四話・いくじなし
「あらあら、アッシュさん。酒場で乱闘ですか? 荒んでますねぇ」
部屋に入るなり、昨日と同じ椅子に座っていたアリスに言われた。
血がついた顔で、酒の匂いを纏って帰ってきたからだ。
本気かは知らないがそう捉えたらしい。
特に訂正する気になれなかったので、無視して言葉を返す。
「なぜお前がいる?」
彼女は本当に、なぜ封印官でもないくせにアッシュにまとわりつくのか。
昨日までならまだ監視ということで意味が分かる。
しかしもうアッシュは街を出るだけだ。
今さら話しかけてくる意味が分からない。
だから聞いたのだが、アリスは答えず椅子から立つ。
立って、わざわざテーブルの上に座り直した。
机の上に腰掛けてバカにしてくる。
「しかし酒場でいざこざなんて。流石のあなたも……そう、死が迫っては! 死が迫っては! …………ヤケになるってことなのかなぁ」
死が迫って、と大声でアリスは言った。
妙に一部だけ強調するような言い方だった。
意味の分からない行為にいい加減うんざりしてきた。
ただでさえ魔物の侵食で苛々しているのに、無駄な話を聞いていると頭が痛くなる気がした。
相手にする意味がないと判断して、構わずノインを探そうとする。
「えっ……」
しかし声がした。
話そうと思っていたノインはもう目の前にいた。
奥の……ベッドがある部屋から出てきて、アッシュをじっと見つめている。
「あの……死が迫って、というのは……どういうことでしょうか?」
愕然としたような表情で続けた。
これで腑に落ちた。
さっき、アリスはきっと彼女に聞かせようとしたのだろう。
深くため息を吐いて、また面倒なことになったと考える。
―――
結論から言うと、ノインがついてくると言い出した。
サティアが丸め込んだせいだ。
アッシュを救うために必要な『治癒師』を探しに行くのだと……そういう風に解釈できるように伝えてしまったからだ。
だからもう、どれだけ説得しても彼女はついていくという言葉を曲げなかった。
「……いいえ。あたしはついていきます。一緒に『治癒師』様をお探しします」
何度目の押し問答だろうか。
最終的にアッシュが死ぬだけの旅に付き合う必要はなかった。
しかも、今は彼女を修道院から連れ出した時とは事情が違う。
もう無理をする意味がない。
勇者の戦いの影で生きればいい。
大きな街と周辺の地域を一つ、守るような暮らしをしてくれるなら十分すぎる。
それだけで多くの人々が救われる。
けれどノインは頑として首を縦には振らなかった。
彼女を横目に、へらへらと笑いながらアリスが冷やかしてくる。
「アッシュさん、ノインちゃんが優しくて良かったですね。あなたは黙って置き去りにしようとしたのに。心配してくれてますよ」
その態度に軽く殺意を覚える。
今の状況はサティアのせいでもあるが、元は彼女が余計なことを喋ったせいだった。
ノインのような人間がどう感じ、どう動くかなど分かりきったことだった。
なのにアリスは伝えてしまった。
苛立ちを込めた視線を送ると、彼女はにやりと笑って右手をひらひらと動かす。
「お、殴るんですか? 乱闘しちゃうんですか? やだなぁ、魔物って怖い生き物なんですねぇ……?」
言いつつなぜか歩み寄ってきた。
こちらの自制心を試すような、挑発を秘めた目でじっと瞳を覗き込んでくる。
「…………」
どうも、とことんおちょくるつもりのようだった。
この程度は普段なら気にしないくらいの悪ふざけではある。
けれどノインを巻き込んだことと、魔物の精神汚染のせいでこらえるのが難しかった。
何度かため息を吐いて、歯を食いしばってようやく平静を保つ。
自分の精神状態を自覚していなかったら、なにか酷いことをしていたかもしれない。
「……はぁ」
するとまた、アリスが意地悪く笑う。
「あら、人間らしい顔になったじゃないですか。面白そうなんで私もついてきてやりますよ」
彼女もついてくるのだという。
正直なところ断りたかったが、それは無理だろうとも思う。
まるでアリスは自分の考えでついていくようなことを言っているが、首輪つきの彼女にそこまでの自由意志は許されていない。
よって、ついてくると言うのならば神官として事前に与えられていた任務なのだろう。
アッシュたちが三の魔王と戦いに行くかどうかの監視の役割だろうか。
ならばこれを拒むことは面倒に繋がる。
「……いや」
アッシュは小さく呟いた。
多分、少し違うと思い当たったからだ。
きっと正確には、アッシュたちがきちんと王都から離れるかを監視するためだ。
人造勇者を排除した上で、聖職者たちは何らかの政変を起こしたがっているのかもしれない。
このタイミングでの神託をそういう意味でも利用していそうな気配がある。
排除するまでもなくアッシュは勇者に勝てないし、カイゼルが失脚しても助けることなどないのだが。
役に立てなくなったなら、さっさと死んでくれとしか思えない。
そして、あとは……もう一つ目論見がありそうだった。
きっとこの旅に同行することで、可能ならば治癒師を先に教会の勢力に取り込むつもりなのだろう。
もう神官たちにも、治癒師との接触を狙うであろうことは読まれていたはずだ。
なにせ客観的に見ても、サティアが何か治癒師に関する情報を持っているのは想像に難くない。
そのアテがなければ、魔王討伐を受け入れた彼女はただの自殺志願者だ。
だから奴らは横取りを狙う。
それで、ついて行くように任務を与えていたのかもしれない。
……などと考えはしたが、予想がどこまで当たっているのかは知らない。
けれど同行するのがなにかの企みだというのはよく分かる。
「…………」
とはいえアッシュは、別にどうでもいいと思い直した。
神官の思惑がどうであれ関係がない。
サティアは気にするかもしれないが、これから死ぬアッシュにはまるで関係のないことだった。
むしろ移動や補給の面で、彼女に頼ることができるのはメリットだと思う。
断れないのであれば利用するだけだ。
「分かった。お前はついてこい」
少し睨んでアリスに伝えた。
だが彼女は何も答えない。
正確には何かを言おうとしたようだったが、アッシュの顔を見て何故か口を閉じた。
続けてノインが語りかけてくる。
「あの、あたしも……」
ついていくということだ。
だがアッシュは首を横に振る。
「駄目だ。君には他に仕事がある」
本当は、ただ死にに行くだけなのだ。
その前に治癒師を探しに行くというだけの話だ。
だから連れて行く意味がない。
なのに、サティアがのんびりとした顔で間に入ってくる。
「まぁ……連れて行けば、いいじゃない。戦力は、多い方が、いい」
しかしアッシュは戦力など必要ないと考えている。
彼らと魔王を倒しに行くつもりがないからだ。
もう勇者が現れたのだから、普通の人間が魔王と戦うような……危ない橋を渡る必要はない。
今回は勇者が出ないようだが、それならもう余命がないアッシュに任せておけばいい。
だから言い返そうと思ったが、サティアに続いてアリスも口を開く。
彼女は無表情で、アッシュをじっと見つめていた。
「自分で連れ出したくせに、ちょっと事情が変わったら黙って置き去りですか? でもそれって、すごく自分勝手だと思いません?」
言い返せなかった。
本当は分かっているからだ。
ノインは決して、魔獣を殺すためだけについてきたわけではない。
人間として生きようとして、旅の中に新しい自分の居場所を作ろうとしていた。
だからアッシュなどの心配をする。
恐怖を噛み殺して、魔王との戦いにもついてきてくれた。
アッシュは彼女のそんな気持ちを都合よく利用して連れ出した。
なのに必要なくなったら捨てようとしている。
だからアリスは刺すような口調で続ける。
「あなたって、人のことなんだと思ってるんでしょう? 王様みたいに振る舞いたいなら、全人類に首輪でもつけてみては?」
彼女は少し怒っているように見えた。
いつも態度が悪いが、今はさらに意地悪く感じる。
その気持ちは分かる。
アッシュがノインの意思を踏みにじっているからだ。
何も知らずに一方的に別れることなど、あの子は望まなかっただろう。
だがそれは、ここで別れないともっと不幸にしてしまうと思ったからだ。
「…………」
アリスの言葉の鋭さに呑まれていたが、なんとか声を絞り出して反論する。
何も言い返せなければ受け入れるしかなくなってしまう。
「……もっと、良い居場所を作れる。勇者がいるから、そういう風に生きられる」
アッシュはこれまで多くの犠牲を払いながら生きてきた。
化け物になりながら戦ってきた。
それは勇者がいなかったからだ。
けれど今はいる。
アッシュは今さら生き方を変えることはできないだろう。
しかしノインはまだ手遅れではない。
普通に生きられると思った。
戦いをやめてほしくはなかったが、もっと人間らしい、犠牲を払わずに戦える場所があるはずだった。
それでも、アリスは冷たく否定を返す。
「それ、誰が決めるんですか? もっと良いとか、悪いとか。勝手に決める権利があるんですか?」
さらに正論を重ねてくる。
実際、アッシュがかつて大切にしていたものだって、他人からは欲がないと笑われるようなものだった。
何を大切に思うかなど人それぞれだ。
勝手に決めていいものではない。
「…………」
思わず下を向いた。
だがアリスは歩み寄って、さらに顎を掴み上げてきた。
逃がす気がないようだった。
無理矢理に目を合わせてくる。
冷たい瞳がアッシュの本心を覗き込んでいる。
「ねぇ、そりゃあ、あなたはクソですよ。でもあの子はわざわざ関わろうとしてくれてる。なら、惨めに捨てられるまでは馬鹿みたいに尻尾振ってなさいよ」
連れ出した以上、終わらせる権利はアッシュにはないという事実を突きつける。
厳しく言って、最後に彼女は耳元に顔を寄せた。
侮蔑しきった声で、小さく囁き声を伝えてくる。
「……このいくじなし」
今の言葉で全てが読まれていたと分かった。
つまりアッシュは不安だったのだ。
一緒にいれば絶対に苦しい思いをさせる。
聖職者たちから守り切る自信もない。
もう人を不幸にするのには疲れた。
だがそれだって仕方ないはずだ。
ただでさえアッシュは弱いのに、その上もうすぐ死んでしまう。
ノインの人生に責任を持つことなどできない。
「…………」
俯いたまま考える。
どうやってアリスの正論を覆すか。
あるいはいかにしてアッシュの暴論を通すかを。
だがそこで、初めてノインが口を開いた。
「あたしだって、自分で選べますから」
はっとして顔を上げる。
ノインもアッシュを見ていた。
優しいような、悲しいような目をしていた。
でも思っていたよりずっと確かな光がある目だった。
「…………」
多分、自分がどうなろうがアッシュのせいではないと言いたいのだろう。
自分で選んで生きているのだと主張している。
それを踏みにじるのなら、人形として扱うのと何も変わらない。
あの、彼女がいた修道院と同じだ。
だからアッシュは、完全に言い負かされたと認めるしかなかった。
「…………なら、もう、好きにすればいい」
小さく言ってため息を吐いた。
目を伏せる。
だが今度はアリスに右の頬をつねり上げられて、無理矢理に顔を上げさせられる。
「…………?」
なんのつもりかと彼女を見た。
にやりと笑って瞳を覗き込んでくる。
そのまま、舐め腐った声でアッシュを叱った。
「コラ、『ついてきてくれてありがとう、ノインちゃん』……でしょ?」
直後に頬からは手を離してくれた。
しかし代わりに尻を叩かれる。
うんざりして、アッシュはため息を吐いた。
「……ついてきてくれてありがとう、ノインちゃん」
面倒だったので従う。
ノインを見て復唱する。
難癖をつけられたくなかったのでちゃんと頭も下げた。
するとアリスは小さく鼻を鳴らした。
バカにしたような、それでいて面白がるような薄ら笑いを浮かべる。
「はい、よくできました」