三十九話・書庫の終焉
本当は、こんなに広い場所ではなかった。
きれいな飾り付けも、美しい庭園もなかった。
そう。
いつか、二人で過ごした書庫は、もっと慎ましい場所で。
お屋敷を抜けて、狭い書庫の、小さな庭に二人。
いつも二人。
建物の影で、木の下で、花畑の中で。
微笑んで、本を読んで、草を編んだ。
あなたが私に、夢を打ち明けてくれたのは、いつのことだったでしょう?
『僕……ホントはね、勇者になりたいんだ。父上と母上にはナイショだよ!』
柔らかな頬を赤く染めて。
幼いあなたは言った。
白い雲の下。
日が差す庭で。
それに、私は驚いてしまった。
だってあの時、魔王なんていなくて。
戦役さえ、まだまだ遠かったんですから。
それを問うと、あなたは恥ずかしそうに微笑む。
『うん。だからね、代わりに悪い人をやっつけるよ』
言葉を重ねる。
とても楽しそうに、唇が夢を紡ぐ。
吹いた風が、優しく肌を撫でた。
『それでね、困ってる人をうんと助けるね』
夢物語への、憧れのままに。
美しい希望を膨らませる。
みんなを幸せにしたいと、あなたは笑ってそう語った。
しかしそれは、汚い生まれの私には、あまりに眩しすぎたのです。
『ねぇ、✕✕✕✕✕✕。……君は? なにになりたいの?』
だから、言えなかった。
本当は、あなたのお嫁さんになりたかったのに。
外に出る必要なんてなかったのに。
卑しい願いが、あなたを陰らせてしまうような気がして。
言えなかったんです。
それだけは。
どうしても、どうしても。
…………言いたかったのに。
言えなかったの。
―――
黒ウサギの騎士が駆ける。
空間削りをものともせず、再生しつつ駆け抜ける。
その動きは、もはや魔王にも並び立つほどに力強い。
間合いに立つ。
空間を歪ませるような、禍々しい鉄剣の一撃が毛皮を抉った。
「――――――――ッッ!!!」
魔王が悲鳴を上げた。
反撃の魔法を放つ。
しかし、黒ウサギが速い。
転がるように背後へ抜け、飛び上がり、宙返りと共に荒々しい斬撃を叩きつける。
縦一文字。
魔王の背中に血飛沫が走った。
「行くぞ」
アッシュは言った。
今、畳み掛けるしかないからだ。
騎士は強いが、その体内の寄生体は徐々に削られていく。
ピークは決して長くはない。
完全に弱体化する前に、全員で攻勢をかけるべきだった。
「ああ」
ゴーストが答えた。
彼はキメラの改造を手伝っていた。
しかし彼も戻り、多数の上位魔獣も従えた今……魔王は打倒可能な標的に成り下がった。
機を逃さじとアッシュたちは駆け出す。
「おっと、お待ちを」
背後からキメラの声がする。
アッシュとゴースト、サティア、加えて上位魔獣たちの腕に触手が巻きついた。
つまり、魔術支援である。
前線に向かう途中で、あらゆる支援魔術が立て続けに重ねられていった。
「……感謝する」
アッシュは礼を伝えた。
さらに、影の蟲からアリスの声もする。
『私にも強化が。なので、アッシュさん。今なら右腕を使えます』
「了解。使わせてもらう」
アッシュは頷く。
そして右腕の力を解き放った。
「……『焼尽』!」
火力が上がる。
自分でも恐ろしいほどの力を、この右腕は秘めていた。
さらに『偽証』の制限が消えたので、アッシュは山刀を捨てた。
鎖と剣に持ち替える。
続いて、サティアとゴーストと連携をとった。
「戦術は包囲。常に立ち位置を変え、急所だけを狙おう。正面は魔獣どもに任せる」
簡潔に伝えた。
連携の訓練もしていたため、淀みなく三人が動き始める。
未来視を駆使し、サティアは常に右の背後へ先回りする。
その動きに合わせ、ゴーストも左の背後に張り付く。
二人が常に急所を狙い続ける。
アッシュは黒炎を使い、飛び回って遊撃をこなした。
攻撃の発生を抑えること、魔法を握り潰すこと、そして隙あらば殺すことが役目だ。
「完璧……完璧、私、完璧よ……!」
サティアが言った。
作った声は平坦だが、ちらりと見えた表情は酔ったように高揚している。
そして言葉通り、全員が完璧な連携をこなしていた。
予期せぬ開戦のため合わせは不十分だったが、サティアやゴーストの練度なら補って余りある。
魔王は背後から刻まれ、前方には魔獣たちに囲まれ、黒ウサギに抉られる……という鳥籠に封じられた。
最早打つ手もなく、翻弄されるまま暴れ狂う。
そこに、シドの魔術が突き刺さった。
「二層魔術『滅却槍』!」
極大の雷槍が飛んだ。
音を置き去りにし。
その暴力的な威光で、暗い書庫を漂白しながら。
「いけ!」
シドが叫んだ。
魔王が逃げようとする。
「させるか」
ゴーストが槍を投げた。
切っ先が浅く首を刺す。
さらに、サティアが腱を斬りつけた。
とどめに、黒ウサギが勢いよく脇腹に食らいつく。
「――――ッ!!」
魔王が姿勢を崩す。
そして魔術が命中した。
轟音とともに左腕が消し飛ぶ。
魔王が、後ろへと地を蹴った。
「! 畳み掛けるぞ!」
アッシュは言った。
今、腕が消えた。
やがて再生はするだろうが、最大の脅威たる空間削りを封じたのだから。
「魔獣どもを右に集めますわ!」
キメラが叫ぶ。
上位魔獣たちが移動し、全て右側を攻め立てる。
残った空間削りは、そちらに使わざるを得ない。
さらに、正面は黒ウサギが受け持った。
削り、食い千切るような勢いで魔王を猛追する。
空間削りを受けても止まらない。
壁が破壊されたことで危惧していたが、首を覆う書庫の品物は、破壊ができないままであったらしい。
「お手伝いします!」
ノインの声も聞こえる。
彼女は死体と血液を操り、魔王を常に攻撃し続けている。
それらはいずれも炎の鎧で蒸発するが、どれも工夫を凝らした攻撃だった。
きっと、敵の気を引けているはずだった。
「……『焼尽』!」
右腕を励起させる。
あふれる黒炎を解き放った。
黒い槍が二十ほど、一瞬で形成され振り注ぐ。
「―――ッ!」
空間削りで相殺することもできず、左半身が焼き削れる。
さらに、他の二人が懐に入った。
サティアは未来視で上手く炎をくぐる。
ゴーストは霧と化して、難を逃れていたのだろう。
息の合った動きで、鮮やかに位置を入れ替えながら、魔王の肉体を斬り刻んでいく。
「二層魔術『暁星』!」
シドの魔術だ。
巨大な雷の玉が射出される。
主観的には、視界を埋めると言っていいほどの大きさである。
そして、その電圧にて作られた真球が歪む。
歪んで、表層から小さな雷の矢を迸らせ、やがて爆発を起こす。
「……『偽証』」
大火力に怯んだ隙で、アッシュは自らの剣を複製する。
黒炎を纏った剣が増え、数十本……周囲に突き立った。
そこから炎を集め、駆け出す。
「…………」
跳躍し、首へ向けてとどめの一撃を放った。
魔王が反応し、右腕の空間削りを放とうとする。
しかし不意に、大きくよろめいて地に右手をついた。
「あら、魔王にも効くんですね……この、カタツムリったら……」
アリスが送り込んだ召喚獣の仕業だ。
この一瞬の隙を射抜くように、剣の炎を解き放つ。
跪いた頭に、一閃だ。
「くたばれ」
そして。
黒い火が濁流と化し、魔王の体を余さずに呑み込んで行く。
―――
黒い炎が溢れた。
何もかもを……光さえも飲み込む火柱が、魔王の肉体を焼き尽くしていく。
そして、一瞬。
黒い炎が収束し、次の瞬間には元の数倍に膨らんだ。
爆発である。
致命的な威力を発揮し、右腕の炎が魔王を討ち果たした。
……はずだった。
「アッシュさん」
アリスが、怯えたように声を漏らす。
言われるまでもなく理解していた。
魔王はまだ死んでいない。
一度、全員で下がることにする。
やがて爆煙が薄れるにつれ……炭化した獣の、魔王の姿が露わになった。
「……なっ」
キメラが動揺を見せる。
他は、言葉も出なかったようだ。
魔王は一心になにかを喰らっている。
もう少し煙が晴れれば、その正体は分かった。
食われているのは、黒ウサギだ。
火に巻き込まれた騎士を捕らえ、頭からぐちゃぐちゃと……息もしないで咀嚼している。
「止めよう!」
シドが言った。
しかし、もう手遅れだ。
魔力が桁違いに膨れ上がっていく。
アッシュは首を横に振った。
「…………」
やがて、魔王がゆっくりと立つ。
焼け焦げたまま、よろめきながら立つ。
そして、書庫の全域を震わすような声で咆哮した。
「――――――――ッッッッ!!!!!」
錯覚ではなく、地震が起きた。
グラグラと揺れる足場を踏みしめ、アッシュは鋭く魔王を見据える。
アリスに状況を確認した。
「何が起こっている?」
「分かりません。でも……」
でも、と言って言葉を止めた。
アッシュはその先を聞き出そうとは思わなかった。
「…………」
やがて叫びを止めた魔王は、ゆっくりと呼吸をする。
そしてアッシュたちへと視線を向けた。
そう。
魔王はその眼窩に、あるべき瞳を取り戻していたのだ。
赤く揺らめく眼を見ながら、緊迫した声でゴーストが告げる。
「あれは、『束縛』の魔眼だな」
すでに、検証によりこの魔眼の能力は割れている。
彼が口にした通り、あの魔眼は獲物の動きを縛るものだ。
具体的には、最も近くで見られている者は、魔王の視界の外へ出ることができなくなる。
空間削りとの相性がよい、最悪の魔眼と言えた。
「…………」
息を呑んで魔王と対峙する。
どう動けばいいのかも分からないまま。
しかしそれでも、なんとか作戦を伝えようとしたところで。
緩やかに、書庫が崩壊し始めた。
「……これは」
ノインが不安げに周囲を見る。
そばで本棚が崩れ、どこかの扉が外れた。
柱が横転するのも見える。
やがて、書庫の天井が剥がれ、本物の日光が差し込んだ。
「なるほど」
アッシュは呟く。
これも想定外ではあった。
しかし、ここに来て運が回ってきたか。
これは紛れもなく都合のいい現象だ。
書庫の崩壊のおかげで、ようやくアッシュは動きを決められた。
「――――ッッ!!」
もう一度魔王が叫ぶ。
周囲が白い光に包まれた。
地揺れが一層激しくなる。
数秒間、何も見えなくなったあと。
気が付くと、アッシュたちは真昼の、無人の街に立ち尽くしていた。
―――
「狙撃だ。上空の、射程外から撃ち殺す」
開口一番。
アッシュはそんな言葉を口にした。
心得たように、アリスが召喚獣の竜を出した。
それを見て全員が察する。
キメラが鳥の上位魔獣を呼び戻し、アリス以外の全員がそこに集まる。
「まぁ、味気ないけど……最適解よね?」
そう言って、サティアが竜の召喚獣の背中にまたがった。
アッシュとアリスもそれに続く。
そして、もう一方……上位魔獣には、キメラやシド、ゴーストが乗り込んだ。
「あたしも、こっちに乗ります」
ノインが言う。
おそらく、いつでも死体の操作を引き継げるように。
それにアッシュは深く頷いた。
「ああ。任せる」
そうして、全員が飛び立つ。
残りの魔獣は高空に逃れるまでの囮だ。
一斉に襲いかかったところで、立ち尽くしていた獣が動き始める。
「――――ッッ!!」
叫び、地を蹴った。
踏み込みで地面が割れる。
あっさりと一匹を削る。
魔眼で動きを止め、もう一匹も食い千切る。
さらに咆哮をあげた瞬間、赤い波動が周囲を駆け抜けた。
同心円状に空間が削られ、跡形もなく魔獣の群れが消え去ってしまう。
「……恐ろしいですね、これは」
アリスが言った。
竜を駆る肩が震えているのが分かる。
アッシュは竜の背に立ち、『偽証』で大弓を作った。
そこで、サティアがシドに語りかける。
音を操作することで。
「分かっているわね、シド。敵の魔眼は、見えなければ……何の意味もないわ」
彼女が語ったのは、この作戦の唯一の懸念だった。
魔王の魔眼に動きを止められ、空中で撃ち抜かれるという可能性への対処だ。
聞いていると、彼女はさらに言葉を重ねる。
「姿消しの魔術を、使いなさい。使い方を、教える時間はないけど、ギフトで再現すればいい」
シドの能力である『詠唱破棄』は、魔術であればどんなものでも使うことができる。
詠唱が失われた遺失魔術でさえ。
故に、まだ教わっていないサティアの姿消しも再現できる。
「ああ、分かった」
サティアが中継したのか、シドの声が聞こえる。
そして二人はほぼ同時に魔術を使い、透明化して魔王の視線から逃れる。
「……助かる、二人とも」
感謝し、アッシュは弓を引いた。
同時にシドの魔術が放たれる。
文字通り矢継ぎ早にだ。
さらに高度を上げ、アッシュたちは高空から狙撃を続けた。
「…………」
反撃で、魔王の炎の魔法が空を埋め尽くす。
しかし悪あがきにすぎなかった。
見えもしない、高空の相手に当たるはずはない。
流れ弾を避けながら、アッシュたちは攻撃を通し続ける。
「『滅却槍』!!」
シドが魔術を使う。
アッシュも黒炎の大矢を撃つ。
着実に命中していた。
もはや魔王はなすすべもなく、明らかに形勢が傾きつつあった。
魔眼さえ封じてしまえば、上空の敵に抗うことはできないのだ。
「……『暴走剣』」
黒炎を複製し、矢に集めて解き放った。
ついに、渾身の一射が命中する。
敵の胸が……心臓が消し飛んだ。
つんざくような悲鳴と共に、獣の魔王が倒れ込む。
「やりましたっ……! ついに……!」
アリスが喜色を浮かべる。
確かに、今度こそ勝利したと分かったのだろう。
「…………」
アッシュもほっと息をついて、弓を下ろした。
もうじきにあの魔王は死ぬ。
「……とどめを刺そう」
気を抜かずに言った。
地上を見ると、魔王は倒れて動かなくなっている。
息の根を止めるため、竜の高度を落とし、廃墟の街へと降り立った。
「二人とも、助かった」
戻って最初に告げたのはそんな言葉だ。
言うまでもなく、シドとサティアへの言葉である。
同じく鳥の魔獣から降りたノインたちも口々に礼をした。
サティアは、黙ったまま右腕を空に突き上げる。
シドはほっとしたようにため息を吐いた。
「――――『愚者たる真影』」
唐突に、そんな声が聞こえた。
体が動かなくなる。
身じろぎすらできないほど、強力な縛りに捕らわれてしまった。
「まさ、か……!」
声を絞り出す。
魔力の気配を感じ、焦燥のままに目を向けた。
すると領域が消え、裸になった『卵』の下。
殺され、魂まで喰われたはずの男……ミケリセンが、一人で立って微笑んでいる。




