十九話・偽神工作(2)
キメラはたった一人でカースブリンクを屈服させ、支配下に置いていた。
これをなし得た理由は、彼女が死体を操る魔術を使うことができたからだ。
三年前、カースブリンクを屈服させた際に、彼女は国を守ろうとした兵士を大勢殺していた。
使徒の力を持つ者の前では、ただの人間の戦士など敵にはなりえなかった。
多く殺し、その屍を手足として操り、また死体を増やしては戦力を強化する。
策を尽くし、不意をついて傷を負わせても無駄であった。
キメラはその傷を即座に治癒魔術で塞いでしまう。
睡眠などの隙を狙おうにも、死体の軍勢が周囲を固めた後では手遅れだった。
彼女はひたすらに死体を率いて進軍を続けた。
これはまさに悪夢の時であった。
そして六百名もの戦士が死に、操り人形となった頃、時のウォーロードであるゴーストは降伏を決めた。
もちろんこれ以降も、キメラは非常に多くの死体を手足とし続けた。
今は国の守りと市民の監視のためにリソースを割いているだろうか。
近隣の、たとえば帝国の戦場で拾ったものも合わせれば、操る死体の総数は千にも達していたが、彼女はもう少し増やせそうだと思っている。
だがそれはともかく、重要なのは彼女が多くの目を持っているという事実であった。
キメラは操っている死体から情報を得ることができる。
しかし視覚や聴覚を共有できるわけではない。
操っている者の意識を通じて、なにがあったのか、なにを見たのか、という情報が伝わってくるだけだ。
この感覚を正確に説明することは難しい。
視覚でも聴覚でも嗅覚でもないが、何を体験したのかがキメラには詳細に理解できる。
強いて言うのなら、彼女は支配下に置いた魂のゆらぎを感じていた。
まさに第六感とでも呼ぶべきものを通じて、キメラは操っている死体から情報を得られる。
故にアッシュやサティアの動向についても、大半はすでに把握していたのだ。
「……まったく、嘆かわしいわ。まさか鋼鳴を利用するなんてね」
ある夜更けに、キメラは部屋で一人そう呟いた。
室内には小さな明かりが灯っている。
明かり……すなわち魔道具のランプは、部屋に設けられた小さな祭壇に置かれていた。
そんな暗い部屋で、ぼんやりとした光を受けながら、キメラは手を組んで祭壇に祈りを捧げる。
祈りながら、ぶつぶつとひとりごとを漏らす。
「ええ、もちろん、土着カルトの神をどう扱おうと構いませんが……私の布教の妨げになってしまっている。どういたしましょう、主よ……?」
キメラは穏やかな笑みを浮かべていた。
口にした言葉の土着カルトとは、言うまでもなくカースブリンクの信仰を指してのことである。
また布教の邪魔になるとは、アッシュたちの工作により旧神信仰の勢いがにわかに息を吹き返しつつあることについての発言だ。
「大方、旧神を利用して異教徒を煽り……さらにゴーストも取り込むことで軍を私から奪おうという腹積もりでしょう……」
ゴーストも取り込むと、言った通りアッシュたちは彼に接触を試みていた。
先代ウォーロードも今は幽閉されており、容易に居場所を掴めるはずもなかったのだが。
しかし何故か居場所をつきとめ、すでに数回訪れていることもキメラは知り得ている。
そしてもしゴーストを取り込むことに成功したのであれば、旧神の神託の工作も相まって確実に状況はひっくり返る。
なにせこの地の、神と王をどちらも掌握しているのだ。
カースブリンクの軍勢はいいように操られ、アッシュたちが賭けに勝つためのお膳立てをさせられることになる。
キメラの地位だってどうなるか分からない。
だがそう上手くはいかないと彼女は考えていた。
暗闇の中で不敵な笑みを浮かべる。
「けれど、あえて利用させてもらいましょう。皮肉にもあなたがたのおかげで、この国の教化は大きく進むことになる。……きっとね」
すでに音を操る能力についてはおおまかに理解をしていた。
なぜなら、アッシュたちの会話を死体のネズミなどに聞かせようとしても聞くことができなかったからだ。
それは音を操っていると推測するに十分なヒントだった。
さらに、この上で旧神の礼拝所での現象を見ることで疑惑は確信に変わった。
だから音を操って人々を扇動していることも理解していたし、こうして音を操作する時は必ず近くにいることも見て知っている。
キメラはこれを利用し、音を操作している者の姿を見せることでカースブリンクの民に旧神の不存在を叩き込むつもりだった。
神の降臨だと思い熱狂していたものは、単なる異能が作り出した幻想に過ぎなかったのだと突きつけることで。
「せいぜい愚かな民衆に見せつけてください。旧神など、しょせんは幻聴にすぎないということを」
薄闇の中でキメラがほくそ笑む。
彼女は継続的な監視により、今日サティアが現れるであろう礼拝所も特定していた。
つまり彼女の出現にはパターンがあって、基本的には近くに隠れることのできる場所がある礼拝所にしか現れない。
そうした場所を一定の法則で巡回している。
さらにそれぞれの場所に現れた時、どこに隠れて音を操っているか……ということまで調べ上げてある。
サティアは足が早く、途中で監視を振り切られたが……実際に予想通りの方向に向かっていたのも死体の監視網で確認済みだ。
そして、すでにその礼拝所に配下の兵士たちを向かわせてある。
特に旧神への信仰心が強く、反抗的な態度を取る者たちを。
彼らに噂の神の真実を見せつけることで、ヤールウルドの降臨に沸く旧神勢力の勢いを削ごうと考えていた。
―――
「音を操る能力……か」
夜の街を駆け抜けながら、ファングは小さく呟いた。
彼はキメラの命を受けて、とある場所へと足を急がせていた。
なんでも異能を用いて人々を惑わしている者がいるらしく、その摘発を命じられていたのだ。
近頃の噂になっていた神の降臨が嘘であったと噛み締めて、ファングは深くため息を吐く。
「……はぁ」
カースブリンクの神は人に直接的に手を差し伸べることはない。
だが生きるすべを教えてくれるはずだった。
なのに、今はまるで暗闇の中だった。
すると彼の憂鬱そうな様子を見た部下が声をかけてくる。
「ファング様。あの魔女の言うことなど、嘘に決まっております。あいつは悪魔だ。俺たちの仲間を何人も殺した……。神が許すはずがない」
なのできっと、降臨は真実だと言っている。
しかしファングはこれにも違和感を感じる。
噂の神の言葉は人づてに聞いたことがあるものの、これまでの印象とは違ってあまりに多弁だった。
言葉選びや内容には違和感がなく、信じそうになったこともあったが……喋りすぎだ。
だから軽薄なのだ。
神はわずかな言葉で多くを語り、その真意を人に考えさせるものだ。
今度の神託とやらはとても詳しいものが作った、精巧な偽物のように感じる時がある。
そんなことを思いながら、ファングは低い声で部下を黙らせる。
「おい、無駄口を叩くな。初等訓練施設に叩き返してやろうか?」
初等訓練施設とは、この国の子供が八歳から通う地獄の訓練施設のことである。
もちろん彼の部下もそこをくぐり抜けてきた存在だ。
それどこか同世代の中でもずば抜けた天才しかいない。
ファングが部隊長の一角を担う『剣戟師団』とはそのような精鋭の集まりだった。
なので常ならこのような無駄口を漏らすことはないのだが、神が関わっては動揺もするらしい。
多くの部下が落ち着きのない様子を見せていた。
「……申し訳ありません」
部下の謝罪を聞き流してファングは走る。
鎧の鉄が鳴る音すらさせず、恐ろしく静かに動く。
これは率いているおよそ六十人の部下たちも同じだった。
街の中の細い道に分かれたり、また集合したりしながら、密かに速く駆け抜けていく。
「…………」
キメラの言葉によれば、サティア=ハンテルクの『音を操る能力』の限界射程は三百メートルだった。
彼女はそれだけの距離の音を操ることができる。
そしてこれはキメラが調べ上げた情報である。
方法は簡単で、どれくらいの距離までの音に反応するのかを探ることで射程を見切っていた。
たとえば百メートルの距離で不審な音に反応できるのなら、射程は百メートル以上になる。
と、いった形で少しずつハードルを上げて見つけた限界が三百メートルだった。
だからファングは、礼拝所の三百メートル以内の範囲を探すように言いつけられていた。
事前に候補となる隠し場所はいくつか明かされていたが、そこで見つからなかった場合はこの範囲を徹底的に捜索することになる。
「ファング様、目的地まで五百メートルです」
「了解。刻印を起動しろ、狩りを始めるぞ」
部下の報告にファングが答えた。
すると次の瞬間、全員の速度が桁違いに加速する。
これは刻印……すなわち肉体に刻んだ強化魔術のルーンに魔力を回したからだった。
名高い剣戟師団の強さの根源は、こうして肉体に刻んだ強力なルーンの効果にあった。
彼らは強さによって選ばれ、最後に刻印の施術を乗り越えることで師団の一員になることができる。
それが長い伝統となっているため、カースブリンクでは聖教国などの他国とは比べ物にならないほどに刻印技術が発達していた。
とはいえ失敗することもあり、その場合は戦士としての道を断たれることとなる。
だがこの危険を冒してでも、師団に入ることはこの国の民にとって最大の栄誉であった。
「対象の感知圏内が近いと思われます。指示を」
また部下の報告を受ける。
こうして刻印を起動したのは、サティアの音の感知の範囲内に入るからだった。
つまり逃げられないように魔術で加速しているということだ。
そしてファングは短く指示を返す。
声は出さず、手元を携行用の魔道具で照らしてハンドサインを送る。
サティアに聞かれないように指示を出すためである。
『隊を三つに分ける。ポイントを全て調査して、包囲に移行しろ。ここから逃がすな』
ポイントとは、キメラから聞いていた隠れ場所だ。
なんでも、以前この場所で音を操る際に利用していたのだとか。
そこを速やかに捜索したら、あとは礼拝所の周囲を囲んで虱潰しに調べあげるだけだ。
『了解。指揮を引き継ぎます』
副官が二人、二十人ずつ率いてファングのもとを離れていく。
人間離れした速度だった。
刻印の力もあるが、彼らもすでに肉体に魔獣を埋め込まれている。
あの忌々しいキメラが来てから、『剣戟師団』は飛躍的に力を伸ばしていた。
「潰してやるぞ、異教徒が」
それからファングは小さくつぶやく。
これは聞かれても構わないので声を出した。
彼にとって今、キメラより許せないのがサティアたちだった。
神の降臨を本当に偽っていたのだとしたら、それは許されない冒涜だ。
二度と生まれ変われないようにグチャグチャに穢して殺すつもりだった。
今の自分ならそれができるとファングは思っている。
もちろん過信にすぎなかったが、彼の考えには一応の根拠もあった。
アイズやその他……師団の部隊長クラスは、上位魔獣の器官を埋め込まれており、人間を超越した力を持っているのだ。
代わりに魔獣の侵食を受けるようになって、キメラの封印がなければ二ヶ月も生きられない体に成り果ててしまったが。
「……いない?」
それはともかく任務は続く。
ファングは隠れ場所を確認したが、そこにサティアたちの姿はなかった。
部下に目配せをして合図を出させる。
魔術を使用させたのだ。
見つけたら雷鳴を、見つからなければ爆音を出す手はずになっている。
誰かが雷鳴を響かせればそこに集合し、全員が爆音を返したら包囲に移行することになっていた。
やがて夜の街に爆音が三つ鳴り響く。
「…………」
何も言わず、ファングたちは速やかに散開する。
六十人で半径三百メートルを囲むのだ。
散らばって動く必要があった。
もちろんこれでは包囲が薄くなって突破されてしまうが、ひとまず対象の姿を確認できれば音を操っていた事実は押さえられる。
それで十分だった。
ただ見逃さないようにして、あとでまた改めて追い詰めてやればいい。
そんな風に考えつつ、じりじりと包囲網を縮めていく。
けれどやはりサティアたちの姿は見つからない。
キメラの情報によれば間違いなくここへと向かっていたはずなのだが、まるで姿が見えない。
ここに来たと見せかけて、サティアは別の場所に行ったのかもしれないとファングは思う。
だから小さく毒づいた。
「キメラめ、出し抜かれたか?」
やがて包囲が縮みきって、ファングたちは礼拝所の民家を囲むように集まることになる。
すると何事かを察したのか、家の中から人々が出てきた。
不安そうな顔でこちらを見ている。
先頭に立っていた老齢の男の神官が語りかけてきた。
ここはファングがよく行く礼拝堂なので、彼とは顔見知りだ。
「あの、ファング様……このことは……」
キメラのもとで旧神の礼拝は禁じられている。
こうして礼拝所の位置がバレている以上、泳がされているのも間違いないとはいえ……彼らは突然に現れた兵士たちに怯えているように見えた。
だからファングは言葉を返す。
「何も心配する必要はない。あなたがたは必ず守る。俺の命に替えても」
礼拝所にも人がいなかったとでも報告するつもりだった。
明らかな嘘だが、同胞を売るくらいならファングは躊躇いなく死を選ぶ。
すると神官は安堵した様子で深々と頭を下げた。
「……ありがとう、ございます」
「気になさるな、神官殿よ。俺は戦士だ。……ところで今夜、『鋼鳴』の御声を聞いたか?」
一応、確認をするために聞いたつもりだった。
すると神官は表情をぱっと明るくする。
「ええ、ええ、聞きましたとも。今宵も『鋼鳴』は我らの祈りにお応えくださりました」
「なっ……」
ファングは言葉を失う。
ならばなぜサティアがいなかったのかということを考える。
もしかすると、音の操作能力の効果範囲は三百メートルより広かったのかもしれない。
ならば次はもっと人員を増やしてもっと広範囲を囲むだけだ。
と、歯を食いしばったその時。
「……ファング殿? ここでなにを?」
声が聞こえた。
振り向けば老婆の神官がいる。
別の礼拝所からそのまま来たのか、信徒である人々を背に従えていた。
そしてファングの姿に驚いた様子で問いを投げかけてきたが、彼女の言葉に答える前にさらに別の神官がやって来る。
「…………?」
ファングはひたすらに混乱をしていた。
この場所に続々と人が集まってくるのだ。
その数、すでに三百を超えている。
もはや路地に収まりきれず、信徒たちは周囲にあふれていた。
その異常な事態に、この場の礼拝所を任されていた神官が眉をひそめる。
「なぜここにいらっしゃったのか?」
「神託を聞いて参りました。この場所に集えとのお言葉に従い……」
別の神官が答える。
つまりは、全員が神の声に集められたのだ。
しかしこうなるともはや意味が分からない。
それぞれの礼拝所はかなり離れているはずなのだ。
なのにこんなにも多くの人間が同時に神の声を聞いたのだとしたら、いくらなんでも音を操る能力では説明がつかない。
「これは、一体、どのような……」
一人の神官が困惑したように声を漏らす。
するとその時、タイミングを見計らったように周囲から音が消えた。
「!」
神託だ。
ファングは初めてそれを聞こうとしていた。
心臓が激しく鼓動を鳴らすのを感じる。
かつてないほどに胸が高鳴っていたのだ。
この非現実的な出来事を前に、彼の心はもう神託を受け入れる準備を整えてしまっている。
「……ヤクラナの民よ。我、ヤールウルドの声を拝するがいい」
声が聞こえた。
思い描いた通りの、いやその何倍も厳かで力強く、神の物にふさわしいような声だった。
狭い路地に声が反響して神秘的な余韻を残す。
神はヤクラナ……すなわちカースブリンクの本来の国名を呼んで語りかけてきた。
カースブリンクという名前は、本来は外敵を威嚇するために名乗っただけの不吉な忌み名なのだ。
触れれば呪いをもたらすという、意味の。
「二つの災いを迎えし黄昏に、ヤールウルドの導きが現れん。時来たれば鋼鳴と共に闇を払い、奪われた全てを取り戻すであろう」
神は言った。
予言を下したのだと分かった。
現れた神は、ファングの前で言葉少なに希望を語ってみせた。
内容は曖昧だったが、彼にとってはこれこそが理想の予言の姿だった。
この考えは彼の幼い頃の体験に由来するものだったが……それはともかく、見事に心を奪われてしまっていたのだ。
「…………っ」
崩れ落ちたファングはさめざめと涙を流し始める。
兜の向こうで歓涙にむせび泣く。
しかし声は出さない。
神の声を遮ってはならないのだ。
必死に声を抑えて、ファングは低く低くその場に跪いた。
そうしてずっと、長い間彼は神の前に頭を垂れていた。
―――
明け方に、城の廊下をキメラが一人で歩いていた。
彼女は表情を怒りに歪ませ、ぶつぶつとひとりごとをつぶやいていた。
そうして明けの城内を一人早歩きで進んでいく。
「……いなかった? そんなまさか。ありえない」
帰ってきたファングから報告を受けて、キメラは強い苛立ちを感じていた。
と言いつつ、彼女自身も死体の目から見ていたが、どうしてもサティアたちを見つけることはできなかった。
確かに神託を響かせていたというのに見つからなかったどころか、逆手に取られて神託の信憑性はますます高まってしまった。
「ありえないわ……一体、どんな手を……」
ぎり、と歯を強く食いしばってまた足を早める。
そうしてたどり着いたのは、サティアがいるはずの部屋だった。
いや、いないはずの部屋だ。
もしここにいないのであれば、まだ外で音を操っていたということにできるかもしれない。
そう思ってノックもせずに扉を開くと、部屋の中にはサティアがいた。
「……あら。不作法よ、ウォーロード。扉は叩いてから……開けなさい」
そう言って彼女はくすくすと笑った。
開け放った窓の前で、見えかけの朝日に背を向けて、じっとキメラの顔を見つめていた。
服装は薄い、白のネグリジェを身に着けているだけだ。
明らかにいま外から戻ってきたような格好ではない。
時期を考えれば少し薄着ではあるが、毛布にくるまっていたと思えば不自然ではない。
「…………」
それを確認して、キメラは構わず言葉を続ける。
どうせ音の感知で来客があることは分かっていたはずなので、ノックなど必要があるはずもないのだ。
「ゴーストを殺しました」
殺してはいない。
だが冷たく言った。
反応を見るためだ。
ゴーストを幽閉している場所は、ここから三百メートルより離れている。
なのでもし殺していないことを知っていたら、キメラが音の感知と操作の範囲を見誤っていたということだ。
もし知らなければ見誤っていないか、誤りがあったとしても誤差の範囲であると推測できる。
しかしサティアの反応は、どちらともつかないものだった。
「……へぇ?」
ただ楽しそうにキメラを見返すだけだ。
それに苛立ちを感じて、ついサティアへと殺気を込めた視線を送ってしまう。
これに彼女はますます笑みを深くして、ベッドの横に立てかけていた槍を手に取った。
ごく自然に、食事中に机上の調味料に手を伸ばすような気安さで凶器を握る。
「来る? それとも私から? もしくは、よーいどん、で……始めてみるのも、面白いかもね?」
やると言えばサティアは来るだろう。
だが彼女に対してキメラは勝ち目があるとは思っていなかった。
キメラは自分が戦士ではないことを自覚しているのだ。
だからこそ強い、より強い肉体を求め続けて改造を繰り返してきた。
しかしまだあの戦士には勝てない。
もちろん邪教徒や背信者が相手であれば死を厭うこともしないが、命を賭してまで彼女に立ち向かう意味を見出せなかった。
「……いいえ、戦う気はない」
なのでそう返すと、サティアは興を削がれたような顔になる。
槍を置いて、ごろりとベッドに転がってしまう。
「なら、帰りなさい。もう一眠りするわ」
ため息を吐いて、キメラは冷静を取り戻す。
そして立ち去ることにしたが、その前に一つだけ質問をする。
「ところで、なぜ窓を開けているのですか? 今は冬ですが……」
このあたりが温暖とはいえ、やはり冬だ。
窓を開けて薄い寝巻一枚で過ごすのは身に堪えるだろう。
だから、その不自然こそが今回の手品の種に繋がっているのではないかと思った。
「…………」
けれどサティアが返したのは、分かるような分からないような、しかし少なくとも今回の件とはなんの関係もない言葉だった。
気分の良さそうな声で言い放つ。
「知らないの? 部屋を寒くして……薄着をして、毛布をかぶると、とっても気持ちがいいのよ。近くに臣下がいると、これも中々許してもらえないのだけれど」
確かに、かじかむ体で毛布に滑り込んだ時の心地よさは格別だ。
だがそのために寒くするというのは少し変わっている。
本気かどうかは知らないが、もうまともな返答は期待できないと判断した。
ため息を吐いて、キメラはその場を去ることを決める。
「そうですか。おやすみなさい、お客人。どうか失礼を、お許しくださいませ……」
そして廊下を歩きながら、キメラは何度か深呼吸をする。
どうにか冷静を保とうとする。
まだ事態は最悪ではないと言い聞かせる。
何故なら、彼らが取り込もうとしているウォーロードは、すでに取り返しのつかない状況に陥っているのだ。
目的を果たすための最後のピースは永遠に揃わない。
たとえ神を操れても、王を取り戻すことは叶わない。
ならば何を恐れる必要があろうか。
乱れた心の内にそう考えて、キメラはただ黙して歩き続ける。
 




