二十八話・二人の夜(1)
鋭い痛みが意識を覚醒させる。
次いで、なにやら薬臭い匂いが鼻をついた。
全身が熱くて、感覚が鈍くて思考が重くて目を開けるのも億劫だった。
だからまた意識を沈めようとしたところで、誰かの声が聞こえた。
「アッシュさん、今、目を……!」
アッシュ?
朦朧とする意識の中、疑問を覚えてそれがわずかにアッシュを繋ぎ止める。
ああ、そうか。
俺の名はもう、××××ではなく……。
アッシュとしての責任が、痛みに、倦怠に抗う力をもたらす。
そうして無理矢理に目を開き身を起こそうとした。
「……ッ!」
脳天を引き裂くような激痛。
炎の熱とは違う、鈍い熱が腹と胸を中心に広がった。
また倒れ伏す。
再び声が聞こえた。
「まだ起きてはいけません。今、手当てをしますから……」
ぼんやりと天井を見つめた。
人の手を感じさせない、むき出しの岩だ。
ここは洞窟だろうか。
岩にわずかに反射する暖色から、誰かが……アリスが焚き火をしているのだと察する。
「手当、て?」
「そうです。手当てをします」
かすれた声でなんとか言うと、どこか必死な声が聞こえてきた。
そんなに大事なのだろうかと不安になる。
アッシュはまだ、死ねないのだが。
「ここは?」
聞くとすぐに答えが返ってきた。
「すぐ近くの洞窟です」
どうやら会話でアッシュの意識を繋ぎ止めようとかそんなことを考えているらしい。
少し呆れるが答えが早いのは好ましいので、特に文句もなかった。
「これから、どうするんだ……?」
「まずはあなたの手当をして、それから間に合わせですが杖を直して、街に帰還します」
「そういえば……傷は、酷いのか?」
少しの逡巡の後に思い詰めたような声が聞こえる。
「とても……酷いです。普通の人なら、とっくに死んでるくらいには」
凄まじくしぶといと自負しているアッシュが動くこともままならないのだ。
だから予想はしていたがそれなりに不安ではある。
だが気にもしていないようなふりをして答える。
無駄に不安にさせたくなかったのかもしれない。
「そうか」
答えるとアリスは戸惑いがちに続ける。
自分のせいだと多少は思っているのか、申し訳なさそうな響きもあった。
「お腹の傷が、良くないです。その上全身の火傷と、胸の傷もあって……あまりにも……」
「……まぁ、仕方ない」
火傷が全身にあるのは竜に焼かれたからなのだが、それはもう言わないことにした。
元をたどれば悪いのはアッシュだ。
首輪を盾に人を従えるような真似をするのなら、この程度の事態は当然に覚悟すべきだった。
「……少し、体を起こします」
ほんのわずかだが呼吸が落ち着いてきた。
胸の傷にアリスの手が伸ばされる。
背に手を当てられ、同時に景色が動いて焚き火が目に入る。
それと医療品やらなんやらの数々の物資も。
「痛みは?」
「……ないよ」
それは嘘だったし、きっとバレてもいるだろう。
が、嘘をつけるくらいの容態だと思ってくれるのならそれはそれで悪くはないと思う。
胸に包帯を巻かれる。
そして腹にも同様の処置が施された。
消毒はと少し気になるが、そのある程度慣れたような手付きに思い直す。
起きたときに感じた鋭い痛みは恐らく消毒の際のものだったのだろう。
薬臭い匂いも漂っていたような気もするからきっとそうだ。
「それ、どうしたんだ?」
また寝かせられた後でそう聞くと、また躊躇ってからアリスは答える。
「血を、拝借しました」
「なるほど」
またアッシュの血から符を作ったのだろうと納得する。
「三回、失敗したので、それなりに貰ってしまいましたが……」
「言わなくていいよ、それ」
アリスほど慣れた使い手でも空間魔法は符で使うのには難しい魔法だということだった。
まだここでこうしている以上は、召喚の方は符では一切できないほどの難度を誇るのだろう。
いや触媒が特別製なのだったか。
「でも、すみません。冷やすものが、ないんです……。水でも、良かったんでしょうか……? ロクに話聞いていなかったから、分からなくて……」
火傷のことを言っているのだろうか。
熱傷は一秒でも早く冷やすことが処置の基本であり、それを行わなければ治癒にかなりの影響を与えてしまう……というのが通説だ。
そして冷やすのは水でも大分効果はあるはずだが、今更言って無闇に動揺させたくはなかった。
アッシュならここを生き延びられればどうとでもなるというのは分かっていた。
それから、話を聞いていなかったと言うのはきっと何かの訓練のことだろう。
多くの物資を持ち歩ける彼女が、その扱いを叩き込まれるというのは別に不自然な話でもない。
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃ……!」
そのどこか濡れたような声にアッシュは気がつく。
「お前……泣いてるのか?」
答えは返らなかった。
ぱちぱちと、焚き火の音だけが響いていた。
「馬鹿だな、お前。別に、俺の自業自得だろう。手当してくれて……ありがたいくらいなのに」
「……!」
アッシュの言葉に息を呑む気配がした。
それから、震える声がやはりぼんやりとした意識に届く。
「借りが、できたんですよ……。あなたは私を、庇ったから……!」
「……そういえば、そうだったな」
確かに、そんなことをした気がする。
どうでもいいから忘れかけていた。
「なんであの時、私を庇ったんですか?」
「…………」
今度はアッシュが黙り込む番だった。
その理由を手短に説明するのなら、やはり首輪でアリスを縛っていることへの罪悪感からということになるのかもしれない。
だがそんなことは口が裂けても言うべきではなかった。
奪う者が、奪われる者へと、奪い続けるままに謝罪を投げかける。
それは吐き気を催す所業だった。
被虐者からいつか立ち上がるための憎しみすら奪おうとするなど邪悪以外の何物でもない。
首輪に手を染め続けるくせに、アリスに対して善人ヅラを向けるわけにはいかない。
だから、アッシュは目を閉じながら代わりの言葉を探す。
「俺の方が堅いからな。便利なお前にあそこで死なれるよりは、良かったんだ」
「でもあなたは私に命令しなかった」
それがなにか証明になるとでも言うように彼女は口にする。
対してアッシュは、その事実にどこか冷たい笑みが漏れるのを感じた。
「しようとはした。……そうだ。お前も、見たんだろ?」
恐らくはアリスも、アッシュの過去を見ているはずだ。
こちらがそうしたように。
「ええ。……見ました」
躊躇いがちに言って、アリスはしばし沈黙を守る。
そうして意を決したように口を開いた。
「あなたもあの首輪を……つけたことがあるんですね」
「ああ、だからできなかった。胸糞が悪いからな」
短く言って身を起こす。
激痛にも耐えて、よろめきながらも無理矢理に立ち上がった。
「まだ……!」
「問題ない」
上半身は裸だった。
だから着るものはないかとアリスに尋ねる。
「何か着替えは?」
すると、用意していたのか清潔な黒いローブを渡される。
「ありがとう」
「そんなことより、まだ立ってはいけません」
「でも魔獣が来たら?」
アリスは杖がなければただの人間でしかない。
そしてここは、だいぶ数は減らしただろうがそれでも魔獣が闊歩する場所なのだ。
今大きな規模の群れが来たのなら間違いなくアリスは死ぬ。
アッシュが戦わなければ二人とも死ぬだろう。
そんなことを思いながら、身支度も整ったので壁に背をつけて座り込む。
「水はあるか?」
「……あります」
「悪いがもらえるか?」
無言で差し出された水筒を一息に飲み干して返す。
喉に痛みが走ったのと、渇きも癒えないので内部にも火傷はあるのだと理解した。
「なにか、武器があるといいんだが……」
辺りを見回しつつそう口にすると、アリスは少し考えて答える。
「杖でも構いませんか?」
「杖?」
「ええ。魔法じゃない杖です。護身用で、使い慣れてるので一応出しました」
「じゃあ、それでいい」
アッシュは鉄杖を受け取った。
護身用と言うだけあって、少し頼りない武器を抱くようにして座る。
「血を貰えれば、お好みのものを出せますが……?」
「十分だ」
「そう、ですか」
それを最後に二人とももう何も言わなくなった。
何も言わないままアリスは杖を修復し、アッシュは棒を抱いて座る。
そうして夜は静かに更けていった。




