八話・死した防人
眼下では死体の兵士たちが蠢いている。
いや、そこには魔獣すら含まれている。
カースブリンクの国境を守るのが、屍の戦士たちであったとは。
アッシュは呟く。
「なるほど、これが『治癒師』か」
ここで使われている『侵す者』とは、魂を操る魔術である。
死体を操る術のように誤解する者もいるが、支配下に置いた魂を死体に入れるというのが本質である。
つまり、入れた魂を通じて死体を動かすというような仕組みになるだろう。
そしてこの仕組みにより、『侵す者』の制御自体は思っているほど難しくはないらしい。
なぜなら、入れた魂は死体が動くためのエネルギー源にもなっているからだ。
だから改めて命令を出す時以外は継続して力を使う必要がない。
さらに死体の中の魂が人間のものであるのなら、ツヴァイたちのように人格を保つこともある。
こうした死体が対象である場合、細かく制御せずとも死体自身が考えて動ける。
すると術者が複雑な命令を組むような手間を省けるというわけだ。
もちろんそれも、エネルギー源として魂が使い切られるまでではあるが。
このように、『侵す者』は前提として術自体がかなり優れた仕組みで、扱いやすいという特徴を持っている。
けれど、これを差し引いても目の前の光景は異常だった。
平野を埋める屍の数は、もはや数えるのも馬鹿らしいほどである。
おそらくは見えるだけでも千に迫る。
しかしこれだけの魂を支配下に置くのはありえないことだ。
まさに人を超えた御業だ。
かつて戦ったツヴァイの軍勢は良くて数百といったところだった。
装置により無限の魔力を持ち、体にルーンの刻印を受けた彼でさえそうだったのだ。
なのに、これは単純な規模で言えば倍以上はあった。
と、そんなふうに戦慄していた時。
「……聞こえた。来るわよ」
サティアの声だった。
来るというのはつまり攻撃だろう。
全員が身構えるが、サティア以外は攻撃がどこから来るのかが分かっていない。
彼女のように広域を探知する力がないからだ。
だからアッシュは問いかけた。
「どこから来る?」
「そういうのは後。とりあえず私が、防いであげる。……まずは、アリス……地上に降りるわよ」
空中に留まるのは危険だということらしい。
しかしアリスは下を指差して、嫌そうな顔をする。
「正気ですか? とんでもないことになってますよ」
なにせ生ける屍の大軍勢だ。
だがサティアはもう一度降りるように繰り返す。
「いいから、降りなさい。死にたくないならね」
するとアリスはため息を吐く。
「……はぁ」
諦めて降りることにしたようだった。
竜が飛行の軌道を変える。
地面へと近づいていく。
内臓が少し浮くような、唐突な浮遊感に戸惑いつつもアッシュは周囲に目を凝らしていた。
「…………」
そして見渡した風景の一部に違和感を感じて、サティアに問う。
「あそこか?」
遠く、右手に見える山のふもとだ。
魔物の知覚が魔術を使っているのを感知した。
加えてかすかに人の痕跡もある。
さり気なく地形を変えて整えてあるのが、木々の隙間からわずかに見える様子で分かる。
あとは木を伐採して、不自然でない程度に……しかし狙撃に都合がいいような視界を確保しているようだ。
「正解」
サティアが答える。
彼女は竜の背に立って、槍を握って同じ場所を見ていた。
こうして背に乗って飛ぶことには慣れていそうだった。
「!」
そして次の瞬間、風を纏う矢が大量に飛来する。
発射地点は例の山のふもとの周辺で、真っ直ぐな軌道で飛んでくる。
矢の数は百と少し。
かなりの密度で殺到してきた。
主観的には視界を埋め尽くすようにすら見えている。
「『氷嵐』」
巧みな手付きで槍を回し、音を操ってサティアが魔術を発動した。
氷の嵐が吹き荒れて、風の矢がまとめて吹き飛んでいく。
この一斉射撃の密度といい、狙いの精度といい、息の合い方といい、並外れて優れた兵士たちであるのは間違いない。
しかしやはり、こうして見るとただの人間だった。
アッシュのように人を超えた存在であれば、彼らをそこまで警戒する意味はないように感じた
だが、アッシュはふと目についた違和感に声を漏らす。
「……アラクネの矢?」
飛んできた矢は、サティアの魔術によって飛ばされてしまった。
その中の一本を注視したところ、二の魔王の魔獣であるアラクネが用いる矢に酷似していた。
一つ違うのは尻に矢羽がついていることだが、黒い羽はハーピィの死体からむしり取った羽根に見える。
不思議に思っているとサティアが説明をした。
呟きを聞いていたのかもしれない。
「カースは……資源に乏しい。魔獣がもたらす物を、よく利用する」
カース、とはカースブリンクのことだ。
彼女はこうして縮めて呼ぶことがあった。
納得してアッシュは頷く。
確かにデュラハンの鎧や武器から取れる金属など、利用するに値するものは多くある。
実際、聖教国でもそういったことを仕事にしている者たちはいる。
「なるほど、ありがとう」
そして竜が地面に降り立った。
平野の片隅だった。
まだ街のようなものは見えてこない。
だが周囲には生ける屍が大量にいた。
とはいえ対処に困るような敵ではない。
「うわ、腐ってるやつもいますよ」
アリスが露骨に嫌そうな顔で言う。
そしてアッシュたちが全員竜から降りたのを確認し、彼女はまた空に戻った。
とはいえ低空だ。
屍たちの手が届かない、地上のギリギリの場所に滞空している。
ちゃっかりしているとアッシュは思う。
だがサティアが跳躍し、竜の足を掴んで引きずり下ろした。
「あなた、いい的よ。地面に降りて……守られていなさい」
確かに山にいる狙撃手たちからしたら、一人だけ浮いている……自衛能力のないアリスは格好の獲物だ。
それが分かったのか、特に抵抗せず地面に降りてくる。
「まったく、怖い国ですね。どうせ飯も不味いんでしょうよ」
よほどロスタリアが忘れられないのか、そんなことを吐き捨てながら。
しかしそれには誰も答えず、続々と集まってくる亡者に対峙していた。
するとそこでノインが話しかけてくる。
「……どうしましょう?」
死体とはいえ、人間を斬るのに抵抗があるのかもしれない。
困りきった顔をしていた。
だがアッシュも、死体を含めて手荒なことをする気はない。
敵意がないことを示したかった。
なのでその旨を伝えておく。
「まずは穏便に」
言いつつ、アッシュは死体の兵士たちをじっと見る。
じりじりとこちらに近づいてきていた。
だからサティアに頼みごとをする。
「氷の壁を作れるか? 四方に、なるべく高く」
「……? あ、なるほどね」
サティアは一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに意図を理解したらしい。
槍を回し、反則じみた詠唱で次々に魔術を完成させていく。
四回の発動を経て周囲が壁に囲まれる。
壁の厚さは城壁もかくやというほどであり、高さもまた人の身の丈の四倍はある。
そんな壁に囲まれた、ちょうど十メートル四方程度の空間にアッシュたちは立てこもっていた。
サティアに礼を言う。
「ありがとう」
「いいわ、礼なんて。……さて、どうなるか」
彼女は本当に楽しげだった。
これから何が起こるか分かっているのだろう。
アッシュは小さく息を吐き、目を細めた。
「来るか?」
呟きは亡者たちに向けたものだ。
この壁は並の人間ならまず越えられないだろう。
理性なき亡者に関しても同じだ。
しかしもし、あの亡者たちの中に理性を保っている者がいるのなら……越えてくるはずだ。
そういう相手ならまだ交渉の余地がある。
この壁は身を守るため、戦闘を避けるためのものでもあるが、一番の目的は理性ある個体との接触である。
「……来た」
声を漏らす。
凄まじい速度で壁を駆け上がり、十八人が同時に壁内に降りてきた。
つまり魂がすり減っていない、理性のある個体だ。
「いや、違う」
しかし、着地の様子を見て思い直す。
侵入してきた個体は、全員が着地の際に体がひしゃげた。
無様な身のこなしだった。
だから理性は持っていない。
これは駆け上がったのではなく、理性のある個体によって壁に投げ込まれただけだ。
きっとアッシュたちが壁内で強力な魔術の詠唱を済ませて、迎撃の体勢を整えているのではないかと警戒しているのだろう。
だから様子を探るために先に死体を投げた。
であれば本命はこれからだ。
と、考えたところでサティアが声を漏らす。
「ああ、下よ」
下?
訝しんだ数秒後、地面から幾人もの兵士たちが勢いよく飛び出てきた。
穴を掘って動いていたのだ。
さらに、次の瞬間アッシュは目を疑うことになる。
「これは……」
兵士たちの姿がおかしい。
彼らはボロボロのマントがついた、黒の鎧を身にまとっている。
見たところ革と金属を合わせたものだった。
どちらかというと金属の比率が多く、鎖かたびらも用いられている。
そして同じく黒の兜を身に着けているため表情は伺えない。
これらの黒の武具は、一部に赤が塗られた見事な品だった。
そしてここまでなら、変わったところのない戦士の屍であると言えるだろう。
しかし彼らの四肢が、人間ではない。
肘や膝あたりから先が強靭な……よく見慣れた四肢にすげかえられている。
つまり、三の魔王の魔獣である『ワーウルフ』の獣じみた手足がぶら下がっているのだ。
彼らはこの腕で地面を掘って飛び出してきたのだろうか。
「……えっ」
ノインが息を呑んで言葉を失う。
だが気にも留めずに異形の戦士たちの先頭にいた人物が口を開く。
特にアッシュたちに語りかける様子でもなかった。
奇妙にしわがれた声で、男は誰へともなく呟きを漏らす。
「…………ウォーロード・キメラ……要件の三と七と八を満たす……侵入者を発見。ガーレンの所属と断定し、殺害する」
この発言からアッシュはいくつかの情報を読み取った。
まず、今の言葉は誰かへの報告であるということ。
正気をなくしかけていて、支離滅裂な言葉を発したという線もあるが……今のところはそう考えて良さそうだった。
なぜなら彼らは操られた屍であるからだ。
声をもって支配者に語りかけることも可能であろう。
次に分かったのは、その報告を受けた人物はこの国の人間でないということだ。
カースブリンクには独自の言語が存在すると聞く。
報告にはそういった言葉を使った方が機密性は高くなるはずだ。
魔術の詠唱なら詠唱言語である聖教国の言葉を使うべきだろうが、報告でこれにこだわる意味はない。
なら、報告を受ける相手が現地の言葉を理解できない……つまりは国外の出身であると考えるのが自然だ。
また、報告の相手は術者であると考えるのが順当であるので。
「なるほど、ウォーロード・キメラが『治癒師』か?」
アッシュは言った。
さらに考える。
どうやって交渉をすべきかと。
思えば彼らはなんらかの要件、ひいては判断基準を設けて特にガーレンを敵視しているようでもあった。
なら共通の敵について話すことから始めるのがいいような気がした。
しかしなにか語りかける間もなく、向こうは戦いを始めるつもりのようだった。
例の、先頭の男がまた口を開く。
今度は理解できない言葉、おそらくは現地の言葉だった。
空気が震えるような大声で叫ぶ。
「――――――――!!!」
しかしサティアは聞き取ったらしく、その内容を教えてくれる。
言葉が分かるのだ。
「『投げ込め、俺が殺す』……だって」
言うが早いが、壁の外から死体がいくつも投げ込まれてくる。
どうやら外にも仲間がいるようだ。
近くに落ちた腐った死体を見て、アリスが弱々しいため息を吐く。
手で顔を覆った。
「……ああ、もう。泣きそう」
泣いても相手は許してくれないだろう、とアッシュは考える。
続々と数を増す死体をよそに、獣の戦士たちが抜剣した。
両刃の刃がすらりと抜き放たれた。
つや消しの加工をなされているようで、どこかくすんだような光を放っていた。
見たところ、死してからも十分に手入れをされているらしい。
そこで、サティアがくるくると槍を弄びながら前に出た。
ふらりと吸い寄せられるように戦士たちへと歩を進めて、思い出したようにこちらに振り向いた。
「ねぇ、いい?」
満面の笑みを浮かべていた。
念願叶ってカースブリンクとやり合えるのが嬉しくて仕方がないようだった。
アッシュが頷くとサティアが一人で戦い始める。
とはいえもちろん、理性のない個体は次々に襲いかかってきた。
「アリス、ノイン。移動する」
二人に声をかけて動く。
目指すのは壁の角だ。
死体に囲まれるのは面倒だったので、角に集まってまとめて相手するつもりだった。
「…………」
理性のない死体をあしらって、時に壁の向こうに投げ返したりしつつサティアを見る。
すると、やはりというか圧倒ではあった。
魔獣の腕に付け替えた程度でサティアに人間が勝てるはずもない。
だが本気で戦っているわけでもなさそうだった。
敵をじっと観察している。
力というよりは技、強さというよりは戦術を見ようとしているような印象がある。
楽しそうに戦士たちの刃をかいくぐるサティアを見て、アリスが小さく吐き捨てる。
「……この、野蛮人」
実際、彼女の悪態もそこまで的外れではないと感じられるほど楽しんでいた。
戦士たちの手腕を堪能している。
本当に、カースブリンクの兵士は大したものだった。
仮にアッシュが人間なら、一対一でも勝てるか怪しいほどに練度が高い。
しかも全員が。
これで彼らが雑兵ということはないだろうが……どうなのだろうか。
と、感心しつつも本来の目的は忘れない。
こうして戦いをサティア一人に任せたのは交渉のためだ。
彼女が戦う横から語りかけて、カースブリンクの兵士たちになんとか矛を収めてもらう。
そのために、理性のない屍を蹴散らしながら語りかけた。
「聞いてくれ、カースブリンクの戦士。君たちに頼みがある」
報告の件からして、間違いなくこちらの言葉は分かるだろう。
だから聖教国の言葉で語りかける。
手始めにガーレンについて話そうと……した、その時。
サティアがこちらに振り向いた。
「増援よ、逃げて」
言うが早いが戻ってきた。
さらに、アリスを抱き上げて壁を飛び越えていく。
アッシュもそれにならうことにした。
「……『偽証』」
剣を作り、氷の壁に投げつける。
今なら人間のままでもこれくらいはできた。
そして突き刺さったところに鎖を投げ、引っ掛けてノインの腰を抱く。
「跳ぶぞ」
思い切り鎖を引いて跳躍した。
片足が上手く使えないので、サティアのように飛び越えられる自信がなかったからこうした。
なんとか壁の外に出て、群がる亡者たちの軍勢を突っ切って走って逃げる。
すると、先ほどまでいた氷の箱が爆発して吹き飛んだ。
「っ!」
ノインが小さく悲鳴を漏らす。
中にいた戦士たちを心配しているのかもしれない。
理性のある彼らは、ノインにとっては生きている人間となんら変わりのないものに見えただろうから。
そして、アッシュも彼女ほどではないが苦々しく思っていた。
「……味方ごと、か」
死んでいるとはいえ味方ごと吹き飛ばすとは。
この苛烈さがカースブリンクの流儀なのだろうか?
しかしその考えをサティアが否定する。
「こんなやり方……ねぇ、お前、よそ者でしょ?」
どちらかと言うとよそ者はこちらなのだが、彼女は大真面目にそんなことを言う。
その目は上空に向けられていた。
同じように空を見ると、視線の先には女がいた。
逆光を背負っているため、詳細な姿は分からない。
「…………」
だがシルエットは分かる。
修道服を着ていること、右手に巨大な杖を持っていること、左手が人間の形をしていないこと、背に翼が生えていることは理解できた。
「まだよ、立ちなさい」
女が言った。
まだ若い、女性らしい柔らかさを含む響きの声だ。
しかし低く抑えられた厳しい声でもあった。
まるで煮えたぎる怒りを秘めたような。
「…………」
そして声と共に、彼女の左手の杖が小さく光を放った。
同時に、先ほど爆ぜた氷のあたりが淡い輝きに包まれる。
死体の戦士たちの体は治癒されてよろよろと立ち上がった。
それを見てアッシュは息を呑む。
「……『治癒師』」
間違いないようだった。
ガルムの置土産は確かな物だった。
しかし彼女は……神の使徒と呼ぶには余りにも狂っていた。
女はアッシュたちを見下ろして、底冷えするような殺意を浴びせかけてくる。
「まずは、導きを与えましょう。もし……あなたがたが自らの生を悔いて、神の許しを得たいと願うのなら……」
語りかけるのは理性的な声だった。
しかし唐突に言葉を切ると様子が変わる。
ひと呼吸の沈黙のあと、ぞっとするような声が続きを語った。
憎しみが歯の隙間からふきこぼれるような、こらえきれない殺意にかすれる低い声で。
「今すぐ、自分で、心臓を抉り出しなさい……背教者どもが」




