二十二話・彼は普通(2)
食事を済ませて店を出た。
感じのいい店主が店の出口まで見送りに来てくれた。
去り際に少し聞いた話によると客はそんなに多くないらしく、たまに来た相手にはこうして見送りをするようだ。
アリスたちは異邦人だが、別の国の人間が料理を美味しそうに食べていたのが嬉しかったのだと言っていた。
彼は『珍しい経験をしました』と笑って、人のいい笑顔で見送ってくれた。
「また行きたいですね、あのお店」
街を歩きながら言う。
料理は美味しかったし、店主の人柄も気に入ったからだ。
するとアッシュは頷いた。
「ああ」
しかし、言う割に彼はあまり美味しそうな様子ではなかった。
だがその代わり、いつもより丁寧な食べ方をしているように感じた。
カースブリンクでも同じ礼儀作法なのかは分からなかったが、ともかく彼はそうしていた。
美味そうな顔一つできない代わりに、それで感謝を示していたのかもしれない。
「ところで、次はどこに向かうつもりですか?」
アリスは話題を変えた。
次もなにか用意しているだろうと思って聞いてみる。
すると彼は歩きながら口を開いた。
「市場に行こう」
「恨みを買いに?」
へらへらと笑って答えた。
前に暇つぶしをした時、追い払われたあとの会話を踏まえた冗談だった。
アッシュは小さく鼻を鳴らす。
「暇を潰しに」
そうして二人で歩いて行った。
同じような家が並ぶ街を通り抜けていく。
しかし市場はまだ遠いようだったので、少し暇になってきた。
「…………」
黙って周囲を見回してみる。
人々が生活をしている様子が目に入る。
仕事をしたり子どもを見守ったり、誰もがそれぞれの日々を送っている。
だから街の光景は雑多で、耳に入る喧騒には様々な声や音が混じっていた。
けれど一つだけ、そうした日常から浮いて見えるものがある。
街の風景に飲み込まれないものがある。
それは兵士たちだ。
家の前に何故か兵士が立っていたり、入っていったりすることがあった。
「あれ? なんか兵隊さんが多くないですか?」
アッシュに問いかけた。
彼は手近な兵士に視線を向けて、それから言葉を返す。
「もうガーレンが来たから、戦争が始まる。だから今日は家族と過ごしたり、祭りを開いたりするらしい」
なんて言われて、アリスはつい声を高くする。
「じゃあ後でその祭りに行くんですか?」
だから今日、こうして誘いをかけに来たのかと思う。
しかし予想に反して彼は頷かなかった。
「いや、行かない。俺たちが参加していいような祭りではない」
彼の言葉を一瞬だけ理解しかねた。
でもすぐに腑に落ちた。
今日は戦争に行く人々の、最後になるかもしれない憩いの時間だと言いたいのだ。
アリスはため息を吐いた。
「なるほど?」
よそ者が水を差すべきではない……という考えも理解はできる。
とはいえ少し気にしすぎではないかと思った。
非情を気取るくせに、彼は妙なところで人間臭さを出すことがある。
「どうしても行きたいなら反対はしないが」
「いいえ。もういいですよ、別に」
祭りのような催しは好きだが、こう言われては行く気もしなくなる。
だから断って街を進んでいった。
そして市場についたものの、どうも行き先がきな臭い。
なのでアリスは顔をしかめる。
「まさかあの店?」
質問をした。
あの感じの悪い男性の店に近づいている気がしたから。
つまり、追い払われた織物の店だ。
流石に違うだろうと思っていると、彼は何気ない様子で頷いてしまう。
「うん」
「やですよ、私。また追い払われるの」
多少は仕方がない事情があるので、追い払われたこと自体は許してやってもいい。
でもなんでわざわざ、またそんな場所に行くのかが分からない。
「まぁ、行ってみればいいだろ」
なんて言って、構わずアッシュは歩いていってしまう。
うんざりしてため息を吐きながら、しぶしぶアリスは彼に続く。
そしてやがて例の店の前についた。
「……うわ、来ちゃったぁ」
再びため息を吐きながら、アッシュの後ろに隠れてこわごわと店を見る。
やはり例の気難しそうな店主がいた。
「…………」
でも文句は言ってこなかった。
アッシュは店主にぺこりと頭を下げて、店の商品に目を向ける。
続けて、今度はアリスの目をじっと覗き込んできた。
「どうした? 見ないのか?」
アリスは答える前に例の店主に目を向ける。
こちらに背を向けて椅子に座って、本を読んでいるようだった。
関わらないということなのだろう。
「……じゃあ選んでくださいよ」
アリスは口をとがらせて答えた。
意地悪をしようと思ったのだ。
すると彼はかすかに目を見開く。
「は?」
何を言っているんだ、とでも言いたげな顔をしていた。
なので杖を脇腹に押し当ててやる。
そしてあたかも怒っているような顔をしてみせた。
「忘れたんですか? あなたが全然似合わないって言うから、なら似合うの選んでって……」
「全然似合わないなんて言ってない」
困ったような顔をするアッシュを見て笑う。
さらに背中を押して棚の方に少し近づけてやった。
「いいから、ほら。私を楽しませてくださいよ」
ため息を吐いて、彼は結局折れてくれた。
ゆっくりと棚に目を向ける。
たまにアリスの方を見ながら織物を見比べている。
店先の目立つ棚には赤色しかなかったが、店の中には他の色もある様子だった。
だからアッシュが奥に足を踏み入れる。
それを楽しく見守りながらついていく。
「へぇ、こういうのが趣味なんだ?」
一つ織物を手に取ったので、すかさず横から口を挟む。
うんざりしたような目を向けてくるが、彼は何も言わなかった。
「…………」
ただ黙ってアリスの前で布を広げる。
青色の肩掛けだった。
似合うかどうかを彼なりに考えているのかもしれない。
「なんで喪服なんて着てるんだ?」
布を戻しながら愚痴ってくる。
そのせいで選べないとでも言うつもりか。
しかし真面目に答える気はしなかったので、適当な言葉を返しておいた。
別に大した理由でもないので。
「いや、冬でもあったかいんですよね。黒い服って」
それには特に追求はなかった。
ただ彼は布を見ている。
しゃがみこんで、低い位置の棚まで覗き込んだりする。
店の奥に行けば、肩掛け以外の商品もそれなりにあった。
コートや帽子、ハンカチやら、果ては大きなタペストリーまで。
「…………」
目立つ場所に飾られている、そのタペストリーをアリスはじっと見つめてみた。
赤い布地の上でいかにも狡猾でしぶとそうな……生き汚そうな狐が海のかたわらで星を睨んでいる。
こうして堂々と置かれているからには、きっと宗教とは関係のないモチーフなのだろう。
そうでないならキメラに何をされるか分からない。
と、考えているとアッシュの声がする。
「これは?」
言われてゆっくりと振り返る。
さて何を選んだかと見てみれば、彼は白いマフラーを持っていた。
まぶしいくらいの白というほどではなく、もっと落ち着いた、少しくすんだ白のマフラーだ。
「悪くはありませんが、ちょっと無難ですよねぇ? 白を選ぶなんて逃げですよ」
アリスはそのマフラーを首に巻いてみる。
もちろん、にやりと笑ってからかい始めながら。
すると彼は眉一つ動かさずに答えた。
「まぁ、そうかもしれない」
「なら選び直しますか?」
試すような目で見つめて言う。
もう少し苦しむ姿を見たかったというのもある。
でもアッシュは首を横に振った。
「いや、いい」
「なぜ?」
「喪服以外にも合うと思うから」
無難だから、何にでも合う色だから、いつか喪服を脱いでも使えると言っている。
それに少し驚く。
別に一生着ているつもりはなかったけれど、そんな視点はアリスにはなかった。
この人がそんなことを考えるとも思わなかった。
「……なるほど」
アリスは少しだけ考える。
いいかもしれないと思った。
もしいつか普通の服を着て、普通に暮らすような日が来るのなら、このマフラーを買うのはいいことだと思った。
その考えは気に入った。
「いいでしょう。ではお会計をお願いします」
アッシュはきっと払ってくれるものだと確信していた。
だから言うと、彼は首を横に振ってしまう。
「自分で払え」
「えっ?」
かなり驚いて聞き返す。
なぜ急にケチになったのか理解できなかった。
今日は恩を売ってくれるはずだったのに。
困惑していると、果てしなく冷めた目が見つめ返してくる。
「多分、自分で払ったほうがいい」
今の言葉の意味をしばらく理解できなかった。
でも考えているとやがて気がついた。
つまり、彼は嫌われていると思っているのだ。
首輪を使った最低のクズの自分は嫌われていて、嫌いな人間からもらったものなんて気持ち良く使えるわけがない。
使うたびにアッシュのことを思い出して嫌な気持ちになるに決まっていると。
真実はどうなのかはともかく、彼はそう思っている。
「…………」
なんだか本当に、哀れな人だと思う。
どうしてこんなに後ろ向きなのか、アリスには少しも理解できない。
こういうどうしようもないところは好きではなかった。
「私は、あなたのことが嫌いです」
アッシュが視線を返してきた。
それが? とでも言いたげな目を向けてくる。
別に驚きはなさそうだった。
なのでそのまま続けた。
「大嫌いなあなたのお財布に打撃を与えたいです。だからプレゼントしてください」
言いながらマフラーを外す。
そしてアッシュの目の前に突き出した。
すると彼は小さく息を漏らした。
「いい性格だな」
皮肉ではなさそうだった。
なぜだか少しだけ、漏らした息が軽いものに感じる。
どういう感情なのかは分からなかった。
「おかげさまで、生きてて楽しいですよ」
特に答えは返ってこない。
しかしマフラーを手に取って、店主の元へと歩いていく。
そして短く言葉を交わすと、しばらくして支払いを済ませて戻ってきた。
支払いの最中に、店主にぺこぺこ頭を下げているのが面白くてアリスは笑った。
かなり苦労してここで買い物をできるようにしたのだと察せられて、少し同情するような気持ちもあったが。
「行こう」
彼はそう言って、店の外に出るように促してきた。
また、最後に店主の背中にもう一度だけ頭を下げる。
続いて店先で、マフラーを黙って差し出してきた。
アリスはそれを受け取って身につける。
少し笑ってお礼を伝えた。
「ありがとうございます。暖かいですよ」
「そうか」
答えてから、アッシュがじっと見つめてくるのに気がつく。
何も言わずに、ただ静かな目でこちらを見ている。
「?」
なにがそんなに気になるのだろうかと思う。
不思議に思って首を傾げる。
でも、ふと思い立ってマフラーを少し緩めてみた。
これで隠れていた首輪が見えるようになったはずだった。
すると彼は見つめるのをやめた。
我に返ったように、夢でも覚めたように、さっと目を逸らして歩き始める。
「…………」
二人で昼過ぎの街を進んでいった。
行き先はアッシュに任せている。
横に追いついて、アリスはさっきのことについて聞いてみようと思う。
「ねぇ、なんでじろじろ見てたんですか? もしかして見とれました?」
「うん」
明らかに適当な返事だった。
見とれていたようには思えなかった。
だがもう追求する気にはなれない。
どうせくだらないことを考えていたのだろうと分かったから。
アリスはため息を吐いて、別の話をしてみることにした。
「そういえばあなた、ノインちゃんを泣かせたらしいですね」
しかしこちらには目も向けず、彼は前を向いたまま答えた。
「本当のことを言っただけだ」
「それは……まぁ、そうですね。私もそう思います」
アッシュが言ったのは本当のことで、何も間違ってはいなかった。
彼は本当にノインを騙していたし、罪などないと教えてやらなければならなかった。
そして自分が悪いと思いこんでいる彼女には、本当は誰が悪いのかを教える必要もあった。
だから、それは間違いなくやるべきことではあったのだ。
「でも、一つ忘れてますよね?」
確かに、彼はかつての間違いを正すために必要なことを伝えただけだった。
けれど一つだけ抜けていることがある。
それは謝っていないということだ。
アリスは続ける。
「なんでちゃんと謝らなかったんですか? 間違いだって思ったんですよね?」
彼はあの子を世界のために戦わせようとしていた。
だが勇者が現れてその必要がなくなったから、加えて戦わせればいずれ死ぬことが分かったから、だからもう犠牲にすることをやめたのだろう。
しかし、それなら彼はちゃんと謝るべきだった。
「悪いなんて思ってない。必要なことをしているだけだ」
だというのに悪びれもせずに言い捨ててしまう。
それをアリスは本当に不愉快に感じる。
もう怒って帰ろうかと思ったが、アッシュがまた口を開いたので思いとどまる。
最後の言葉だけ聞いて帰ろうと思った。
「……それに」
それに、と。
口にした彼は足を止めた。
でも続きは言わずに黙り込んでしまった。
ただ少し、いつもより疲れたような顔で俯いていて。
「…………」
結局、無言のまま口を閉じた。
もちろん逃がす気はなかったが、アッシュが先に声を漏らす。
それで問い詰めるタイミングを見失ってしまう。
「…………あ」
顔を上げて、アリスの表情を見て、彼はまるで気が抜けたような声を出した。
そして『やってしまった』とでも言わんばかりに眉を下げている。
せっかく上手くもてなせていたのに、機嫌を損ねてしまったのが分かったのだろう。
それでなんだか勢いを削がれて、アリスは深いため息を吐いた。