十五話・神様のいない世界
準備にはたっぷりと五日使った。
それでようやく眷属に戦いを挑む土台が整った。
だが、魔獣は基本的に昼行性なので仕掛けるなら夜まで待った方が良い。
なので、アッシュたちは例の廃教会で時間を潰していた。
アッシュ以外の二人は、夜に備えて地下室で毛布にくるまっていた。
眠らないアッシュが警戒のために、一人で礼拝堂の祭壇の近くの瓦礫に腰掛けている。
「…………」
それにしても、ここは寂しい場所だった。
『狂兵たち』は『咎人たち』と違って積極的に人を喰わないので、人影一つない往来に転がる死体はその多くが原型を留めたまま放置されている。
礼拝堂の中の死体は、ノインに配慮して夜の内にアッシュがどかした。
それでも血痕などの殺害の痕跡は消えることなく所々に残っていた。
そんな絶えた命の痕跡のせいか、目に入るものは何もかもが終末を想起させる。
瓦礫も、折れた十字架も、ステンドグラスの欠片も、どれもこれも世界は終わると、何をしても無駄だと……語りかけてきているような気がしてならない。
音が死んだようなこの場所では、街を照らす夕日さえどこか物悲しく感じられた。
時々ため息を吐く。
そしてぼんやりと街を眺めていたその時、すぐ近くで物音がした。
音の方を振り向くと、ノインが地下室から出てきていた。
「眠れないのか?」
アッシュが問いかけると、ノインは小さく頷いた。
また、アッシュから少し離れた場所に三角座りで腰を下ろす。
「…………」
「…………」
ノインは何も言わずにただぼんやりとしている。
アッシュも別に無理に話すつもりはなかったので、特に何も言わずに腰掛けていた。
だが、ノインの様子がなにか悩んでいるように思われた。
それが戦闘の障りになっても困るから、一応話を聞いておくことにする。
「……なにか気になることでも?」
すると、少し迷った末にノインが口を開く。
その声は道に迷った幼子のような、どこか途方に暮れたような響きを含んでいた。
「アッシュ様、人は……死んだらどうなるんでしょうか」
突然の問いに、アッシュは困惑して頭をかく。
普段死んだ後のことなど考えない。
しかし教会の教えの話なら知っている。
もちろん彼女だって知っているのだろうが、それでもアッシュは口にする。
「いい人間は月に行く。悪い人間は魔獣になる。そういう話なら聞いたことがある」
人間の魂は死後に魔力に変わり、その魔力の行き先は生前の行いにより決まる。
それが教会が示す死後の物語だ。
神の法の下、魔力を善く用いた人間の魂は、月に帰り、いつの日かまた魔力としてこの地上を巡り、誰かの魂に生まれ変わる。
神の法に背き、悪しき道を辿った人間の魔力は月に帰ることもできずにさまよい、いつしか魔獣たちの悪しき魂の元となるのだという。
だがこれが本当ならばアッシュはいつか魔獣になるかもしれないということだ。
受け入れがたいから信じてはいなかった。
「この街の方々は月に行けたのでしょうか」
アッシュは否定も肯定もしない。
ただ、自分は信じないと返す。
「考えたこともないし、俺は信じていない」
俯いて黙り込むノインに、アッシュは小さな違和感を覚えた。
彼女は死後について知りたいのではなく、もっと別のことが気になっているように思えたのだ。
沈黙の後、果たして彼女は呟くように言った。
「……では神様は、いつ救ってくださるのですか?」
その言葉で、彼女が神に矛盾を感じ始めていることが分かった。
これまで聞かされてきたはずだ。
神は完璧な存在で、全ての人を救ってくださると。
なのにこの領域で、残酷な現実を突きつけられてしまった。
神に従ってさえいればいいという教えに、疑問を抱いてしまったのかもしれない。
そしてそんな彼女の問いに、どう答えるべきか悩む。
「…………」
アッシュは神の救いを信じていない。
かといって信仰を否定していいとも思っていない。
だから結局、何も答えることはできなかった。
「分からない」
神を信じていいのか、信じない方がいいのか。
これは人それぞれだ。
神を信じて救われたと語る人間も多い。
誰かが決めることではない。
しかし一方で確かなこともあった。
口を開く。
「でも、人生に必ず救いが待っている……なんてことは、ないはずだ、きっと」
救われないまま人生が終わるのは、ありふれたことだった。
多く見てきたから知っている。
しかしそう言うと、彼女はとても悲しそうな表情になった。
「では、何を信じれば……」
半ばまで言って俯いてしまう。
そしてアッシュも、答えに詰まってしばらく何も言えなかった。
「…………」
何を信じればいいのか。
そんな疑問への答えは持っていない。
なにをしても失敗ばかりしているからだ。
でも、強いて言うなら一つだけ信じている。
「俺は……自分には、できることがあると思っている」
できることがある。
戦い続けることで、ほんの少しでも世界が良くなる。
必死に、なんとか信じている。
「それを信じている。何もしないよりは絶対に良いと、信じて生きている」
アッシュはただの魔物で、世界を救うことはできない。
それどころか街一つ、人間ひとりすらまともに助けられないことも多い。
毎日毎日、ただ小さな魔獣の群れを殺して回っているだけだ。
それでも、ほんの少しでも意味があると信じて、続けてきた。
だからまだ、今もこうして生き続けている。
「…………」
ノインはしばらく黙り込んでいた。
けれど、やがてぽつりと問いを漏らした。
「……あたしにも、できることはあるのでしょうか?」
「ある」
あると言った。
本心だった。
彼女が戦場にいれば、きっと何人もの兵士が死なずに済む。
それでも、ノインはまだ肩を落としたままだった。
「…………」
悲しそうな顔をしていた。
視線を落とす。
すると、彼女の握りしめられた拳がわずかに震えていることに気がついた。
ふと思い当たる。
「もしかして君、怖いのか?」
問いかけた言葉に、ノインは小さく頷く。
「……死体を見たり、眷属の話を聞いて、怖くなってしまいました」
そして消え入りそうな声で続けた。
「…………本当に、あたしに、できることがあるのでしょうか」
死を恐れる人間は多く見てきた。
それに、昔はアッシュだって怖かった。
本当に恐ろしかった。
だからそういう考えについては理解していた。
それでも彼女が口にするとは思わなかったが……最初に思っていたよりもずっと人らしい人だったということなのだろう。
今までの旅で、アッシュにも少しくらいは分かっていた。
「あるはずだ」
しかし、それでもあると言った。
「できることは誰にでもある。それが多いか少ないかは分からない。でも、何もできない人間なんていない」
それから、アッシュは少しだけ考える。
彼女が死を恐れて、戦えなくなるのは問題だったからだ。
もうすぐ眷属に挑むのだから、なんとか立ち直ってもらわなければならない。
そのために、アッシュは彼女に語りかける。
「あと、君に死ぬ順番を伝えておく。まず、死ぬとしたら俺だ」
戸惑ったように見返してくるノインから目を逸らす。
人を励ますなどという柄でもなく、まともなことを言える気がしなかった。
ため息をこらえて言葉を続ける。
「俺は誰よりも前に出て戦って、死ぬ。だから……俺が生きている間は君も安心できるはずだ」
どっちみち三人いなければ勝てないのだ。
死なれるよりは逃げてくれた方がいい。
だからそう言うと、目を擦ったノインはかすかに微笑んだようだった。
「おかしなことを言ったか?」
別に責めた訳ではない。
しかし当の本人は酷く悪いことをしたように申し訳なさそうな顔をする。
「すみません。あたし、笑うつもりは」
心もち早口になって謝罪の言葉をまくしたてるノインを、聞いていられなかったのでアッシュは止めた。
「謝らなくていい」
「でも……」
「君は笑ったことはないのか?」
その問いに、ノインは悔いるような、それでいてわずかに懐かしむような色を滲ませて目を伏せる。
「昔は、少しだけ。……隙を見てはあたしを笑わせようとする、馬鹿な人がいたんです」
ノインの声は寂しげで、無表情の鎧も少しだけ剥がれている。
だからアッシュは、もしかするとそれはもういない人なのかもしれないと思った。
「実験体の仲間か?」
アッシュがそう聞くと、ノインは頷く。
「はい。彼は二号でした。そしてあたし達は罪人でした。なのに、いつも彼は明るかった。……駄目な人だと思います。でも、嫌いではなかったのだとも思います」
「彼は、今どこに?」
少し考えるような間を空けてノインは答える。
「『失敗作』だと言われたら、その人はもう帰ってこないんです。だから、多分、そういうことなんだと思います」
身体に直接ルーンを刻むというのは、簡単なことではない。
人体の魔力の流れを大幅に変えてしまう。
その結果、せっかく刻んだ形が作動しなかったり、悪ければ一切魔術を扱えなくなってしまうことさえある。
まして絶大な効果を誇る禁字なら、なおさら影響は大きくなる。
だから彼女が言うところの『失敗作』がいたとしてもおかしくはなかった。
「…………」
アッシュはなんと言うべきか分からず黙り込む。
けれど一つ思い出したことがふと疑問に変わり、アッシュはそれをそのまま口にした。
「聖書を読みたいというのは彼のためなのか?」
「…………」
「答えたくないのなら言わなくてもいい」
しばらくして、ノインは口を開く。
「……そうですね。彼、というよりは…………彼らのためです」
彼らはまともな弔いなどされなかっただろう。
だからどうにか祈り捧げてやりたいと考えているのが分かった。
「……まだ時間がある。石板を持って来るなら、少し練習に付き合ってもいい」
そう言ったのは、ほんの少し哀れむような気持ちを持ってしまったからかもしれない。
偽善者ぶった自分の醜さにうんざりする。
しかし彼女にはこれが一番の気晴らしになるはずだと内心で言い訳をして、アッシュは手習いに付き合うことにした。




