四十話・逆さ吊りの悪魔
前に、ミケリセンは自殺をしたことがある。
理由は一つ。
自分がやったことに耐えられなくなったからだ。
そして、死ぬのは簡単だった。
適当なナイフを拾って、こめかみに突き刺した。
すぐに意識が薄れてほっとした。
やっと死ねると思って、安心した。
……しかし、残念ながら死ぬことはできなかった。
それが、今ここに彼が立っている原因だった。
―――
――
―
何年か前、帝国と戦争をすることになった。
アルトリウスがそう命じたからだ。
詳しく事情を教えてもらうことはできなかった。
でもみんなには、横暴への憎しみを煽るようなことを言っていた。
それを聞いていて、僕は、吐きそうだった。
勝てるわけがないと思った。
ガーレンは本当に、弱い国なんだ。
だって僕たちは、カースブリンクじゃない。
帝国に頭を下げて、従うことを選んだんだ。
本当に、本当に、吹けば飛ぶような弱い国なんだ。
もうずっと、何百年も服従してる。
こんな戦争は無理なんだ。
できっこないよ。
魔王の力があっても、きっとみんな殺されてしまう。
そう思って、僕は部屋で震えることしかできなかった。
―――
みんなが殺される。
何度もそんなことを考える。
でも、だんだん分かってきた。
みんななんて、もういないじゃないか。
セイラも父上も殺された。
プラノとクロードは痛めつけられて、もう起き上がることすらできなくなった。
みんながずっと苦しんでいる。
……でも、僕たちはちゃんと従ってたはずだ。
プライドを捨てて、地を舐めて生きてきた。
それなのに、みんなひどく傷ついている。
だから、帝国の連中がいる限り、僕たちは安心できないんだ。
やっと分かった。
弱いから苦しいんだ。
みんなを守らないといけなかったんだ。
なら、僕は悪魔になる。
誰よりも強くなってみんなを守る。
それしかない。
それしか、もう道は残されていない。
―――
アルトリウスに頼んで、眷属の力をもらった。
ほとんど賭けに近かったけど、成功した。
その力でたくさんの人間を殺した。
みんなが喜んだ。
ミケリセン様が守ってくださると泣いていた。
僕は、よかったと思った。
これでやっと、みんなを守ることができるんだ。
―――
プラノが目を覚ました。
燃え盛る街と、魔獣の軍隊を見て……錯乱してしまった。
アルトリウスに斬りかかり、顔を焼かれて逃げていった。
僕たちに化け物と叫んで。
何度も何度も叫んで逃げていった。
プラノの気持ちは分かるけれど、決意が揺らぐことはなかった。
僕が、みんなを守らないといけないんだ。
―――
街の住民から金品を奪い、ゲラゲラ笑っている兵士たちがいた。
よく知っている、親切な友だちも中に混じっていた。
僕はそいつらに罰を与えた。
その後。
アルトリウスの命令で、子供の一人まで住民を殺した。
―――
僕たちは勝ち続けた。
トラウマに怯えていたレイナも、眷属の力を与えると戦えるようになった。
いまだに目をさまさないクロードに、寄生体を与えた。
するとすぐに起き上がった。
だけどレイナは復讐に取り憑かれてしまった。
クロードは決闘だと言って、帝国の兵士を狩るようになった。
まるで、かつて与えられた恐怖を拭うかのように。
僕は、全てがいい方向に向かっていると、自分に言い聞かせ続ける。
―――
帝国が恐ろしい兵器を生み出した。
兵士に大きな被害が出た。
やはり、一筋縄ではいかない。
それに、ガルムの妨害が厄介だ。
殺そうにも、あいつの力は隔絶している。
僕たちじゃ勝てない。
アルトリウスでなければ。
だけど、魔王は簡単に動かせない。
いまやその抑止力だけが、ガーレンの人々を守っているのだから。
僕は考えて、旅に出ることにする。
あらゆる魔獣の能力を模倣し、全ての魔王の力を手に入れるために。
―――
旅先では、様々な国の人と出会った。
みんな親切だった。
戦役のまっただ中なので、旅人だと言うと、ひどく驚いて心配されることが多い。
―――
キラーという男が加わった。
魔物の製法を売り込んできたらしい。
どうやら、人造勇者計画の資料も持っているとか。
アルトリウスが気に入って、眷属の力とそれなりの地位を与えた。
―――
僕は、ずっと殺している。
みんなを守るために殺している。
なのに、みんなどんどん笑わなくなる。
昔からの友人が狂ったり、首を吊ったりするようになる。
おかしい。
なんで、勝ってるのに、みんなを守れないんだ?
―――
廃墟になった街を進む。
泣き叫ぶ市民を皆殺しにした。
どんな国でも同じことをする。
前に旅をした国もあった。
この人たちは本当に敵なのか。
疑問を封じ込める。
あらゆる場所で、あらゆる人間を殺す。
より狡猾に。
みんなを守るために。
みんなが殺さなくて済むように。
したくないことばかりする。
世界が、逆さまになった。
―――
戦火。
家。血飛沫。
穴の底、毒まみれの村娘。
子どもが、子どもを庇って命乞いをする。
磔。貴族。
学校を燃やす。
泣いて死んだ少年兵。
病院に隠れた親子。
親友が自殺した。
降伏の使者を糞溜めに投げ込む。
全滅した兵団。落ちたお守り。
家の奥、輪になって自殺した家族。
焼け跡の小さな靴。
蟲まみれ。腐敗。泣き声。
犬が、主人のそばを離れない。
置き去りにされた被差別民たち。
捕虜を斬首する。
木に吊るされた老婆。
赤く染まった川。
蛆虫。
痩せた腕に匙を握り、泥まみれで死んだ幼児。
病気。
死体。
改造された赤子の山。
―――
銃は気に入った。
引き金を引くだけで終わるから。
冷たい金属に、少し力を加えるだけ。
たったそれだけでいい。
命を奪う感触が、あまりにも軽い。
これならまだ殺せるはずだ。
もっとたくさん、殺せるはずだ。
―――
死ぬことにした。
でもだめだった。
四の魔王の能力で蘇る。
死んで三日後、冷えた身体で起き上がった。
鏡を見て叫ぶ。
なんで、僕はまだ、生きているんだろう?
―
――
―――
「……ああ、長かった」
やがて、ミケリセンがそう言った。
アッシュたちの目の前で。
深く息を吐いて。
「…………」
誰も動けない。
ミケリセンが頭上に手を伸ばす。
そして『卵』に触れた瞬間、そこに主門が現れた。
確かに壊したはずの主門が、卵の上……地面と水平に、空を覆うように出現する。
「残念だったね。君たちが見つけた門は、クロードのだ。わたくしの物じゃない」
そうして、赤い光の門が少しずつ『卵』を飲み込む。
魔王が倒れ、防壁が消えたそれを。
いずこかに転送し始めた。
「……それが、目的だった?」
サティアが声を作った。
音の衝撃による破壊は試みていない。
音操作もすでに模倣されているため、相殺されてしまうからだ。
ともかく、ミケリセンはにこりと微笑む。
「そう。これが目的。なにしろ、わたくしたちは魔獣だ。他の魔王を殺せない」
だったら、君らに仕留めてもらうのが一番だろ?
と、ミケリセンは言った。
そして最初から、この瞬間を狙っていたのだろう。
思えば彼の行動は、どれも魔王討伐のマイナスにはならなかった。
アッシュたちに書庫のルールを教え、強化を促し、シドを鍛え上げた。
その他にも様々な手がかりを残していたと、今になって思い当たる。
「恐れ入ったかい? ここまでが、ガーレンの計画さ」
門の中へ『卵』が消える。
最も渡してはならない相手に、最悪の兵器が渡った。
全てを見届けて、ミケリセンは歩き始める。
「そして、ここからは……わたくしの計画だ」
ぽつりと語り、彼は魔王のそばに跪いた。
穿たれた身体に腕を添え、優しい手つきで身を起こす。
そして、まるで淑女に愛を囁くように、異形の顔に口を寄せ、語りかけた。
「……ああ、かわいそうに。ずいぶん手酷くやられたねぇ?」
命尽きたか、魔王の体は足先から消滅しつつある。
それを確認し、ミケリセンは目を細めた。
「でも、安心して。あと一つだけ、蘇生を残しておいたからね」
言いながら、歓喜の表情で遺骸の胸に左腕を突き込んだ。
……いや、腕ごと何かを入れたか。
「ついに……やった、やった! ふふふ……ふふっ……あはははは……………!」
高く哄笑する。
ミケリセンの周囲に、黒い影が揺らめいた。
まるで彼らを覆い隠すように。
高い影が二人を取り巻き、アッシュたちの視線を遮り始める。
「なんのつもりだ!!」
シドが叫んだ。
ミケリセンはやはり笑んだままだ。
左腕が、少しずつ魔王の体と同化し始めている。
「シドくん、祝福してくれよ。わたくしは、素晴らしい兵器になるんだ」
穏やかな声で言った。
そして楽しげに、軽やかに言葉を連ねていく。
「魔王を強化した兵器……そういう構想があってね。これから、彼女が第一号になる。きっと何百万人も……殺せるだろうな」
ぐちゃり、と湿った音がした。
ミケリセンの腕が、もはや肘まで魔王の胸に沈んでいる。
境目が分からない。
肉と肉が溶け合い、脈打ち、一つになろうとしていた。
同時に、崩れかけていた魔王の肉体が安定する。
足先から広がっていた消失が、ぴたりと止まった。
「…………」
アッシュは奥歯を噛み締める。
兵器になる、とミケリセンは言った。
だがおそらく彼にとっては死と同義だ。
溶け合って怪物になり、あとにはなにも残らない。
なぜならミケリセンの体は、少しずつ魔王の遺骸に引きずり込まれていっている。
「なぜ、そんなことをするんですか?」
ノインの声が静寂を破る。
思いがけない問いだった。
ミケリセンの肩が小さく跳ねる。
そしてノインを見る顔には、一瞬だけ、なにか激しい感情が滲んでいた。
「殺すためだよ。言ったろ? それがわたくしの目的さ」
声は軽い。いつもの調子だ。
そして周囲の闇がざわめく。
彼を取り巻く黒い影が膨らみ、もうほとんど姿が見えなくなった。
「…………」
ノインは唇を噛んだ。
闇の向こうを見据えながら、彼女はなおも問いを投げかけた。
「ですが、あなたは誰も……殺しませんでした。本当に、そうしたいんですか?」
アッシュは息を呑んだ。
そんなことには気づいていなかったから。
けれど確かに、ミケリセンは誰も殺さなかった。
ノインやゴーストを、殺す機会はあっただろうに。
「そうさ」
しかしミケリセンは肯定した。
殺したいのだと。
へらへらと、軽薄な笑みを浮かべて。
「でも……あのさぁ、正直、わたくしは…………」
笑い声が漏れた。
最初はくつくつと、喉の奥で。
それがだんだん大きくなる。
肩が揺れ、背が丸まり、やがて腹を抱えるように身を折った。
「もう、うんざりなんだ」
笑っている。
笑いながら、息が荒くなっていく。
笛のように喉が鳴る。
浅く速い呼吸の合間に、それでも笑い声が止まらない。
「君たちが、蛆虫みたいに湧いてくるから。殺しても殺してもキリがないから……本当に、もう……うんざりなんだよ。そうだ、疲れた。疲れたんだ。わたくしはもう、殺しすぎたんだよ」
声が途切れた。
闇の向こうで、大きく息を吸い込む音がする。
震えている。
それが笑いなのか、嗚咽なのか、もう分からなかった。
「だから、決めたんだ。わたくしは……この世で一番、クソッタレの兵器になるって」
声が乱れていく。
涙に詰まったかと思えば怒号になり、裏返った悲鳴に聞こえることもあった。
「見てろよ……! これから、わたくしは、わたくしではない、なにか、ひどい、ひどい、怪物になる……! そして、世界中で……お前たちを、殺し尽くしてやる……!!」
早口で、血を吐くように怒鳴り散らした。
もうノインたちの方を見てもいない。
闇に包まれたまま、ミケリセンは泣き声で独白を続けている。
「そうだ。やってやる。……も、もう……みんなが……わたくしの、妹が…………かわいそうな、かわいそうな、妹たちが、国の民が、お前たちを、殺さなくても、済むように…………」
嗚咽が混じる。
言葉が詰まり、途切れ、それでも絞り出すように続く。
泣きじゃくる子供のように。
「わたくしが、代わりに全て、殺してやるんだ……!」
闇が膨れ上がった。
黒い霧が渦を巻き、天まで届くような壁になる。
その向こうから、獣の唸りのような低い音が響いてきた。
もう何も見えない。
だが声だけが、鮮明に聞こえる。
「……できるさ。…………ああ、できるとも」
か細く呟く声。
必死に言い聞かせるような、祈りのような声だ。
だが次の瞬間には、断末魔のような絶叫に変わっている。
「これまでだってそうしてきた! 男も女も老人も子供も王も乞食も戦士も赤子も。みんなみんなみんな、踏み潰してきたんだっ!! わたくしはっ!!!」
痛々しいまでの叫びが空間を震わせた。
アッシュは歯を食いしばる。
ガーレンのクズに同情する気などない。
だが、ノインは違った。
凍りついたような目で、生まれ出ようとしているなにかを見つめていた。
その瞳に、悼むような色が滲んでいる。
「…………」
やがて、闇の向こうから静かな声が聞こえた。
「さぁ魔王よ、わたくしを喰らえ」
ずるり、と。
黒い帳の隙間から、汚泥に濡れた獣の腕が突き出てきた。
「一緒に、これからもっと世界を呪おう。生まれ変わろう」
穏やかな声だった。
我が子を抱いて語りかけるような、優しくさえある響きだ。
「お前がもっと、悪くなれるように。……わたくしが、立派な兵器になれるように!!」
それきり、声は途絶えた。
ミケリセンは死んだのだろう。
体を縛りつけていた力が消える。
「っ………」
アッシュは膝をついた。
荒い息をつきながら顔を上げる。
そして獣が産声を上げた。
「――――――――ッッ!!!」
咆哮が空気を叩き、闇を吹き散らす。
そこに立っていたのは、泥にまみれた獣だった。
姿は三の魔王に近いが、もう人形の部分が残されていない。
純然たる獣性の具現である。
獣は背に炎の翼を広げ、赤い眼を爛々と光らせる。
それはきっと、ミケリセンが望んだ通り。
世界で最悪の兵器なのだろう。
歪んだ願いの産物が、今この瞬間……アッシュたちの前に産まれ落ちてしまった。




