二十六話・『侵す者』
それは、月がきれいな夜のこと。
「…………」
「…………」
錆の浮いた鉄の門。
その前には馬車がいくつも止まっていて、聖職者たちとその護衛が慌ただしく動き回っている。
そして、そんな人の輪から離れるようにして、黒いボロを纏った二人が向かい合っていた。
互いに無言の二人は、それでも言葉を交わし合う。
まず一人、白い少女が手を動かした。
――本当に行くんですか。
そんなことを、無表情の少女が灰色の少年に問う。
それにやはり、無表情の少年が答える。
――それしかないよ、と。
そんなやり取りを交えて、二人はしばし見つめ合った。
「…………」
しかしやがて悲しそうに目を逸らした少女を、灰色の少年は抱き寄せた。
それから優しく背中をさすり、聖職者に見咎められないようその耳元にささやく。
「俺たちは、今日やっと神様に許してもらえるんだ」
そんなこと、本当は思ってはいなかった。
ただ意味を見出だせない贖罪と抑圧された日々。
辛いものに満たされた生を、生き続けることに疲れただけだった。
だから、死なねばならないという言葉に身を委ねたに過ぎなかった。
けれど少女を悲しませたくはなかった少年は、彼女のために嘘をついた。
「お前のことも神様が許してくれるように、償うために死ぬんだ。だから怖くないし、俺は嬉しいと思ってる」
そう言って別れを告げるように背中を二度叩いて、少年は少女をその手から離した。
そして周囲に聖職者がいないことを確認し、少年はそっと微笑みかける。
「じゃあな、ノイン」
その微笑みに少女は咎めるような視線を投げた。
それから、何かを隠すようにして目元をごしごしとこすった。
………………。
…………。
……。
ああ。
今思えばそれは。
醜悪だった。
地を這いずる。
死ねない、死ねない、死ねない、死ねない。
醜悪な戯言だった。
先に逝く自分が、残される者の気持ちも考えずに、格好をつけるためだけに口にした世迷い言だった。
死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない。
自分が償うために死ぬのだと言ってしまえば、ノインは逃げられなくなる。
彼女の人生を縛ってしまう。
分かりきっていた。
俺たちは家族だ。
なのに、あんな酷いことを言ってしまった。
自分が消えると知っても受け入れてしまうほどに、追い込んでしまった。
がたがたになった顎。
それでも歯を食いしばって、指がほとんど壊れた右手を這わせる。
死ねない死ねない死ねない。
死ねない、絶対に、死ねない。
ノインに、あんなことを、言った、俺は、取り消さなければ。
償わければならない。
自由に生きていいのだと、教えてやらねばならない。
なのに、体が動かない。
ああ。
修復できない。
肉が足りない。
地を這いずる。
這いずって、どこかに行こうとする。
どこか。
いや、最初から分かっていたのか。
それはきっと、引き寄せられたのだろう。
……そうだろう、ゼクス、アハト?
いつの間にか目の前に立っていたゼクスが、あるいはアハトが。
俺に手を伸ばす。
ボロ雑巾のように千切れた体を抱き上げて、胸に抱く。
それから肉の塊に、呑み込まれた。
俺はまだ死ねない。
死ねない、死にたくない。
溶け合う。
一つになる。
膨れ上がる。
みんなで、迎えに行く。
暖かな肉の中。
どろどろに溶けていく体が自我が俺が。
限りなく重なり合って自分の体がどこにあるのか分からなくなり固定されてやがて肉の中で蠢いていたそれが俺の中に根を張り始める。
記憶も何もかも曖昧になって、靄に覆われたような意識の中で俺は俺が失われていくのを悟った。
けれど、それでも、一つだけ忘れられないことがある。
昔々と、そんな語り口から始まるいつもの下らない物語。
飽きもせずそれを聞いてくれた、彼女のことを覚えている。
この手で救わなければならない、もう一人しかいない大切な家族のことを覚えている。
あんな場所に、彼女を置いては行けない。
心を消させたりしていいものか。
……そうだ。死ねない、まだ。
ありったけの魂を、操っていた魔獣からかき集める。
肉が蠢き、やがて新たな四肢となる。
遠くから、あるいはとても近くから、おぞましい叫び声が聞こえる。
ああ。
死ねない、死ねない、死ねない、死ねない、死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない。
――――だから。
殺してやる。