勇者さん」
俺はかろうじて残った自我でそれだけを言い残した。
目に焼き付けた海の光景を抱いて闇の中に沈んでいく。
少年は何かを答えたようだったが、俺はそれを……聞き取ることはできなかった。
それだけが、ほんの少し心残りだった。




