二章エピローグ・それは、月がきれいな夜のこと
…………それは、月がきれいな夜のこと。
「…………」
「…………」
焼けた大地と燻る倒木。
彼らの周りに人もなく、世界から取り残されたようにして二人だけが向かい合っていた。
互いに無言の彼らは、それでも視線を交わし合う。
そしてまず一人、傷だらけの、灰と散る剣を手放した白い少女が言葉を漏らす。
「……ツヴァイ」
そんな風に、泣きそうな顔で少女は名を呼んだ。
それに答えるのは、倒木に背を預ける肉塊のような姿の奇妙な少年だった。
「……ああ、ノイン、か」
静かな声だった。
少年は静かな声で少女の名前を呼んで、それからぽつりと呟いた。
「…………ごめんな」
―――
気がつけば地に転がって空を見上げていた。
霞む視界に映った月は、それでもきれいで。
ノインと別れた日のことをどうしようもなく思い出す。
「……ツヴァイ」
幻かと思った。
いるはずがない……いや、そもそも俺はノインを救おうと旅立って……それから、どこで何をしていた……?
しかし、少し考えて、俺は深くため息を吐く。
……全てを思い出した。
暴走して、けれど魔獣の魂を喰われた。
だから、そのお陰で、俺はこうして正気を取り戻したということだ。
「……ああ、ノイン、か」
言いつつ、視線を巡らせる。
すると、すぐに彼女の姿は見つかった。
ぼろぼろの体で、泣きそうな瞳をこちらに向けていた。
「…………ごめんな」
そんなことさえ言う資格がないように思えて、だから俺は、目を逸らしながら絞り出すように口にする。
するとそれに返ってきたのは、初めて聞く明確な怒りの声だった。
「あなたは……バカです」
バカ、と。
そう言った彼女に俺は思わず顔を上げる。
彼女がそんな言葉を使うなんて、想像だにしなかったのだ。
「…………」
拳を握り、その体を小さく震わせて。
見るからに怒っている彼女は、もう俺の目の前に立っていた。
「……あたしなんかのために、あなたは……どれだけの人を殺したというのですか……!」
やはり何も言えず、見返せばノインが涙を流している。
それに、俺はようやく言葉を絞り出す、
「悪かったとは思っている。だけど俺は……」
「だけどもだってもありません!」
鋭く怒鳴って、一瞬のあとノインは崩れ落ちる。
崩れ落ちて、すすり泣きながら小さく声を漏らした。
「あなたたちが、先に行ったんじゃないですか……。なのに今さら、取り消して、それで……あんなこと、するなんて……あんまりです、こんなの……」
それはまったくもって正論だった。
先に俺たちが彼女を置いて行ったのだから。
けれども、俺にはどうしても許せなかったのだ。
実感のない罪を理由に非道な実験の中に囚え、これに耐え抜いたノインすらも殺すのだという。
その事実を知った時、凄まじい怒りを覚えた。
神も罪も、人の命も全てくだらないと思える程に腹立たしかったのだ。
だから俺は、それを伝える。
「……自分が死ぬのは、いいんだ。俺は生きるのに疲れてたし、アハトだってゼクスだって、もう長くは生きられなかった。だからそれもいい。そこまではまだ、許してやれる」
俺は自分でも酷い矛盾だと知りつつ、けれど言葉を重ねる。
かつての別れの日、彼女のために嘘をついて、結局それで彼女を縛ってしまったから。
だから今度こそ嘘をつくわけにはいかなかったのだ。
たとえどんなものであれ、本当のことを話す必要があった。
「でもお前が消えてしまうのだけは我慢ならなかった。……お前の心を殺して、人形にしようとするのが、それだけは許せなかった」
「でも……」
でもと口にして、到底納得できていないであろう彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ああ、だからって許されることじゃない。……俺は、本当の罪人になった。でも、それでも俺は気づいたんだ。俺は……お前には、お前にだけは、幸せになってほしいんだ」
「幸せに?」
思いもよらない言葉を聞いたとでも言うように、彼女がその目を大きく見開く。
「そうだ。幸せに、なってほしかったんだ。本当はずっと前に伝えておくべきだった。あのとき本当は、そう言いたかったんだ」
「そんな資格、ありません……」
そう言ってノインは、また泣き始める。
その姿に、俺は小さい頃のノインを思い出した。
修道院に来たばかりの頃、心細さに声を殺して泣いていた彼女のことを。
「……なぁノイン。神様を捨ててくれないか?」
そして、気がつけば目の前に座り込む彼女を抱き留めていた。
抱き留めて、自分でもどうかと思うくらい必死な声でそんなことを頼んでいた。
「神様を……?」
理解できないと、そんな色を滲ませた声でノインが問い返してくる。
それに、俺は深く頷いて答える。
「勝手なのは分かってる。だけど、これが……本当の話なんだ。あの時本当はこう言いたかったんだ」
瀬戸際だった。
彼女を贖罪から解き放つための、最後の機会だった。
視界は霞み音は遠ざかり始めている。
かつて身を浸した暖かな暗闇がもうすぐそこまで来ている。
時間がない。
だから俺は、また言葉を重ねる。
「酷いことを沢山した。謝って許されるとも思ってない。……もう俺には、お前の家族だなんて名乗る資格はないのかもしれない」
そうだ。
俺の罪は、人殺しだけではない。
ノインのことを、その体も心も傷つけてしまった。
俺が死んでもノインを救いたかったのは、家族だからだ。
そしてノインが自らを殺してさえ贖罪を全うしようとしたのは、家族が……俺たちが、その道に殉じたからだ。
だからノインだって、きっとツヴァイたちのことを大切に思ってくれていたはずだ。
なのに、その家族が殉教者隊を殺した。
理性なき怪物になった。
……敵に、なってしまった。
それはどれだけ苦しかっただろう。
どれほど辛かっただろう。
きっとノインは俺たちとは戦いたくなどなかったはずだ。
それなのに俺は倒すべき敵になってしまった。
彼女を追い詰めてしまったのだ。
たとえどんな道を選んだって、家族なら最後まで味方でいなければならなかったのに。
それが家族なのに、俺はそのルールを破った。
「……でも、みんな……ゼクスもアハトも……みんなお前が……大好きだったから……だからお前にだけは……」
言いかけて咳をする。
溢れた血が口の端を濡らして、ノインの背に回していた腕が力を失う。
「…………ツヴァイ」
別れを悟ったのか、ノインが静かな声で呼びかけてくる。
そして俺の腕からそっと離れて、腹から下が千切れた俺の体を優しく横たえる。
「ごめんな……辛かったよな。お前に剣を向けさせたりしちゃ、駄目だったよな」
ノインが手を握ってくれている。
その温もりを感じながら、俺はぼやける視界の中彼女の言葉を聞いた。
「……あたしのことは、いいんです。家族を止めるのは、当然のことです。…………それに」
一瞬、握りしめられた手に力が篭もる。
それから俺の肩の上に、温かななにか……涙が零れ落ちた。
「どんな形であれ、もう一度あなたたちに会えてよかった。……人が沢山死んだのに、よくないことだとは、分かっているのですが」
「…………」
俺はそれに何も言えなかった。
何も言わずにただその言葉を噛み締めていると、穏やかな声でまた呼びかけられる。
「ねぇ、ツヴァイ。あなた、あたしの味方でいてくれると言いましたね? あたしも同じです。あたしも、あなたの味方でいることにします。たとえ、あなたがどんなことをしたとしても」
「それは…………」
思わず身じろぎして聞き返す。
けれど、ノインはぴしゃりとそれを否定した。
「いいえ。だからこそ今度のことはあたしの罪でもあります。だから、贖罪はやめません」
「…………」
「けれど、アハトが教えてくれました。あれは本当の贖罪ではないと。だからあたしは……自分で、今度こそ本当の贖罪を見つけます。転生は、受けません」
その言葉に、全身の力が抜ける。
深い息が漏れて、俺はノインの未来が潰えることはしないのだと悟った。
「……ありがとう」
「いいえ、ツヴァイ。あなたのためではありません。あなたのせいですよ、これは」
少しだけ強がった声。
それに俺はわずかに口の端を緩めて、それから遠巻きにして佇む一つの……いや、二つの人影に気がつく。
喪服を着た少女を背負った、白い外套の少年。
俺は、眷属を倒す時に確かにこいつを見た覚えがある。
そしてあいつがこれから先もノインと共に行くのなら、言っておきたいことが一つあった。
「おい、あんた。……迷惑をかけて、本当に悪かった」
「…………」
答えはない。
けれど視線は向けられている。
冷たいような、そうでないような目が。
「それとこの子を連れて行くなら、どうか守ってやってほしい。言えた義理では、ないかもしれないけど」
「…………」
そしてそれから、『これからすること』をどうか黙っていてくれるように目配せをした。
「…………」
やはり無言。
だが骸の勇者は小さく頷いて俺に背を向ける。
そして気絶しているらしい喪服の女を背負ったままどこかへ消える。
「なぁ、ノイン」
いよいよおしまいのようだった。
心残りはあるけど、それでも俺は今度こそちゃんと死ななくちゃいけない。
「幸せに、な」
俺がそう言うと、ノインはくしゃりと笑顔を見せた。
けれどその拍子に涙が少しこぼれて俺の頬を濡らす。
段々と意識が遠のく。
耳が聞こえなくなる。
笑顔が薄れて、真っ黒に塗りつぶされる。
けれど握られた手は……やっぱり温かい。
暗い闇の中、俺はそのぬくもりだけを頼りに最後の仕事を終えてしまう。
そして完全に音が潰える前に、俺は祈りの声を聞いた。
死者を弔う、そのための祈りがノインの喉から紡がれていた。
「…………」
それはきっと俺が知らない内に彼女が学んだものなのだろう。
そうして、これから彼女はどんどんツヴァイの知っている彼女とは違うものになっていくのだろう。
それは少しだけ寂しく、途方もく喜ばしいことだった。
……ああ、本当に。
最後にまた声が聞けて、ノインが考えを改めてくれた。
罪を犯した俺に、けれどこんなできすぎた結末が与えられた。
本当に、もう何も望むことはない。
彼女に罪を残してしまったことが悔いではあるけれど、それでも俺は意識を闇に沈める。
…………今度こそ家族として、先に進む彼女の『力』になるために。
―――
ツヴァイが死ぬと、ノインは声を上げて泣いた。
あんなに頑なに声を出すのを拒んでいたのに、何十分も泣き止まずにずっと泣きじゃくっていた。
そんな様子を思い返しながら、アッシュは夜の修道院の廊下を歩く。
「アッシュさん」
「……もういいのか?」
「すっかり良くなりましたよ。……それに、ノインちゃんほどの重体ではありませんでしたしね」
アリスは魔力切れで寝込んでいたが、もうすっかり元気なようだった。
それからノインの方はと言うと、ツヴァイを修道院に埋葬した直後に謎の発熱を起こして倒れていた。
今も彼女は、自室で黒ローブの看病を受けているはずだった。
「しかし、本当にやるんですね」
「ああ。約束したからな」
ツヴァイとの約束は、約束させられてしまったことは、『ノインを守ること』だ。
だからアッシュはそれを遂行するべく、まずはこの修道院から彼女を奪わなければならなかった。
アッシュは政治には興味がないが、それでも骸の勇者の威を借りたがる者はいくらでもいる。
それらの伝手を使えば、ノインを還俗……つまりは修道院から除籍することもそう難しくはないだろう。
空の予言と骸の勇者の登場で、神官勢力はただでさえ国内で落ち目な訳であるし。
「これからどこに?」
「とりあえずマクシミリアと話をつけに行く」
「そうですか。ついでに私の身柄もお願いできませんかね?」
「無理だな」
アッシュがすげなくそう言うと、アリスはへらへらと笑った。
「じゃあさっさと死んでくださいよこのクソ野郎」
「……また後でな」
アリスに背を向けて、アッシュは歩きだす。
そして、それからしばらく行くとアッシュはまた人と出会った。
「……アッシュ様」
顔もまだいくらか赤く、治り切った訳ではなさそうだった。
だがノインは、それでも部屋を抜け出してきたらしい。
「君か、まだ寝ているといい」
修道院からの除籍を止めに来たというのなら別だが、他の用事なら今は寝ているべきだろうと思ったのでそう言う。
しかし、ノインは首を横に振って言葉を紡ぐ。
「どうかあたしのことを、連れて行ってもらえませんか?」
「…………」
熱に潤んだ赤い瞳で、ノインが真っ直ぐに見つめてくる。
「あたしはまた、アッシュ様やアリス様と旅がしたいです」
「何故?」
「……幸せになってほしいと、ツヴァイが言ったからです」
「俺たちと来れば、幸せになれると?」
「少なくとも今は、そんな気がしています」
その答えにアッシュは苦い息を漏らす。
これ以上ないほど都合のいい話であるはずなのに、何故かアッシュは反論していた。
「俺たちは魔獣を殺すだけだ。幸せになんてなれない」
「あたしは旅の間、何度も嬉しいと思いました。だからここから、連れ出してほしいんです」
それは違う。
文字のことも何もかもそうだ。
それは彼女が、今まで余りに不幸だったから……。
「それに、魔獣を倒すことくらいしか、あたしにはできることがありません。……ですから、こんなあたしにもできることがあると、言ってくれましたから。それを果たしたいのです」
まだ胸に引っかかるものはあったが、アッシュはもう反論をやめた。
そもそも修道院を抜けさせたからと言ってノインに安穏な生活を送らせる気なんてなかったのだ。
これ以上言葉を重ねるのは余りに偽善が過ぎる。
「そうか、分かった。……これからもよろしく頼む」
「はい。よろしく、お願い……」
そこまで言って、ノインは足をよろめかせる。
「…………」
熱にうなされ気を失ったノインを抱き止めて、まずアッシュは彼女を部屋に運んでやることにした。
マクシミリアに会いに行くのは、その後でもいいだろう。
火のように熱い、小さな体を横抱きにする。
それから窓の外に見えるきれいな秋の月を見上げて、アッシュはひそめたため息を漏らした。




