十六話・暇つぶし(1)
偽の神託による工作活動は、ひとまずの成功を得ることができた。
そして翌日も忙しく動き回って、さらにもう一つ日付が進んだ頃。
アッシュはアリスの部屋の前を訪れて、ドアを控えめにノックしていた。
「……俺だ。用がある。もしよければ話をさせてほしい」
そう言って呼びかけた。
時刻は昼前だが、まだ部屋にいるはずだった。
彼女は旅をする中でめっきり起きるのが遅くなっている。
アッシュが寝坊をしても何も言わなかったからだ。
すると予想通り、部屋の中で足音が聞こえる。
ドアが開いた。
「こんにちは。それで、用事ってなんですか?」
アリスはにやにやと笑っていた。
こちらの事情を全て察しているかのように楽しそうに笑っている。
駆け引きは面倒だったので、アッシュは素直に頭を下げることにした。
「恩を売りに来た。なにかできることはあるか?」
ただ頼み事を聞いてくれるように交渉しても良かったが、あえて恩を売って返礼を迫るという形を続けることにした。
なぜならその方法で前回は首輪が起動しなかったからだ。
ある程度の安全が確保されている方法にこだわらない理由はなかった。
なのでそう言うと、アリスは半笑いで聞き返してきた。
「恩を売りにきた? 変わったことを言いますね。聞き間違えでしょうか? では、もう一回お願いしまーす」
もちろん面倒な対応をされる。
正直もう去りたかったが、そういうわけにもいかなくなっていた。
昨日の用事が失敗だったせいだ。
アリスの手がどうしても必要になるたぐいの問題が起きた。
だからもう一度頭を下げる。
「恩を売らせてください」
「うわっ、聞き間違いじゃなかった!」
そう言って彼女は笑う。
笑いながら部屋から飛び出て、アッシュのみぞおちに軽く肘を叩き込んでくる。
「初日は無視してたくせに、今さらペコペコ頭を下げに来るなんて……本当に恥ずかしい人ですね?」
当てた肘を押し込んで、ぐりぐりと腹をえぐりつつ言った。
やはり最初の日にサティアと二人で去ったことを根に持っていたらしい。
本当に面倒だと思うが、アッシュは目を閉じて素直に謝罪をする。
「恥ずかしくて申し訳ない」
そこでアリスはようやく肘を腹からどかした。
特にダメージはない。
彼女はやはりにやりと笑って、わざとらしくため息を吐いた。
「まぁいいでしょう。とりあえず食事にでも連れて行ってくれますか?」
人を食ったような顔でじっと見てくる。
それにアッシュは頭を悩ませた。
どこで食事をできるのかを知らないのだ。
この城で食事を出してくれるのは知っていたが、どんな店に行けば喜ぶのかが全く分からない。
困りきって頭をかいた。
「どこに行けば?」
彼女はふらふらと歩き回っていたようなので、もしかするといい場所を知っているのかもしれないと思う。
ということで聞いてみると、呆れたように小さく鼻を鳴らす。
「城の食堂に」
「ああ、なるほど」
―――
それから二人で食事をした。
城の警護にあたる兵士たちのために用意された食堂だった。
食べる間アリスはあまり話さなかったが、時折こちらを見てくることがあった。
だが特に気にせず食べ終わると、今度は外に出ようと言われた。
どうも街を回る不毛な時間に付き合わされるようだった。
なにもアッシュなどを誘う必要があるのだろうかと思うが、キメラにノインを取られて暇で仕方がないのかもしれない。
「どこに行くんだ?」
よく晴れた空の下、アッシュはアリスに問いを投げた。
今は城を出て行くあてもなく市街地を歩いている。
すると彼女は並んで歩きながら答える。
「同じことを聞こうと思っていました」
「は?」
「恩を売るんでしょ。楽しませてくださいよ」
笑っているのが分かる。
どうやらアッシュに行き先を決めさせようとしているようだった。
なので真面目に考えてみようとしたが、ふと自分は何をしているのだろうと思ってため息を吐いてしまう。
「……はぁ」
すると彼女は気に障った様子で鼻を鳴らす。
じろりと視線で刺してくる。
「そんなに嫌なら別にいいんですよ、私は」
いやいや付き合わなくてもいいということだ。
それを聞いてアッシュは申し訳ないと思った。
恩を売らせてほしいなどと言ったのなら、愛想の悪い態度で横を歩くべきではない。
良くないことをしていたと分かったので、素直に謝ることにした。
「…………すまない。別に、お前と歩くのが嫌なわけではない」
「なら理由は?」
アリスが足を止めて聞いた。
だからアッシュも立ち止まる。
理由、つまりため息を吐いた理由だ。
答えるのが筋であるとは思うものの、アッシュは何も言えずに口ごもる。
今までこんな話をアリスにしたことがなかったのだ。
「その……」
「言わないと帰りますよ。ほら、ちゃんと言ってくださいね」
今度は面白がるような顔になっていた。
なぜか分からないが楽しいようだった。
アッシュはそれに付き合いたくなかったが、さっき不愉快な思いをさせたのだから誠意を見せるべきだと思った。
だから、仕方なく口を開く。
「……自分が、不甲斐ないんだ」
「へぇ?」
答えを聞くと、アリスはますます興味深そうになった。
じっと見つめてくる目から視線を逸らして、少し俯いて言葉を続ける。
「こんなことをしていていいのかと……思う」
アッシュが無駄なことを嫌うのは、もっとやるべきことがいくらでもあるはずだからだ。
だが本当は、こうして不毛に街を歩くことにも意味があるのは知っている。
普通の人間がそうしたことを楽しみに生きていることは理解できる。
けれど自分にはそれが許されているとは思えなかった。
だから無駄なことをしていると、責められているような気分になる。
まして今は、帝国で多くの人間が死んでいる真っ最中であるはずだった。
「いいでしょ、別に。誰が怒るんです?」
彼女はあっけらかんと言い放った。
顔を上げて、アッシュは首を横に振る。
「そういう問題ではない」
「そういう問題でしょ。誰も怒ってないのにびくびくしてたらまるで馬鹿じゃないですか」
言い分は一見正しくも聞こえるが、実のところ違う。
何故なら文句を言うであろう者たちはみんな死んでいるからだ。
これを無視するのは、人殺しが死体に口なしとでも開き直るようなものだ。
なのに、アリスはへらへらと笑って言葉を続ける。
「だからほら、『サボるなよ元勇者!』……って、言われるまでは好きにしててもいいんじゃないですか?」
納得できてはいなかったものの、ひとまずアッシュは頷くことにする。
いますべきことは議論ではなく、アリスの暇を潰せるように努力することだった。
「そうだな」
だからひとまず納得したフリをした。
そして彼女をどこに連れて行くかを真剣に考えることにする。
だが答えが出る前にアリスが口を開いた。
「あっちに人だかりがありますよ。行ってみませんか?」
そう言って今歩いている道の先の広場を指差す。
すると遠くに人が集まっているような場所があるのが分かった。
集まった市民たちは、少し高くなるように作られた、まるで舞台のように整えられた場所を見ている。
そこにはキメラが兵士たちと一緒に立っていた。
アッシュは特に異論がなかったので頷いてみせる。
「うん」
歩いて近づく。
そして人だかりの奥から舞台に目を向ける。
すると何をしているのかすぐに分かった。
キメラは市民に治癒魔術の施しを与えることで、神の教えを広めようとしているようだった。
「…………」
怪我人や病人が前に出てきて、人々の前で治療されていく。
驚くことに病気も治っているように見える。
実際には完全に病から回復したわけではなく、治癒魔術で症状を和らげたり、消耗した体力を取り戻させているだけかもしれないが。
しかしなんにせよ楽になっているような印象を受ける。
それを見ながらアリスが感想を口にした。
「意外と我慢強くて、上手いやり方ですね」
その通りだと思う。
無理矢理に押さえつけるよりは、こうして少しずつ地道に人々の支持を得ようとするのが賢い方法だ。
だがやがて、治療が終わるとキメラは説法を始めようとする。
ここで興味を失って、アリスに立ち去ろうと声をかけようとした。
けれど次に目に入ったものを見て、アッシュは思わず言葉を失う。
「う、うぅ……あぁ……! ぐあ……あ、ううぅ……あああああ!!!」
舞台に一人の老女が連れてこられた。
両脇を兵士に挟まれ、ふらふらと、杖にすがりながらキメラの前へと歩かされていく。
彼女は狂気がにじむ叫び声を上げながら市民たちの前に立った。
そして神官と同じ真っ赤なローブを着ていた。
明らかに普通ではない老女を見て、アリスが怪訝そうな表情を浮かべる。
「……なんです、あれは?」
アッシュは答えを知っていた。
彼女は神官で、恐らくは薬物の禁断症状を起こしている。
長い間、麻薬を用いた儀式をさせてもらえなかったためだろう。
薬が抜けて苦しんでいる。
その様に言葉を失っていると、やがてキメラが老女の横で話を始める。
「見なさい、この者の姿を。これが『鋼鳴』の信仰の正体です」
聖教国の言葉で話して、横に立つ兵士が翻訳して市民たちに伝えているようだった。
ゆっくりとした口調で薬物の危険性や幻覚症状、引いては神の正体について訴える。
さらに宗教の儀式の中でも衛生観念に反するような……たとえば血を混ぜた水を飲むような風習を批判していく。
対して、月の瞳がいかに健全で素晴らしいのかを説いてみせる。
「…………」
いつしか市民たちは俯いてしまった。
尊敬すべき神官が離脱症状で狂い、目の前で見世物のようにされているからだ。
惨めに俯いてじっとキメラの話に耐えていた。
そのまま話を聞いていると、やがてアリスにも事情が飲み込めたようだった。
冷たい笑みを浮かべる。
「まぁ一理はあるでしょうが、月の瞳も大差ないと思いますけどね」
わずかな差はあったとしても、基本的に神は人を救ったりはしない。
アリスはそう言いたげだった。
吐き捨てるように言葉を続ける。
「つまらないものを見ました。行きましょう」
「……ああ」
答えて立ち去ろうとする。
そして広場を出る前にもう一度だけ振り返ると、キメラが老女に治癒魔術をかけているのが分かった。
魔術による苦痛の緩和を受けて、離脱症状が和らいだのだろう。
老女はむせび泣きながら、聖教国の言葉で月の瞳への感謝の言葉を繰り返す。
アッシュは小さく鼻を鳴らして、次はもう振り向かずに歩いていった。