幕間・世界が敗れた日
幕間や閑話は全て例外なくあくまでオプションです。
読まなくても絶対に話が分かるようにするので、読まなくても差し支えありません。
むしろ知らなくていいことを書いているだけなので、気が向いた時にご覧になってください。
戦役の前には、必ず使徒と魔王に関する予言が下される。
聖教国の首都ローランの大神殿……少なくとも今の時代はそう呼ばれる場所で、神官たちの元には神の声が届く。
これに今まで一度として例外はなかった。
しかし第十三回の戦役において、勇者降臨の予言は下されなかった。
それから月日は経ち、予言の通り四の魔王と二の魔王が現れる。
日に日に苛烈さを増す戦役を、勇者がいない世界は戦い抜こうとしていた。
だがそんなある時、巨大国家【ハンテルク帝国】の属国の一つがとある声明を発表した。
かの国、ガーレン王国領は本日をもって【ガーレン魔王領】へと名を改める、と。
そしてその声明の数日後、隣国であり同じく属国であるシャルネアに侵攻を開始した。
さらに一週間の間にその首都を陥落させた。
魔王領の軍勢から逃げ延びた王族は諸国に救援を要請するが、魔王領の強さを恐れて沈黙を選ぶ。
だが聖教国と帝国の両大国のみ要請に応じ、それぞれが戦力を送ることとなる。
人類が協働すべき戦役時に、その足並みを乱す愚行への制裁のために。
とはいえその正体は軍ではなかった。
援軍は一人と一人、合わせて二人の個人であった。
―――
白い外套に黒い鎧。
深く被ったフードとまだ幼さが残る手には不釣り合いな燃え盛る長剣。
凄まじい速さで戦場を駆け、瘴気を纏ったその姿。
もはやガーレンの誰にも説明は不要だった。
死を振りまくその名は広く知られていた。
「骸の勇者だ!」
曇天の下、ぬかるんだ戦場で。
会戦の端緒となる弓合わせと同時に、アッシュ敵陣を真っ向から襲撃した。
それに、恐怖で顔を引きつらせつつ敵が叫ぶ。
「…………」
アッシュは、人同士の争いなど愚かな限りだと思っていた。
本来なら関与する気もなかった。
だが違った。
敵は魔獣だった。
人間が魔獣を操っている。
「奏者、ガーゴイルを前に出せ! ピクシーはとにかく一撃離脱で足を鈍らせろ! 他の兵士は後方からリッチと連携して支援だ!」
敵の指揮官が指示を出している。
人間と魔獣に命令し、巧みに連携して応戦してくる。
指示はまだ続く。
「増援を待て! 最低でも中位級が数体いないと戦えない! あいつをガキと思うな! 獣共はいくら使い潰しても構わんから近づけるな!! ここを抜かれれば陣を喰い荒らされる!」
そして、その指示の通り無数の魔獣が踊り出てくる。
これは少し前から世界に現れた一の魔王の魔獣だった。
情報によると、あちらの兵士はどういう訳かこうして魔獣を操り使役するらしい。
まず前に出てきたのは、【ガーゴイル】と呼ばれる敵だった。
黒い結晶で構成される痩せた体に、大きな蝙蝠の翼が伸びる異形である。
翼は飛行能力こそないが、結晶の硬さを活かして叩きつけたり盾にしたりと戦闘には使う。
また捻じくれた角が生えた頭は、どこか烏の頭蓋骨のような印象を感じさせる。
くちばしやむき出しの骨格のような顔つきにはその面影があった。
そして頭蓋の骨の形の顔に相応しく、眼窩は空虚な穴でしかなく、あるべき眼球などは見当たらない。
さらに人に似た二本の手には、同じく黒い結晶でできた大きな斧槍を持った堅牢な魔獣だ。
次いで接近してきたのは、二対の小さな結晶の羽を生やした土塊の小人だった。
これは【ピクシー】と呼ばれている。
その羽はガーゴイル同様、空を飛ぶのには向かない。
しかし羽ばたきの推進力を利用して凄まじい速さで駆け寄ってくる。
脆いがかなり素早く、とにかく数が多い。
囲まれると、両手に持つ大振りな短刀の手数が厄介だった。
それから、奥に控えるのは敵の言葉通り【リッチ】だろう。
黒いボロ切れをまとう白骨死体のような姿をしている。
だが肋や眼窩など、骨のいたる所から結晶が飛び出し、貧弱なその手には黒い結晶の杖が握られていた。
リッチはピクシー以上に脆弱だが、中位魔獣でもないくせに魔法を使う。
とはいえ魔物化、あるいは魔人化したアッシュは魔力攻撃に対して高い耐性を得る。
だから下位魔獣程度の魔法は意味がない。
となるとあれはアッシュにとってはいないのと同じだから、基本的に後回しでよかった。
「形よ、力を高めよ。穿て『強炎杭』」
まず斧槍を並べて飛びかかってくるガーゴイルを一体粉々にする。
さらに前進した。
そうしていると背後から味方が来ているのが分かる。
彼らが到着する前に、敵中深くに潜り込むのがアッシュの仕事だった。
なにしろ味方の兵士の士気は最悪なのだ。
恐怖を刻みつけられていて、数だって劣る。
アッシュが内側から敵の前線をガタガタにして、そしてその上『彼』がいて初めて優位に立てる見込みが出る。
「……多い」
小さく呟く。
迫るピクシーを立て続けに六体処理する。
横から振り下ろされたガーゴイルの斧槍を、鎖を巻いた手で弾いた。
さらにそのガーゴイルの懐に入り、突きを放つ。
頭部めがけての攻撃だったが、硬質の翼が盾として差し込まれてしまった。
しかしそんなものは難なく貫く。
だが翼の硬さのせいで、剣を引き抜くのが一瞬遅れた。
その隙にリッチの放った炎の魔法が殺到する。
「…………」
よりによって、炎か。
アッシュに炎は効かない。
だから小さく鼻を鳴らし、無傷のまま戦闘を継続する。
追撃に来た周囲の敵を殲滅した。
敵の兵士が叫ぶ。
「化物が!!」
あえて敵の陣のただ中に飛び込んだ。
そうすることで、リッチの魔法とガーゴイルの長柄武器を機能不全に陥らせる。
同士討ちを恐れた敵はそれらに頼れなくなる。
それから隙を見せた相手を潰し続けながら、アッシュは小さく舌打ちをする。
「……化物はどちらだ」
化け物と言われた。
いつもなら黙って聞き流す言葉が、今は無性に気に障った。
矢を弾いたアッシュは包囲を斬り抜ける。
そして後方に控える人間の元へと向かう。
どうやら味方も激突し始めたようだ。
戦場には凄まじい轟音が響き始める。
敵を殺しながら駆けた。
そして、戯言を吐いた兵士の顔を渾身の力で蹴り飛ばす。
さらに左手で潰れかけた顔を掴み上げて睨んだ。
「人のくせに、魔獣に加担するクソが。どの口で化物だと?」
弱々しく痙攣する兵士の喉を突き、刺した剣で燃やす。
それから助けようとでもしたのか、駆け寄ってきた他の二人を『炎杭』で同時に焼き払う。
死体を捨てた。
すぐに追いすがる魔獣を迎撃しようとして、そこでアッシュは気がついた。
いくらかの魔獣が統制を失っている。
アッシュをしつこくマークしていた魔獣が離れ始めたのだ。
そして前線の戦いへと、連携を失ったまま味方を押しのけて突っ込んでいった。
「……なるほど」
……思えば彼らは奏者などと口にしていた気もする。
もしかするとそうなのかもしれない。
アッシュが無言で残りの兵士たちを見つめると、彼らは血の気の引いた顔で後ずさる。
「ひ、引けっ! 引け!!」
そんな声と同時か、あるいは少し早かったかもしれない。
周囲の兵士たちは蜘蛛の子を散らしたように逃げ始める。
そして逃げる背を斬るために、アッシュはゆらりと一歩を踏み出した。
―――
大勝利だった。
シャルネアの兵士たちは大いに沸き喜んだ。
だが前線基地を包む雰囲気は戦勝に、というよりも復讐に酔った高揚に見えた。
裸にしたガーレン兵の亡骸を磔にし、首のないそれに魔獣の頭部をすげ替えている。
さらにそれに石をぶつけては雄叫びをあげる。
こんなことがあちこちで行われていて、正直あまり品の良いものではない。
ガーレンの所業を思えば当然でもあるので止める気もなかったが。
「よぉ、勇者サマ。元気かい?」
天幕の中の長机でぼそぼそとした黒パンを噛み、一人で食事を摂っていたところで声をかけられた。
振り向くと、そこには勇猛を絵に描いたような出で立ちの三十歳ほどの男がいる。
短く刈られたくすんだ茶髪、浅黒い肌。
そして不敵な笑みに歪んだ紫色の瞳。
長身に身につける黒のそれは金糸の刺繍が入った帝国の軍服で、筋骨たくましい彼にはよく似合っていた。
ちなみに魔術の詠唱言語である聖教国の言葉は世界のほとんどが主言語に採用している。
そのため、意思疎通に不都合はない。
ともかく、声をかけられたので答えた。
「君か。俺は元気だよ」
「……お前、いくつだっけ?」
「十四」
「もっと歳相応の語りをさ、身に着けようぜ」
呆れたような顔の男の名は、ガルム=バステリアという。
帝国の名門貴族の出で、使徒の一角、【戦士】を担う者だ。
「しかし、しょぼい飯だよなぁ。俺らは食客なんだから言えばもっといいモノ出してもらえるぜ?」
「…………」
「あーあ、本国に帰りたいよ。何が悲しくて他所の国なんて守ってるんだか。飯もまずいしさ。ハハッ」
ガルムはわがままだ。
ここは陣中で、しかもシャルネアは亡国になる瀬戸際である。
今や王でさえ上等なものは食べられないというのに、到着してからというもの駄々をこねていた。
わざわざ酒などを持ってこさせるし、その食事も王よりも豪勢だったと語り草だ。
がたりと音を立て、ガルムはアッシュの横に腰掛ける。
「……で、初めてやり合った感想はどうだった?」
そう問いかけてくる瞳からは、先ほどまでの軽薄な雰囲気は一切排除されている。
「おかしいと思った。薄気味悪い」
「だよなぁ。普通に考えて魔獣が人間に懐くか? ありえんだろう」
パンを飲み込んで、アッシュもガルムに向き直る。
意外にも彼は仕事熱心な質だと分かったので、何か有意義な話ができるだろうと期待したのだ。
まずはかねてより気になっていた疑問を口にする。
「ガーレンの総司令官はシレン=エスラルドとかいう男だそうだ。君は会ったことはあるか? そもそもやつは人間だったのか?」
「会ったことは……ある、かな。元々ガーレンは帝国の属国だ。あっちの王がバカ皇帝に会いに来た時に、何度か付き人として一緒に見かけた。けど多分、ただの人間だ」
ただの人間に魔獣を操るような真似ができるとは思えない。
この軍の司令官がなにか秘密を持っているかと思ったが、それを推理しうる材料はほぼなかった。
「分からんな」
ガルムは瞳を鋭く歪めてそう言う。
「何が?」
アッシュが聞き返すと、彼は身振りを入れつつ答える。
「ガーレンの王、アルトリウス=ガーレンはこんなに頭の悪い男じゃなかった」
「……頭の悪い?」
頭の悪い、という言葉が少し気にかかる。
なにしろガーレンは破竹の勢いで、戦役時でさえなければ歴史に名を残す名将として扱われたかもしれないからだ。
だが、ガルムは頷く。
「そうだ。ガーレンの奴らの所業を聞いただろう。人間は皆殺しにして、畑は毒に沈めて、村を焼き、道を壊す。侵略者のやることじゃない。こんなことをしてまともに併合できるものか」
その言葉に、アッシュは少し考えて答える。
「その王は、どういう男だった?」
「ガキだ」
即答だった。
予期しなかった言葉に、アッシュはほんの少し意外に思う。
「最後に見たのは三年前だが、お前より少し上くらいのガキで、やわな顔したお坊っちゃんって感じだった」
「なるほど」
「でも、才気は尋常じゃなかった。うちのバカ皇帝と比べるのも失礼なくらいで、俺も密かに一目置いていた。少なくとも、こんなアホみたいな攻め方するやつじゃなかった」
豹変した王と、ガーレン兵たちの魔獣を操る能力。
それで、なんとなく謎が繋がったような気がして口を開く。
「それは、もしかすると、」
「……やっぱお前も、そう思うか」
どうやらガルムも同じ結論にたどり着いていたようだ。
「アルトリウス=ガーレンは魔王に、それも恐らく自我を保ったままそうなった」
魔王は使徒と同じように人の内から現れて、そしてほぼ必ず正気を失っている。
理由はよく分かっていない。
教会は色々と主張しているが、それも正しいとは限らない。
だが一つだけ確かなのは正気を失う魔王たちの中に、時折理性を留める者がいるということだ。
これは特に手強い存在として戦役の歴史の中でも恐れられてきている。
そして魔獣を率いる魔王が知性を保っているとすれば、自分の国の軍隊に魔獣を編入するくらいのことは……するのかもしれなかった。
そして、ガルムは言葉を続ける。
「実際、シャルネアの連中にもそんなふうに考えてる奴は多いらしいな。もしかすると他の誰かが魔王になって王の座を奪ったりしたのかもしれない」
アッシュはまた考えた。
王位を奪った可能性はあると思う。
だがそう遠くない縁者であることは間違いないと結論を出した。
「……国名にガーレンが含まれているから、成り代わったとしても王家の誰かであることは間違いないと思う」
言い置いて席を立つ。
「いい話を聞けてよかった。また何か気がついたら教えてくれると助かる。ありがとう」
礼を言うとガルムも席を立つ。
それから笑った。
「ああ、そうだな。あとまずお前はお前のとこのおっさんくらい飯を食え。でかくなれないぞ」
「……封印官はそんなに食うのか」
彼は名前を呼ばれるのを嫌う。
いつも封印官と呼ばされていたので、ここでもそう呼んで聞いてみる。
すると、ガルムは笑って答えた。
「おう、この間も一緒に飯食ったぞ。中々の俗物で面白いが、お前の悪口ばかりで嫌になる」
「そうか」
裏表のないというか、無神経というか。
封印官にどう思われていようが特に興味もなかったので、そのまま天幕を後にする。
軽く水浴びをしたら封印を受けて、次は一人で夜襲を仕掛けに行くことになるだろう。
ガーレンの兵には、これからは末永くアッシュと共に夜ふかしをしてもらうつもりだった。
―――
二人の奮戦もあってなんとか勝利を重ねることができた。
押し込まれた前線は少しずつ押し返せていた。
そして今は第二の王都とまで呼ばれていた、とある大都市の奪還を賭けた戦いが始まろうとしている。
しかし今はその街も、徹底的に破壊され、数えるのも馬鹿らしいほどの死体が放置された廃墟だった。
これを取り戻して何になるのかはもはや分からなかった。
だが、それでも、幾度もの勝利に勇気づけられた兵士たちの怒りと士気は最高潮に達していた。
曇天の下、ぶっ殺せだの思い知らせろだのと乱暴な叫びが響く。
そして前方からじりじりと敵軍が近づいてきた。
すると交戦距離に入った瞬間、怒号と共に弓が引かれる。
これとほぼ同時に、軍の先頭に立っていたアッシュは、いつものように走り出す。
だがそこで異変が起こった。
放たれたはずの矢が、戻ってきたのだ。
自らが放った矢に貫かれ、兵士たちは浮足立つ。
そんな隙を逃さずに、敵軍が押し寄せてくる。
「…………ッ!」
アッシュにも全くもって理解できなかった。
けれど、少しでも敵の勢いを削ぐために斬り込む。
しかしそれで全体の動きを止めることはできない。
なすすべなく両軍は衝突して戦闘が始まった。
剣戟の音が鳴り響く。
出鼻を挫かれたとはいえ、シャルネアの戦意は旺盛だ。
劣勢ではあるが背を向ける者はいない。
兵たちが斬り結び、矢を射る。
帝国からもたらされた新兵器らしい……大砲、という鉄の筒がいくつも火を噴いた。
魔獣たちをまとめて吹き飛ばす。
そのようにシャルネアの軍勢は間違いなく戦えていた。
戦えてはいたのだ。
だがその時、二つ目の異変が起こる。
敵陣深くにいたアッシュには、何があったのかを正確に知ることは叶わなかった。
しかし、味方の兵士たちが全く動かなくなった。
金縛りにでもあったかのように棒立ちになり、ガーレン兵の魔術や矢によって嘘のように倒されていく。
奇妙なのは、魔獣共も兵士たちも、直接手を下すことはなかったことだ。
ただ飛び道具でのみ、棒立ちの兵士を始末している。
その意味は分からなかった。
けれど敵の統一された動きから、異変があらかじめ予期されていたことだったのだとアッシュは知る。
「馬鹿な……」
我を忘れて思わず呟く。
「なんだ、これは……」
訳が分からなかった。
そして相当数の味方が殺害された頃、ようやく金縛りは解除される。
だがもはや彼らに戦意は残されてはいなかった。
泣き叫びながら逃げて、追いすがる魔獣どもに殺され、ガーレン兵の刃に討ち取られる。
悪夢のような光景だった。
そして早々に軍が敗走した今、敵中深くに入り込んだアッシュにも当然危機は迫っている。
「…………」
周囲を取り囲む軍勢は人だけでも千を超えるだろう。
魔獣も入れればどうなるのかはもはや分からない。
さすがにこれは少しばかり荷が重かった。
「……『魔人化』」
死を覚悟して、剣を握り敵に向けて走り出す。
全方位から繰り出される刃や矢はもう処理しきれない密度の攻撃だった。
だが火刑の魔人の防御力のお陰で致命傷を負うことはなかった。
けれどいつまでも魔人化していられる訳でもないので、どう脱出しようかと考え始めた瞬間。
目の前を、凄まじい炎が焼き払う。
「ガルムだ!」
「別働隊が抑えてたはずじゃ……!」
人も魔獣も踏み潰し、目の前に現れたのは金色の美しくも猛々しい竜だった。
長大な尾を振り回し、口からは絶大な威力の炎を吐き散らす。
絶対的で圧倒的な破壊だった。
ただただ、あまりに生物として強すぎるのだ。
この竜の一挙手一投足、何気ない息すら人間を殺し尽くす暴虐の嵐になる。
そうして敵を蹴散らし、竜はアッシュへと首を向けて声を発する。
「さっさと乗れ。離脱するぞ」
―――
鎧に突き立った矢を抜きながら歩く。
魔人化の影響でわずかに足取りがふらついていた。
それを見て、ガルムが声をかけてくる。
「大丈夫か?」
「……助かった」
そう答えた。
前を歩く彼についていく。
見る限りどこかの森のようだった。
「ここは?」
アッシュが聞くと、どこか上の空にガルムは答えた。
「生き残りが逃げ込んでる場所だ。……まぁ、その内狩り出されるだろうがな」
「……どれぐらい残った?」
「言うのも馬鹿らしい。見れば分かるだろ?」
森をしばらく歩くと、やがて開けた場所についた。
そこには天幕もなにもなく、ただただ傷ついた兵士たちが身を休めていた。
すすり泣きや悔しそうな呻きが響く中、アッシュは見覚えのある死体を見つけて歩み寄る。
「……封印官」
膝をついてその顔を覗き込む。
肥え太った顔はやはり、死人のそれだった。
すると死体のそばにいた、満身創痍の兵士が泣きながら口を開く。
「すみません、突然体が、動かなくなって……それで……すみません……俺は……」
どうやら、彼は責任を感じているようだった。
確か、本陣で封印官の護衛をしてくれていた兵士だった。
しかし彼には過失はないことは分かっていた。
感謝を伝える。
「いや、運んでくれて助かる。……彼には、世話になったからな。俺が国に連れて帰ろう」
「ま、待ってください……!」
「何をだ?」
その兵士の言葉に、アッシュは首を傾げる。
「帰るんですか……? 俺たちを置いて、帰るんですか……? あんまりじゃないですか、待ってくださいよ、何とかしてくださいよ……! 殺される……死にたくない……! いやだよ、死にたくない……! こんなの嘘だ……! 嘘だ……故郷に帰らせてくれ……なぁあんた頼むよ……」
泣きながら頭を抱えた兵士に背を向ける。
何故ならガルムがそうしたからだ。
「いやだ……いやだ……死にたくない……!」
似たような言葉は薄暗い森にいくらでも満ちていた。
胸にどろどろとした絶望が吹き溜まっていく気がした。
纏わりつく声を振り切るように、アッシュはガルムに声をかける。
「なにか考えがあるんだろう?」
すると、木に背を預けて立っていた彼は頷いた。
「ああ、ある。お前も乗るか?」
「ただでは帰れない。乗らせてもらう」
答えると、ガルムは満足げに頷く。
そして、なにかに気がついたように眉をひそめた。
「おー……雨だ」
「そうだな」
確かに、雨が降り始めていた。
それは兵士たちを、痕跡を、たとえ少しでも隠してはくれるだろうか。
「…………」
「…………」
少し沈黙が流れる。
ガルムはなにか考えているようだったので、静かにしておく。
「……死ぬかもしれねぇぞ」
沈黙を破ったのはそんな言葉だった。
「構わない」
長身のガルムの目を、見上げるようにして言う。
すると彼は笑い、アッシュの頭をわしわしと撫でた。
「かわいそうなガキだな、お前さん」
ひとしきり笑うと、やがて穏やかな声で語りかけてきた。
微笑んでいた。
「もし何もかも上手く行って生きて帰れたらよ、あいつらのために天幕でも持って帰ってきてやろうや」
雨足はさらに酷くなり、木の下での雨宿りなどなんの意味もなさない。
もしこれからも兵士たちが生き延びるのならば、確かに天幕は必要なものだろう。
だからアッシュはフードを被り直しつつ頷く。
「ああ」
―――
その日の夜。
雨の中、ガルムの背に掴まりアッシュは空を飛ぶ。
「準備はいいか!?」
彼の声に答えた。
「いつでもいい」
言い終えるかどうかの内に、ガルムは急降下を開始する。
高空から地上へと一気に落ちる感覚は、アッシュにも初めてだった。
ほんの少し肝が冷えた。
「今だ! 飛び降りろ!!」
炎を撒き散らしながら、低空を這うように進路を取ったガルム。
そしてアッシュはその背から飛び降りた。
「…………」
降り立ったのは敵の前線基地の真っただ中だ。
アッシュたちの目的は総司令シレンの殺害だった。
ゆっくりと剣を抜き、集まってくる敵を視認する。
ガルムに焼かれた天幕は、雨だというのによく燃えている。
敵もいくらかは死ぬだろう。
とはいえ余り数は減らせていないだろうから、まともに相手をするつもりもなかった。
包囲ができあがる前に走り出す。
「『魔人化』」
火刑の魔人の姿になるが、剣に炎は纏わせない。
夜闇を最大限活用するためだ。
蜂の巣をつついたような騒ぎになる野営地を駆けて、アッシュはシレンを探す。
総司令官というからは、それなりの場所に収まっているのだろう。
そんな推測の元、アッシュは普通のものとは装いの違うテントを探し出すことにしていた。
ガルムの方は、本気で戦うとどうしても目立つので、陽動の役を引き受けている。
ちょうどそんなことを考えていると、背後で轟音が響き渡った。
彼が仕掛けたのが分かる。
極力見つからないように移動した。
どうしても避けられない場合は、まず兵士を『偽証』の弓矢で仕留める。
それから随伴する魔獣を処理する。
そうして進み続けていると、目立って豪奢な天幕に辿り着いた。
だからアッシュは『炎矢』でテントに火を放ち、浮足立った警護の兵を始末する。
続けて中へ押入ろうとした瞬間、寒気がして横に転がる。
「…………」
すると、アッシュが先程まで立っていた場所、天幕の柱のちょうど頭部の高さにレイピアが突き立っていた。
「今のを避けるんだ。凄いね、ボク」
「シレン=エスラルド……ではないのか?」
疑問を口にする。
呼びかけた声も答えた声も女だった。
「違うよ。あたしはレイナ=エスラルド。その人の娘だね。……で、ボクは迷子かな?」
炎の光が照らす中、歩いてきたのは一人の少女だった。
黒い傘を片手に持ち、腰には二本のレイピアの鞘。
身に纏う服は、軍人というよりはむしろ令嬢のドレスだろう。
清らかな白はこの泥まみれの夜にはどこまでも不釣り合いだ。
そして長い青色の髪も、白い肌も華奢な体も、十八かそこらの小娘のものしか見えない。
だが、敵として立ちはだかるのなら殺さなければならない。
「お前の父親の命を貰いに来た。だがお前にも死んでもらわなければならない」
アッシュが言うと、レイナは金色の瞳を興味深そうにまたたかせた。
「へぇ、酷いこと言うね。この間お葬式済ませちゃったのに」
「…………?」
アッシュがわずかに動揺すると、それを見越してかレイナは笑う。
「つまり、この戦争は復讐なんだよ。だから、初めての戦の司令官はシレンじゃなきゃだめなんだ。だから実際の指揮官はあたしだけど、シレンの名前を使った」
そんなことを言う。
こいつらになにがあったのか、なんてアッシュには興味はない。
しかし実際の指揮官が目の前の女だと言われて、アッシュは目を細める。
すると女も笑った。
「……つまりまぁ、坊やのほんとの標的はあたしだってことになるね」
その言葉に皮肉を返す。
小さく鼻を鳴らした。
「親切だな」
「べつに?」
皮肉を気にした様子はない。
それから傘をくるりと回して、レイナは微笑んだ。
「じゃあ、やろっか」
その言葉と同時にアッシュは地を蹴る。
レイナは余裕を持って右手でレイピアを抜き、もう片方の手にはやはり傘を持っている。
「ふふ。濡れるのきらいよ」
「……力よ、刃となれ」
ふざけたことを口にする女を、アッシュは一撃で殺すつもりだった。
剣に炎を纏わせたことすら保険のようなものだった。
だがレイナは、その刃をいとも容易くかわしてみせる。
足元の泥すら跳ねさせずに優雅に避ける。
「…………!!」
「近くで見ると結構エグい顔してるね。好みのタイプじゃないかな」
またふざけたことを言う。
構わず、続けて斬りかかる。
「当たらないよ」
だがそれはフェイントで、本命は左腕の鎖だ。
傘を持った手をめがけて投げつける。
「……濡れちゃうか」
半歩身を引きながら一瞬傘を手放し、それで綺麗に鎖を回避する。
そして身を翻して、その瞬間レイナの姿がブレた。
「お返し」
見えなかった。
『偽証』のガードも間に合わない。
そもそもが視認できない、そんな刺突でアッシュは右足を貫かれていた。
だが、剣を手放してとっさに刃を握る。
渾身の力で握り、もちろん手からは血が滴る。
が、それでも構わない。
動きを止めて、刺し違えてでも殺すつもりだった。
「いいね、そういう目見てるとゾクゾクしちゃう」
にやにやと笑っていた。
『偽証』で短剣を作り出し、突き刺そうとする。
しかし手を止められる。
さらにナイフを奪われると、同時に指を二本ばかりへし折られた。
次の瞬間、顎に蹴りを叩き込まれる。
「がっ……!」
世界が耐え難いほど揺れた。
泥の中無様に倒れ込む。
「おーい、立ちなよ。坊や」
「だま、れ……!」
何とか立ち上がり、打開策を探す。
まず、攻撃が見えない。
身体能力の差があまりにも圧倒的だ。
それに加えて技術も……劣っているとは思わないが、速度を最大限活かす剣技は脅威だった。
恐らくは今のアッシュでは勝てない。
しかしそれでもガルムなら勝てるだろう。
使徒のガルムもアッシュにとっては圧倒的で、強さで言うならあちらの方が底が見えない。
「…………」
この状況に、彼が気がつくまで時間を稼ぐしかないだろう。
「あれれ? なんかずるい目になったよ? あたし好きじゃないよそれ」
剣を拾い、右足の痛みを無視して逃げる。
舐めているのか、数秒見送ったあとレイナは追跡を始める。
履き物は、明らかに走りに向かない洒落たサンダルだ。
だが、やはりその動きは速い。
『偽証』でナイフを作って投げる。
レイナはそれに気がついて頭をずらして避けるが、そこでもう一つ投げる。
「どこ狙ってるのかな、ボク」
二本目のナイフはレイナの身体に掠りすらしない軌道に投げて、それを見抜いたレイナは不敵に笑う。
だがアッシュも、その余裕をせせら笑う。
「その安物だよ。濡れるが好きだと聞いた」
アッシュが狙ったのはレイナではなく傘だ。
人外の力で投げられたナイフは、傘に大穴を開けた。
青筋を立てて、敵が追いかけてくる。
「はは、ぶち転がす」
「やってみろ」
言いつつ天幕の群れの中へと逃げ込む。
そして角を曲がり、音を消して天幕の上によじ登る。
後を追いかけてきた無防備な背に、『炎杭』を撃ち込む。
「っ……この」
どういう訳か剣で魔術を吹き飛ばしてきた。
だが、アッシュはすでにナイフへと持ち替えている。
今度は首めがけて投げる。
「………」
駄目だった。
弾かれたのを確認し、反対側に飛び降りてまた逃げ出す。
「また逃げるの」
追いかけてくる足音は早い。
が、おそらくは全力ではない。
推測だが、泥を被るのも嫌なのだろう。
だがそうは言ってもこちらも万全ではない。
足を怪我している。
なにか工夫をしなければ、やがて鈍ったところで追いつかれて殺されるだけだ。
何かないかと探したところで、先ほど殺した兵士の死体を見つける。
アッシュはその死体の足に、作り出した長い長い糸を巻いた。
一つの天幕に素早く蹴り込む。
そして自らは、反対側の天幕に忍び込み糸を持って息を潜める。
「この辺にいるね? あたしには分かるよ」
そんな声と共にレイナが歩いてきてるのが分かった。
だからアッシュは糸を引く。
わずかに死体が音を立てたはずだ。
引いたあと、バレないように糸を消す。
「ん? 聞こえちゃった」
そんな声と共にレイナが天幕を開ける音が聞こえる。
忍び足で天幕から出た。
無防備な背中を見る。
ナイフを持った。
「……死体? えっと、なら……坊やはどこに……」
死体に気が付き、訝しむような息を漏らしていた。
その無防備な背へと忍び寄り――
「――なんてね」
胸の中心。
突き立つレイピアが見えた。
レイナは笑う。
「馬鹿じゃないの? 君みたいな抜け目ないガキがあんな不自然に音鳴らす時点で怪しいでしょうに」
「っ……!」
刃が引き抜かれ、口の端を血が伝う。
膝から崩れ落ちそうになるのを耐えて距離を取った。
むしろ誘い出された、か。
確かに馬鹿だった。
大失敗だ。
頭の悪い魔獣ばかり相手にしてきた焼きが回ったか。
「あんまり大人を舐めるんじゃありません」
「……口数が多いな」
舌を出して勝ち誇るレイナを睨みつける。
そしてせせら笑った。
「決めたよ。お前は舌を引き抜いて殺す」
「やっぱあんたぶっ飛ばすわ」
そんなことを言ってレイピアを構える。
すると刀身を、夜の中では分かりにくいなにかが……いや、闇そのものが覆った。
「これ見れば分かるかな? あたしの正体」
「…………!」
驚愕に思考が染め上げられた。
敵は、目を見開くアッシュを見て楽しそうに笑った。
「じっくり料理してあげるね。……料理ってまぁ、坊やの場合すでに焦げてるけど」
漆黒のレイピアの刃先が揺れて、次の瞬間アッシュの腹を衝撃が食い破る。
「っ……!」
鋭い痛みにたまらず膝をつく。
黒い刃は、魔力耐性を貫通してダメージを与えた。
これは。
「殺そうと思ったのに。……あんまり効いてない? でもまぁ、勝てないのは分かったよね」
また勝ち誇る敵に、せめてもの侮辱を返すことすら忘れて。
アッシュは信じられない事実を確信する。
「闇魔法……」
魔王と、その眷属だけが使うことのできる闇魔法。
それは勇者の神聖魔術にも似て、しかしその対極にあるものだ。
「そう、あたしは魔王の眷属だよ。ほら、主門を守ってる眷属獣っているでしょ? あの力を魔獣じゃなくて人間に与えたの」
また勝ち誇る。
こいつは多分、最初からアッシュなど相手にしていなかったのだろう。
だからずっと、ふざけた態度を取っていた。
それも眷属だと言うのなら納得はできたが、それでも信じられなくて声を漏らす。
「そんなことが……」
「あるんだよばぁか。現実見なって」
吐き捨てるように言われた。
あちこちで燃えていた天幕の火も消えかけているようだった。
あたりは完全な闇に包まれようとしていた。
そしてそんな時、かすかな音が耳に届いた。
「穿て」
意識するよりも先に、天に向けて魔術を放っていた。
そしてこれに気がついたのか、音はどんどん近寄ってくる。
「…………!」
驚愕の表情で固まるレイナ。
アッシュの目の前に降り立ったのは、ガルムだった。
「乗れ、骸の」
「!」
とっさにその言葉に従い、背に飛び乗る。
すると次の瞬間にはガルムは飛び立ち、レイナから全速力で逃げ出した。
「……何故逃げる?」
魔人化を解いたアッシュは、そう問いつつガルムの方を見る。
そして気がついた。
ガルムは血まみれだ。
鱗は剥げ、尻尾はずたずたにされて、どこもかしこも傷だらけだ。
「いや、何があった?」
問いを変える。
すると、絞り出すような声でガルムが答えた。
「アルトリウスに……一の魔王に、会ってきた。あいつには、俺やお前では勝てん」
「…………魔王がいたのか?」
この口ぶりだと、ガルムは最初から知っていたのか。
「ああ。そしてあいつはもう昔のあいつではなかった。変えてしまったのは……多分、うちのバカ皇帝だ」
「分かるように話してくれ」
アッシュの言葉に、寂しげな息を漏らす。
「なんと言っても分からないさ。……俺にも分からん。だがとにかく、やつは世界を滅ぼそうとしている」
それから、ガルムは唸る。
「いや、正確には世界を縮小する、だな」
「訳がわからない」
「分からなくてもいい。とにかく、備えが必要だ。このままじゃ今の世界は終わる。……俺も、帰ったらすぐにクーデターを起こす」
「クーデター?」
また、信じられない言葉だった。
だが聞き返せば彼は肯定した。
「そうだ。声が出ない皇女が一人軟禁されてる。その子を傀儡にして、俺はあの国を握る」
「なんのために?」
そんな質問に返ってきたのは、どこか恐れるような響きを纏った声だった。
「備えるためだ。このままでは全てが呑み込まれる。……あの暗愚には任せられん。俺が備えなければならない。少なくとも、五十年を守り切るために」
勇者が負けても世界が次の世代へと繋がれるのは、神がいるからだ。
五十年が経てば神の光が地上に放たれて、魔王はその領域もろとも消え去る。
全ての魔獣が活動を止める。
勇者が現れなかった今回は、その裁きが期待できるのかは分からない。
だが五十年耐えれば、というのはよく聞く話である。
「……ガルム」
アッシュが声をかけると、ガルムは答えた。
「なんだ?」
「天幕は。それに、封印官の死体も」
絞り出した問いに、しばらく沈黙が続いた。
そして破ったのはやはりガルムだった。
「諦めよう。天幕も、死体も……この国も、な」
アッシュは前線基地を振り返る。
遠く、いまだに小さな火が見えるそこにはどれだけの異形が犇めいているのだろうか。
「ガルム。……俺は魔獣を殺すよ」
悔しさを押し殺してアッシュは言う。
弱い自分が情けなかった。
何も救えなかった。
今、確かにアッシュはこの国の人々を諦めた。
「それでいい。いつかまた会おう」
ガルムが優しく言った。
それを最後に会話は途切れる。
雨の降る夜には星もなく、ただただ暗闇だけが続いていた。
そんな黒の中で二人は黙ったまま飛び続けていた。