50000UA記念SS集
五万ユニーク記念短編集です。
多くの方に見ていただけたことに感謝申し上げます。
夜明け前、とある教会に少年がいた。
王都の片隅の小さな教会だ。
さらに正確には、その教会の狭い庭だろうか。
雪が降る中、彼はひとりでベンチに座っていた。
歳は十二か、あるいは十三か。
まだ幼さを残す少年だ。
ところどころ焦げ付いた肌の、異様な姿をしている。
また、黒革の鎧の上に白の外套を着込んでいるのが分かる。
そして外套のフードを深く深く被っている。
とはいえ今は冬の朝で、しかも雪まで降っていた。
それを思えばいささか軽装だった。
外套とフードで防げるような冷気ではない。
けれど寒さに震える様子もなかった。
ただじっと座って、疲れ切った顔で空を見上げていた。
その視線の先には煙がある。
どこまでもどこまでも、高く伸びていくひとすじの煙だ。
これは教会に備え付けられた炉の、煙突が吐いた物であった。
アトス教のもとでは土葬が主であるが、疫病が流行った場合などは火葬も行う。
そのためいくらかの教会には炉が備えてある。
つまり、今は火葬が行われているようである。
そして少年は何も言わず、ずっと遠ざかる煙を見ていた。
煙は高くのぼって、まだ星が残る暗い空へと去っていく。
―――
――
―
『SS・お墓を作ろう』
例のオークの事件のあと、俺とリリアナは二人でお墓を作ることにした。
スコップを借りて、二人で一緒に穴を掘った。
そして、その穴の奥に木組みの十字架を突き立てる。
傾いてしまったりして、ちょっと頼りない感じだったけど、最後にはなんとか上手く収まった。
でも、出来上がった頃にはもう夕方になっていた。
「ありがとう、銀貨。ステキなお墓ができたね」
リリアナがそう言って笑った。
俺は頭をかいた。
別に、俺のかあさんたちのお墓でもあるからお礼なんていいのにと思ったのだ。
だがそれはともかく、まだ重要な仕事が残っている。
「まだ埋めてないよ」
ステキなお墓……と言えるのかは分からないけど、完成は土で埋め立ててからだ。
すると彼女もうなずいた。
「そうね。銀貨はなにを埋めるの?」
お互い、埋めたいものを持ち寄ってきたはずだった。
俺はあのやぶれた外套を持ってきていた。
「これ」
地面に置いていた外套を手に取って見せる。
まじまじと見つめたあと、リリアナはうなずく。
「そっか。わかった」
「リリアナは? なにを持ってきたの?」
俺が聞くと、彼女はポケットの中からなにかを取り出した。
ネックレスのように見える。
俺の知る限り、ネックレスはお祭りの時の村長が首に下げるものだ。
でもこれは、村で見た物とは様子が違う。
きれいな金属でできていて、輪っかの先に何か丸いものがついている。
銀色の、少しだけ縦長に伸びた球体だ。
もしかしたら、なにか高級な材料でできているのかもしれない。
「…………」
よく分からなくてじっと見つめる。
思い出のある物なのだろうか。
そんな俺の様子が面白かったのか、あいつは楽しそうに笑った。
「気になる? ロケットって言うのよ。特別に見せてあげるね」
言いながらネックレスの、銀色の部分に触れた。
ロケットと言うらしい。
よく見るとサイズが大きいから、大人が身につけていたロケットなのかもしれないと思った。
そしてその、銀の球体が開いた。
なにかのフタが開くように、半分に分かれて中身が見えるようになったのだ。
いや、フタというよりは本かもしれない。
ともかく半分に開いたロケットの中には、リリアナに似ている少女の絵があった。
「じゃーん。ほら、これ、わたしなんだよ」
楽しそうな感じで教えてくれた。
俺は思わず聞き返す。
「え、そうなの?」
すると、彼女は口を尖らせて小突いてきた。
「なによ、ほんとにそうなんだもん」
俺は眉を下げる。
でも絵の中の少女……リリアナはとてもきれいな白いドレスを着ている。
それに、少しだけ今より子どもな感じがする。
あとちょっと美人になってる。
でもまぁ、それはともかく、俺はこんなものを見るのは初めてだったのでとても驚いた。
「すごいね、これ。本当に埋めちゃうの?」
俺だって、まだこの外套が使えるなら使いたい。
破れて使えなくなったから埋めるだけなのだ。
しかし、リリアナはこんな立派なロケットを埋めてしまうのだという。
本当にいいのかと、気になって俺は聞いてみた。
すると彼女はちょっと悲しそうに笑った。
「……うん、いいの。だってこれ、お母さんのなんだよ」
つまり、彼女のおかあさんが大切にしていた物なのだろう。
なら埋めてあげたほうがいいのかもしれない。
確かにそんな気がする。
「そっか」
でもこんなものを作るなんて、本当にお金持ちだったのだと感心した。
きっと、とてもお金がかかるだろう。
「すごいね、これ。あと一回見せて」
もう少しだけ見たかったのでお願いする。
すると、なんだか自慢げに見せつけてきた。
「いいよ。ほら、カワイイでしょ」
俺はまたリリアナのロケットを見た。
絵の中の彼女はとても幸せそうな顔をしていた。
満面の笑み……というほどではないけど、なんだかとても満足しているように見えた。
幸せに暮らしていたのだとよくわかった。
「ありがとう、もういいよ」
しばらくして言うと、彼女はちょっと笑ってロケットを閉じた。
それから、俺たちが掘った穴をじっと見ている。
もしかすると、リリアナはこのロケットを埋めたくないのではないだろうかと気がついた。
「大事なら、持っててもいいと思うんだけど」
だからそう伝えたが、彼女は首を横に振った。
なぜか悲しそうな顔をしていた。
「ううん。ちゃんと返さないと」
「でも……」
「いいの」
言葉を遮られてしまった。
まだ説得しようか悩んだ。
でも結局なにも言えずにいると、彼女がぽつりと言葉を漏らす。
「……わたしがね、喧嘩して隠しちゃったんだ。わたしよりお金のほうが大事なんだって言って。だから、こんなのいらないでしょって」
結局そのまま、色々あって死に別れてしまったらしい。
言いながら、リリアナは服の袖で涙を拭い始めた。
泣いてしまった。
「宝物だったって知ってるのに。避難が遅れたのも、もしかしたら……でも、でも、持ってるって言えなくて……」
あとからあとから涙が流れていた。
彼女は泣いて、しゃくりあげ始める。
だから、俺はリリアナをそっと抱き寄せた。
すると彼女は泣きながらしがみついてきた。
少しだけ手が震えていた。
「うぅっ……ごめんね、お母さん、ごめんなさい…………」
彼女の方がまだ背が高い。
だからちょっとだけ手を伸ばして、泣いているリリアナの頭を撫でてやる。
そしてなるべく優しく語りかけた。
「大丈夫。二人で、一緒に返そう」
ロケットを返せなかったことが、彼女の心残りであったのだと分かった。
なので俺はそう言った。
すると、彼女は何も答えなかった。
ただ強くしがみついてくる。
「…………」
それから、しばらくして彼女は泣き止んだ。
だがまだ埋める気にならないのか、穴のそばに座り込んでいた。
座って、ずっとロケットを見ている。
隣に腰を下ろすとなぜか謝ってきた。
「……ごめんね、泣いちゃって」
「いいよ。そうだ、俺、面白い話するよ」
俺の言葉で、リリアナがぱっと笑って俺を見つめてくる。
でも実は面白い話なんてない。
ただ、慰めるためにとっさに口をついた言葉がこれだったのだ。
「…………」
ちょっと困ってしまった。
とはいえ、言い出した以上もうやめられない。
悩みながら、俺は記憶を手繰り寄せる。
なにか面白いことがあったのではないかと考える。
すると少し前の、シーナ先生とヴィクター先生のやり取りを思い出す。
だけどあれはダメだ。
シーナ先生の名誉のために秘密にしなければならない。
「…………?」
さらに考えていると、リリアナが不思議そうな表情を浮かべてしまう。
俺は焦って、ほとんど何も考えずに口を開いた。
「えっと……じゃあ俺が、ヘンなきのこ食べた話するね……」
掘りたての芋に、かじりついた話で笑っていたのを思い出したのだ。
だから言うとあいつは楽しそうに笑った。
少し俺に体を寄せて、わくわくした顔で話を聞こうとする。
つまり、どうやら当たりだったらしい。
「えー、聞きたい聞きたい」
彼女の反応を見て安心する。
リリアナは、俺がヘンなものを食べる話が好きみたいだ。
―――
『SS・孤児院の怪』
ヴィクター先生の部屋で、貰い物だという紅茶をごちそうになりすぎてしまったせいだ。
夜中、トイレに起きた私は暗い廊下を一人で歩いていた。
『僕はいらないから皆で全部飲んでいいよ』……なんて言われて、さらに『リリアナちゃんは美味しそうに飲むねぇ』なんて褒められて。
調子に乗ってお腹がたぷたぷになるくらい飲んでしまったから、かなり危ないところだった。
寝る前にちゃんと済ませたのに、それでも夜中起きてしまうのだから。
九歳にもなっておもらしなんて笑えない。
「うぅ……もう飲みすぎないようにしないと」
ひとりごとを漏らして、私は一人で廊下を歩く。
でもちっとも怖くなかった。
おばけを信じていないから、夜中だって少しも怖いと思わない。
暗くてちょっと不気味だけど、いつもの孤児院と変わらないってちゃんと分かっていた。
でも。
「…………ん?」
足を止めた。
なにか、足音がしたような気がしたから。
自分の足音?
いや、でも……まだ聞こえてる気がする。
というか近づいてきている。
だから、思わずうろたえてしまう。
「え、なになに……?」
間違いない。
なにか、背後から来ている。
振り向いた。
すると、長い廊下の先に……窓から差し込む薄い月明かりの下に、大きな人影がある。
「…………!」
声は出さない。
ちょっと驚いたけど、きっと先生だ。
冷静に戻って、落ち着いて呼びかけようとした……その時。
「!!」
人影が走り出した!
つい悲鳴を漏らしてしまう。
血の気が引いた。
お花を摘みに来ただけなのに、なんでこんな目に?
「うわぁぁぁぁ! やだやだやだぁ……!」
影は走って追いかけてくる。
その走り方がなんだかおかしくて、いかにも人間っぽくない。
ふらふらと、よろめきながら駆けてくる。
私は恐怖で頭が真っ白になった。
その影から逃げる。
しかし逃げ切れない。
足音はどんどん近づいてきている。
すぐ後ろに来た。
もう捕まってしまう。
「待ってー! 殺さないでぇーー!」
叫んだけど、容赦なく人影が飛びついてきた。
戦闘の訓練を受けてはいたものの……勝てる気がしなかったので命乞いをした。
しかし人影は、暴力は振るわなかった。
後ろから私に抱きついてきただけだ。
そこで、ようやく気がつく。
お酒くさい匂いに。
「殺したりしないよぅ。えへへ、ほっぺたがぷにぷにねぇ」
なんて言いながら、人影は……シーナ先生は、私に抱きついていた。
なんだか酔っているみたいだった。
お酒を飲んで、トイレに行って、私を見つけて追いかけてきたってこと?
どうにか理解しようとする間も、ずっとほっぺたをむにむにされていた。
「かわいいー。ほっぺたかわいい……うふふ。かわいい、かわいい……うふふ、あはは、あはははっ」
「えっ、と……」
戸惑っていると、さらにほっぺたをぐにぐにされる。
あと頭も撫でられている。
体のあちこちに頬ずりまでされている。
私は本当に混乱していた。
シーナ先生が下品な感じで笑いながら、ぎゅっと抱きしめてくる。
力が強くて逃げられないから私はうめいた。
「うぅぅ……」
様子が、おかしい……。
なんとか逃げようとすると、とても悲しそうな声で引き止めてくる。
ますます強くしがみついてくる。
「なんで逃げちゃうの……? 私のこと怖いと思ってるんでしょう……うぅ、そんなことないもん。うわぁぁ……うわぁぁぁ」
「んーーー?」
まさかこんなに変わるなんて。
お酒って怖いなって私は考えていた。
だけど少し黙っていると、今度は急に泣きそうな声になる。
「でも、こんなかわいいほっぺたを……私は、私は、叩いちゃったのよね……うぅ、ごめんね……本当に…………」
うわーー、世界の終わりだーーー。
なんて、意味の分からないことを言って先生は倒れる。
ほっぺたを叩いたというのは、おそらくオークを傷つける訓練の邪魔をした時のことかもしれない。
それは別に、最初から気にしてなかった。
「あのー、先生?」
「私を、私のほっぺを叩いて……。リリアナちゃん。強く叩いて。強くね……」
地面に、仰向けに寝そべったまま先生が言う。
叩かずにいると、またうわーーーーんと声を上げる。
ちょっとどうしていいのか分からなかった。
「いや、えっと」
「叩かないの? 優しいのねぇ。こんな、こんなダメ教官に、優しくしてくれるのね……。ううっ、優しいよぉ、優しいよぉ……うえーーーん、幸せだよぉーーー」
それからまた、次は突然立ち上がる。
ふらつく足で近づいてきて、私を強く抱きしめてくる。
さっきは後ろからだったが、今度は前からだ。
髪に頬ずりをされる。
再びほっぺをにぎにぎされる。
目と鼻の先に、だらしない笑顔の先生がいた。
「かわいいーー、かわいい……こんな時間になんで起きてるのかなーー、かわいいーー」
「それは、わたし……トイレに……」
「ああ、ごめんねぇ。一緒に行こうか。……あははは」
トイレに行きたかった、というのは半分伝わったようだ。
しかしまだ行っていないと思っているらしい。
それで半分。
楽しそうに、鼻歌交じりで先生は私をお手洗いに連行していく。
「さぁ、行きましょう。トイレ、トイレ♪ トイレ許可出しまーーす♫ ありがとうございまーーーす♬」
「あの…………」
もう行ったんですけど!
って言いたかったけどやめた。
もう寝たいけど、まぁ、いいか……。
思い直して、私は先生のなすがままに進んでいく。
すると、なぜかそのまま先生の部屋で一晩を過ごすことになった。
抱き枕にされながら、今日のことはきっと秘密にしておこうと私は誓った。
―――
『SS・ヴィクター先生のお部屋』
「トイレ許可願いまーーーす!」
「出しまーーす♫ ありがとうございまーーす♬」
「トイレ、トイレ♪」
休日に、食堂で昼食をとったあと。
いつもの席でリリアナたちと三人で話していた。
すると近くで妙な声が聞こえた。
これは最近、微妙に流行っているシーナ先生の言葉だ。
トイレ行ってくると言いたい時に、そして言われた時などに使える。
と、そんなことを考えていた時。
「あ、そうだ」
リリアナが突然声を上げた。
だから俺は、どうかしたのかと聞いてみる。
「なにかあった?」
「いや、ヴィクター先生の部屋に遊びに行く約束してたんだよね」
「ああ」
ヴィクター先生はいつも忙しそうにしているので、急に部屋を訪ねると困らせてしまう。
だから、みんないつからか約束をしてから行くようにしていた。
そして今日はその約束の日らしい。
すると、そこで不意にウォルターが声を上げる。
「そういうことなら、俺はそろそろ行く。訓練をする」
元々、少し話したら切り上げるつもりだったのだろうか。
言い置いて立ち去って行った。
彼を見送ったあと、俺とリリアナは二人で先生の部屋に行くことにした。
「ねぇ、俺も行っていいのかな?」
「いいよ、きっと。先生も喜ぶよ」
俺は約束をしていないから、行ってもいいのか少し気になったのだ。
でも来ていいのだと彼女は言う。
俺もそんな気がしてはいたから、特に気にせず行くことにした。
ヴィクター先生は、いつもみんなに優しいから許してくれるだろう。
それから歩くと、やがて俺たちは先生の部屋の前にたどり着く。
元気にドアをノックして、リリアナが先生に声をかけた。
「入ってもいいですかぁ!」
すぐに部屋の中から返事が来る。
「いいよー」
だから部屋に足を踏み入れる。
すると、中にはヴィクター先生と……三人の子どもがいた。
小さなテーブルに窮屈そうに並んでお勉強をしている。
左からハルトくん、ケニー、エヴァンズだ。
そして先生は、彼らの向かいに腰掛けて本を読んでいた。
「やぁ、リリアナちゃん。リュートくんも」
にっこりと笑って手を振ってくれた。
リリアナも笑顔で手を振り返した。
「こんにちはーー!」
しかし俺が口を開くよりも前に、彼女は一転して口を尖らせてハルトくんたちに語りかける。
「ちょっと、なんでいんのよ!」
「はぁ? いちゃいけねーのかよ?」
ハルトくんが言い返す。
思いっきり喧嘩を売るような、なんかムカつくような変な顔をしてこっちを見ていた。
他の二人、ケニーとエヴァンズも同じ顔になって俺たちを見てくる。
だがその瞬間、無言でヴィクター先生が本を閉じた。
微笑みを浮かべながら三人を見る。
「あれ? 喋る許可出したっけ?」
「…………」
すると見事に三人は黙り込んだ。
お勉強に戻る。
そして、俺はようやく状況を理解した。
これはあれだ。
宿題を出さないまま逃げ回って、ヴィクター先生を怒らせてしまったんだ。
三人は先生の部屋に宿題をしに来たのだろう。
そんなふうに考えていると、先生がこちらを向いた。
「まぁ、二人とも座りなよ」
座ってよと言うように、先生の部屋には椅子がたくさんある。
部屋の片隅に、小さな丸椅子が重ねて置いてある。
子供がいつもたくさん遊びに来るからだ。
昔は全然ものがなかったけど、今の先生の部屋はかなり色んなものがある。
みんなが置いていった物や、みんなのために先生が用意したものだ。
棚やちょっとした小物入れが増えて、壁や床をすっかり占領してしまっている。
「はーい」
リリアナが返事をした。
ともかく、俺たちは先生の横に腰かけた。
リリアナは先生の横に座った。
俺はテーブルの横側に一人で座った。
ケニーたちのように三人で並んでもいいのだが、ヴィクター先生が大人だから体が少し大きい。
三人で並ぶには少し机の幅が足りない。
だからちょっと崩れた感じで、俺だけ横に外れて座った。
そして先生と遊ぶことにした。
「何して遊ぶ?」
先生が優しく笑って言った。
俺はなんにも考えてきてない。
だからリリアナの方を見ると、笑顔でピースをしていた。
「おしゃべりしましょうよ!」
「ああ、いいよ。じゃあ話そう」
そうして、窮屈な机でおしゃべりを始めた。
でも反対側では恨めしそうな顔の三人がお勉強をしている。
俺は時々そっちを見て、ニヤニヤしながら楽しく話をする。
するとやがて、何故かヴィクター先生の部屋についての話題に行き着いていた。
リリアナが懐かしそうに笑う。
「でも先生のお部屋ってずいぶんと……豊かな感じになりましたよね」
なんて言って椅子をずらして、横向きに座って部屋を見ていた。
ヴィクター先生も顔だけ横に向けて周囲を見る。
そして小さく声を漏らす。
「……ああ」
先生の横顔は、なんとも言葉にできない曖昧な表情を浮かべていた。
あ、本当だ……と、なにかに気づいた時のような、もしくは自分でもよく分からないと不思議に思っているような、あるいは少しだけ困ったような顔でもあった。
「…………」
そんな顔で、小さく口を開けたまま先生は部屋を見る。
呼吸三つ分ほどこのままでいた。
しかしぱちぱちと瞬きをした後、ちょっと上の空な声で答えた。
「そうだね」
小さくつぶやいたあと、先生は優しく微笑んだ。
いつもの笑顔とはちょっと違う気がした。
なにか秘密を後ろ手に隠しながら笑ったような、どこか影がある微笑みだと感じた。
俺は昔の先生の空っぽな部屋を思い出す。
どこか薄暗くて、怖いような部屋を。
そして、先生の人生にもきっと色んなことがあったのだろうと思った。
いつか俺は、そんな話を聞くことができたらいいなとも思う。
悲しい話でも、楽しい話でもいいから。
なんてしんみりと考えていると、リリアナがまた声を上げる。
彼女は先生の機微に気づいていないのか、なんとも呑気な様子だった。
「ん、あれ? なんかまた増えてますよね?」
楽しげに言って席を立つ。
先生もちょっと慌てたように続いた。
ついでに俺も席を立つ。
それで、次は部屋の物を見て回ることになった。
先生の部屋には本当に色んなものがある。
一つ一つ見ていたらキリがないくらいだ。
懐かしいものもずいぶんあって、俺たちは楽しく話しながら見ていた。
そして、やがて壁際に置かれた棚の一つの前に立つ。
ここにはなんだか下らないおもちゃがたくさん置かれている。
風車とか、コマとか、踏むと変な音がするクッションとか、紙に描いた絵とか、粘土で作った不格好なオブジェがいくつも……とか。
見ればものすごく古い、くたびれたぬいぐるみもある。
「なにこれ? やだー、ひどーーい」
リリアナが笑って粘土のオブジェを一つ手に取った。
見ればそれは……うんちだった。
誰かが粘土で立派な巻きうんちを作っていたのだ。
先生が困ったように笑う。
「……昔みんなで粘土遊びした時に、ハルトくんが作ったんだったかな」
「こんなの置いてちゃダメですよ、先生」
彼女はけらけらと笑っている。
俺も笑ってハルトくんの方を見た。
すると彼は恥ずかしそうに苦笑いをしていた。
でも、まだ宿題が終わってないのか何も言わない。
二人の会話は続く。
「いや、なんか……捨てられなくて」
「トイレに流しちゃいましょうよ!」
話を聞きながら、俺もちょっと見るともなく周りを見ていた。
するとある物に目を奪われる。
壁の片隅、日陰に吊るされている、小さな額縁に飾られた押し花だ。
とはいえ別に、そこまできれいだとは感じなかった。
何故ならずいぶんと色あせてくたびれていて、花びらもいくらか壊れてしまっている。
きっとしおれてから加工されたのだろう。
さらに古いもので、出来栄えから見るに作った人もあまり慣れてはいなかった様子だ。
でも、なんだかとても大切にされているような気がした。
だから目を奪われた。
あの花にもなにか思い出があるのだろうか?
「…………」
しかし尋ねることはせず、また三人で別の物を見る。
今度は小さな本棚だ。
小説や、魔術に関する難しそうな本が置かれている。
でも置いてある本のいくつかに違和感を覚えた。
「?」
革の表紙の背に書かれたタイトル、というか文字が手書きのものに見えるのだ。
そして縫い上げてとじてある冊子も、どこかお手製のような印象を受ける。
気になって、つい許可も得ずに手に取ってしまった。
「この本は?」
聞くと、先生はちょっと目を瞬かせる。
一瞬だけ酷く緊張したような気がした。
だがすぐに息を緩めて笑う。
「これは、みんなの作文とか……テストの答えとか……そういうのを保存してるんだ」
俺はちょっと驚いた。
そんなものを保存してどうするつもりなのだろうかと。
「なるほど。見てもいいですか?」
「いいよ」
開いてみる。
先生の仕事は丁寧だった。
丁寧に紙を重ねて、縫い上げて本にしている。
「…………」
紙の答案がたくさん保存されていた。
普段は石板に答えを書いて先生が見て回る形だったが、重要そうなテストではこうして紙を使って答案を集めることもあった。
そして、横から冊子を覗き込んでいたリリアナが口を開く。
「どうしてこんなの集めてるんですか?」
彼女は言いつつ先生に目を向ける。
すると先生は照れくさそうに笑った。
「答えを見てると、みんなが何が分からないのかとか、何が楽しくて勉強したのかとか、そういうのが分かるんだ。授業に活かせるんだよ」
深く感心して俺は頷いた。
「そうなんですね……」
そういう訳でわざわざ紙にして、持ち帰って分析していたのだろうか。
なら、先生は俺たちが思っているよりずっと手間をかけて授業をしてくれていたのだ。
しかし一方で思う。
授業に活かしたあとは保存しておく必要はないのではないかと。
別の冊子の文字はとても幼くて、汚かったりもした。
多分とても古いのだ。
あとは、作文もとっておく意味はない気がする。
「…………」
しかしそれを聞くのは野暮だと思った。
だから黙って冊子をめくって懐かしんでいると、先生が不意に小さな笑い声を上げた。
楽しそうな声だった。
背後から、俺とリリアナの間に立って冊子を見ている。
「ああ。そのあたりはみんな、字がかわいいよね」
ちょうど作文の冊子を見ていた時だった。
みんなが下らないテーマで、のびのびと書いた文章が乗っている。
それを振り返るのは楽しかった。
あいつあんなこと書いてたのか……なんて思いながら覗いていく。
ウォルターが商売のことについて書いていたのも見た。
リリアナがとても賢いから、見習って商売の勉強を頑張っている……というようなことがちょっと幼い字で書かれていた。
それを見てリリアナはとても嬉しそうにしている。
「ウォルターはさ、かなりの見込みがあるよねぇ」
なんて偉そうに言っている。
それからも別の作文を見たり、テストの珍回答を見たりして笑った。
リリアナの回答も見た。
彼女は頭がいいのでテストもいい点だ。
しかし登場人物の気持ちを書くような問題で、たまに妙に疑り深くなって深読みをするのが面白かった。
だから俺はそれをからかった。
「なんだよ『実はジャックが生きていて、主人公の手柄を横取りしようと隠れているのではないかと考えたから見つけ出すために走り出した』……って」
本来ここは戦いを終えた英雄が、死んだ親友……ジャックとの思い出の場所に帰ろうと走り出す感動のラストシーンだ。
何も言わず走り出したところで終わっているが、普通ならそういう解釈になる。
でもリリアナはふふんと鼻を鳴らす。
「でも一回裏切ってるじゃん。一回裏切った人は何度でもやるのよ」
テストの問題文の範囲外ではあるが、確かに物語の中で親友は一度裏切っている。
何故か根に持っているのが面白かったから俺は笑った。
先生も含み笑いを漏らしつつ口を開く。
「だけどリュートくんのも一個、すごい面白いのあったよ」
なんて言いながら次を取り出そうとしている。
恥ずかしかったので止めようとしたが、リリアナがふざけて俺を押さえつける。
笑って後ろからぎゅっと抱きついてくる。
「ダメだよ銀貨、ちゃんと見せなきゃ」
「えー……」
まぁ、いま彼女をからかったので自業自得か。
覚悟を決めたところで、先生が別の冊子を手にとって開く。
「ほら、これこれ。はは……」
そうして楽しく話していた。
するといつの間にかハルトくんたちも集まってきた。
みんなで床に座って、昔の答案や作文を見ることになった。
だが、やがてヴィクター先生も気づいたらしい。
「ん? なんで普通に溶け込んでるのかな?」
宿題を未提出のまま、遊んでいる三人に対しての言葉だ。
笑ってない目で冷たく言った。
だがハルトくんたちがここぞとばかりに泣き落としを仕掛ける。
まずはわざとらしく崩れ落ちるケニーだ。
「せんせぇー……もう許してくださいよぉ……」
ハルトくんとエヴァンズも続いた。
「うんち粘土持って帰りますからぁ……」
「俺、次から宿題をちゃんとやるって決意してるのでぇ……」
なんともまぁ調子のいい三人だ。
ヴィクター先生も呆れたようにため息を吐いて、それ以上は何も言わなかった。
受け入れることにしたようだ。
ただ俺たちの真ん中に座って、楽しそうな顔で冊子をめくりながら話し始める。
―――
『SS・もっと敬って!』
少しは、この仕事で上手くやっていけるかもしれない。
私は近頃そう思っていた。
仕事とはもちろん、孤児院の教官のことだ。
思えば私は思慮が足りていなかった。
私が相手にしているのは、小さく未熟な子どもたちだ。
だから恐れさせるだけではだめだ。
とはいえ、もちろん甘くするだけなのも論外。
要は、大切なのはバランスだった。
畏怖されながらも、時には優しさを見せる。
その上で尊敬を集めることができれば最善だ。
尊敬されて、目指すべき背中として子どもたちの前を歩む。
そうしなければ幼子は導けない。
目を輝かせて従うことはない。
もちろん、完璧だなんて言えるほどこれをこなせているつもりはない。
けれど私は向上し続けてきた。
そして少しは上手くやれてるかも……なんて、思い始めていたある時だった。
粉々に自信を打ち砕かれてしまった。
そのきっかけはうたた寝だった。
私はその日、図書室のカウンターに一人で座っていた。
誰も来なかったし、春の陽気が心地よくて。
ついついうとうととまどろんでしまっていたのだ。
すると、私の目の前には子どもたちが五人も集まってきていたらしい。
少なくとも私が目を覚ました時、彼らはカウンターの向こうに座っていた。
なにかお互いに見せ合って、楽しげに話し合っていた。
「うへへっ。これひどいなぁ。なにこれ?」
「よだれ!」
「ぎゃははは」
「ねぇねぇねぇ、俺のも見てほしいっす」
楽しそうに、男の子ばかりが五人。
へらへらと笑いながら、石板を抱えて私の前にいた。
「!?」
私は動揺しながらも慌てて姿勢を正す。
さらに、慌てて袖で口元のよだれを拭く。
目を見開いた。
子どもたちと目が合う。
「あっ」
全員がほぼ同時に声を漏らして、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
みんな楽しそうに笑いながら、はしゃぎながら逃げていく。
私は呆然とするしかなかった。
「……あ、あの子たちなにを?」
私はおそるおそる石板を見た。
彼らがみんな置いて行ったのだ。
一つ一つ見る。
そこにあったのは寝顔だった。
私の、気の抜けた寝顔だ。
ろう石で描かれたつたないものだったが、それぞれ個性がある。
なにかの夢を見ていたり、横に『もう食べられないよ……』とセリフのようなものが書いてあったりする。
私は、顔が火を吹くように火照るのを感じた。
「うっ…………」
これでは尊敬も何もない。
私はあの子たちに馬鹿にされているのだろうかと思ってショックだった。
すると、誰かが声をかけてきた。
「かわいいよね、それ」
「っ!」
「僕だよ、ヴィクター」
ハッとして声の方に向くと、ヴィクターがにこにこと笑っていた。
いつの間にいたのだろうかと首を傾げる。
カウンターの向こうに、彼はひとりで立っていた。
「何しに来たの?」
「いや、ずっといたよ。なんか僕、審査員らしくて」
と、笑いながら絵を指差す。
つまりこれを、この絵を審査するということだ。
主催者はヴィクターだったのだ。
「このっ! ヴィクター!」
私はカウンターの外に出て、羞恥心に任せて彼を取り押さえた。
ヘッドロックして締め上げる。
するとなんだか疲れたように笑った。
「いやいや、全然、僕がさせたんじゃないよ。通りすがりだったんだ」
「えっ……」
驚いて、思わず力を緩めるとヴィクターが抜けた。
そして追撃を恐れるように後退りしながら続ける。
「あの子たちが楽しそうにしてたから。話しかけたんだよね」
つまりはそういうことだ。
彼も巻き込まれたということ。
止めなかったのは許せないが……それでも、子どもたちが進んでやったことだ。
「…………」
言葉を失う。
なら、やっぱりバカにされているのかもしれない。
そう思って私はため息を吐いた。
「なんでこんなことに……」
子どもたちには厳格な態度で接してきたつもりだ。
しかし結果がこのざまだ。
私はどこで間違えたのだろう。
そう思っていると、ヴィクターが笑った。
「なんでってそりゃあ……ほら、『ほっぺたかわいいーー』」
「へっ……?」
微妙に覚えている。
酔ってリリアナちゃんに……でも、なんで知れ渡っているのかは分からない。
混乱する私をよそに、ヴィクターはさらに言葉を重ねる。
「あと、僕に人の褒め方を教わってたり」
「うぅっ……」
「毎朝、起きたら太陽に向かって優しい笑顔の練習をしてたり」
「……ま、毎朝じゃなくてっ、一時期でっ」
「子どもたちに遊びで負けたのが悔しくて一人で遊びの練習してたり」
「ぐっ……」
「水飲んだ直後にくしゃみが出そうになってすごい必死に我慢してたり」
「あっ……」
「指の先のささくれにハンドクリーム塗ってたり」
「そ、それはいいでしょ!」
最後のはちょっと意味がわからなかった。
だからここぞとばかりに私は反撃をした。
するとヴィクターは困ったように笑う。
「いいけど、明らかに塗りすぎだって噂になってた」
塗りすぎ?
でも、多く塗ったほうがきっと早く治る気がして……。
それに、他は全部本当だけど。
でも、だけど、みんなが知っているようなことじゃなかったはずだった。
目撃者はいつも一人とか二人で、絶対に言いふらすような子たちじゃなくて……。
しかも、こんな……こんなささいなことくらいで馬鹿にされるなんて……。
「……もちろん、まだ全然あるからね。それなのにクールに振る舞うから、君ってまるでギャグなんだよね」
続けられた言葉は、まさに絶望だった。
私の中の、私がなるはずだった理想の教官が死んでいく。
カウンターの中に戻って、絶望の中で私は目を伏せた。
厳格なイメージを取り戻すにはどうしたらいいのかと考えていた。
すると、ヴィクターはカウンターの向こうに腰かける。
子どもたちが使っていた椅子だ。
そして、ニヤニヤと笑いながら石板を見ている。
私はじとりとした視線を向けた。
「面白い?」
「そりゃあもう」
開き直ったのか、本当に愉快そうに笑っている。
私はため息を吐いて、彼の手から石板をひったくる。
「…………」
複雑な気持ちだった。
まさか九歳児に小馬鹿にされるとは。
憂鬱な気分で絵を見ていると、ヴィクターが今度は優しげに語りかけてくる。
「でもさ、これ、そんなにイヤかな?」
私は答えなかった。
嫌、とまでは思わない。
ただ軽んじられていたことがショックだった。
少しは尊敬してくれていると思っていたのだ。
「…………」
だから黙っていると、ヴィクターがカウンターのこちら側へと歩いてくる。
そして私の横に立って、石板の絵の顔を指さす。
「ほら、見てごらんよ。子どもたちが、嫌いな人をこんなふうに描くと思う?」
指さした先を見る。
絵の中の私は、優しい顔をしていた。
寝ているが、だらしないとも言えるが、どれも優しい顔をしている気がする。
優しく目を閉じて、口元が緩んでいる。
なんだかそう見ると、温かさを感じるような気がしてきた。
こんなふうに、私を見てくれる誰かがこれまでいただろうかと……ふと考える。
「…………」
そのまま、一つ一つ丁寧に見ていった。
どれもどこかに優しさを感じる絵だった。
優しさは表情や、絵の中の表現に表れている。
たとえば絵の中で寝ている私は、子どもたちと遊ぶ夢を見ているように描かれていたりする。
あるいは絵の中では、肩にかける毛布や暖炉……安楽椅子まで描き足されていて、私はとても幸せそうに眠っている。
何故か寝ている私の周囲にキラキラが描かれていたりもする。
「なるほど」
つぶやいた。
子どもたちの絵を見ていると、少しずつ心配ごとは消えていった。
それは、次会ったら少しくらい叱るだろうけど……でも、微笑ましいものではないかと思えてきた。
やがて気づくと、私は小さな笑みなんて漏らしていて。
「……なんだか、嬉しいわね」
そして最後の一枚を見る。
絵の中の私は、滝のようによだれを流していた。
「ヴィクター、これは?」
「悪意だね」
私はヘッドロックをした。
八つ当たりで。
―――
『SS・マスター会員クリフ』
よく晴れた日だった。
その日もいつも通り、妹は俺にしょうもないちょっかいを出し続けていた。
休みに、訓練場でサッカーをして遊んでいた時だ。
同じチームのはずのあいつが、何度も俺の顔面にボールを当ててくる。
十一歳にもなってクソガキみたいなことをしてくる。
「おっと、パスコースに野生動物が。害獣でしょうか?」
なんてことを言いながら、ゆっくりとしたボールを投げる。
でも俺はそれを避けられない。
避けようとしても、何故か凄まじく回転しているボールは曲がって追いかけてくる。
それでいてそこまで痛くはない。
ゆっくりと飛ぶボールが俺の頬に当たる。
そして凄まじい回転のエネルギーを吐き出して、頬を摩擦でひりひりさせる。
最後にはあらぬ方向に飛んでいく。
しかし目で追えば、絶妙な回転による軌道変化で必ず味方の手元にボールが落ちる。
これは、俺の頬に当てることも計算して回転をかけているのかもしれない。
無駄に高等な技術を使って、味方に迷惑をかけずに俺に嫌がらせをしていた。
イライラする俺を見て、ニーナが口元に手を当てて笑う。
バカにするような顔で小さく噴き出す。
「ぷっ……」
さらに、ニーナだけではない。
ボールをパスして、何も持っていない状態になった俺の脇腹に肘が突き刺さる。
「てめぇ!!」
何も持ってない状態の敵への攻撃は反則だ。
振り向くと、つまらなさそうな顔のリリアナがいた。
退屈を隠しもしない、仏頂面で口を開く。
「事故よ」
こいつは、たまに気まぐれでサッカーに参加する。
しかし参加したと思ったら、すぐに飽きてつまらなさそうな顔になる。
そうなるともう、後はずっと暇潰しで俺にちょっかいをかけてくるだけだ。
基本は男しかサッカーをしないし、ウォルターもリュートも参加しない。
だからこいつの暇を潰してくれるやつが誰もいないのだ。
しかし暇潰しでこんなことをされる方は溜まったものではなく、俺はリリアナに食ってかかる。
「てめぇ……事故だと?! 何回目だよ!!」
しかしそこでボールが飛んでくる。
顔に当たって、わざわざ顔を経由して、別の味方の手元に落ちる。
「ぷっ……」
「ニーナお前!」
言いながらも攻める。
今は攻撃のチャンスだからだ。
パスが来る。
敵を押しのけて、左手と蹴りで崩す。
そして防衛ラインをくぐり抜けて……またパスを繋いだ。
直後、脇腹に衝撃が走る。
「事故よ」
「くっ……く、そ、このぉ……!」
やり返そうにも無駄だった。
ボールを持っていない相手には攻撃できないのだ。
少なくとも俺自身がボールを持ってない限りは。
だから、こいつは自分が絶対にやり返されたくないから、絶対に絶対に俺がボールを持ってる時は近くに来ない。
ボールを投げた瞬間、事故を装ってジャストで肘を叩き込む。
悪辣な所業に言葉を失っていると、今度は顔面にボールが飛んできた。
ボールの回転が頬を削り取って、顔を経由してナイスパスになる。
あとはこれの繰り返しだ。
「ぷっ……」
「事故よ」
「ぷっ……」
「事故よ」
もう俺は、ほとんど頭の血管が切れそうだった。
いや何本か切れた気がする。
怒りがついに限界を超えた。
「くっ、そ……おいっ!! てめらいい加減にしやがれ!!!」
叫んだ。
すると、その瞬間俺の体から凄まじい魔力が迸る。
金色の魔力だ。
「?!」
なんだこれは……?
当惑する俺をよそに、魔力の勢いは増す一方だ。
今なら何でもできる気がする。
訓練場に、俺の魔力の余波で激しい土煙が巻き起こる。
その嵐の向こうで、腕組みをしたクランツが真顔でつぶやいた。
「……そうか、ついに目覚めたか」
……意味が分からない。
だが俺は、とりあえず怒りのままに足元にあったボールを掴んで投げた。
「喰らえこの、クソども!」
すると金色に輝くボールが、逃げようとしたニーナのケツに命中する。
いつも俺のケツを蹴るからだ。
「ぎゃん!」
あいつは無様に倒れ込んだ。
さらに、バウンドしたボールが不自然に急加速して浮き上がる。
そしてリリアナの頭のそばをかすめた。
かすめただけで、リリアナは無様にしゃがみこんで泣き始める。
「はははっ! ざまぁねぇな……」
しかし、そこでリリアナが泣きながら叫ぶ。
「えーん、えーーん、えーーーん! ウォルター! ウォルター助けてーー! うえーーーーん!!」
俺はその声に焦る。
「え、いや、ウォルターは流石に……」
だがもう手遅れだ。
全身を覆う重々しい騎士の鎧を身に纏い、漆黒のオーラを噴き出す大剣を持ったウォルターが現れた。
何故か空から落ちてきた。
着地の衝撃で地面に大穴があいた。
明らかに普通じゃない。
「了解だ、マスター。命令を執行する」
ウォルターが剣を振りかぶって接近してくる。
その動きはとてつもなく速い。
俺は全身から冷たい汗が噴き出すのを感じながら、待てをかけるように両手を前に出した。
「話せば分かる!」
すると、突き出した手から金色の魔力が溢れ出す。
金色の力の奔流に飲み込まれ、ウォルターの鎧と禍々しい大剣が砕けていった。
ウォルターが叫びをあげる。
「ぐ、ぐおおぉ……!!」
全てが終わったあと、そこにいたのは普段通りのウォルターだった。
リュートもいる。
二人で立ち上がって俺に頭を下げる。
まず口を開いたのはリュートだった。
「ありがとう、クリフ。俺たちはあの邪悪な大剣でリリアナに操られていたんだ」
ウォルターも続く。
「解放してくれて本当にありがとう。君は真の戦士だ」
俺は動じる。
でも悪い気分じゃなかった。
ちょっと声をうわずらせながら感謝を受け入れる。
「え、あ、おお……そうか」
続けて、二人は顔を上げてリリアナの元に歩いて行く。
髪に手を伸ばし、おさげをまとめる紐のリボンを奪い取った。
二つおさげのリボンは当然二つで、それをウォルターとリュートは一人に一つずつ持つ。
さらに鞭のように振るって、ぺちぺちと細長いリボンで、うずくまったままのリリアナを叩き始めた。
「リリアナ! この悪徳商人!」
「君は心を入れ替えるべきだ!」
「うぇーーん、ごめんなさい! うえーーーん!」
俺はげらげら笑ってしばらくそれを見ていた。
だが気が済んだのでお仕置きから目を逸らす。
すると、すぐ横にニーナがいるのに気がつく。
涙を目にいっぱいに浮かべて、おどおどした様子で俺を見ている。
「…………」
それに、俺はちょっと意地悪な感じで鼻を鳴らした。
「あ? なんだよ?」
「ご、ごめんね……お兄ちゃん……」
そう言ってニーナが昔のようにめそめそと泣き始める。
仕方ないのでため息を吐いて、俺はその頭を撫でてやった。
ニーナは感極まったように泣き声を漏らして、俺に抱きついてきた。
「ごめんなさい……お兄ちゃんがこんなに強いなんて思わなくて……構ってほしかっただけなの……うわーーん……」
「はぁ、仕方ねぇな」
「もう全然勝てないって分かったから、また昔みたいに守って……かっこいいお兄ちゃん……」
そのままニーナはしばらく泣いていた。
だがやがて、嬉しそうに笑って俺の後ろにぴったりとついてくる。
俺も笑って妹に声をかけた。
そして金色の魔力を見せつけるように、強い魔力を纏わせた手のひらをかざす。
「おい、ニーナ! これからは最強の兄貴を敬えよ!」
「うん! かっこよくて最強のお兄ちゃん!」
満面の笑みで調子のいいことを言ってくる。
ニーナは昔に戻ったようだった。
いや、昔よりいいな。
今は毎日ゆっくりしてて、飢えてもいねぇし、外を怖がってびくびくしていないからだ。
気分よく二人で笑う。
「ははははは!」
「えへへへ……♡」
そうしているとやがてべそをかきながら、リリアナが俺の方に歩いてきた。
後ろにはリュートとウォルターもいる。
厳しい顔で、リリアナをぺちぺちとリボンで叩いていた。
まるで馬車の馬でも動かすように。
リリアナのおさげは元に戻っているようだが、リボンではなくボロボロの麻紐で結んでいるだけだった。
その、意気消沈しきったあいつが俺に深く頭を下げる。
ぶるぶる震えて、しきりにしゃくりあげて泣いていた。
「い、ばばで、ご、ごべんなざいぃ……」
ちょっと声が聞き取れないが、謝っているのは分かる。
仕方ないので許してやることにした。
「はぁ……仕方ねぇな……」
俺はため息を吐いて、リリアナのおさげに金色の魔力を放つ。
それで、あいつのおさげは完璧に元に戻る。
みすぼらしい麻紐が消えて、元のようにリボンが巻き付いていた。
いや、元より上か。
美しいレースの、まるで女王か姫の御用達とでも言われても違和感がない、凄まじく気品に溢れたリボンに変わっているから。
「わぁぁぁぁ……」
泣いていたリリアナが目を輝かせた。
本当に嬉しそうだ。
また気を良くして、俺はにやりと笑う。
しかもこれはただのリボンではない。
説明をしてやることにした。
「このリボンは特別でな。お前の邪悪な心を浄化する魔術をかけてあるんだ」
「そ、そうなの?! どうりでなんだか……平和な気持ち……生まれ変わったみたい……」
胸に手を当てて、リリアナが清らかな笑みを浮かべる。
魔術は効いてそうだと俺は思った。
リリアナは涙ぐみながら再び俺に頭を下げる。
「クリフには本当に、これまでひどいことをしたわ……」
「いいよ、もう気にすんなよ」
だって、これからも一緒に暮らしていかないといけないんだ。
気にしてちゃキリがない。
いままでのクソみたいな所業も忘れてやる。
だがリリアナは自分の非道を心から恥じて、涙を拭いながらしきりに首を横に振る。
「いいえ、クリフさん。あなたにこれまでした事の罪を償いたい。だからなってほしいの……ファミリー会員に……いえ、伝説の【マスター会員】に!」
その言葉で、周囲は水を打ったようにしんと静まり返る。
続けてざわめくように声が聞こえた。
まさかあの……とか、千年に一度の……とか、そんな感じだ。
「…………」
こんなざわめきの中で最初に声を上げたのはリュートだった。
「クリフは本当にふさわしいよ。実は初めて会った日から、彼がマスター会員になるような気がしてたんだ……あとついでに親友になってください」
ウォルターも続く。
「真の戦士の、君に与えられるべきだ。マスター会員の座は」
リリアナもにっこりと笑う。
「みんな異論はないみたいね! じゃあマスター会員の誕生を祝うパーティーを始めましょう!」
みんなが歓声を上げた。
感動して泣くやつまでいた。
俺は呆れて少し笑ってしまう。
気づけば先生たちも集まっていて、熱狂的なコールが始まる。
「マスター会員クリフ! マスター会員クリフ!!」
そして、その日から俺の日常は変わった。
様々な困難にぶつかったが、金色の魔力を纏いしマスター会員に敵はなかった。
「クリフ! やばい! ディティス、メダク、フュリアナ、ヒギリ……四種類の寄生体を全て宿したハイパー中位魔獣が現れた!!」
「任せろ!」
「お兄ちゃん助けて! 魔王が!!」
「うおおおおおお!! 妹は俺が守る!!!」
「親友のクリフ、いえ……お義兄さん。妹さんを僕にください!!」
「あ!? ふざけんじゃねーぞリュートてめぇ!! てめぇに妹を守れんのか?!(まぁ一応渋っとくか)」
そしてあっという間に時が過ぎた。
今はニーナの結婚式に出ている。
十八になった妹は、今日ようやく長年付き合っていた恋人と晴れの日を迎えた。
思えば懐かしい。
十四で付き合い始めたんだったか。
え? 戦役?
俺が一昨年の、エイプリルフールにノリで終わらせといたよ。
マスター会員の前じゃ魔王なんて嘘みたいなもんさ。
「……今日はいい日だ」
しみじみとつぶやく。
式場である教会の片隅で、俺は一人感傷に浸る。
俺は母さんが死んでから、ずっと妹を守らなければと思ってきた。
でも今日で終わりだ。
明日からは、旦那と支え合って生きて行けばいい。
「…………」
そんなふうに思いながら、俺はずっと一人でいた。
教会の、開け放たれた扉の先を見る。
その飾り付けられた庭には、日が差す庭には妹がいた。
白いきれいなドレスを着て、幸せそうに笑っている。
孤児院の懐かしい面々が……今はみんな違う道を歩む同胞が、ひっきりなしに花嫁の元にやってくる。
ちなみに、俺のところにはあまり来ない。
金色の魔力を纏いしマスター会員といえど、今日の主役はお嫁さんに譲る。
ひっそりと見守るだけだ。
母さんもきっと喜んで見てるだろうよ。
だが。
「隕石だ!」
誰かが叫んだ。
ハッとして外に出れば、確かに空から巨大な隕石が落ちてきている。
このまま落ちれば周辺一帯が消えてなくなるだろう。
「クソッ!」
俺は走り出す。
ニーナの元へ。
あいつは慣れないドレスを着ていたから、足をもつれさせて転んでいた。
避難すらままならない。
リュートがなんとか、横で助け起こそうとしている。
「お兄ちゃん! 逃げて!!」
ニーナは俺に逃げろと言った。
だが無理な話だ。
確かにあいつらよりは隕石から遠いが、逃げられるような範囲の災害じゃない。
それに今日は、今日までは俺が……兄貴が妹を守るのだ。
闘志とともに金色の魔力を燃え上がらせる。
「うおおおおおおおおお!!!!」
金の魔力を纏い、空を飛んだ俺はバカな隕石を受け止める。
よりにもよってこいつは、俺の妹の結婚式を邪魔しようとした。
それが運の尽きだ。
手頃なサイズに砕いて引き出物にしてやる!
「おおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!」
持てる限りの魔力を破壊に変え、隕石に流し込む。
だが流石に止めきれない。
少しずつ押されていく。
隕石もまた、ひび割れて亀裂が入るのだが、どうしても。
「ぐっ……うぅ……!」
あまりの質量に、受け止めた体が破壊されていく。
口の端から血があふれる。
しかしそんな俺を、妹たちの声援が支えた。
「お兄ちゃーーん!! 負けないで!」
「マスター会員!」
「慈悲深いクリフさん! わたしたちのマスター会員!!」
「お義兄さん!!」
「マスター会員!!! 行け、真の戦士!!!」
その声が俺を奮い立たせる。
すると決意に呼応するように、金色の魔力が……虹色に変わった。
「うおおおおおおお!!!! おおおおおおおおおおおお……って、ちょっと待て、この隕石ヌルヌルする!!」
突然だった。
隕石から垂れてきたヌルヌルで顔がビシャビシャになる。
うえぇ……と思わず顔を逸らした瞬間、隕石が爆発した。
「あ」
……………………。
……………………。
……………………。
……………………。
「あ」
俺は目を覚ます。
孤児院の、自分のベッドだ。
窓から差し込む朝日がまぶしい。
悪くない夢を見ていた気がするが……。
ヌルヌルの隕石?
違う、そうじゃない。
「…………」
と、そこで俺は気がつく。
やたら重い何かが俺の体にのしかかっている。
正体は……同室のケニーだった。
寝相が悪すぎて俺のベッドまで来て、何故か俺の上で横向きに寝ている。
横向きに寝た、その口から垂れるよだれで俺の顔はビシャビシャだった。
「てめぇかよ…………」
つぶやいて、うんざりしながらケニーをどけた。
それから朝の用意だ。
今日は訓練がある。
とりあえず、ビシャビシャの顔でも洗うかと思い立った。
洗い場に向かうことにした。
するとその途中で俺は足をひっかけられる。
小さな笑い声が聞こえた。
「ぷっ……」
倒れ込む……が受け身を取った。
なんとかノーダメージで転がり、しゃがんだ体勢で犯人を見ようとする。
しかし次は、別の誰かに軽く頭をはたかれる。
軽やかなスキップで、鼻歌交じりに俺を追い抜いた誰かだった。
「事故よ」
―――
『SS・約束』
孤児院には訓練がない休みの日もある。
今日はその休みの日だ。
まだ寒さが残る、晴れた春の朝だった。
でも俺は、休みも自分で練習をしていた。
……とは言っても別に、そこまで特別なことではない。
ウォルターとかクリフとか、訓練の成績がいい人はみんなやってることだ。
そして今日は、この自主訓練をニーナと一緒にしていた。
彼女も最近は……少し前のオークの脱走事件のあとくらいからは、自分で熱心に訓練し始めている。
なので顔を合わせることが多い。
だから、いつからか俺が声をかけて、こうして会った時は一緒に訓練をするようになった。
今は二人で、剣の使い方の練習をしている。
やり方としては、片方が斬撃を出して、もう片方がそれを受け流すだけの訓練だ。
子どもだけの時は危険だから戦ってはいけないので、こういう訓練が多くなる。
でも俺たちはまだまだ剣の扱いが上手くない。
だから地味な練習だってすごく勉強になる。
まずは、ニーナが受けに回って訓練が始まる。
始める前に、俺はどんな斬撃を出すかを伝えておいた。
「次は右から攻撃するよ」
言いながらゆっくり剣を振って、事前にどんな軌道で剣を出すかを教える。
体の使い方の練習がメインで、反応を鍛えるわけではないから先に示すのだ。
すると彼女はうなずいた。
「はい。ありがとうございます」
ニーナは丁寧な言葉で答えた。
これも最近だが、なぜかこうしてとても丁寧な口調で話すようになっていた。
あとは……そういえば、熱心に訓練をするようになったのもやっぱりあの事件がきっかけなのかもしれない。
本当に、彼女はとてもがんばるから、一緒にいるといい影響を受ける。
「じゃあ行くよ」
それから斬撃を出した。
危険だから思いっきりではない。
けれど受け流す練習のためにある程度は速く振る。
ニーナはこれを一生懸命受け流す。
防御の動きは日々、目に見えて上手になっていた。
「…………?」
でも同時に、なんだか足の動きに違和感を感じる。
足の動きに逃げる……というか、避ける動きが混ざっているように見える。
彼女が怖がりだからかもしれない。
攻撃を怖がって、体が逃げてしまっているのだろうか。
そんなことを考えながら攻撃を出していると、やがてニーナの番が終わる。
「……どうでしたか?」
ニーナが俺を見上げて聞いてくる。
たくさんの斬撃を受けて、少しだけ息が乱れていた。
俺も剣を振って疲れたので、息を整えながら答える。
「足が……ちょっとまだ逃げてるかも」
俺の斬撃ならいい。
でもあの動きだともっと強力な攻撃は受けられない。
足が逃げて踏ん張れないから、どこかにおかしな力がかかって怪我をするかもしれない。
……なんて話をした。
「…………」
するとニーナは悲しそうに俯いた。
彼女は自分を怖がりだと思っている。
そして自分を責める時、いつもこうして悔しそうにする。
だが俺も、正直ニーナは怖がりな気がしていた。
でも彼女が怖い気持ちを乗り越えようとしていることだって知っていた。
だから肩に手を置いてなんとか励ます。
「でも、どんどん良くなってるよ。ニーナは体を動かすのが上手いから」
これは本当にそうだ。
彼女は型を教えられたりしたらすぐに覚える。
それに、運動が何でも上手だ。
これまで落ちこぼれのように見えていたのは、全く体力がなかっただけなのだろう。
だからすぐに疲れて、思い通りに体を動かせなくなっていた。
「……いえ、上手いなんて」
しかし、やはり悲しそうにしている。
言いたいことは俺にもなんとなく分かる。
彼女は今の訓練みたいに、攻撃されたりすると思ったように体を動かせなくなるのだ。
一人の練習では完璧にできていた動きが、実際に剣が迫ってくるとできなくなる。
それが悔しいのだろう。
眉を下げて俯いたままだった。
「…………」
俺は考える。
なんとか、いい方法がないかと。
剣を受けようとした時、足が逃げなくなるような方法がないかと。
足が勝手に逃げないように、すごく重い靴を履いてみるとか?
「うーん……」
一人でうめく。
重い靴はちょっと違う気がした。
そして、難しい問題だった。
模擬戦なら分かるが、彼女の場合はただ剣を受けるような訓練でさえ、勝手に足が逃げてしまうのだ。
しばらく考えて、俺は一つ思い出す。
「あっ」
思い出したのは、ある日の模擬戦での光景だ。
こうして剣を受けるだけでも怖がるから、ニーナは模擬戦だとほとんど戦うことができない。
でも、一度だけすごい動きを見せたことがあった。
兄であるクリフと戦った時だ。
勝負自体は彼の勝ちだったが、ニーナもいつになく闘志を見せていた。
そしてクリフの攻撃を避けたのだ。
決してまぐれではなく、彼女は何回か避けてみせた。
本当に見事な身のこなしで、俺はとても驚いたのを覚えている。
「…………そうか」
だから俺は思った。
もしかすると彼女は、避ける方が向いているのではないかと。
避けるのだったら、体が勝手に逃げるのも不利にならないかもしれない。
「ねぇ、ニーナ。来て」
早速、試してみることにした。
ニーナが顔を上げる。
俺は笑って、彼女の手を引いて走った。
目的地は訓練場の片隅の、ちょっと草が生えている場所だ。
ここには何本か木も生えている。
だから俺は、まだ枯れたままの木によじ登った。
細くて長い枝を折る。
枝分かれを丁寧に取って、まるで細い剣のようにした。
続いて、俺は自分の上の服を脱ぐ。
「……わっ、わっ」
ニーナが目を丸くして声を上げた。
突然脱いだのを見てずいぶん驚いたようだ。
そんな様子が面白かったから俺は笑った。
「ははは」
とりあえず俺は肌着だけになって、自分の服をニーナに差し出した。
彼女は不思議そうに首を傾げている。
「……これは?」
「俺の服」
胸を張って答えた。
するとニーナは穏やかに、楽しそうに笑う。
「知りませんでした」
俺も笑った。
そして言葉を続ける。
「危ないかもしれないから、これを重ね着して」
俺の方が体が大きいので、ニーナなら十分服の上からでも着られるはずだった。
だから言うと、また不思議そうに首を傾げる。
でも特に迷わず服を着てくれた。
それからまた笑った。
「あったかいです」
あったかいのは、俺の体温が残ってるからかも知れない。
なんてことを考えながら笑う。
「俺はさむいよ……」
俺は寒さに強いけど、肌着だけだとまだちょっとこたえる時期だ。
歯の根が合わなくて、カタカタと震え始める。
するとニーナが笑みを消して、心配そうに俺を見つめてくる。
「…………」
でも、俺は特に気にしない。
やることがあるからだ。
さっきの木の枝を拾った。
そしてニーナの脇腹にぺちりと当てる。
「あっ」
彼女は目をつぶって、びくりと身を固くする。
俺は笑ってもう一度棒を振った。
また、重ね着した服の上にぺちりと当たる。
細い枝だし、重ね着しているので痛くはないだろう。
実際そうだったのか、ニーナは二発目には特に反応しなかった。
ただまた、不思議そうに俺を見てくる。
「なんですか?」
「避けてみて」
俺はそう言って棒を振る。
するとニーナが動いた。
今度は避けた……が、ちょっとかすった。
避けきれてはいないが、受け流してた時とは話が違う。
事前にどんな攻撃をするかを伝えていないのだ。
それに、見た感じではかなり自然でいい動きだった。
やっぱり、と思いながら俺は何度も木の枝を振る。
するとその内、ニーナも真剣な表情になった。
「…………」
そのまま枝をかわし続けていると、彼女の動きはとても良くなっていった。
集中が深まるほど、見事な動きで避けるようになった。
最終的には、当たるのは四回に一回くらいになった。
かなり避け方が上手い。
加えて、ニーナの動きが思っていたよりずっと速いことに気がつく。
今は適当に避けているだけだろうが、シーナ先生に色々教わればもっと避けられるはずだ。
しばらくして、俺は枝を捨てた。
「……すごいよ、ニーナは」
本当にすごいと思ったから褒めた。
枝を捨てた俺を、ニーナはきょとんとした表情で見つめている。
さらに言葉を重ねる。
「すごいよ。すごく、避けるのが上手だよ。今までも……怖がってたんじゃなくて、体が勝手に避けようとしてたんだよ、きっと」
俺はそう言った。
けど正直分からない。
ニーナはやっぱり怖がりだと思う。
でも、すごい才能があるのも確かだった。
だからニーナはそう考えるべきだと思っていた。
「…………」
彼女は驚いたように目を見開いていた。
少し遅れて、俺がどんなつもりで枝を避ける訓練をしたのかに気づいたようだ。
何かを言おうとしたのか、少しだけ口が開く。
でも言葉が出てこないようだった。
ただ、唇がかすかに震えていた。
「……っ」
やがて、彼女は何故かぽろぽろと涙をこぼし始める。
泣きながら、ふらふらと歩いて俺に抱きついてきた。
ちょっと驚く。
「どうしたの?」
心配になって顔を覗き込もうとした。
でも俺の肌着に顔を埋めているから、表情は見えない。
それに、問いにも何も答えなかった。
ただしがみついて、しくしくと泣いているだけだ。
「…………」
少しして俺は、これが悪い涙ではないと気づいた。
だから笑ってニーナを抱きしめた。
泣いている頭をなでて、語りかけて落ち着かせようとした。
「ニーナはすごい。絶対に、すごく強くなるよ」
笑って言うとしがみつく力が強くなった。
頭を撫でながら、泣き止むまで言葉を続ける。
「きっと、どんな攻撃でも避けられるようになる。だから、羨ましいよ、俺も……」
冗談めかして言ったが本心だった。
ニーナはどんどん腕を上げている。
臆病だから結果を出せていなかったが、今日はそのおかげですごい才能が見つかった。
本当に、彼女が羨ましかった。
俺は多分、少しだけ器用だけど……でも、それだけだ。
才能なんてなんにもない。
だからとても羨ましかったのだ。
「……ありがとう」
小さな声が聞こえた。
ニーナの声だ。
俺にしがみついたまま、ニーナが感謝を伝えてきた。
答えようとすると、もう一度ニーナが口を開く。
「ありがとう」
なんとなく、俺は答えるタイミングを見失った。
でも代わりに笑った。
ニーナはずっと俺にしがみついたままだった。
でも俺がくしゃみをすると、どこか照れくさそうに離れた。
そして、笑って服を返してくれた。
だから俺はいそいそと服を着る。
服は温かかった。
やっと一息ついて、彼女に声をかける。
「また一緒に避ける練習をしよう。あ、でも今度はシーナ先生も呼ぼう」
シーナ先生を呼ぶのは、きちんとした避け方を教えてもらうためだ。
休みだけど、言えば先生は付き合ってくれるはずだ。
実際にウォルターが教えてもらっていたのを知っている。
なのでそう言うと、ニーナも笑って答えた。
「はい」
俺は彼女の顔を見た。
今は笑っているけど、さっきの涙で瞳が濡れていた。
それをなんとなく、じっと観察してしまった。
すると恥ずかしそうに目を背けてしまう。
「…………」
ちょっと悪いことをした気がして頭をかいた。
泣いたあとの顔なんてじっくり見るようなものでもない。
とりあえず誤魔化すように笑うと、顔を上げたニーナも笑った。
―――
それから、なんだかもう訓練をするような雰囲気でもなくなってしまった。
休んで二人で話をしていた。
訓練場のすみっこの、地べたに座って何気ない話をしていた。
「なんか、ニーナのせいで下着がびしょびしょになったなぁ」
冗談っぽく口をとがらせて言った。
さっきしがみついて泣いてたからだ。
すると、彼女は申し訳なさそうに眉を下げてしまう。
「ごめんなさい」
「いいよ」
胸を張って、リリアナみたいにいばって許した。
するとニーナはくすくすと笑った。
そして不意に俺に手を伸ばして、服の袖を指先で握ってきた。
「?」
不思議に思っていると、そのまま俺をじっと見つめてくる。
優しくて、少しだけまぶしそうな目だった。
「リュートくん、今日は……ありがとう」
「え、なんかしたっけ?」
ふざけてとぼけてみせると、また口元に手を当てて笑った。
くすくすと笑った。
「服を脱いで、追いかけて、木の枝で叩いてくれて、ありがとう」
「あっ、いやな言い方……」
それで、二人で声を上げて笑った。
楽しくなっていろんな話をした。
枝を使って、一緒に地面に絵を描いたりもした。
あっという間に時間が過ぎていく。
もう少しで昼ごはんの時間だけど、ぎりぎりまで話していくことにした。
俺はまた、次の話題を口にする。
「ねぇ、ニーナは強くなったら何がしたい?」
こんなに一生懸命がんばっているのだ。
きっとなにかあるはずだと思った。
「…………」
なので聞いてみると、彼女の顔から笑顔が消えた。
それを見て俺はハッとする。
もしかして、魔獣への恨みを晴らしたいとか……そんな理由だろうかと思い当たった。
なら、聞かないほうが良かったかと後悔する。
しかしニーナは特に気にした様子はない。
「リュートくんは? 何がしたいですか?」
ただ優しい目で俺を見て、逆に俺のことを聞いてくる。
「えっ……」
ちょっと困ってしまった。
ここで大それたことを言って、全然強くなれなかったら恥ずかしいと思ったのだ。
ニーナのほうが強くなりそうだし。
でも、少し迷って俺は口を開く。
「俺は……孤児院のみんなを守りたい。それで、ずっと一緒に暮らしたい……」
孤児院のみんな、と言ってもみんな仲良しではない。
まだあまり話したことがない人もたくさんいる。
少し気まずい相手だっている。
だけど、それでもここが俺の居場所だともう決めていた。
「…………」
ニーナはまた目を見開いていた。
本当にびっくりしたような顔だった。
やがて、半分上の空で語りかけてくる。
「私のことも?」
「うん」
「じゃあ…………その、お兄ちゃんのことも?」
お兄ちゃん?
あ、クリフか。
……まぁ、色々あったけど、でも……俺がとっても強くなれたら守ってやってもいい。
だって、これからずっと一緒に暮らしていくんだから。
助け合いが大切だ。
あとは、上手く言えないが……俺は、家族は一人でも多い方が嬉しいような気がするのだ。
「うん」
だからうなずくと、ニーナは本当に嬉しそうな顔をした。
それは笑顔ではなくて、でも柔らかい形に口元が緩んでいる。
瞳がきらりと光った気がした。
淡く光る目で俺を見て、彼女はゆっくりと口を開く。
「じゃあ、私は……リュートくんを守りたい。……きっと、守れるように、なりたい」
少しおどおどしながら言った。
恥ずかしそうに声を詰まらせながら言った。
俺はなんだか照れくさくて頭をかく。
でも、やっぱり嬉しかったからお礼を伝えた。
「ありがとう。ニーナが守ってくれるなら、安心だね」
すると彼女はまた笑顔になった。
楽しそうに、幸せそうに笑っていた。
―
――
―――
やがて時間が過ぎた。
朝の光が街を照らし始める。
金色の、弱くて美しい光だった。
大火で傷ついた人々へと新しい今日の訪れを告げる光だ。
そんな明けゆく街の片隅で、ひとすじの煙が細く途切れて絶えていく。
名残りもすぐに風に散って、朝焼けに溶けるように消えてしまう。
庭にはもう、少年の姿はなかった。