二十四話・悪意の胎動(2)
「街を襲った魔獣は、門衛は……生物に寄生する。そして身体を作り変える。中位寄生体と似たようなものだ。だから、誰も死体には近づける、な……」
それは、グレンデルにとっては正しく悪魔の言葉だった。
そんな言葉を最後に気絶したアッシュ。
隣では子供が泣いている。
「…………」
街を見回す。
何もかもが最悪だった。
無残な死体が転がっていて、歴戦のはずの兵士たちが口を覆う。
慣れ親しんだ街は、もはや地獄だった。
「グレンデルさん、そこに転がってるのはうちの勇者じゃありませんか?」
そう言いながら歩いてきたアリスは子供に冷たく一瞥をくれた。
続けて、変わらぬ温度でアッシュに視線を向ける。
「ああ……」
「何があったというのでしょうか、これは」
血の通わない顔で街を見回す彼女を、グレンデルは初めて嫌いだと思った。
「分からない。けど、殺人犯が……魔獣が、出たって」
「なるほど、殺人犯の正体は魔獣でしたか。……いやいや、意味が分からないんですが」
グレンデルはそれを無視して、すすり泣く子供に手を差し伸べる。
「立てるか?」
その声に顔を上げた子供は、グレンデルもよく知っている顔だった。
「アルス……」
何があったのかは分からない。
けれど、グレンデルを見つけるやいなや、アルスはまた泣き声を大きくした。
「こいつが、殺したんだ……! 僕のとうさんを殺したんだ! グレンデル……!」
感情をあらわにアッシュを指差し、泣き叫んでいた。
言葉の意味は気になるが、今は保護が先だった。
どうやら足や腕がどうにかなっているらしかった彼を抱きかかえ、暇そうにしているアリスに声をかける。
「すまないが、この子を頼んでもいいか?」
「え? いや、触るの無理なので」
その、どこまでも場違いでいらだたしい態度を無視して、グレンデルは近くの兵士を呼ぶ。
「おい! 来てくれ!」
駆け足で寄ってきた兵士は、涙に顔を濡らしていた。
「グレンデル様……! どうして、こんな……! あまりにも酷い……!」
グレンデルは言葉に唇を噛む。
俺が、弱かったから。
そんな暗い情動が胸に湧き上がるが、今は圧し殺して兵士に指示を出す。
「この子の保護を頼む。それと、人を呼んでアッシュを治療してくれ。彼は無実だった」
「しかし……!」
我慢ならないといった表情の兵士をグレンデルは怒鳴りつける。
すぐに手当をしなければアッシュの命が危ないのだ。
「いいから!」
「はっ……!」
敬礼して去ろうとする兵士をグレンデルは呼び止めた。
「ああ、待ってくれ」
「まだ……何か?」
「そこに魔獣の死体がある。……そしてそれに、誰も近づけないでほしいんだ」
眼前の巨大な焦げ跡を指さしてそう言うグレンデルに、兵士は怪訝な顔をする。
「何故? ……でしょうか?」
「とにかく、頼んだぞ」
「……了解いたしました」
もう一度敬礼をして、兵士は去る。
それを見送るグレンデルに、アリスが声をかけてきた。
「あなた、何か隠してますか?」
いかにもどうでも良さそうな目だったし、声だった。
だがそれは確かに核心をついていた。
「……そんなことはない。アリスちゃんも、今日はもう休んだらどうだ?」
兵士に寄生のことを話さなかったのは、迷いがあったからだ。
戦いの全容は知らないが、それでもアッシュをあそこまで追い詰めるほどの力。
それをただの人間に与える魔獣。
もしかしたら、という気持ちがあった。
間違いなく。
しばらくグレンデルの瞳を覗き込んでいたアリスだが、やがてへらりと笑って背を向けて、ひらひらとその手を振る。
「ま、そうしますよ。残念ながらうちの勇者も帰ってきちゃったんでね、ふて寝でもします」
―――
そして夜、兵士たちの手で封鎖しておいた焦げ目の周囲へと足を運ぶ。
誰にも告げずに、グレンデルはここまで来ていた。
「ダン……? なのか?」
手に持ったカンテラが、無残な焼死体を照らし出す。
それは恐らく魔獣もろとも焼かれたのだろう。
しかし、魔獣の死体に近寄らせないことに気を取られて、今の今まで気が付かなかった。
そしてグレンデルには、それがダンだと何故か分かった。
「…………」
グレンデルは彼と親しかった。
足を失って暇になったからはよく街をぶらついていて、気の良い彼と話したり彼が捕まえた善良な旅人を交えて酒を飲んだりした。
あんたは街の英雄だからなと、よくそう言って貴族のグレンデルに酒を奢ってくれたものだった。
「……すまない」
ダンの死体を前に少しの間黙祷を捧げ、グレンデルは先を急ぐ。
そしてそう歩かない内にそれは見つかった。
焦げ付いた人型の魔獣の死体。
ほぼ炭化してボロクズになった姿から、恐らく即死だったのだと分かる。
それほどに凄まじい損傷が伺えた。
「これが……」
それ以上進んではいけない。
理性が囁く。
アッシュが起きればどうにかして寄生体を殺して、今度こそ支門を破壊するだろう。
そうすればまだ、この街はやり直せるかもしれない。
分かっていた。
百も承知だった。
けれど、グレンデルはどうしても諦められなかった。
「力があれば……」
死体の前で足を止め、俯いて拳を握る。
街の英雄だ、あんたは英雄だ、そんな言葉は何度も何度も聞かされて、しかし街はこんなにもボロボロになってしまった。
そしてそれはグレンデルのせいだ。
英雄のくせに、弱くて弱くて仕方がないグレンデルが悪いのだ。
力がないから誰かに勝手に期待して、失望して、取り返しのつかない過ちを犯すのだ。
グレンデルはもう力がないことには耐えられなかった。
この事件が終わってアッシュたちが去れば、また兵士たちが傷つくことになる。
そして哀れな片輪のグレンデルは、それを見ていることしかできないのだ。
英雄だ英雄だと、虚しい慰めに胸を痛めるしかないのだ。
そんなのは絶対にごめんだった。
死んだほうがマシだ。
覚悟を決めたグレンデルがカンテラを置く。
そして死体に手を伸ばすと、その瞬間グロテスクな蛇……いや、虫のような生物が噛み付いてきた。
「…………!」
とっさにかわし叩き落とすと、その生物は地面の上で弱々しくうねる。
カンテラに照らし出された気色の悪い生白い体を死にかけのように這わせて、グレンデルに近付こうとする。
やけに大きく、呼吸の音が聞こえた。
気がつけば手を伸ばしていた。
鋭い顎を持つ、ちょうど木の枝ほどの太さのしかしそれよりずっと長いアンバランスなその生物。
ずるりと這いずり、グレンデルの左手に纏わりつく。
そして、手首に喰らいついて傷口から体内に侵入した。
「う、あ、ああ……!」
なんとも言えない気持ちの悪い感覚が身体を侵し、徐々に快感へと変わっていく。
それが堪えきれないほどに怖かったグレンデルは、硬く目をつぶって唇を噛み、失敗した時のために剣を抜いて震える手で自らの首に当てた。




