幕間・殺戮者の肖像(1)
ガーレンの王家にはとある言い伝えがあった。
それは古い時代、ハンテルクの大帝が戦乱の時代を勝ち抜いていた時代の話だ。
今も残る戒めの物語だ。
記録によると、その頃のガーレンには哀れな王がいたという。
その王様は呪われていて、不思議な力を持っていた。
人の心を盗み見て、操ることさえもできる力である。
とはいえこれ自体は特別なことではなかった。
なぜならその異能はガーレンの王家に代々受け継がれていたものであったからだ。
ガーレンの血筋は異能を統治に用いて、とても良く国を治めてきた。
けれどその、呪われた王の力はあまりにも強すぎた。
彼の頭の中には、常に何百人もの人間の心が流れ込んでいた。
そしていつしか狂ってしまった。
今ではこの乱心の理由についての記録は失われてしまっている。
だが権力闘争が原因であったという見方が大半を占めていた。
つまり、彼は大人になるまでに、何度か王位の継承を巡った争いに巻き込まれていたのだ。
強大な異能を駆使して問題なく生き延びたが、争いが彼を狂わせてしまった。
政敵たちの醜い欲望や害意を読み取り続けてしまったせいで。
しかし実際のところ、狂気の真相は闇の中である。
ただ一つ確かなことは、やがて王になる頃、彼は周囲の人間の心を弄ぶようになっていたということだ。
他人の心を捻じ曲げて、思い出を忘れさせ、あるいは偽の記憶を植え付けることもあった。
戯れに民を洗脳して、殺し合わせるようなこともあった。
ちらりとでも反逆を思えば心を読まれて殺されてしまうため、狂王に背くことは不可能だった。
だがそんなある時、ガーレンへと大帝の軍が攻め込んできた。
皮肉にも侵略が圧政から国を救った。
けれども簡単に終わる戦いではなかった。
心を読んで操る王には流石の大帝も手を焼いた。
しかしやがては持ち前の軍才で打ち破ってみせた。
狂った王はほとんどの臣下に見放され、わずかな手勢と共に討ち死にをしたと伝わっている。
だがそれはガーレンの王家が絶えたということではない。
王子の一人は早期に狂王を見限り、配下を引き連れて大帝の軍門へと降っていた。
さらに心を操る異能を用いて帝国の戦いを助けていた。
故に許され、帝国の属国として王家の存続が認められたのだ。
そして戦後、跪いた王子を前に、大帝は一つ戒めを与えたという。
『十二歳になるまで、ガーレン王家の子は軟禁しておかなければならない』
たとえば、外に出してはならない。
教育上、必要でない会話をさせてはならない。
親に会わせてはならない。
他にも様々な制約があった。
ガーレンの子は王宮の離れに作られた牢獄の塔に隔離され、十二歳まで徹底して孤独に過ごす。
こうするとまるで人間の心が欠けたような大人になる。
社会性が欠落した、他者の気持ちが分からない王になる。
だが同時に、いつしかガーレンの王家からは心を操る力が消えていった。
少しずつ力は弱まって、気づけば心を操る王は現れなくなった。
無論これは偶然ではない。
言い伝えによると、大帝はアトスの神……月の瞳から啓示を受け、ガーレンの王家から呪いを消すために戒めを与えたのだという。
世を乱す、あまりにも危険な、人の心を狂わせる呪いを取り去るために。
ガーレンの呪われた王家を救うために。
だがそれから長い時が過ぎ、心を操る力を失った今でも、ガーレンの王家には戒めが残っている。
いくらか制約が緩められていたものの、因習はなおも続いていた。
当代の一の魔王……アルトリウス=ガーレンについても例外ではなかった。
彼もまた、牢獄にて幼少期を過ごした。
―――
自分のことは『余』と呼ぶ。
他人のことは『そなた』と呼ぶ。
それは自分が、いずれ王となる者であるからだという。
アルトリウスはそう教えられた。
しかしあまり分からなかった。
彼はまともに人と会話をしたことがないから、なにも実感することができなかった。
王とはなにかという知識は教えられたが、必要性や存在意義については理解できなかった。
物心ついた時から、ただ知識だけを詰め込まれていた彼には理解の及ばないことである。
農民や狩人などの不可欠な役割とは違い、王などいなくても人は生きていけると思った。
だがそれでも毎日、王になるための教育は続いていた。
全身を隠すように長い黒ローブを着て、顔まで布で覆った教育者たちがそれを行った。
アルトリウスが何を話しかけても彼らは答えない。
基本的に、授業は教本による自習が主となっていた。
教育上必要な質問であれば答えるが、それでも滅多に返事をすることはなかった。
大抵は答えに繋がるような教本のページを開いて見せてくれるだけだ。
さらに、もし口を開いたとしても、徹底的に感情を削ぎ落とした、無機質な声で一方的に語るのみである。
王家に仕えるために、教育を担う学者はそうした話し方の訓練を積んでいるのだ。
やがて授業が終われば彼らは帰っていく。
二度と姿を見せることはない。
食事などは扉の隙間から無言で差し出される。
他に人と関わる機会といえば、日に一度の部屋の清掃と、塔の内部での剣の訓練のみである。
それをするのは教育者たちと同じように顔や姿を隠した侍従たちや師範である。
だが当然、彼らもアルトリウスになにかを話したことはなかった。
そのような環境で、彼は七歳まで育っていた。
あと三年ほどそうした生活が続く見込みであった。
かつては十二歳まで続く決まりだったが、今は十歳まででいいことになっている。
とはいえ当の本人はそんなことを知らない。
教育上必要でないことは教えられていない。
ただ孤独の中で、徹底した隔離の中で彼は育てられていた。
塔には常に側仕えの者たちが控えていたが、彼らは決してアルトリウスに存在を悟らせることはなかった。
なのでいつも彼は一人でいると思っていた。
臣下の中にはアルトリウスの境遇を哀れむ者もいたものの、強大な帝国が課したルールを破れば何をされるか分からない。
言い伝えの 『心を操る呪い』……などという物を根拠とした下らないしきたりとはいえ、表立って撤廃を求めることは不可能である。
この戒めはすでに異能を封じるためではなく、属国のガーレンが帝国への屈服を証明するために続けられているからだ。
つまりガーレンという弱い国は、帝国に対して服従を示し続けなければ存在することさえできなかったのである。
だがそれはともかく、未来の王……アルトリウスの人格も抑圧の中で歪みつつあった。
彼は本来は人懐こい子供で、かつては教育者や侍従に何度も話しかけていた。
ほんの幼い頃の、一時期だけの話ではあるが。
もちろん今では全てが無駄であると悟り、全く口を開かずに一日を終えることも珍しくない。
瞳は虚ろで、いつも下を向いていて、かすれた声は小さく潜められている。
さらに精神が不安定で、物事に集中することができず、夜を怖がったり急な不安に襲われてパニックを起こすこともあった。
これらはおおむね、今までのガーレンの王家の子供に共通した症状である。
だがこれも今だけで、もう少し育てば何事にも無関心で、共感性が低く、無気力で社会性のない、抜け殻のような王ができあがるはずだった。
それを待つために、帝国は十歳という期限を維持してきた。
しかし彼はそうならなかった。
ある昼下り、鉄格子の窓の隙間から、ちぎった紙がいくつも入り込んできたからだ。
高い塔の部屋へとどうやってそれを届けたのかは知らない。
だがこれが全ての始まりだった。
彼は最初、投げ込まれた紙に少しだけ驚いた。
でもおそるおそる、撒き散らされた紙切れに手を伸ばした。
それらはどうやら、小さく折りたたまれた手紙であるとアルトリウスは気がつく。
けれどもちろん、彼は手紙などという概念に馴染みがなかった。
だから紙に書かれた文字が、自分に伝える言葉であると理解したのは、小さな手紙を三度読み直したあとだった。
それらの紙には全て『こんにちは』と書かれていた。
さらに、横には笑顔の女の子の絵が描かれている。
ちゃんと鉄格子の中に入るか分からなかったから、同じ内容の手紙を沢山作ったのだろう。
幼い字でそう書かれていた。
アルトリウスは一度だけ部屋の扉に目を向けて、人の気配がしないことを確認し、いくつかの紙の裏に返事を書いて窓から落とした。
でも一枚だけベッドに隠して宝物にした。
そして、その日から奇妙な文通が始まった。
―――
謎の手紙は、それから毎日アルトリウスの元に届いた。
最初は紙切れが投げ込まれるだけだったが、やがて鉄格子の前に紙が吊り下げられるようになった。
どうやら、手紙の差出人は屋根裏から屋根の上へとによじ登っているようだった。
アルトリウスは心配をしたが、それ以上に手紙を読むのを楽しみにしていた。
手紙はいつも楽しい内容で、冗談が書いてあったりして、なにより表情豊かな女の子の絵が添えられていた。
決して上手い絵ではなかったが、その手紙で生まれて初めて笑顔というものを見た。
そんな表情の存在さえ知らなかったが、手紙を見ていると不思議と同じ顔になるのを感じていた。
読んだら裏に返事を書いて、手紙で指示されたように紙を投げる。
紙を教えられたように折り曲げてから投げると、窓の隙間から遠くまで飛んでいくのだ。
そうしてずっと文通を続けていた。
だが彼は、少しすると手紙の主に会いたいと思い始めていた。
寝ても覚めてもそのことばかり考えるようになった。
手紙につづられていた、外の世界へと思いを馳せて過ごすことが増えた。
そしてまだ幼いアルトリウスは、やがてその気持ちを抑えることができなくなった。
文通を始めて一月が過ぎた頃、彼はついに部屋から出してくれるように願った。
部屋を清掃しに来た侍従に対して、外に出たいと口にしたのだ。
「余は外に出たい」
口に出した声は本当に小さかった。
勇気を振り絞って、アルトリウスは震える声で言った。
返事はなかったが諦めなかった。
次は授業をしに来た学者に頼んだ。
食事を持ってきた召使いに、扉の向こうから懇願した。
しかし一度も、誰も、アルトリウスに答えてはくれなかった。
だから少しずつ不満を覚えるようになった。
生まれて初めて、自分を閉じ込めている人々の異常性に気がついた。
徐々に怒りや憎しみが募っていき、それが爆発したのは二ヶ月後のある日……剣術を教わっていた時だった。
「外に出たい」
いつものように彼はそう言った。
塔の中に設けられた広場での訓練のあとだった。
剣術の師範は去って、今は侍従たちがアルトリウスを部屋に連れ戻そうとしている。
そして、やはり外に出せという言葉には誰も答えない。
目の前にいる男も、手に持った木剣を渡せと言うように黙って手を差し伸べているだけだ。
「…………」
アルトリウスは強く剣を握りしめて、もう一度強い口調で言った。
「……ここから出せ。命令だぞ」
けれどやはり返事はない。
無視されていることを認識して、頭が真っ白になるような怒りに支配される。
なぜ自分だけがこんな目に遭わなくてはならないのか。
叫び声を上げて侍従に襲いかかった。
周囲に控えていた者たちが止めようとするが、突然のことで対応しきれない。
目の前の侍従を思いっきり剣で叩く。
そうして暴れ続けた。
もちろんやがて取り押さえられたが、それでも怒りは収まらなかった。
剣を取り上げられながらも彼は叫ぶ。
「出せ! 出せ、出せ!! そなたらはなんなんだ!! 許さないからな!! 余が……余が王になったら……全員処刑してやる!! 反逆罪で殺してやるからな!!」
泣きながら叫んで、止めようとする侍従を殴ったり蹴ったりした。
王家の子であるアルトリウスを傷つけないために、侍従たちは強く押さえつけることはできなかった。
木剣を取り上げるのが精一杯で、ある程度は暴力を身に受けるしかなかった。
しかしそうしていると、不意にアルトリウスの頭の中へと声が聞こえてきた。
『――――――――』
意味をなさない、奇妙な響きの声だった。
頭の中に直接聞こえてくるような声だ。
びくりと身を震わせて目を見開く。
届いた声は雑音混じりで、あやふやで、意味が通る内容を含んでいない。
しかし感情は伝わった。
その声が聞こえると、悲しみや恐怖がアルトリウスの心に直接焼きつけられたような気がした。
「…………」
呆然として、何も言えずに立ち尽くす。
それから侍従たちへと目を向けた。
一度たりとも声を出したことがなかった彼らは、よく見れば怯えているように見えた。
アルトリウスを遠巻きにしていて、中には頭を庇うような姿勢で倒れている者もいる。
彼らの一部には、同じくらいの年頃の子供がいることにも気づいた。
その子は苦しそうに腹を押さえていた。
それを見て、唇を震わせて、唖然とした。
目が覚めたような気分だった。
「…………すまない」
気づけば、アルトリウスはそんな言葉を漏らしている。
今の声が侍従たちの心だと直感したからだ。
彼らは怯えて、悲しんでいる。
そしてアルトリウスは、怯えたり悲しんだりするような仕事をしたいとは思わない。
なら彼らも自分と同じだった。
彼らはやりたくてこんなことをしている訳ではない。
なのに、アルトリウスは酷く当たり散らしてしまった。
彼らを悪者だと決めつけていた。
暴れたり、蹴ったりした自分に対しても……決して傷をつけないようにじっと耐えてくれていたのに。
彼らが本当に悪人なら、きっとしたたかに反撃されていたはずだ。
「余は……自分のことばかり、考えていた。もう……外に出たいなんて、言わない」
そう言って泣いた。
彼らにも事情があるということに気がつくと、どうしてか心は悲しい気持ちでいっばいになっていた。
ただ世の中にはとても意地の悪いなにかがいて、みんなが苦しむような世界にしているのだと思った。
「処刑もしない。余が、王になったら……そなたらが、こんな仕事を、しなくていいようにする。約束する。きっと、約束する……すまない……」
声を上げて泣きながら、アルトリウスはもう一度だけ謝る。
「…………叩いてごめんなさい」
それでも、誰も何も返事はしなかった。
誰かが無言で木剣を元の場所に戻した。
そして彼らは広間から自室へとアルトリウスを連れ出してゆく。
―――
それからまた同じような日々が続いた。
だがアルトリウスの心の中はすっかり変わっていた。
彼は元の明るい人格を取り戻し始めていた。
学者や召使いたち、あるいは剣の師範に明るく声をかけるようになっていた。
それは感謝だったり、時には冗談であったりした。
ただいつも笑って話しかけていた。
もちろん返事が返ってくることはなかったが、アルトリウスはそれでいいと思っていた。
仕事をこなして、世話をしてくれている者たちに感謝を伝えるべきだと感じていたからだ。
それに、彼らが普通の心を持った人間であると分かったのも大きな理由だ。
特に叩いてしまった、同じ歳くらいの子供にはよく話しかけた。
そうして一方的に話して、いつも通りの日々を過ごし、鉄格子の向こうの誰かと文通を楽しんでいた。
だがまたある時、彼の日常に変化が訪れた。
鉄の扉の向こうから、誰かが話しかけてきた。
「ねぇ、起きてる? あのね、私ね、あなたがあんまり面白いから、うっかり会いに来ちゃったよ」
元気な少女の声が聞こえた。
聞いたことのない声だ。
というより、感情を含んだ声を聞いたこと自体初めてだった。
人との関わりが少なすぎて、同い年の少女の声……ということすら理解できなかった。
ただただ素敵で楽しい声だと思って、アルトリウスはベッドから飛び起きる。
そして扉の前に駆け寄った。
「誰?」
「いつもお手紙を書いてる人」
そしてドアの真ん中あたりについていた小さな窓が開いた。
これは食事を入れるための窓だ。
アルトリウスはしゃがんで、窓を通じて外を見る。
すると左手で窓を開いて、にこにこ笑った女の子が見つめてきていた。
水色の髪を長く伸ばした、とてもかわいらしい少女だった。
緑色の、きらきらした瞳でアルトリウスを見ていた。
彼女はきれいな白いドレスを着ていて、授業で教わった『貴族』の絵にそっくりだと思う。
こんな風に人の顔をちゃんと見たのは初めてだった。
「よく来れたね、ここに」
アルトリウスは目を丸くしながら、ようやくそれだけ口にした。
だって彼は脱走をしようと考えたことがあったのだ。
それを諦めたのは警備が厳重だと分かったからだ。
なのに女の子は、窓の向こうでいかにも気楽な様子で過ごしている。
「すごいでしょ? ほら、私ね、実はニンジャだからさ」
そう言って得意げにしている。
どうやら貴族ではなくニンジャであるらしい。
しかしアルトリウスはそれを知らなかったから首を傾げる。
「ニンジャってなに?」
「えっと、部屋に忍び込んでね、巻物とか盗む人だったかな」
巻物? 全く理解が追いつかない。
少女はやっぱり楽しそうに笑っている。
そして、彼女は適当に冗談を言っているだけだった。
でもアルトリウスは人と話した経験がなかったので、ひたすらに真に受けるしかない。
「巻物? それを取りに来たの?」
「ううん。お話をしに来たの」
「じゃあニンジャじゃないと思う」
「ほんとだねぇ。なら私はヌケニンだね。……えへへ」
ヌケニンと言って、少女は楽しそうに笑う。
その笑顔がとても素敵なので、アルトリウスはもっと話したいと思った。
でも話すことがとっさには思い浮かばなかったから、彼女について聞いてみる。
「君の名前は?」
手紙のやり取りの中で、『そなた』ではなく『キミ』と呼んでくれるように頼まれていた。
そして手紙の中では、差出人がバレないようにするために名前を教えてくれていなかった。
だからそう言って尋ねると、少女はやっぱり笑って答えてくれる。
「セイラ。セイラ=エスラルドね」
エスラルドの家名は、国の歴史を学んでいるからアルトリウスも知っている。
ガーレンの王家に仕える貴族の中でもかなり古い家系だ。
でもエスラルドの当主が、狂王に従って帝国に背いたために序列を大きく落とされていた。
かつては大貴族だったというが、今は真ん中くらいの地位にいると認識している。
しかしそのあたりは別にどうでもよかったので、今度は自分の名前を名乗ることにした。
「余は……アルトリウスだ。アルトリウス=ガーレンだ」
またセイラは笑ってくれると思った。
でもなぜかこわばった顔になってしまう。
当然、アルトリウスにとっては初めて見る表情なのだが、なんとなく気まずそうにしているのは分かった。
不思議に思っていると、彼女はおずおずと話を切り出す。
「…………あの、あのね、これまでどおり話してもいい?」
一瞬、何を言いたいのか理解できなかった。
でもしばらくして気がつく。
アルトリウスは王家の人間で、セイラは貴族の娘でしかないから、身分の差を気にしているのだと。
王という役割に対する実感が浅いので、すぐに思い当たることはできなかった。
「いいよ。ニンジャってきっと、王様よりすごいから」
「そうなの?」
セイラは目を丸くする。
アルトリウスはこれも初めて見る表情だと思った。
そして心から頷いてみせる。
「うん。だって、余はここから出られないんだ。……なら、ニンジャの方がすごいよ、きっと」
将来は王になるアルトリウスもこの塔から出ることはできない。
なのにニンジャは好き勝手に出たり入ったりできるのだ。
それなら絶対にニンジャが上だとアルトリウスは思った。
ここから出られるなら、アルトリウスも王ではなくニンジャになりたい。
本気でそう思っているとセイラは笑う。
「うーん、でも私ヌケニンなんだけどね」
「ヌケニンってなに?」
「巻物を盗まないニンジャ」
ならなんのために建物に忍び込むのだろうかとアルトリウスは思う。
お話をしに来てくれたと彼女は言っていたから、そういうものなのだろうかと結論づけた。
そして別のことについて話したいと思っていると、彼女が不意に声を上げる。
「あ、私そろそろ行かないと」
「えっ……もう帰るの?」
思わず情けない声が出た。
口をあんぐりと開けてセイラを見る。
彼女はちょっと悲しそうに笑った。
「そろそろニンジャの集会があるの」
「そっか……」
よく分からないが、なにか用事があるというのは分かった。
がっかりして俯くと、セイラが窓の向こうから手を伸ばしてきた。
そしてアルトリウスの手を握って笑う。
「またね」
またね、とはいつか来てくれるということだろう。
アルトリウスは反射的に聞き返す。
「また来てくれるのか?」
「うん。お手紙も書くよ」
「本当に? すごく嬉しい。ありがとう」
心から嬉しいと思ったから感謝した。
するとセイラは一瞬だけ目を見開いて、また笑顔に戻る。
そしてはにかんだまま走り去っていった。
「ばいばい!」
最後に手を振って彼女はいなくなった。
でもアルトリウスはしばらく窓にかじりついていた。
繋いでいた手を握ってみたり、開いたりしながらずっとセイラのことを考えていた。
まだぬくもりが、手のひらにずっと残っている。
―――
それからというものの、アルトリウスは一日のほとんどをセイラのことを考えて過ごしていた。
彼女のことを思い出すこと、そして手紙を読むことが生きがいだった。
最近は紙の裏に返事を書いて投げるのがもったいなくて、筆記帳を破いて返事の手紙を作るようになった。
そしてセイラの手紙は保存して読み返したりしている。
他には、次に彼女と会ったら何を話そうかということを考える。
そんな日々の中で、セイラは約束通り会いに来てくれることがあった。
ほんの少しの時間だが、窓を通じて手をつないだりして話をする。
今日もそんな素敵な日だった。
「私ね、未来が見えるんだ」
「……ほんとに?」
彼女は冗談ばかり言う、ということにアルトリウスは気づき始めていた。
しかし今度は彼女も、冗談とは思えないような真面目な顔で頷いてきた。
「ほんとに。あなたが悪い王様になる未来を見たの。だから会いに来た」
「余はそんな風にはならない」
戸惑ってそう答えた。
悪い王様がどんな王様なのかは分からないけれど、人を悲しませたり苦しませたりはしたくないと感じる。
するとセイラはあっけらかんと笑って同意した。
「そうだね。知ってるよ」
「……あ、からかってる?」
ちょっとムッとして見つめると、セイラはやはり楽しそうに笑う。
そうしてずっと楽しく話していた。
「私のお兄ちゃんね、ミケリセンっていうんだけど。すごく強くて、世界一優しいの。この前なんかね……」
セイラの家族の話や外の話を沢山聞くことができた。
アルトリウスは夢中で聞いていたし、セイラも少しも黙らず話をしていた。
だがそのせいで、彼女は見回りに来た兵士に見つかってしまう。
足音がして、はっとした時には手遅れだった。
「……なにをしている?」
アルトリウスは初めて侍従たちの声を聞いた。
いや、正確には何度か聞いたことはあったかもしれない。
しかし今のは感情がある……怒りに満ちた声だったから、初めて聞いたような錯覚に陥っていた。
「っ……」
セイラが声にならない声を上げる。
その直後、窓の向こうで彼女は侍従たちに捕まった。
アルトリウスは泣きそうになりながら叫ぶ。
自分に会いに来ることが許されないことだとは分かっていたものの、想像を遥かに超える悪い結果に繋がってしまったのだと後悔をしていた。
「やめろ! 余が悪いんだ!! 彼女にひどいことをするな!!」
だが誰も聞く耳を持たない。
全ては扉の向こうで終わってしまって、アルトリウスには何もできなかった。
泣きながら扉を叩いたが、そんなことにはなんの意味もない。
セイラは乱暴にどこかへと連れ去られていった。
だから彼は一人で、ベッドに顔を埋めて泣いていた。
―――
ぼんやりとベッドに横たわっていると、やがて部屋のドアが開いた。
そして黒い服を着た侍従が一人入ってきて、ベッドの前に跪いて語りかけてくる。
「……外にお連れいたします」
言葉少なにそう言って、彼はじっと沈黙を守っていた。
アルトリウスは飛び起きて彼を問い詰める。
「セイラはどうなった?」
薄布で顔を隠しているので表情はあまり分からない。
彼は俯いて、もう一度同じ言葉を口にした。
「外へお連れいたします」
外へ出られるということだ。
だが心躍るような気分はなかった。
ため息を吐いて、怒りを噛み殺しながら男に答える。
彼らに怒りをぶつけても意味がないことは知っていたので。
「……分かった」
それから、部屋の外には何人も侍従たちがいた。
アルトリウスを囲むようにして歩いていく。
塔の外へと進んでいく。
外はもう夕暮れのようだった。
扉を開いて、外に出た時……夕日のあまりの眩しさに目を細める。
彼にはそれも初めての経験だった。
「…………」
黙って進み続ける。
外の世界は明るくて、見慣れない……そして美しいものが沢山ある。
でも今は心を奪われることもできず、導かれるままに進んでいく。
するとやがて城の中に入り、アルトリウスは玉座の間に連れてこられた。
薄暗い部屋の、とても豪華な椅子に立っていた男性がアルトリウスをじっと見つめる。
「これが私の世継ぎか」
つまらなさそうな、興味がなさそうな顔をしていた。
世継ぎ、という言葉からこの男が父……つまり今のガーレンの王であると悟る。
でも彼は虚ろな顔をしていて、何かに興味があるようには見えなかった。
ただぼんやりとアルトリウスを見つめていた。
「……王子よ、恐れ多くも、王の御前でございます」
そこで、隣にいた侍従がそう言って跪いた。
アルトリウスが何も言えずにいると、彼は低く低く頭を下げる。
はっとして、自分が何をすべきであるのかを理解する。
同じように跪いた。
すると、静まり返った玉座の間で父王が呟きを漏らす。
「そうか。礼儀はまだか。まぁ、七歳だからな……お前は十になるまで、ここに来る予定ではなかったのだし」
ひたすらに退屈そうな声でそう言ったあと、何かが壊れるような音がした。
アルトリウスはびくりと身を震わせて顔を上げる
なにがあったのかと見てみれば、王が手元にあったガラス細工を床に投げて壊したのだと分かった。
「だが呼ばれた。その理由が分かるか? お前は帝国に……皇帝陛下に背いたのだ。これがこの国に、どのような災いを招くか、お前は考えたことがあるか?」
それから、とつとつと王は語り始める。
話によるともう全てバレてしまっているようだった。
文通のこと、何度も会っていたこと、全て筒抜けに調べがついてしまっていた。
そしてこれは、帝国が定めたガーレンへの戒めを破る行為だったのだと王は言った。
「いいか、この件について私は知らぬ。死ぬなら、責任があるものが死ね。それはアルトリウス……お前もだ。お前の首で足りるのなら私は差し出すぞ。絶対に私を巻き込むなよ」
その言葉に愕然とした。
王という言葉についてなんの自覚も実感も持っていなかったからこそ、初めて実際に見た王の姿の惨めさに言葉を失った。
王とは、帝国に怯えて生きるだけの存在なのか。
自分がこんなものになるために閉じ込められていたのかと思うとどうにかなりそうだった。
「……恐れながら、王よ」
そこで、ふと聞こえた声によって現実へと引き戻される。
言葉を発したのは、侍従たちの一人……いや、よく見れば剣術の師範の男だ。
彼もアルトリウスを連れ出す人々の中に混ざっていたらしい。
格好が同じだから分からなかったが、まじまじと見て、体格の違いでやっと気がついた。
ともかく、平伏した彼の言葉に王が答える。
「お前は誰だったか?」
「シレンです。シレン=エスラルドです」
そう言うと、王は血相を変えて立ち上がった。
「貴様の娘のせいかっ!!」
戒めが破られたのは、ということだ。
また、手元にあった装飾品を床に叩きつける。
柔らかな絨毯にぶつかって、今度は壊れることはなかった。
静まり返った部屋に虚しく転がる。
けれど、怯まずにシレンは言葉を続けた。
「申し訳ありません。ですが、王のご子息は聡明で……なにより、優しい心を持っておられます。私は……この方を、どうか真っ直ぐにお育ていただきたく存じます」
彼に続くように、黒い服の侍従たちの中から何人か進み出てきた。
事情聴取を受けていたのか、彼らは玉座の間にも何人かいた。
シレンのそばに集まって、低く低く頭を下げた。
初めて聞く、人間らしい声で次々に王へと願いを口にする。
「私からも申し上げます」
「王よ、どうか……」
アルトリウスは知らないことであるが、この侍従たちの中には名家の出身の貴族たちが多くいた。
それは軟禁を解かれた王族が、侍従たちを恨んで惨殺するようなことが多く起こっていたからだ。
故に容易には手を出せない名家の出身の者を含めることで悲劇を防ごうとする習慣があった。
これは義のある貴族たちが、かつて民を守るために自主的に始めた制度だった。
とはいえ出仕するのは三男や四男などの厄介者ばかりで、子供さえ混じっていたが……こういった事情もあって王は少しだけ圧されていた。
あとはなにより、臣下の者たちがここまで束になって自分に何かを言ってくる……という経験がこの王にはなかったのだ。
彼はいつも、なにもせずに座っているだけだったから。
「だ、だが……帝国の方々に知られればどうなる? この国は終わりだぞ」
王は怯えきっていたが、それは杞憂というほどに現実感のない恐怖ではない。
なぜなら今の皇帝はとても残忍で、なおかつ愚かな男だからだ。
理由を与えてしまえば何をしてきてもおかしくない。
何度も帝都に呼ばれ、恐怖を刻み込まれていた王にとってはそうとしか思えなかった。
しかし、それでもシレンたちは引き下がらない。
「我々が秘密を守ってみせます。もう帝国の目付役もおりませぬ。十分に可能です」
かつて、十二歳まで軟禁を続けていた頃は帝国から監視役が送られてきていた。
しかし今はそれもない。
王家から心を操る力が消えたことも合わせれば、もうこのしきたりは形骸化していると言ってもいい。
帝国を恐れて律儀に守り続けてはいたが、なくなるのも時間の問題だったのだ。
形だけ守って、従っているフリをして、アルトリウスが塔で暮らすようにすれば帝国には分からないはずだ。
「いや、しかし……」
なおも王は進言を退けようとする。
しかしそこで侍従たち以外の、王のそばに控えていた家臣たちも加わった。
彼らは侍従たちや学者から王子について話を聞いていて、日頃から哀れに思っていたのだ。
それと、なにより期待していた。
ずっと抜け殻のような、腑抜けた王を背負ってきたガーレンが、何か変わるのではないかと。
「ご英断を」
「これは良いきっかけです。今こそガーレンの誇りを取り戻しましょう」
王はしばらく黙り込んでいた。
けれど、長い長い沈黙のあとで呻くように言葉を返した。
「…………もういい、勝手にしろ。べ、別に私は、そんなこと……どうだってよいのだ……もう知らぬ」
すると、平伏していた家臣たちは顔を上げた。
そして口々に王に感謝を告げて、何度も何度も頭を下げた。
何が起こったのかすら理解できずにアルトリウスが呆然としていると、玉座の間の奥からセイラが走ってくる。
「やったーー!」
それを見て、ひれ伏していたシレンが火のような勢いで怒鳴りつけた。
「こらっ!! 無礼だぞセイラ!! 王の御前だ!!」
だが当の本人……王は彼女には目もくれず、不機嫌そうな顔でそそくさとどこかへ消えていった。
続こうとする従者も払いのけて大股で歩き去っていく。
シレンはその背中に深々と頭を下げ直したあと、娘を捕まえてアルトリウスの前に改めて跪いた。
顔布を取り去った彼は、とても優しそうな顔をした三十ほどの男だった。
「王子よ。度々、娘が伺っていたようですが……なにかご無礼などありませんでしたか?」
「伺っていたもなにも、そなたが呼んだのだろう」
アルトリウスはそう言った。
彼女が監視をかいくぐれたのは、ニンジャであったからではなく、塔で剣術の師範をつとめるシレンがいたからだと気がついていた。
すると彼は気まずそうに笑う。
「ああ、いや……これは失礼を。はは」
「よい。余は、感謝しているのだ」
なぜシレンがそこまでしてくれたのかは分からない。
でも感謝しているのは事実だった。
セイラの手紙が届かなければ、彼女が会いに来てくれなければ、どれだけ暗い毎日を送ることになっていたか。
と、考えていると背後で声がする。
小さな声だった。
「…………あの、アルトリウス様」
怯えたような、期待を持っているような、どこかちぐはぐな気配の、震える声だった。
声を聞いて、跪いたままだったアルトリウスは立ち上がる。
そして振り向くと、そこには一人の少年がひれ伏していた。
黒い服を着ているので、彼はおそらく侍従の一人だろう。
同じくらいの年齢だと分かる。
「なんだ?」
アルトリウスはじっと見つめて語りかけた。
すると彼は顔布をとって、目に涙を浮かべていた。
それでふと思い当たった。
「……すまない。余は、そなたを叩いてしまったはずだ」
剣術の訓練で暴れた時、近くにいた子供の侍従と彼の背格好が似ていたから。
その謝罪を聞いて、少年はぼろぼろと涙をこぼして泣き始めた。
「気になさらないで下さい。そんなこと。それより私は……私はただ……あなたと、優しいあなたと、ずっと、お話をしてみたかった…………」
彼は感極まったように泣いている。
アルトリウスは笑って言葉を返した。
「そうか。名前は?」
「プラノです。名前は、プラノといいます、アルトリウス様……」
「なら、プラノ。これからもっと話そう。余は知らないことばかりだから、なんでも話してくれ」
しかし話してくれと言ったのに、彼は声も上げずに頭を床にこすりつけてしまう。
それがおかしくてみんな笑った。
いつの間にかシレンの手から逃げて、セイラも一緒に笑っている。
だから今日は、アルトリウスにとって幸せな日だった。




