七話・痕跡
結局その日は野営をすることになった。
探せばどこかで屋根くらいは借りられたのかもしれないが、場所を取るのは気が引けて街を出た。
このあたりは暖かい気候なので、きちんとした装備さえあれば夜は明かせる。
だから近くの道のそばで天幕を立てた。
全員もう寝てしまったが、アッシュはいつものように夜の見張りをしていた。
とはいっても今いるのは開けた場所、草も枯れた冷たい土の地面が続くだけの平地である。
だから周囲の状況は音や気配だけで十分に測れた。
なので見張りとはいえ特に見回したりする訳ではない。
ただ目の前の焚き火をじっと見つめて座っている。
腰掛けるのは椅子代わりの丸太だった。
そして、身じろぎもせずに朝を待っている。
今夜は明るい夜で、星や月の冷たく澄んだ輝きが空をいっぱいに埋め尽くしていた。
「…………」
黙って、あまり何も考えないようにして時間を過ごす。
本当に静かだった。
風すら少しも吹かないので、ぱちぱちと薪が燃えるかすかな音がやけに際立つ。
しかし、そこで不意に誰かが起きたようだった。
振り向かなくても魔物の聴覚ならすぐに分かる。
天幕を出て歩み寄ってきて、すぐ後ろに立ったらしい。
だから振り向かずに声をかける。
「なにか用でも?」
振り向くことはしなかった。
すると言葉が帰ってくる。
アリスの声だった。
「いえ、眠れないので封印でもかけてあげようかと」
意外な申し出だった。
振り向こうとしたところで、ちょうど彼女はアッシュの隣に座り込む。
左の隣だった。
「…………」
そして黙ってアッシュの顔を見つめてくる。
時間にして三秒ほどだろうか。
瞬きをして、彼女は少しアッシュから離れた場所に座り直した。
特に気にせず先ほどの言葉に答える。
「申し出には感謝するが、遠慮しておく。明日の移動に備えてくれ」
断った。
なぜなら、もうアリスの……人間の魔力で手に負えるような程度の侵食ではないからだ。
これまで大量の魂を貪ってきたから耐えられているが、旅立った直後の状態ならすでに狂っているだろう。
それほどの悪化だった。
であれば無駄に魔力を使わせる意味がない。
「そうですか」
アリスはあっさりと引き下がった。
もう一度だけ改めて感謝を伝えようかとも思ったが、お互いの関係を考えて控えておく。
寒々しいだけだろう。
「…………」
少しの間沈黙が続いた。
アッシュはじっと焚き火を見ていた。
もう用がないのなら勝手に去るだろうから、改めてまだ居座る理由を聞いたりはしない。
するとアリスが口を開く。
「ねぇ、死ぬのって怖くないんですか? 余命秒読みのアッシュさん」
そんなことを聞いてきた。
ゆっくりと視線を動かして顔を見る。
普通に話す時の表情をしていた。
近頃は冷たい顔や、バカにするような顔ばかり見てきたので新鮮に感じる。
「…………」
アッシュはまた視線を焚き火に落として考えた。
なんと答えるべきかを迷っていた。
前に死を恐れて泣き叫ぶ姿でも見せてやれば良かったと……後悔をしたのを思い出したからだ。
だからしばらく考えていたが、わざとらしくなると思ったので正直に答える。
「怖くない。だが、無意味に死ぬのは怖い」
背負ったもの、犠牲にしてきたものに見合うだけの価値を発揮してから死にたかった。
だから魔王と心中しようと考えている。
もうそれくらいしかできることが残っていなかったから。
そんな面白みのない答えを受けて、アリスは小さく息を漏らした。
「生きようとか思わないんですか?」
「どうせいつかは死ぬ」
長い人生もいつかは終わる、という話ではない。
近い将来、狂った害獣になるから生きることを許されていない。
魔物になった時点で確定した話だ。
語るだけ無駄だというのに、アリスはなおも言葉を重ねる。
「でもほら、この人は思ってるかもしれませんよ。生きててほしい……なんて」
この人?
怪訝に思ってアリスに目を向けた。
すると彼女はなにか……手紙の封筒のような物を指に挟んで持っていた。
まるでアッシュに見せつけるかのように。
この人とは、手紙の差出人を指しての言葉だろうか。
「それは?」
「あなたに届いた手紙ですよ」
答えを聞いて理解した。
封筒がいつもと違うから気づかなかったが、そういう話なら身に覚えはある。
この手紙は、アッシュにいつも送られてくる手紙の一通だ。
送り主はずっと昔に縁を切った相手である。
「なぜお前が持っている?」
多少気を悪くしつつ問い詰めた。
普通は人の部屋の私物……それも手紙を持ち出したりはしないだろう。
しかし仮に嫌がらせと言われたら自業自得で引き下がるつもりだった。
アッシュはたとえ一時期でも、彼女の首輪を使っていたクズだからだ。
常識を問うような資格はない。
アリスが答える。
「ちょうど届いたんですよ、あなたがいない時に。で、私が受け取った」
つまり、この手紙を預かっていた者から受け取ったということだろう。
いつもはただ部屋の棚に届けて保管してくれるし、アッシュがいれば直接受け取る。
でも今回は彼女が勝手に受け取ってしまったようだ。
「あなたに渡そうと思ったんですが、中々タイミングがなくて」
言いながら薄く笑みを浮かべていた。
さらに手紙を差し出してくる。
さぁ読めと言わんばかりに。
面倒に感じてため息を吐く。
「……読まない」
「なぜ? そういえば、あなたの部屋にもたくさんありましたよね。開けてない手紙」
こうやって話す姿は、なぜだか少し楽しそうだった。
嫌がらせの一種なのだろうか。
本当に面倒だと思いながらアッシュは答える。
「理由はない。読みたくないから読まない」
「あっそ。じゃあ捨てますね」
言葉を言い終わるかどうかのタイミングで、アリスは手紙を焚き火に投げ込んだ。
一切ためらいがなかった。
「…………」
アッシュは焚き火の中で燃えていく封筒を見つめる。
紙が焦げて燃えクズになるのを見ながら、目も向けずにアリスへ言葉を投げる。
「満足したか? なら、もう消えろ」
しかし楽しそうな声が返ってくる。
「いやいや、全然満足してませんよ。まだまだあるんでもっと燃やしちゃいましょう」
思わず耳を疑った。
棚から持ち出してきたということだろうか。
反射的にアリスへと視線を向ける。
すると今度は見覚えのある封筒の手紙を持っていた。
「…………」
アッシュは何も言わなかった。
別に止めようとは思わない。
未練がましく保管していたので誤解させたかもしれないが、本当に読む気はなかったからだ。
それに、アリスには何をされても仕方がないとも思っていた。
あの最低の魔道具に……首輪に手を染めた時から決めている。
謝罪などする気はなかったが、手紙を燃やして気が晴れるならやればいい。
そう思ってじっと見つめていると、彼女は小さく鼻を鳴らした。
「なんです、その……ひどい顔は? そんな顔するくらいなら、素直に返してって言えばいいのに」
それから封筒を手から消した。
おそらくは空間魔術だろう。
理解できずに目を瞬かせていると、アリスはため息を吐く。
「流石に燃やすわけないでしょう。アレは偽物です。それから、持ち出してもいません。受け取った一通しか持っていませんよ」
封筒に見覚えがないと思ったら、先ほど燃やしたのは適当な偽物だったらしい。
まだまだあるというのも嘘で、代わりに受け取った一通しか所持していないようだ。
「…………」
事情は飲み込めたもののなぜこんなことをするのかが分からない。
アッシュは眉をひそめた。
「なにがしたい?」
「別に。ただ、一通も読んでいなかったようなので。送り主があまりにかわいそうだな、と」
棚を見た時の話だろう。
確かに彼女が見た限りでは封筒を開いた形跡すらなかったはずだ。
実際には一通だけ読んだのだが、それを彼女が知る由はない。
とはいえ余計なお世話だと思う。
うんざりして、衝動的にアリスを睨んだ。
「もう黙れよ、お前」
冷たく吐き捨てて、アッシュは少し後悔をした。
彼女の一連の行動は、根本的には気まぐれだろう。
しかし今回は悪意があってやったことではないはずだ。
ただ預かって、わざわざこうして渡しに来てくれただけだ。
ならこんな突っぱね方は良くなかったかもしれないと思ったのだ。
しかし偽物とはいえ、目の前で火に投げ込んだり、ずけずけと人の事情に立ち入ってきたり……あとは、魔物の影響で苛立っていたのもあるだろう。
そのせいで辛辣な言い方になった。
強い口調になった。
少しずつ自分の言動を制御できなくなっているのが分かる。
「…………」
取り繕うようにため息を吐く。
自己嫌悪を感じながら目を伏せた。
苦々しい気持ちだった。
何度か呼吸をして落ち着いて、改めて謝罪をする。
「……すまない。だが、読むつもりはない。どうかもう放っておいてほしい」
アリスは何も答えなかった。
しばらく沈黙が続く。
その間、なんとなく下を見ていた。
冴え冴えとした星の明かりのもとで、地面はすべて青ざめたような色になっている。
だがアッシュの足元は別で、焚き火の暖色に強く照らされていた。
整地されていない、自然のままの土の凹凸には不揃いな赤と黒が散りばめられている。
そんなふうに眺めていると、やがてアリスが語りかけてきた。
「読まないつもりですか? 燃やされそうになって、あんな顔してたくせに?」
顔を上げる。
アリスがじっと見つめてくる。
何も言えずにいると、彼女はゆっくりと言葉を続けた。
「この手紙、あなたの家族でしょ? ……ねぇ、何年無視したらあんなにたくさん溜まるんですか? どれだけ長い間、この人は手紙を送っているんですか?」
答えはずっとだ。
十二で旅立ってからずっと、その人はアッシュに手紙を書いていた。
しかしこんなことは答えない。
だからアリスは一人で話し続ける。
落ち着いた口調でゆっくりと問いかけてくる。
「……あなたが忙しいのは知っています。全て読むのは無理でしょう。でも、こうして届けても読まないのはなぜですか?」
また混乱する。
届けるまではかろうじて理解が及ぶものの、なぜこんなに食い下がって読ませようとするのか分からない。
少なくともアッシュなら、自分を首輪で縛っていた相手の事情を気にすることはありえない。
なので本当に意図が不明だったが、とりあえず彼女の疑問に答えることにする。
「もう縁を切ったから」
「じゃあなんで、わざわざ棚に入れておいたんです?」
再び言葉に詰まる。
こうして踏み込まれるとアッシュは矛盾だらけだった。
自分でもよく分からない。
魔獣や敵のこと以外で深くものを考えるような機会があまりなかった。
最初に読んで、次に届いた時に読まないと決めた。
そして戸棚に押しやった。
これを続けてきただけだ。
「…………」
何も言えなくなって俯く。
アリスが深くため息を吐いた。
目を向ける。
すると彼女は哀れむような顔をしていた。
どうしようもない物を見るような目で、じっとアッシュを見つめている。
初めて見る表情だった。
らしくもなく沈んだ声でぽつりと呟く。
「私は、なんだか時々……あなたのことがかわいそうになりますよ」
一瞬皮肉かと思った。
しかしもし本気なら、これもアッシュには理解できない言葉だった。
ずっと無視されている手紙の差出人ならともかく、こちらを哀れむ理由がない。
会話の文脈を見失って困惑したから頭をかく。
するとアリスは目を逸らした。
いつもの声に戻って謝ってくる。
「すみません、妙なことを言いました。……手紙は? どうします?」
その問いへの答えに頭を悩ませる。
なにせもう、生きてあの部屋に帰ることはないのだ。
この旅の先で『治癒師』を見つけたら、封印で少しだけ寿命を伸ばしてもらうだろう。
そしてその足で魔王と心中をする。
だから手紙は捨てる以外になかった。
どう伝えるかをしばらく考えて、ようやくアッシュは答えを絞り出す。
「いま俺に渡すか、お前の好きに処分しろ」
言いながら、多分渡してくれるだろうと考える。
受け取ったら少しあとで火に投げ込むつもりだった。
どうせ部屋にあるものだって、アッシュが死ねば捨てられる。
この一通だけ気にする意味はなかった。
無意味に保管してきたが、ちょうどいいきっかけなので捨てることにする。
「…………」
しかしアリスは立ち上がって、渡さないままテントへと歩き去って行った。
彼女の動きを目で追っていると、最後に振り向いて口を開く。
「預かっておきますよ。あなたが持っていたら、きっとなくしてしまいますから」
なくす、というのが捨てることを見抜いての言葉であるかは定かでなかった。
とはいえどちらでも良かったので返事をしておく。
「分かった。助かる」
それで会話は終わりだった。
アリスは戻って、二度と起きてくることはなかった。
だから一人でいつも通り朝を待った。
―――
しばらく旅が続いた。
帝国の領内を通過して、ようやくカースブリンクの国境をまたごうとしている。
しかしすぐに入ることはせず、国境そばで一日英気を養ってからの突入だ。
アッシュたちは帝国側の国境付近で一晩を過ごした。
この周囲には、長い敵対関係の名残なのか、とてつもない規模の要塞群がそそり立っていたりした。
けれど今は全く軍の影がない。
なので近くで休んでいても誰かに咎められることはなかった。
おそらく帝国にはもうカースブリンクに構っている余裕がないのだろう。
実際、サティアによればもう二年前には軍は常駐をやめていたのだという。
そんな寂しい場所で一晩を過ごして、アッシュたちは早朝に移動を開始した。
手段はアリスの竜に乗っての飛行である。
本人は面倒くさそうにしていたものの、シドたちとノインを乗せた経験から四人程度は運べるのは分かっていた。
ごねるアリスに頷かせて、薄く雲がかった空の下を飛んでいく。
眼下にはただ瘦せた土地ばかりが広がっていた。
さらに、遠くには険しい山脈や深い森も見える。
こうして見るとあまり豊かな国だとは感じられなかった。
と、考えながらもアッシュは下の様子に違和感がないかを探り続ける。
目的地である首都は国境近くにあるそうなので、このあたりにも相応の防備があってしかるべきだったからだ。
聞けばこの国は首都を国境近くに置くことで、最大の規模を持った拠点を護国の盾とする……という、どこかあべこべな方針を持っているらしい。
カースブリンクの空に入ってまだ間もないが、首都が近いのであれば気が抜けない。
ということで念入りに目を光らせていたのだが、アッシュはふと違和感に気が付く。
「兵士?」
呟いた。
下に鎧を着た一人の兵士がいる。
平野をふらふらと一人で歩いている。
「…………」
さらに目を凝らす。
するとすぐに気が付いた。
一人ではないと。
さらに先には、まばらに兵士が配置されている。
いや、配置という言葉が正しいのかはわからなかった。
人らしくない、酔い潰れた足取りにも似た不安定な歩行でうろついているだけだからだ。
数えきれないほどの異様な兵士が歩き回る光景に目を細めた。
そして……やがて気が付く。
彼らはもう死んでいると。
「サティア」
全てを察してサティアに呼びかけた。
確認のためだ。
つまりこれが、ガルムが見たものであるのかという確認。
すると彼女は、竜の背に座っていたサティアはにやりと笑う。
不敵に笑ってそれを認めた。
「……そうよ、これは……『侵す者』によって、動かされる屍の兵団。ひいては極大規模での生命に関する魔術の使用」
つまり、非常に有力な『治癒師』の痕跡である。