二十話・黄昏の時
「とっても、上手く行ったわね。……あなたといると、毎日……退屈しない。本当に、よくやったわ」
明くる日の正午あたり、アッシュはサティアと二人でいつもの庭にいた。
そして日当たりのいいベンチに並んで座っていると、上機嫌でサティアが言った。
彼女はいつもの鎧姿である。
アッシュはなんとなく頭をかいて答えた。
「ここまで上手くいくとは思っていなかった。君の言葉選びが良かった」
先日の予言の内容を考えたのはサティアだった。
そしていい文面だったと思う。
まず『二つの災いを迎える黄昏』は、ガーレンとキメラのことだと考えられる。
その上で『鋼鳴の音と共にヤールウルドの導きが現れる』というような内容が続くが、これはサティアの能力で鋼を鳴らす音を出せばいつでも再現できる。
また、導きがどんなものであるとも言い切っていないし、音の条件さえ満たせばどんなものであれ神の導きになりすませる。
曖昧で都合のいい内容で、かといって不審でもない。
いい内容の予言だった。
なので称賛を送ったが、サティアは別に大したことだとは捉えていない様子だった。
ただ、先日の工夫について楽しげに語りかけてくる。
「まさか、鋼線を利用するとは。いつ考えついたのかしら?」
「糸を通して音を伝える遊びがあった。それを思い出した」
壊れた木のコップをもらってきて、底に穴を開けたものを糸の両端につける。
それでコップの内側に話しかけると向こう側に音が聞こえる。
これはアッシュがいた孤児院で流行った遊びだ。
糸通話という名前で、遊びを考えたのはとても賢い一人の子供だった。
遊び自体は、みんなすぐに飽きて一瞬で廃れてしまったが。
「へぇ、そんな遊びがね……。やっぱり、あなたは優秀よ」
感心したような答えが返ってくる。
アッシュは大して優秀ではないが、思うところがあってしみじみと頷いた。
まさかこんな、ほぼ忘れていたような他愛のない遊びの経験が役立つ日が来るとは。
「何が役に立つかは、分からないものだ」
などと言いながら思い返す。
実はアッシュたちは、少し前にキメラの監視に気づいた。
この目は死体と生者を見分けられるから、普通でない動物がいることに気がつけたのだ。
しかし気づくのが遅れてしまったので、すでに音を操る能力について知られているという前提で動くことにした。
そして、この上で必要になったのがより遠くまで音を伝える手段だ。
監視の目をかいくぐり、これまで通りの神託を続けるには必要なことだった。
音の能力はバレているのだから。
ということで色々と試したところ、結果として上手く行ったのが今回の試みだった。
つまり糸通話の原理で鋼線を伝って遠くへと音を流す。
そうすることでサティアの音の通り道を作ったのだ。
本来ならあそこまで遠い場所で音を届けるような真似はできないのだが、鋼線の道を上手く起点とすることでその問題をクリアできた。
そして今回の鋼線は『偽証』で造ったものなので、用が済んだら消してしまえば証拠隠滅の手間もない。
とはいえもちろん、あれだけの長さの鋼線を人の状態で造ることはできない。
だがほんのわずかな時間だけ魔人化して、造っておいた物を維持するくらいは人の状態でも可能だった。
なので、アッシュの能力が強化されたことも計画の成功を後押ししてはいた。
「でも、一番よく仕事をしたのはアリスだと思う。……あいつがいなければもっと難しかった」
一通り振り返った上でそう言った。
これも本当のことだ。
アッシュとサティアが別の場所に行って、監視の目を集めている間に彼女が鋼線を張り巡らせたのだから。
アリスは地中を掘って進む召喚獣を利用して、いくつかのポイントまで音の道を開通させてくれた。
当初は家伝いに空中に張り巡らせる方法と地中に張る方法を考えていたが、実験の結果地中が安定すると分かったのでそちらになった。
しかしこれは、アリスの召喚獣がいなければとてもできることではなかった。
そうして道を張り巡らせたおかげで、サティアは礼拝所に行くフリをして、城の近くから仕事ができた。
つまりその場所の鋼線から音を送り、操り、またすぐ部屋に戻ることができたのだ。
「あとは……君がいなければそもそも成り立たない作戦だった」
そんな言葉を続ける。
アッシュはずっと、サティアの音を操る能力に頼りきりだからだ。
すると彼女は呆れたように笑った。
「何が言いたいの?」
「……俺は別に、大したことはしてない」
卑下しているつもりもなかったが、サティアの買いかぶった評価には少しうんざりしていた。
ことあるごとに優秀だの歴戦の勇士だのと言ってくる彼女は、アッシュにとってむず痒い存在だった。
五年以上、無能と敗北だけを噛み締め続けてきたから、自分の能力の程度などよく分かっていたのだ。
「…………」
何故か、サティアが黙ったまま頭を撫でてくる。
優しい目でじっと見ている。
それで少しだけ『戦士』を……ガルムを思い出した。
彼とは親しくなかったが、アッシュはこうして頭を撫でられたことがあった。
今のノインよりもまだ下の歳だった頃だ。
それで一瞬だけ奇妙な感傷を覚えたが、すぐに我に返って咎める視線を送る。
するとサティアは、鷹揚な笑みと共に語りかけてきた。
「ううん。私は……成果をしっかりと評価する。あなたはいい仕事をした。褒めるものは褒める」
「分かった。でも、離してほしい」
それでようやく彼女は手を引いた。
調子が狂う。
撫でられた感覚を消すように頭をかくと、また楽しそうにこちらをじっと見てくる。
「あなたは、賢くて強い戦士よ。ぜひ帝国に来なさい。私があなたの……価値を活かしてあげる。私の兵になれば、もう誰にも、侮辱はさせない」
「……兵士にはならない」
「そう、残念ね。でも……全然、諦めたわけじゃないわ」
アッシュはため息を吐いた。
帝国の軍に入るようなことは考えていなかった。
ただただ魔獣を殺したいだけで、別に戦いは好きではなかった。
ガーレンの兵士は殺したいと思うが。
と、考えながらも話題を変える。
「次の話をしよう。次は多分、ここまでうまく行くことはない」
なにせ今回はあまりにも上手く行き過ぎた。
まず、あえて神託を出す場所にパターンを作ることで、兵士たちを誘導できたのが大きい。
だから鋼線を通した礼拝堂に誘い込めた。
加えて狭い路地に人々を集めたことで、鋼線ごしの不安定な音の操作でもごまかしが利くような範囲に信徒を密集させることができた。
でも次からはこうはいかない。
今回成功したのは、あくまで礼拝所の半径三百メートルに敵の監視が集中していたからだ。
これからはキメラの監視や兵士たちの巡回も広範囲になっていくだろう。
だから、それをなんとか欺いて神託を伝える手段を考えなければならなかった。
もうやりたい仕込みは十分にできたので、最悪最後の日まで神託がなしでも構わないのだが。
「……そうね。それについては、私も色々と考えてきた。聞いてくれるかしら?」
サティアが答えて、それを皮切りに真面目な話が始まる。
まだ勝っていないのだから、成功に酔う時間は必要ない。
様々なことについて意見を交わした後で、ふと思いついてアッシュは口を開いた。
「そういえば、ノインに会いに行ってもらえるか?」
「……どうして?」
「君にはいずれ、彼女の面倒を見てもらう。今の内から仲を深めてもらいたい」
「あとは?」
当然のように本命の用事について探ってくる。
アッシュは小さく苦笑いを浮かべて、そちらもすぐに言葉にする。
どうせ普通に伝えるつもりだったのだ。
「……彼女の体に刻まれた、ルーンを写し取ってきてほしい。必要なことだ」
「どのルーン?」
「『厭わぬ者』を」
これは身体能力を強化する禁術だ。
しかしデメリットの方が大きい。
だからサティアは不思議そうな顔で首を傾げる。
けれどすぐに頷いた。
「分かったわ。あと……しっかり、慰めてきてあげるね?」
言いながら、まるでからかうように微笑んだ。
それを見て、きっと彼女は約束を守ってくれるだろうと思う。
頼れる後見人になってくれると感じた。
また、魂胆を察してくれていたことにも少しだけ安心をする。
あの話のあと酷くショックを受けていたようだったので、サティアのような大人が事情を分かっていてくれることはありがたかった。
深く頭を下げておく。
「ありがとう。……では、俺はしばらく一人で動くことにする」
色々とやることがあるのだ。
アッシュは何があってもいいように、二種類の作戦を進めておくつもりだったから。
しかし彼女は笑って首を横に振った。
「ダメよ」
「なぜ?」
まさか否定されるとは思っていなかった。
怪訝に感じて眉をひそめると、サティアは微笑んだまま言葉を続ける。
「アリスに恩を売ってきなさい。たくさんたくさん、恩を溜め込んできなさい」
「……まだ必要か?」
もう彼女の手を借りる必要はないと思っていた。
必要がないのであれば危ない橋を渡らせる意味がない。
可能なら顔も合わせたくはなかった。
少なくともアッシュなら、自分の首輪を使っていた人間の顔など二度と見たくない。
前に恩を売るなどと言う名目で一緒に外出をしたのは、そうした手順を踏まないと協力をする……つまり首輪の主の神官への嫌がらせができないからだ。
だから手伝えることがない今は、彼女だってアッシュなどとは出歩きたくもないだろう。
けれどサティアはそれを否定する。
「必要よ。それにあの子、あなたが気にしてるほどには……あなたのこと、嫌ってないと思うわ」
アッシュは何も答えなかった。
そんな風に見えたのだろうかと少しだけ驚いている。
一方で、前提となる首輪の存在とアリスとの関係を知らなければこんなものかとも思えていた。
しかしどちらにせよ受ける気はなかったが、続く言葉で完全に言い負かされてしまう。
「それに、いつかアリスの手を借りる必要が出るかもしれない。……先に恩を売っておくのは、悪いことではないと思うけど?」
この理屈には納得せざるを得なかった。
手を借りようと思ってから恩を売るのでは間に合わない場合もある。
だったら、先に行って少しくらい恩を売っておくべきかもしれない。
「……分かった。手が空いたら行く」
しばらくして、ため息混じりに答えた。
するとサティアはにっこりと笑う。
そしてじっと目を見ながら言葉を続ける。
「ねぇ、これは、お節介だけど……一つ言わせて」
「…………」
「私もあなたも、一人じゃ何もできない。昨日の作戦もそうでしょ? 力を借りないと、できなかった。だからあなたも……もっと周りを見たほうがいい」
とても大人で、まっとうなアドバイスの言葉だった。
きっとそれが正しいのだろうが、そんな助言を実践するにはもう周りを傷つけすぎた。
一人は首輪で縛り、さらに一人は騙して戦いの場へと引っ張り出してきたのだ。
償えないことをしたのだから、もうまともな関係など望むべくもない。
でもそんなことをわざわざ言う気にはなれなくて、ただ俯いたまま曖昧に頷いておいた。
―――
そして、それから数日後にガーレンの軍が到着した。
二つ目の災いを迎え、カースブリンクにはまさに黄昏の時が訪れようとしている。