二十一話・彼は普通(1)
その日、アリスは部屋でベッドに潜り込んで本を読んでいた。
時刻はもう昼前だが、寒さに弱いので冬はこうして生活するのが理想だった。
十分に暖かくなった昼頃から活動を開始することが多い。
しかしこの日はそのだらけきった生活を送ることはできなかった。
来客があったのだ。
控えめなノックを受けて、アリスはベッドから体を引きずり出す。
相手によっては居留守をしても良かったが、近頃は暇で死にそうな日々が続いているので対応しようと思った。
「誰ですか? 少し待ってください」
今日はまだ寝巻姿だったから、これで外には出られないと思う。
だから待つように伝えて、いそいそと着替え始めた。
寝巻を脱いで、かけ布団の中から喪服のドレスを取り出す。
これは布団の中に入れることでずっと温めていたものだ。
だから着がえをしても寒くない。
きちんと畳んであるので目立ったシワもついていなかった。
旅の中でだらだらと寝過ごすことができるようになって、アリスはこうした技術をいくつも身につけている。
「俺だ」
着替えていると、扉の向こうから声が聞こえた。
俺だ、と言うだけでも分かる程度には聞き慣れた声だった。
彼はいつも、少し疲れたような調子で話す。
「また恩を売りに来たとか?」
冗談めかして聞いた。
すると少し黙ったあと、気まずそうに答えを返してくる。
「……そうだ。だが、断っていい。必要な仕事は終わっている。もう十分だ」
ただ一応、いつか手が必要になった時に力を借りられるように恩を売りに来ただけのようだった。
わざわざそんなことをするのは、彼が恩を売って返礼を受けるという流れに強く固執しているからだろう。
そしてこれは、首輪の起動を避けたいと考えているのが理由だった。
心を読むまでもなく、彼はこうして関わるようになってから明らかに怯えていると分かる。
慎重に言葉を選んで、アリスに情報を与えすぎないように気をつけている。
どうか首輪が起動しませんように、とでも祈りながら喋っているように感じる。
だからきっと、彼にとってもこの首輪はトラウマなのだろう。
「いや、暇なんで構いませんよ。もちろん、ちゃんと売れるかはあなた次第ですけどね」
にやにやと笑いながらからかう。
彼も根が真面目なので遊び甲斐はある方だと思う。
おまけにどれだけ酷くからかっても、気にしないでいてくれるし。
「…………」
それに答えは返ってこなかったものの、特に気にせず着替えを終えた。
温めておいた服を纏って扉を開ける。
するといつも通りの病んだ目がこちらを見ていた。
カースブリンクでキメラに封印を受けるまではもっと酷い顔をしている時期もあったが、最近は少し安定している。
しかし。
「えっ? 誰?」
アリスはつい、反射的にそんなことを言ってしまった。
けれど仕方がないことだと思う。
目の前に立っている彼はまるで別人のような格好をしている。
白い血まみれの外套も、鎧も身に着けていない。
この国の標準的な男性と同じような服装だった。
長袖の白シャツに紺色の長ズボンを履いている。
だが他の人たちと違ってベストは身に着けていない。
そのように、全く見覚えのない、気楽で清潔な格好で目の前に立っていた。
ちなみに剣や武器も携行していない様子だった。
魔物の侵食を隠すための、両手の手袋まで新品にしてある。
「なにかできることはあるか?」
誰か……いや、アッシュが言った。
恩を売りに来たわけなので、もちろん言うことを聞いてくれるようだった。
しかし混乱しきっていたアリスは答えることができなかった。
「ちょっと、その格好なんですか?」
「お前に恥をかかせないように着替えた」
果てしなく真顔でそう答える。
確かに、血なまぐさい鎧の男を横に連れて歩くと悪目立ちはするだろう。
しかし彼にそのようなことを考えることができるとはまるで思っていなかった。
心底驚いていると言葉が続けられる。
「……不潔で血なまぐさいしな」
外套は少し前に王都で調達した新品のはずだった。
とはいえ魔獣を殺しているので、もうかなり気合いの入った汚れ方をしている。
だから汚いというのは分からないでもないが、やっぱりなんだか納得できない。
「いつも着てるじゃないですか」
「お前を不愉快にさせたら恩を売れない」
「は? 私のために脱いできたってことですか?」
半分呆れて聞き返した。
恩を売りに来た、ということで気を遣っているだけだということは分かる。
彼はあくまで当然のことをしているつもりなのだろう。
まかり間違っても色気のある理由ではない。
「…………」
アッシュは質問には答えなかった。
それどころか逆に問いを投げかけてくる。
暗い瞳がじっとこちらを覗き込んでいた。
「食事は済ませたか?」
「いいえ」
答えると、彼は一つ頷いた。
「なら先に食事でもしよう」
くるりと踵を返して、左足を引きずりながら歩き始めた。
少し下がってついて行きながらアリスは聞く。
「また食堂ですか?」
「いや。ユリに聞いて、店を探してきた。そこに行きたい」
再び思いがけない言葉を聞いた。
アリスは危うく杖を取り落としそうになった。
そして立ち止まる。
まさか、まさか彼がそんな準備をしてくるとは思っていなかった。
だから言葉を失っていると、アッシュも足を止めて振り向いた。
困ったような顔をしている。
「無理にとは言わない」
「いや、無理というか……なぜ?」
なぜ先に店を調べるような心境になったのかを聞きたかった。
すると彼は目を伏せてしまう。
しかし特に言葉に詰まることなく答えた。
「お前はいい仕事をしてくれた。だから、俺も反省した」
相変わらず言葉が足りていないが、もう付き合いもそこそこなのでなんとなく分かる。
アリスが色々と働いてやったのに対して、釣り合う程度の恩を与えられなかったと言っているのだ。
前回の散策が行き当たりばったりだったので、その点を反省した結果なのだろう。
とはいえこうして暇潰しに付き合うのは、首輪の起動を避けるための屁理屈でしかない。
なので形だけでも構わなかったのだ。
だというのに、なんとも律儀なことだと思う。
「ま、まぁ……そういうことなら。早く行ってみましょうよ」
軽く動揺しながらも答えると、彼は黙って頷いた。
二人で並んで城の廊下を進み始める。
そしてなんとなくアリスは口を開いた。
「知ってますか? ベッドの中にお洋服を畳んで入れておくと、着替える時に寒くないんですよ」
聞いて、アッシュは戸惑ったような顔をした。
彼はベッドなんて使わないし、おまけに魔物だから寒さも感じないのだと思い当たった。
しかし少しだけ迷ったあと頷いてみせる。
「参考にする」
「はい、ぜひ」
微笑みを返して、アリスはそのまま歩いていく。
城を出て街に出た。
まだ少し寒いが、よく晴れているので大分マシだった。
昼の日差しからじんわりと熱が伝わってくる。
風が強く吹かない限りは、心地よく過ごせそうな範疇だった。
「で、行き先はどんな店ですか?」
いい陽気の街を歩きながら聞いてみる。
そういえばアッシュの食べ物の好みを知らないと思いながら。
対して彼はちらりと視線をこちらに向けた。
口を開く。
「土地の料理が食べられるらしい」
「へぇ」
それからぽつりぽつりと雑談が続いた。
「というか、この国に飲食店なんてあるんですね」
アリスは呟く。
街をうろついていてもそれらしき場所は見かけなかったし、ここでは食料の一部が配給制になっているのだ。
なら配給の都合上、こういった店は存在しにくいとばかり思っていた。
それにアッシュが答える。
「かなり少ないがあるようだ。認可制になっていると聞いた」
「へぇ……」
知らない話だった。
適当な相槌を打ってまた歩き続ける。
そうしているとやがて目的地にたどり着いた。
特に迷うようなこともなく、一軒の民家のような場所の前に立つ。
普通の家より大きいが、看板も何もないため店だとは分からない。
「これ店ですか?」
どこをどう見ても分からなかったので聞いた。
営業中であるのかすら、外からは判然としない。
けれどアッシュは深く頷いてみせる。
「そうだ」
「なるほど? では、入ってみますか」
ドアに手をかけた。
そして中にはいると、素朴だが清潔感のある内装の店だった。
八つほどの円卓とカウンター席があるのが分かる。
そして、入るとすぐに店の主人と思しき老人が近寄ってきた。
麻のシャツに長ズボンの姿で、青いエプロンを身につけている。
髪を剃りあげた、たくましい体格の男性だった。
しかし怖い感じはしなくて、気のいい感じと清潔感が伝わってくる。
「二人ですね?」
先に聞いていたような口ぶりだった。
はきはきした声で語りかけてくる。
それにアッシュが答えた。
「そうです」
「もう用意をしておきました。席についてください」
老人は流暢に聖教国の言葉を話した。
若干の違和感がある口調と発音ではあったが、敬語まで使いこなして穏やかに話している。
そして案内されるがままにテーブルの一つに腰かける。
今は他の客がいない様子だ。
「あのおじいさん、優しいですね」
向かい合って座ってアリスはそんなことを話す。
先日の織物の店のように追い出されるようなことがなかったからだ。
するとアッシュは頷いた。
「そうだな」
「ていうかここ、予約してたんですか?」
気になっていたことを言った。
机の上にはきちんとクロスが引いてある。
二人分のフォークやスプーン、飲み物の用意もしてあるようだった。
それに、さっきの会話でも用意がどうとか話していた。
だから聞くと、彼は首を横に振った。
「してない。来るかどうかも分からなかったから」
アリスが食事を拒絶する可能性も考えていたということだ。
だがそれだけではない気がしたので続きを待っていると、彼は言葉を重ねる。
目の前に置かれたフォークをじっと見つめながら。
「でも、勝手に用意しておいてくれたらしい」
「勝手にって……意味が分からないんですけど」
知る限りそんなことはありえなかった。
ご飯を勝手に用意してくれる存在はパパかママだけのはずだ。
アリスが物心ついた時には、母親はいなかったが……。
「まぁ、色々だ」
結局はぐらかして答えなかった。
だからアリスは自分で考えて、先に許可を取りに行ったのかもしれないと思った。
カースブリンクの店が受け入れてくれる可能性は低いので、あらかじめ頭を下げに行ったのだろうか。
許可を取ったから、店主が気を利かせて勝手に準備をしていたとか。
「…………いや、おかしいでしょ」
思わず小さく呟いた。
あまりにもまともで、普通で、ちゃんとしすぎているのが不審に感じる。
訝しんでいるとやがて店主が来て、アリスたちの注文を取っていった。
軽くお礼を言って、ちびちびと飲み物をすすることにした。
温かいお茶だった。
キメラが淹れた薄いお茶の数千倍は美味い。
「この店の主人は、とても名誉ある戦士だったそうだ」
声が聞こえた。
目を向けると、アッシュがじっとこちらを見ていた。
「…………」
どういうつもりで口を開いたのかが分からない。
だから固まっていると、彼は小さく咳払いをして話を続ける。
「カースブリンクでは、そうして戦功を立てると特権が得られるらしい」
たとえば、配給の例外として飲食店を経営するような特権が。
「なるほど」
短く答えると、特に話を広げることもなくアッシュは黙り込む。
目を伏せてフォークをじっと見つめているだけだ。
しかし今のは、彼なりに楽しませようとしたのかもしれないと感じる。
「…………」
なんだか毒を吐く気にもなれなくて、アリスは黙って料理を待っていた。
料理の名前から詳細が分からなかったので、なるべく食いでがある、お肉の料理が食べたいと伝えてある。
けれど中々来なくて沈黙が流れる。
彼と二人でいて、黙っているのが気まずいと感じたのは初めてだった。




