二十八話・生命侵犯『腐肉の天使(1)』
燭台の火が消されて、廊下は真っ暗になっていた。
アッシュの他には人の影は感じられない。
秋とはいえ板の間は流石に冷えるが、アッシュにはどうということもない。
なので、ざらついた板の床に腰を下ろして朝を待つ。
「…………」
目を開き、抱いていた剣を傍らの壁に立てかけた。
それから、廊下の壁の上部に取り付けられた窓を見上げた。
北向きの場所なので月明かりは入ってこないが、それでも人里離れたこの修道院の星は際立って明るく見える。
見るともなく星を見つめながら、アッシュはぼんやりと時間を潰す。
すると、その時だった。
修道院のどこかで、何かが爆ぜるような音がした。
「…………」
剣を手に取る。
それから腰を起こし、ノインに声をかけた。
部屋からはもう物音はしないが、なんとなく起きているのではないかと思っていたのだ。
「君はアリスの部屋に向かってくれ。それで、二人とも動くな」
アリスは魔力的に恐らく万全ではない。
ノインは言わずもがなだ。
それにアッシュが離れた隙を突かれて、ということもないとは言い切れない。
だからまずは彼女をアリスに守らせて、一人で対処するつもりだった。
「わかり……ました」
しばらくの沈黙の後、ノインが小さくそう返す。
「アリスを頼んだ」
あえてノインにアリスを頼んだ、と言った。
こうすれば間違いなく行ってくれると思った。
それから剣を腰に下げ、音の原因を知るために駆け出した。
―――
見張りとして正門を固めていた殉教者隊の、その死体が無数に転がっている。
明るい月に冴え冴えと照らされた亡骸は、どこか宗教画のような荘厳を纏っていた。
そして、今もわずかに残る武器を構えた黒ローブの視線の先。
アッシュは一体の異形を見た。
「アア、アァァァ……!」
獣のような息を漏らすそれは、肉塊だった。
肉の塊を人の形に捏ね上げたような、そんな姿をしていた。
身の丈は、二メートルと半ばほどだろう。
絶えず脈動する巨体、人の域を超えた太さの四肢。
その肉の塊の右腕は大鎌を引きずっている。
足は歩む度に形を変えながらも、力強く地を踏みしめていた。
そして一対の赤い瞳が揺らめいて、確かにアッシュを捉えたようだった。
「骸の……勇者……」
グロテスクに裂けた口が、ツヴァイの面影を残す声で呟く。
「ノイ、ンを……か、返……し…………て、く」
「返す? そもそもあの子はお前たちのものでも何でもないだろう」
言葉はもう、上手く話せないようだった。
だが言いたいことは分かったのですげなく返す。
すると、肉のうねる醜悪な顔を憤怒に染め、異形が咆哮した。
「う……アアアァァァァァァァ!!!!!」
引きずられていた鎌が地を抉り、引き抜かれる。
そして人を遥かに超越した速度で踏み込み、鎌を振りかぶるツヴァイが迫る。
「獣が」
剣を抜く。
振り下ろされた鎌の一撃を下がりつつ弾いた。
続けざま、前のめるようにして放たれた斬り上げを身をかがめかわす。
そして背後に回り、肉の塊の背中に二度斬りつけてから蹴り飛ばす。
「『魔物化』」
魔物化した。
即座に傷を塞ぐ肉塊を見据える。
ツヴァイによる不死性と、アハトの再生力。
それらが合わさった今、これはそう簡単に殺しきれるものではない。
しかしスペックとしては、肉塊を纏ったゼクスより少し上程度だ。
加えて彼女のような技量もない。
現時点で考えるなら、再生能力を加味しても一人で始末するに全く不足のない相手だった。
「…………」
獣のような声を上げ、ツヴァイが飛びかかってくる。
斬り払い、斬り上げ、また斬り払い、放たれる連撃をかわす。
それから焦れたツヴァイが叩きつけを繰り出したところで、地を深く貫いた鎌を踏みつける。
足で踏んで、抜けないようにして、至近で魔術を放つ。
「峻厳なる形よ、穿て『強炎杭』」
炎の杭にツヴァイは大きく肉を削がれる。
だが傷をものともせずに鎌を引き抜いた。
ツヴァイは、鋭い横薙ぎを放ってくる。
「…………」
鎌がかすり、アッシュは頬からわずかに血を流す。
そして風圧にフードを払いのけられた。
しかしどちらと特に気にせず、そのまま剣に炎を纏わせる。
「……『炎剣』」
それからツヴァイに目をやると、肉がうねってほとんど吹き飛んでいたはずの頭と左肩を修復していた。
どうやら、頭部の欠損すらどうということもないらしい。
ため息を吐いて、手近にいた殉教者隊の一人に声をかける。
「おい、君」
返事はないが、構わず続ける。
「他の仲間を連れて逃げろ。無駄に死ぬことはない」
そう言っても、彼はぐずぐずと動こうとしない。
命令違反を気にしているのかもしれなかったが、留まられても邪魔なので言葉を重ねた。
「いいから行ってくれ。ここにいられては迷惑だ」
その言葉に、彼は少し考えたようだった。
だがやがて受け入れたのか目礼をして、黒ローブは他の仲間の下へと走り出す。
その背中に、ツヴァイは特に攻撃をしない。
かつての同胞としての情けか、それとも今はもうアッシュのことしか目に入ってはいないのか。
それは別にどちらでも良かったが、撤退する殉教者隊をツヴァイは追おうとしない。
「……場所を変えるか」
荒々しく息を吐き、鎌を握り直したツヴァイを見据える。
それから小さく呟いた。
―――
「射抜け」
『炎矢』を連続で発動し、いくつもの炎の矢がツヴァイの肉を抉る。
「…………ッ!」
そして逃げるアッシュを追う彼は、獰猛な視線を返して足を早めた。
「……獣が」
再びそう呟き、逃げるのは森の中だ。
もはやノインを救うことすら忘れたか、いいようにアッシュに振り回されている。
こんな化物は、さっさと終わらせてやるのが情けというものだろう。
「……『魔人化』」
もう修道院からは十分離れた。
ここで始めてもいいと判断して魔人化する。
そしてツヴァイに向き直った。
「…………」
逃げていたアッシュは反転し、ツヴァイへと肉薄する。
頭が鈍くなった敵は急襲に反応しきれない。
腰から心臓をなぞるようにして、斬り上げで一閃した。
さらに返す刃で腹を斬り裂く。
そこで、やっとツヴァイが反撃に転じる。
「――――ッ!」
獣の声で唸りながら鎌を振りかざす。
だがその一撃の、見え透いた初動を柱で潰す。
「!」
驚愕に固まる顔を深々と斬り裂いた。
続けて、反射的に顔を覆った左腕を斬り飛ばす。
しかし全く効いている気がしない。
「大した化け物だな」
斬り落とされた腕は落ちた先でうねっている。
また、傷口もすぐに肉を盛り上がらせる。
顔の方も、斬られて焼かれたというのにすでに再生を始めていた。
殺すにはやはり、肉片一つ残さずに焼くしかないのだろう。
と、思考をしながらも動きは止めない。
荒々しく振られた鎌を身を引いてかわす。
風を切る連撃も全て紙一重で回避した。
その後、大振りの一撃を空振った瞬間に隙を見て鎖を投げる。
鎖が命中した。
右手を絡め取り、鎌の振りを制限する。
そしてツヴァイの左手の再生はまだ途中なので、攻撃手段はほとんど封じられたと言っても構わないだろう。
「…………っ!!」
ツヴァイは腕を振り、鎖を振りほどこうとした。
だがそこで強く鎖を引く。
すると、引かれて重心を崩したツヴァイはよろめいた。
それに乗じて懐に潜り込んで、連撃を放つ。
まず五発ほど叩き込み、最後の一閃で右腕も斬り落とす。
鎖を素早く巻いて回収し、両腕を失ったツヴァイの背後に壁を作り出した。
腕を斬り落とされ、たたらを踏んだツヴァイは壁にぶつかる。
だから即座に、渾身の刺突でツヴァイを壁に縫い止めた。
「がっ……あっ……!」
彼は腹を焼かれ、焦げ付いた声を漏らす。
それを横目に燃え盛る剣を一本複製し、左手で突き刺した。
「『偽証』」
さらにもう一本作り出して、ツヴァイの体に突き刺す。
「『偽証』」
また剣を作り出し、刺す。
作って刺す、刺す、何度も繰り返す。
剣山のようにツヴァイに炎の剣を突き立てた。
最後に、引き抜いた右の剣で『暴走剣』を発動する。
「累なれ」
水平に構えた剣へと炎が集積し、地を舐める熱の刃となる。
それをアッシュは突き刺して、炎を解放した。
すると次の瞬間、氾濫した炎が轟音と共に前方を覆い尽くす。
ツヴァイはすぐに火の波に呑み込まれ、壁ごと彼方へ消し飛んだ。
「…………」
炎を放ち切り、アッシュの剣からは火が消える。
解放された炎はツヴァイごと森を焼いていた。
燃え移った火が、煙の向こうに紅くちろついている。
「どうだ?」
ツヴァイは死んだかと、考えながら煙の中へと目を凝らす。
だが白色の帳の向こう。
かすかに蠢く何かの存在をすぐに感じ取った。
「……しぶといな」
全く、アッシュをして呆れざるをえない生命力だった。
至近で今のを喰らって、どうやら生きているらしい。
「……イ、ン………お、おれあ、あ、あああああ……!!」
滅烈な独白。
それから、煙の中から何かが飛び出してきた。
「!」
反射的に身を翻すが、突き出てきた影の狙いはアッシュではなかった。
黒い……デュラハンの触角を伸ばしたようなそれは、転がっていた鎌の柄に巻き付いて回収する。
「ががっ……!! あ、あ!!!」
肉が潰れるような音が連鎖していた。
やがて煙が晴れる。
すると炎に木が焼かれ、月明かりが差し込んだ場所には、さらに醜悪を増した異形が立っていた。
「…………」
脈動する肉の巨人。それは変わらない。
しかし、その左腕はデュラハンの触角にも似たものが束ねられた集合体になっていた。
まるで、ツヴァイが魔獣になったことを証明するように。
「ガァァァァァァァァァァァッッ!!!」
ツヴァイが吠えると、その背に輝かしい一対の炎の翼が伸びる。
「……奇跡」
アッシュはそれを知っていた。
『聖炎の勇者』のギフト、その権能の一部であったという炎の翼だ。
比類なき怪力と空を翔ける力を与えるという『万軍』の加護だ。
ゆっくりと、ツヴァイはその身を空へと浮き上がらせる。
すると右手に握る鎌が蒼雷を迸らせ、左の触手には純白の光が収束する。
いくつもの奇跡を魔法のように操り、月に照らされるその姿は、まるで異教の天使か何かのような。
「笑えないな」
勝てないかもしれないと、そんな考えが頭の片隅を掠めた。
しかし不思議と退こうという気にはなれなかった。
もしかするとノインにこれを見せたくはないなどと、甘いことを思ってしまったのかもしれない。
それに、全く勝つ算段がない訳ではないのだ。
「あ、あ……アアアァァァァァァァ!!!」
高く上った月の下、腐肉の天使が咆哮する。
始まりの勇者の光が夜の闇を切り裂いた。
それが、再び戦いの火蓋を切って落とす。




