二話・ロデーヌの街
活気のない街だと、ロデーヌに足を踏み入れたアッシュはまずそんな感想を抱いた。
大陸では標準的な、荒壁の家々が立ち並ぶ景観は特に変わったものではない。
それに決して人通りが少ないというわけでもなく、忙しく通りを行き交う人の数は大都市にふさわしくかなり多い。
けれど人々の表情はどこか暗く、街全体が息を潜めるような静けさを纏っているのだ。
そんなふうにアッシュが街を観察していると、背後からアッシュたちを険しい声が呼び止める。
「おい、お前何者だ。止まれ」
その声にアッシュがゆっくりと振り向くと、そこには槍を持ってこちらを――主にアッシュのことを――睨みつける憲兵がいた。
憲兵とは治安を維持するための存在であり、この国に法を行き渡らせる教会勢力の末端でもある。
そして行く先々で職務質問を受けるアッシュにとっては、この上なく厄介な存在でもあった。
「なにか身分を証明するものはあるか?」
じりじりと近寄りながら身分の証明を求める男は、見たところ三十歳ほどの男の憲兵だった。
アッシュは頭をかいた。
「身分を証明、ですか」
「そうだ。紹介状とか……お前はなんというか、とても怪しいからな。証明できなければこの街に入れるわけにはいかない」
百回は聞いたセリフにうんざりしながらも、アッシュはどうしようかと考えを巡らせる。
身分を証明できるものはあるが、経験上そう簡単に信じてもらえるかどうかは微妙だ。
押し問答の騒ぎになるのはできる限り避けたかった。
そこで成り行きを静観していたアリスが、何がおかしいのかにやにやと口を挟む。
「どこが怪しいんですか?」
彼女の問いに、門番の彼は眉をひそめる。
「どこからどう見ても怪しいだろう。見ない顔だし血濡れだし、血なま臭いし、不吉な気配が溢れ出てるし」
「そこまで言うんですか。酷いなぁ。あはは」
杖に寄りかかって楽しげに笑うアリスに憲兵は顔をしかめた。
「いや、アンタも十分怪しいぞ」
「え? なぜ?」
笑みを引きつらせつつ疑問をぶつける。
だが彼は真顔のままそれを切り捨てる。
「変な首輪つけてるし。それにあんた喪服じゃないか。まともな人間には見えない」
「馬鹿な。もしそうだと言うのなら葬式は悪魔の儀式ですか?」
「そういう問題じゃないだろ……。とにかくあんたら、話を聞くからちょっと来い」
きつく言ってアッシュたちに背を向け、同僚の元へと歩いていく。
恐らくは詰め所かなにかにしょっぴくつもりなのだろう。
「身分証、見せますか?」
アリスがため息をついて、やはり気だるそうにこちらへ聞いてくる。
無言で首を横に振った。
最悪の場合、どこか人目につかない所で眠らせてしまえばいいと思ったから。
―――
憲兵は同僚と思しき人物に何やら言い置いて、アッシュたちを引っ立てる。
「全くお前たち何しに来たんだ。まだガキだろう」
従順だということで手錠は勘弁してくれた、優しいのか厳しいのかよくわからない憲兵が腹立たしげにそう口にする。
「公務です」
アッシュが短く返すと、憲兵は見るからに顔をしかめる。
「公務ぅ? お前みたいなガキが?」
「俺はそろそろ十八ですから。もう成人です」
「私はぴちぴちの十七ですからまだ子供ですね!」
そんなやり取りをしながら憲兵と共に歩くアッシュたちに、街の人々ははばかることなく視線を向けてくる。
込められているのは疑いに、少しの好奇だろうか。
そんな視線を気にしていると思ったのか、憲兵はアッシュたちを気遣うように声をかけてくる。
「ああ、気にすんな。街の連中ぴりぴりしてんだ。戦役も酷いし、それに近々『骸の勇者』まで来るって言うからな……。不安なんだよ」
その言葉に小さく噴き出したアリスを、アッシュは一瞥もくれずに無視した。
ただ、来ることを知っていたなら身分証を見せれば話が通じたかもしれないと思った。
「どうした? 嬢ちゃん」
憲兵の男が、突然笑ったアリスへ訝しげな表情を向けた。
彼女は誤魔化すように咳をしつつ答える。
「いえ、なんでもありません。……憲兵さん、骸の勇者はお嫌いですか?」
その問いに、憲兵は難しそうに顔を歪めた。
「嫌いっていうか……。まぁ気味悪いよなぁ。人を喰ってるとかそんな噂ばっかりだし。とんでもない化物だって話も聞くぞ」
「そうですか。それにしてもニンゲンって美味いんですかね?」
「お嬢ちゃん悪趣味だぞ」
骸の勇者とはアッシュのことで、だからアリスは当てつけのつもりで話したのだろう。
だが嫌われていることなど端から分かっていたから特に反論する気もない。
だから黙っていると、何を思ってか憲兵が声をかけてきた。
「なぁ坊主、お前名前は?」
たったニ百メートルほどの道のりで早くも親しみを帯び始めた憲兵の声にどう答えるべきか迷う。
アッシュの名はもちろん知られているだろうし、この流れで口にしていいのか迷ったのだ。
「……アッシュ=バルディエルです」
迷った末に正直に言うと憲兵はくつくつと笑った。
「お前死人みたいな顔してるくせに冗談を言えるのか」
何も言わずに頭をかいた。
すると入れ替わるようにアリスが名乗る。
「私はアリス=シグルムですよ、憲兵さん」
「そうか。俺はダンだよ。よろしくな」
人懐っこく笑うダンにアリスは表情を曇らせ、知名度低いなぁと嘆かわしげに呟いた。
しかしすぐに気を取り直した様子でまた口を開く。
「しかし、この街はどうなってるんですか? ロデーヌはえらく賑わってると聞いていたのですが」
アリスのその問いに、ダンは苦々しく顔を歪めつつ答えた。
「魔獣どもだよ」
「魔獣、ですか」
「ああ、そうだ。去年くらいから突然魔獣が急増してな。話では近くに支門ができたとかなんとか……」
地上にはびこる四体の魔王、その配下である魔獣は魔王が自らの領域にて守る【卵】から生まれる。
そして、魔獣を世界にばら撒くために卵は【主門】を生み出し、その主門からまた支門が枝分かれする。
支門は主門よりも吐き出す魔獣の数は少ないが、それでも一地方を揺るがすに足る脅威なのだ。
「最近は交易も途切れがちでモノも高くなる一方だし。俺も、妻と息子を食わせてやらなきゃならんから大変なんだぜ。まぁ、その辺の小さな村に比べりゃだいぶマシなんだけどよ……」
ダンがため息混じりに口したその言葉に、アッシュは今しがた掃除した廃村の光景を思い返す。
そしてあのような悲劇ももはやこの辺りではありふれたものなのだろうかと、そんなことを考えた。
「へぇ、息子さんいるんです?」
アリスが特に興味もなさそうにそんな問いを投げると、固くなっていたダンの表情は綻んだ。
「ああ、まだ八歳でな。遅くにできた子どもはかわいいというが、全くその通りだよ」
別に子供が好きだとか、そういう訳でもなさそうだった。
しかしでれでれと顔を緩ませるダンが面白かったのか、アリスはさらに言葉を重ねる。
「あら、それはいいですね。お名前は?」
「アルスだよ。『聖炎の勇者』みたいになってほしくてな。……まぁ、今んとこはフリッツだけど」
聖炎の勇者アルスは歴代でも最強の座を争う特に人気が高い勇者で、対して『金糸の勇者』フリッツは歴代でも最弱と言われ、その上ドジの強欲で知られる勇者だ。
とはいえこちらもその逸話にまつわる喜劇などが多く残されており、決して人気がないわけではない。
アッシュを蚊帳の外にして、ダンは楽しげに雑談を続ける。
人が良いのは結構だが、そんな様子を見るこちらとしては彼があまり憲兵には向いていないように思われた。
もはや詰め所で尋問することを覚えているのかさえ定かではない。
このままコーヒーハウスにでも入っていくのではないかと疑われる。
「お、ダンのおっさん。何してんだ?」
それからしばらく歩いて、アッシュがダンをそろそろ路地裏に引きずり込もうかと考えていた時だった。
前から歩いてきた長身の男がダンに声をかける。
清潔に整えた金髪に穏やかな気配を纏う青の瞳。
しかし軟弱な雰囲気は全くなく、むしろその体は着込んだ軍服に輝くいくつもの勲章に相応しく鍛え抜かれている。
二十代も前半であろうその美丈夫は、親しげにダンへと右手を挙げた。
「ああ、グレンデル。怪しいやつらがいたからな。詰め所に連れて行ってるところだ」
厳格な表情を取り戻し、誇らしげに言って胸を張るダンにグレンデルと呼ばれた男は噴き出す。
「おっさん、さてはまた懐柔されたな?」
「馬鹿、俺はそんな甘くないっての」
ムキになるダンの言葉にグレンデルはまた笑い、それからアッシュたちの方へと視線を向ける。
「おっさんは善人しか捕まえてこないって評判だからなぁ。お前たち、名前は? 街へようこそ、歓迎するよ」
呆れた様子のグレンデルの言葉に、アリスが興味深そうな表情を浮かべた。
この分ではやはり彼女も気づいているのだろうか。
このグレンデルという男は、このロデーヌ、ひいてはダクトル地方の盾である銀狼騎士団の団長の息子。
自身も『破戒騎士』として名高いグレンデル=エラノールだ。
「アリス=シグルムですよ」
そんな名乗りを聞いて、グレンデルも眉を動かす。
どうやらあちらもアッシュたちの正体に思い当たったらしい。
「アリス=シグルム? あんたら……もしかして」
そう言って目を見開いたグレンデルに、アッシュは懐から金細工を取り出して見せた。
これは交差する杖、すなわち十字架を背景に瞳を刻んだ月をあしらったアトス教会の唯一神【大いなる月の瞳】のシンボルである。
そして細部まで複雑な細工が施された金細工は勇者である証でもあった。
これで何者であるかは伝わるだろう。
「ああ、そうだ。……それで、そっちはグレンデル=エラノールだな? 支門破壊の任務のことで話がある」