二十三話・彼は普通(3)
結局帰るのは勘弁してやって、アリスはそのまましばらく市場で遊んだ。
不思議とよそ者を受け入れてくれる店しかなかった。
事前にどうにかして調べたり頼んだりしていて、そういう店だけを選んで立ち寄ったのかもしれない。
そうして市場を楽しんだあと、彼はまたどこかへと歩き始める。
街はまだ夕暮れではないが、昼の盛りは過ぎていた。
「次はどこに行くんですか?」
色々と買えて、すっかり機嫌を直していたアリスは聞く。
すると彼は答えた。
「公園に行く」
前にアリスがシーソーを喜んだからだろうか。
ともかく、彼は公園を目指しているようだった。
そんな答えを聞いて思わず笑う。
「ちょっと。公園なんて行ってなにするんですか?」
「たくさん遊具がある。それで遊べばいい。この国の子どもたちが一番好きな場所だと聞いた」
「私、子供じゃないんですけど」
なんて言いながら歩いていく。
例の公園は中々遠く、坂道を歩くようなこともあった。
だから乗るために召喚獣を出そうとすると、アッシュに止められてしまう。
「住民を刺激するな」
「……自分は刺激しまくってるくせに、えらっそうに」
神様のフリをして、カースブリンクに内乱の火をつけて回っているような人間だ。
詳しく聞いたことはなかったが、最近の街の様子を見ればそれくらいは簡単に分かる。
すると彼はバツが悪そうに咳払いをする。
「まぁな」
仕方がないので自分の足で歩いて行く。
長く緩やかな坂道を登っていく。
こうしていると、やがて公園の入り口が目に入った。
細い階段の先に開けた場所があるのが分かる。
しかしその階段が長い。
「……もうだめです。一歩も歩けないです」
アリスが大げさに言うと、彼は困ったような顔で答えた。
「階段を登る間だけは、獣を出していい。このあたりはもう人がいないようだ」
今日は祭りもあるから、こちらにはあまり人がいないと考えたようだ。
実際、長い階段には人影の一つもない。
なのでアリスは影の馬を出す。
背に乗って一息に階段を駆け上がっていった。
そして降りたあと公園を見て、思わず感嘆の息を漏らす。
「これは確かに。少し面白そうですね」
広い広い、芝が整えられた地面が広がっている。
そこには様々な遊具やスポーツに使うと思しきコートや備品、あとはおもちゃの弓や剣を使える場所があったりする。
大きな砂場や滑り台などもあった。
なにに使うかわからない、大がかりな設備もいくつか見える。
「シーソーをするか?」
横に追いついてきたアッシュがそんなことを言う。
アリスは呆れて鼻を鳴らす。
「一生分やったのでいいです。どうです? 弓で遊びましょうよ」
実はアリスは弓を使ったことがない。
だから目の前にある、弓を射ることができる場所で遊んでみたいと思った。
アッシュはそれに頷く。
「ああ」
二人で連れ立って歩いていく。
芝の中に土の地面の細長いスペースがある。
そこでは十メートル程度離れた位置にある的を、先を丸めた矢で撃ち抜くことができるようだった。
付き添いの大人も一緒に遊ぶことを想定しているのか、アリスでも使えそうなサイズの弓矢も置いてあった。
さっそく弓を手にとって、アッシュが矢を放っていた姿を思い出しながら構える。
あまり強い弓ではなくて、戦士に比べて非力なアリスでも十分に引き絞ることができた。
多分これはおもちゃなのだろう。
しかし肝心の矢が全く飛ばない。
引いた弦を戻すと、つがえていた矢がぽとりと足元に落ちる。
「…………」
これを三度ほど繰り返して、ぼんやりと空を見ているアッシュに目を向けた。
なぜ放置しているのかという非難を込めて、じとりとした半目で見つめる。
すると彼はすぐに視線に気づいた。
少し近寄って横で口出しを始める。
「まず、矢の尻がきちんと弦に当たるようにしないと飛ばない」
「???」
「いや、つまり……弦が戻る力で飛んでいるから……」
彼は根気強く説明してくれた。
あまり面倒くさがることもなく色々と教えてくれる。
その甲斐もあって、ほどなくして矢は弓から放たれるようになった。
「あ、やった。飛んだ!」
アリスは素直に嬉しかった。
弓矢を使うことを楽しいと感じる。
見当違いなところに飛んだが、矢を飛ばすのには不思議な爽快感がある。
そんな姿を見て、アッシュがふと気になった様子で問いかけてきた。
「お前、魔術を使えるくせに弓矢を扱ったことがないのか?」
聖職者や魔術師はしばしば弓矢の手ほどきを受けることがある。
攻撃魔術の狙いの精度を上げるためだ。
人間の魔力では使える魔術の回数が限られるため、魔力が切れたら狙撃訓練……狙い澄ますための訓練を弓矢や投げナイフで代用するのだ。
全く同じとはいかないが、ある程度のノウハウや感覚は共有することができるのだという。
しかしアリスはその経験がなかった。
「私なんてただの実験体ですよ。そんな訓練受けてませんって」
「なるほど、そういうものか」
アッシュは納得したようだった。
別に哀れんだりしている様子はない。
だからアリスは次の矢を手に取りながら、もう一つ聞いてみる。
「あの、的にちゃんと当てるコツってありますか?」
「コツ以前に、姿勢と構えが悪すぎる」
「……褒めて伸ばしません?」
それから、また横でぽつぽつと口を出し始めた。
しかしさっぱり分からない。
なんだかまどろっこしくなって、彼の手を引いて間近へと引き寄せる。
「…………?」
怪訝そうな目で見てきた。
その目を見返しながらアリスは言う。
「全然分からないので、教えてくださいよ。手とり足取り。親切にね」
「いいよ」
あっさりと承諾した。
彼はアリスの後ろに立って、弓の扱いについて教えてくれるようだった。
しかし体に触れようとしたところでその手が止まる。
「嫌なことがあったら言え。すぐにやめる」
触れられたくはないのではないかと、彼なりに考慮したのかもしれない。
どうでも良かったので無視すると指導が始まる。
「まず体が傾いてる。あと、棒立ちになっているから足を開け。顔も弓に近すぎて危ない。それから……」
言いながら背中を小突いたり、軽く足を蹴って開かせたり、手で顎を押してきたりする。
無造作な教え方にちょっとうんざりしながらも黙って従う。
そしてようやく弓を引くところまで行けた。
「まっすぐ引けばまっすぐに飛ぶ。ゆっくり息を整えながらやれ」
手に手を添えて弓矢を引いてくれた。
アリスは返事も忘れて弦を引き絞っていく。
だが勢いをつけて矢を放とうとしたところで、アッシュの声が制止してくる。
「矢を放つ時、手は遅くてもいい。勢いはそれほど重要ではない」
限界まで引き絞った弦をさっと放して、より早く弦が戻るようにすべきだと……アリスはそう考えていた。
しかしどうも違うらしい。
大事なのはまっすぐに戻るようにすることで、弦が変に揺れたり震えたりしないようにすべきなのだという。
だから最初は慎重に、急がずに手を離すそうだ。
「丁寧に指をほどくのを意識してみろ」
アリスはゆっくりと、おかしな力をかけないように、弦を引いていた指を離していく。
すると思っていたよりずっと速く矢が放たれた。
しかもそれが的の真ん中近くに当たるものだから、アリスはつい歓声を上げてしまう。
「やった! 見ました今の?!」
アッシュは一歩下がってアリスから離れる。
そして小さく頷いた。
「ああ。筋がいいよ、お前は」
お世辞だろうか、とは思ったが素直に受け取ることにする。
アリスは胸を張って弓をもとの場所に置いた。
「私は天才かもしれません」
「でも、もうやめるのか?」
弓を戻したからだろう。
アッシュがそんなことを聞いてきた。
アリスは深く頷いてみせる。
「外して嫌な思いしたくないので。死ぬまで弓には触りませんよ」
手伝いがあったとはいえ、まぐれだということはなんとなく分かっていた。
なのでまぐれ当たりの最高の気分のままやめることを選んだ。
だってなにしろ真ん中に当てたのだ。
これで次はずしたら気分が台無しだった。
「なるほど」
そんな勝ち逃げの引退宣言を聞いたあと、アッシュは矢を拾いに行く。
さっきまで放っていたものだ。
きちんと全てを拾い上げて戻ってくる。
その彼にアリスは聞いてみた。
「ちなみに、あなたは真ん中に当てれるんですか?」
「まぁ、多分」
誇る様子もなく、当たり前のように答えた。
それにアリスは小さくため息を吐いて、杖の先を腹に押し付けてやる。
「できないって言って気持ちよくさせなさいよ」
「……できません」
「はい、それでいいんです。ハナマルあげますね」
機嫌良く笑って、アリスは次の遊び場を見繕う。
そして今度は芝の上でボールを蹴ることにした。
アッシュは球蹴りが不慣れな様子で、左足もよく動かないせいで最初は手間取っていた。
しかし流石に人外の身体能力をしている。
パス回し程度ならすぐにそつなくこなせるようになった。
「アッシュさん、これが真実のサッカーですよ。私が子どもの頃は、よく男の子に混じって遊んでいました」
しばらくして、リフティングを披露しながら教えてあげた。
それに彼は何故かむっとしたように眉をひそめる。
「…………」
ほんの一瞬で、本当にかすかな表情の変化だったが、なんだかおかしくてアリスは笑った。
けれどやがて笑みを曇らせる。
肝心なリフティングの回数が伸びないのだ。
何度やっても五回すら続かなかった。
仕方ないのでボールを元の場所に運ぶことにして、深くため息を吐く。
「おかしいですね。このボールは壊れているのかもしれません。別の遊びをしましょう」
それにアッシュは何かを答えようとしたが……やめた。
口を閉ざしてアリスについてくる。
「…………」
ボールを返したあと、今度は何をしようかと考えることにする。
するとやたら長くて広い斜面を見つけた。
それは斜面というか、坂道というか、芝に覆われた傾斜があって、上側には小さな木製のソリのような物が置かれている。
「あれはなんです?」
なんだか楽しそうだな、と思いながらアッシュに聞いてみた。
すると彼はゆっくりと答えた。
「草の上を滑る遊具だろう。どこの国でも子供がやっている」
「私もしてみたいです。来てください」
すぐにアッシュの袖を引いて坂を登る。
やり方が分からないので教えてもらおうと思ったのだ。
見たことがあるようなので教えてくれるだろう。
「…………」
手を振りほどくようなこともなく、彼はなすがままに歩く。
何も言わず、ただ後ろについてきていた。
―――
公園で遊ぶのは思いの外楽しく、色んな遊具を試しているとあっという間に時間が過ぎた。
あまりに広すぎて、遊具がとても多いために退屈はしなかった。
そして今は夕暮れの公園で、二人して砂場で遊んでいる。
とはいっても手を動かすのはアッシュだけで、アリスは横にしゃがんで指示を出すだけだが。
「そこはもう少し滑らかになりませんか?」
「こうか?」
「そう、そうそうそう」
アッシュは意外にも器用だった。
どこからか取り出した……というか、多分能力を使って生み出したスコップやヘラ、底の抜けたバケツのような型抜きなどを巧みに使って作業を進める。
そうして手際よく砂のお城を作っていく。
同じく力を使って造り出した容器に、魔術で濡らした砂を入れて使っていた。
手袋が汚れるのを嫌ったのか、素の焼けただれた手が作業を進めている。
アリスは横で指示を出しながらそれを見ていた。
すると不思議に思ったのか彼が問いかけてくる。
「お前、面白いのか?」
見ているだけで、という意味だ。
聞かれたアリスはふふんと鼻を鳴らす。
無責任に指示を出すのは楽しかったし、なにより手が汚れないのが良かった。
「面白いですよ。立派なお城を作ってカースブリンクのキッズたちをびっくりさせましょう」
「そうか」
言って作業に戻る。
アリスの注文に従いながら、小ぶりなお城を作っていた。
見ていると聖教国の城に近い造形な気がする。
ゴテゴテとついているはずの尖塔も二つだけになっていて、かなりシンプルになっているがそう感じた。
別に細かく作り込んでいるようではなかったが、大まかな印象を表現するのが上手い。
やはりとても手先が器用なのだ。
「これでいいか?」
やがてお城が完成する。
もう少し大きくしてほしかったが、これ以上砂を使うと後始末が大変になるだろう。
カースブリンクの子供たちが面倒な思いをしないように気を遣ったのかもしれない。
余計な配慮だと思いながらも頷く。
「いいでしょう。悪くない仕事をしましたね。仕上げにそのあたりへ『巨匠アリス=シグルム参上。クソガキバーカ』とでも書いておいてください」
胸を張って、少し偉そうにして最後の指示を出す。
彼は白けたような目で見返してきたが、ふと自分が作った城に視線を落とす。
なんだか不思議そうな顔で見ていた。
だがそれも一瞬で、能力で造った鉄の棒でアリスの名前を掘ってくれる。
お城のそばの、砂場の地面に大きく置手紙が残された。
カースブリンクの子供が聖教国の文字を読めるのかは分からなかったが。
『巨匠アリス=シグルム参上』
クソガキバーカ、とは書いてくれなかった。
「楽しかったですか?」
最後にアリスは聞いてみた。
しかし返ってきた反応はそっけないものだった。
「お前の暇つぶしを手伝っただけだ」
言われたからやっただけで、楽しいもクソもないということだろう。
それになんだかむっとしてしまって、アッシュをじろりと睨みつける。
「は? 本当は私も全然楽しくなかったんですけど?」
「なら、なんでやらせたんだ」
棒を消して、彼はため息を吐いた。
こんな城まで作らされて、まるで無駄骨だと言うように。
あるいは、さっきは面白いと言っていたのに話が違うとでも思っているのかもしれない。
まぁどちらでもいいが、アリスは薄笑いを浮かべて答える。
「殺戮中毒のあなたに、素朴で健全な遊びを教えようと思って」
彼は面倒くさそうに話を聞いていた。
そして移動して、魔術で出した水を貯めておいたバケツで手を洗い始める。
アリスのことをあまり相手にしていないように感じた。
「お前には頭が上がらないよ」
なんてかったるそうに呟きながら、背を向けてしゃがんで洗っている。
アリスは前に回り込んで、同じようにかがんで目を覗き込んだ。
「でしょ? 次はブーメランの投げ方でも学ばせてあげましょうか?」
「助かる」
やがてアッシュが手を洗い終わった。
なので二人で歩き始める。
遊び道具の倉庫と思しき建物には色んなおもちゃがある。
今度はそこでブーメランを取って、投げて遊ぶつもりだった。
―――
結局遊びが終わったのは、日が沈みかけて周囲が薄暗くなった頃だった。
今はベンチで休んでいるが、もうじきに帰ることになるだろう。
久々にこんなに体を動かしたので、今日はぐっすり眠れそうだとアリスは思う。
「でもよくがんばりましたね、アッシュさん」
左の隣に座っている彼に呼びかけた。
皮肉や冗談ではなく、アリスは本当に驚いていた。
まさか彼がこんなに色々してくれるとは思っていなかったのだ。
正直、少し楽しかったかもしれない。
「別にここまでしてくれなくてよかったんですが。今日はいったいどうしてしまったんですか?」
ベンチに座って、足を少し揺らしながら聞いてみる。
アッシュは淡々と答えた。
「お前はリスクを負っている。なら、お前が暇つぶしを望むのであれば……俺もできることはすべきだと思った」
リスクは……首輪の話だろうか。
別にアッシュのためにやっているわけではないし、彼もそれは分かっているのだろう。
結局いま協力しているのは、利害が一致したということでしかないのだ。
アリスはこんな身分なので、首輪の主に嫌がらせをするくらいしか生きがいがない。
でも彼はそれを分かった上で、こうして手を尽くしてくれたらしい。
「そうですか。まぁ、努力は汲みますよ。なにかあったら言ってください」
とりあえず恩を返すということは伝えておく。
そしてぼんやりと暗い空を見上げていた。
晴れていて星は見えるが、もうすっかり夜だ。
階段を降りる時は足元に気をつける必要があるだろう。
冬は日が落ちるのが早くていけないと思う。
「じゃあ、そろそろ帰りますか?」
アッシュに聞いた。
多分彼は、なるべく態度には出さないようにしているが……帰りたくて仕方がないはずだった。
なので答えを待たずに立ち上がろうとすると、他ならぬ彼に引き留められる。
「いや、もう少し残りたい。お前さえ良ければ」
「…………?」
意図が分からなかった。
アリスは怪訝に思ったが、とりあえず何も言わずに浮かせた腰をまた下ろす。
そしてぽつりぽつりと雑談を交わすことにした。
「ねぇ、あなたってなにをしてる時が一番楽しいんですか?」
「魔獣を殺している時」
「わぁひどい、泥水みたいな人生ですね」
そう言って笑う。
アッシュは特に言い返さなかった。
彼の横顔を見る。
別に怒ったりはしていなくて、静かな目で空を見ていた。
「馬鹿ですよ、本当に」
心からの言葉だった。
馬鹿みたいに魔獣を駆除し続けて、そのくせ嫌われ者で、悪いことは全部自分のせいだと思っていて……戦争が終わったら死ぬだなんて真顔で言ってくる。
いや、それどころかもう近い内に死ぬつもりでいるのだ。
自分だったら絶対に、そんな道具のような人生を送るなんてごめんだった。
見ているだけで気分が悪くなる。
だから、彼はもう少しわがままに生きるべきだと思う。
「もっと幸せに生きようとか思わないんですか?」
何気ない質問だった。
彼のこれまでがどんなものだったのか、なんて考えずに無責任に投げた問いだった。
けれどあの、ロデーヌにいた時に見た……ひどい記憶のことを思えば言うべきではなかった言葉だった。
ほんの一部しか見ていないが、人生を諦めても仕方ないような経験をしたはずだと思う。
なので取り消そうとしたが、その前にアッシュが答えてしまう。
「もう十分だ」
「なにが?」
こちらを見もせずに、彼は何気ない口調で言った。
しかしなにが十分なのか。
もう十分辛い思いをしたから死にたいとでも言うつもりなのか。
困惑して眉をひそめていると、彼はぽつりと言葉の続きを漏らした。
「もう十分、俺は幸せだったと思う」
だからもう、これ以上なにかを望もうとは思わない。
そんなことを言っている。
当たり前のような顔をして、心からそう信じているかのように言った。
「…………」
アリスは何も答えられなかった。
今まで思いもしなかったのだ。
彼が自分のことを幸福な人間だと考えていただなんて。
ただただ驚いて、相槌を打つので精一杯だった。
「そうですか」
アリスは少しだけ想像してみた。
彼は孤児院でどんな少年時代を送ったのだろうかと考える。
もしかしたら普通に笑ったりして、気の合う友だちもいて、いい仲のかわいい幼馴染だっているような……そんな明るい毎日を過ごしていたのかもしれない。
本当は素直で優しい、穏やかな少年だったのかもしれない。
でも彼がそうやって生きている姿はどうしても思い浮かばなかった。
なぜだろうと考えて、一度も笑った顔を見たことがないのに気がつく。
だからどうしても、笑顔を想像できないのだ。
「おい、アリス。始まったぞ」
と、そこで不意に呼びかけられた。
思考を打ち切ってアッシュに目を向ける。
見れば彼は空を指差していた。
同時に、遠くでなにかが爆発するような音が聞こえた。
「え?」
「花火というらしい。カースブリンクの祭りの名物だそうだ」
説明めいた言葉を聞いて、不思議に思いつつも空を見上げる。
すると奇妙な音と共になにかが空に打ち上げられて……ぱっと光が散った。
見たことのない物だった。
破裂音と共に、遠くで鮮やかな光が空に広がる。
よく分からないがきれいだった。
「これは、すごいですね」
アリスは素直に感心した。
これを見せるために留まっていたのだとしたら、彼は中々センスがいい。
この公園は坂や階段の先の高台にあるので、さしずめ特等席だ。
「ああ。俺も初めて見た」
アッシュも深く頷いた。
花火は次々と打ち上がっていく。
二人でそれをずっと見ている。
「…………」
しばらく黙って空を眺めていた。
花火はとてもきれいで、けれどなんだか儚いと思った。
空で開いた美しい光は、どれもほんの一瞬で溶けるように消えてしまう。
心を奪われながらもアリスは口を開いた。
「今日はありがとうございます、アッシュさん。少しだけ見直しましたよ」
花火を一つも見逃さないように、空を見つめながら感謝を伝えた。
こんなにきれいなものを見たのは生まれて初めてだった。
澄んだ夜空にまた一つ、光の花が煌めいて散る。
「そうか」
アッシュの返事を聞きながら、頭の片隅に思う。
彼は思っていたよりずっと普通の人間なのではないかと。
彼は事前に店で頭を下げたり、誰かを楽しませるために花火を見せたり、そういう気遣いができる人間だった。
なんとなく分かってはいたが、全てが殺意に塗り潰されて狂っているわけではなかった。
ただ、普通のことをしないような生き方を徹底してきただけで。
そして一方でまた思う。
もしそうなら、どうして病的なまでに殺戮に執着しているのか。
なぜこんな風に、死に急ぐように生きているのか。
アリスには分からない。
彼は病気ではなくて、普通で、しかしなにかに呪われて壊れてしまっている。
とてもちぐはぐで、よく分からない心を持っていた。
出会ったときからずっと、彼については理解できないことだらけだ。
律儀で不器用で、そのくせ思い出したように悪人ぶろうとする、意味不明な生き物だった。
けれど今日、ほんの少しだけ本当の姿が見えたような気もした。
「…………」
答えが出ないので、しばらくして考えるのをやめた。
代わりに花火の途切れ目にアッシュの横顔を盗み見てみる。
いつも通りの病んだような、疲れたような無表情で空を見ていた。
それにアリスはふと一つ疑問を浮かべる。
彼は一体、どんな顔で笑うのだろうかと。