十話・手習い
「さて、始めますか」
食事を終えた後、アリスがノインにそんなことを言う。
そしてそれにノインも頷いた。
「……ありがとうございます」
それからアリスが馬車の中に机を取り出して、座り心地の良さそうな椅子も二つ現れる。
さらに吊るしていたのとは別の、少々光が弱いカンテラが机の上に置かれて一冊の本が机の上に広げられる。
てきぱきとなにかの準備をしているアリスだが、おそらくアッシュは関係ないだろう。
だから無視してうつ伏せに寝る。
そうやって体を休めながら壁を見つめていると、思いがけずアリスから声がかかる。
「アッシュさん、私は今からノインちゃんと文字のお勉強をするんですよ。ちょうど教本を馬車で見つけたので」
「そうか。……ノイン、君は文字が読めないのか?」
アッシュが聞くと、彼女は頷く。
奇跡を扱うための基礎的な魔術の知識に付随して、そういったものも教えられているとばかり思っていたが。
「はい。あたしは自分で聖書を読めるようになりたいのです」
「なるほど」
恐らくは実験体だから奇跡を学ぶ必要もなく、文字を教わらなかったというところだろうか。
とはいえそのあたりの事情は別にどうでも良かった。
文字を学ぼうが好きにすればいいと思ったのでアッシュはそれきり黙り込む。
「…………」
が、特に耳を塞いでいるわけでもないのでやはり会話は聞こえてくる。
「あー、なにから始めましょうかね」
「…………」
「文字には……あー、聖書読みたいんですよね? なら……カラミア文字と……どう説明すればいいんでしょうか……?」
「…………?」
「うーん……やはりここは感応魔術で叩き込めば……」
「…………!!」
あまり上手く行っていないようなので、アッシュは寝転びながらアリスたちの方を見る。
すると、丁度アリスと目が合った。
「…………」
「…………」
珍しく弱ったような顔をするアリスに、アッシュは少し考えてから口を開く。
「……それは、あまりよくないだろう」
―――
なんだかんだで何故か教えることになったアッシュは椅子に腰掛けて頭をかく。
「まず、文字には三種類ある。聖書を読むなら全て覚える必要がある」
聖教国ではこの三つの文字を組み合わせて文章を作るのが通例だ。
聖書は特に難解な種類の文字を多く用いる。
平易な文字だけでも文章は作れるのだが、そういった聖書は出回っていない。
「でもまずは簡単な文字から教える」
簡単な文字を知らなければ難しい文字も読めないからだ。
ノインはあまり分かっていない顔で頷くが、ここまではさほど重要な話でもない。
割り切って次に行こうと、アリスが用意した教本を開く。
少し目を通して、この国で広く使われている教本だとわかる。
記憶が定かなら、その初めのページには『あ』やら『う』だのと、簡単な文字の一覧が書かれているはずだった。
目当てのページを開きつつ、アッシュは語りかける。
「君は、言葉を使う時に『あ』や『う』……などの声を出すはずだ」
「……あ、えっと。はい」
「その声を、決まった形で表したのがヒレナ文字だ。たとえばこの文字を書けば、君が『あ』と口にしたのと同じことになる。……分かるか?」
表の一番最初の文字を指差すと、分かったような分からないような顔で頷いていた。
どう教えればいいのだろうと、アッシュは少しだけ困った気持ちになる。
「……もしかして、ぜんぶ覚えるんですか?」
「まぁ、そうなるだろうな。手始めに、声に出しながら文字を書いて、音と文字を結びつけよう。そうすればきっと覚えられる」
声を出す練習にもなるだろうから、これは良いかもしれないと思う。
だからアッシュは先に進めようとする。
と、そこで床に三角座りをしていたアリスから声がかかる。
「ちょ、ちょっと待ってください。なんでそんな滑らかに教えられるんですかあなた……。意外なんてものじゃありませんよ」
その言葉に少しだけ考える。
意外だろうかと考えて、意外だろうなと納得した。
だから目を瞬かせて、答えた。
「勉強は嫌いじゃなかった」
それから言葉を続ける。
少し昔のことを思い出した。
「昔は俺も色々勉強した。算術も」
「算術も?」
聞き返す彼女に頷いてみせる。
記憶を手繰り寄せながら口を開く。
「ああ。腕折り算、捕虜関数、難しいのだと首積分も少し……まぁ、あまり覚えてはいないが、色々だ」
「なんで、一々物騒な呼び方なんですか……?」
アリスが微妙な顔をする。
だがその反応にアッシュはわずかに驚いた。
「他に呼び方があるのか?」
「算術はさっぱりですけど、多分」
「……そうか、知らなかった」
知らなかったが、もう勉強するような機会はないだろうから気にするつもりもなかった。
だから軽く受け流して、ノインへと向き直る。
「じゃあ君、続きをやろう」
―――
その日はとりあえずあ行とか行の話をして、おしまいにすることにした。
いつか聖書を読みたいというのならもっとペースを上げるかもしれない。
だが初めてのことを消化するのには時間がかかる。
それを考えれば今日はこれくらいでよかった。
「アッシュさん、意外な特技でしたね」
ノインは寝て、アッシュはアリスに封印を施してもらっている。
「別に特技というほどではない」
お前が下手なだけだ、という言葉は飲み込む。
だが無駄に察しのいいアリスはなんとなく感じ取ったらしい。
「少し強めにしときますよ」
「勘弁してくれ」
アッシュの言葉にアリスはふっと笑う。
それから不思議そうに続ける。
「しかし勉強好きとは驚きましたよ。魔獣がいなかったらあなたってどうなってたんでしょうか」
魔獣がいなかったら、か。
しかしそうなると孤児院にも行かないので、勉強をする機会はないだろう。
「……多分、北で農民をやってただろうな」
「まあ案外そんなものですかね」
特に仲がいいという訳でもないので、一度会話が途切れるともう二人共話さない。
「…………」
無関心な沈黙の中、ただ雨ばかりがざぁざぁと音を鳴らしていた。




