二十話・這い寄るは影
丸一日ほど経っただろうか。
封印によりおぼつかない意識の中、呆然と時をやり過ごしていたアッシュの牢に……誰かの足音が近づいてくる。
最初は封印の維持に来た神官かと思った。
しかしどうもそうではないらしい。
近づいてくる足音からして、靴底には金属を使用してある。
となれば、恐らくは軍人だろう。
「アッシュ……」
グレンデルだった。
「お前、か……。なにを、しに来た?」
アッシュの問いにはグレンデルは答えず、代わりにこんなことを聞いてくる。
「アッシュがやったのか?」
「そんな、わけ、ないだろう……」
アッシュは否定するが、グレンデルはどこか仄暗い声で、独白のように問いかけを続ける。
「お前は、その、嘘をついたんじゃないのか? 本当は門衛には勝てなくて、だから噂みたいに人間の魂を奪って力をつけようとしたんじゃないのか?」
そこで言葉を切ったグレンデルは、少しの沈黙の後に決定的な一言を続けた。
「俺は、お前を信用できない」
朦朧とした意識の中で、グレンデルがどんな表情をしているのかは分からなかった。
だが、その声が悔いるような響きを帯びているのが読み取れた。
「俺はお前のことをいいやつだと思ってた。優しいやつだって思ってた」
そこまで言って彼はかぶりを振る。
「でも、きっと勘違いだった。お前にそんな心はない。お前は俺たちのことを道具くらいにしか思っていない。お前は……やっぱり『骸の勇者』だ」
「そんなことを、言いに来たのか……?」
喘ぐように吐き出した言葉に、グレンデルは虚を突かれたように顔を上げる。
そしてぼやけた顔が、小さく息を吐き出すのが分かった。
「……そう、だよな。すまない。どうでもいい話だよな。そうだよな」
小さくそう呟いて、それから彼の声から親しみの名残のようなものが消えてなくなる。
ただただ暗い、人生に絶望して荒んだ青年の声が耳に届いた。
「俺たちは恐らくもう駄目だ。終わりだ。だが、最後まで抗ってみせる。これからアリスちゃんと一緒に、森の近くの住民の救出作戦を行うよ。一人でも多く救い出して、ロデーヌと……それからまだ余力のある街に難民として受け入れる」
「当てつけの、つもりか?」
「……そうかもしれない」
小さく皮肉げな笑い声を上げて、グレンデルは踵を返した。
「それじゃあな」
グレンデルがいなくなったところで、鉄格子の向こうに誰かが……アリスがやって来た。
どうやら後から来て、グレンデルが去るのを待っていたらしい。
「よう、人殺し」
「殺すぞ」
アッシュが睨みつけると、彼女は笑みの気配をさせながら鉄格子の前にしゃがむ。
「どんな気分ですか?」
「…………」
「私はね、滞在中の礼代わりに難民の救出作戦を済ませたら、この街からはおさらばしますよ」
この街の神官が間抜けでよかったとか、なんだかをべらべらと楽しげに話すのを完全に無視した。
すると、やがて舌打ちして彼女は腰を上げた。
「全く壁に話しているようです……。もう行きますね、それじゃあ永遠にさよなら」
少し手を振ってその場を去り、それで本当に見張り以外の誰も牢屋からは姿を消す。
―――
牢の中は静かだった。
ただひたすらに静かで、自らの苦しい呼吸の音さえ耳障りなほどだった。
そしてそれが永遠に続くようにさえ思われてきた頃、外の騒ぎの音がかすかにアッシュの鼓膜を震わせる。
「…………!」
悲鳴、悲鳴、悲鳴……。
それには見張りも気がついているようだったが、持ち場を離れるわけにはいかないのかただそわそわとしている。
それを横目に、風に草がささめくように小さく、遠くから聞こえてくる声にアッシュは耳を澄ます。
まさか、魔獣か……?
アッシュは身体をよじり拘束を外そうとするが、それでも手錠も何もかも拘束は一切揺らぎもしない。
「クソ、が……!」
必死にもがくが、牢に刻まれた封印のルーンのせいでロクに力も入らない。
だがそれでも諦めるわけにはいかず、アッシュは手錠を何度も地面に打ち付けて外そうとする。
それを見兼ねてか、見張りがこちらに近寄ってきた時だった。
「おい! アンタ! いるか?」
牢に慌ただしい足音が響く。
ちょうど目の前にいた見張りの兵士が押し止めようとして、しかしそれは侵入者によって殴り倒される。
「おい! ……ああ、良かった! 助けてくれ、頼む!!」
顔を青くして、息を乱れさせて現れた男はダンだった。
「鍵はここにある! 頼む、助けてくれ……。人殺しが出た。とんでもない人殺しだ……!」
「人、殺し……?」
「そうだ、あんたの装備も持ってきた、だから……!」
牢が開けられ、ダンが中に入ろうとする。
が、アッシュはそれを制止した。
「待て、あんたも、動けなくなる」
「じゃあどうすれば?!」
取り乱すダンにゆっくりと告げる。
平静を欠いた彼へ、正しく伝わるように。
「隣の牢にでも、魔石か、何かが詰まった、装置があるはずだ。それを、止めて、くれれば、それで、済む」
「わ、分かった」
そう言うとすぐにダンが視界から消える。
荒っぽい音がして、封印の形はその効果を失う。
「…………」
再び慌ただしく駆けてきたダンが牢からアッシュを連れ出した。
また、拘束も外してくれた。
少しだけ心配そうに声をかけてくる。
「大丈夫か?」
「いや……」
丸一日も封印に晒され、さらに食事はその前から摂っていない。
とてもではないがまともに動ける気がしなかった。
「歩けないのか?」
「なんとかする……」
支えようと手を伸ばしてきたダンを振り払い、膝をついて立とうとするが力が入らない。
やむなく、無理やり魔物の力を引き出すことにした。
「……『魔物化』」
黒い魔力がかすかに溢れて、それで少しだけ身体が動くようになる。
そして、それにダンは喜色を浮かべた。
「立った、良かった……」
「で、殺人鬼とやらはどこだ」
かすれてはいるが声もまともに出せるようになった。
相変わらず意識は朦朧としているが、それでも戦えないほどではない。
「あ、ああ。西門の辺りだ。そこで暴れてる……! 俺の家の近くで、アルスと妻がどこにいるか分からないんだ」
アッシュが殺人鬼について聞くと、喜びもかき消えた様子でアッシュを揺さぶってきた。
かなり切迫した状況らしい。
しかし、揺らされると頭が痛くなるので手を引き剥がす。
「分かった。俺の装備は?」
「えっと……ここにある。受け取ってくれ」
牢の鉄格子の脇に置いてあるのは、確かにアッシュの剣とポーチ、あとは鎖だった。
それらを手早く身につけて、ダンに別れを告げる。
「もう行く。助かった」
「いや、そんなこと言われる資格は俺にはない……。俺は、ただ……家族を助けたかっただけだ」
「そうか」
アッシュはダンに背を向け走り出す。
だがすぐにふらつき壁に手をついた。
「おい! 大丈夫か?!」
「……もう大丈夫だ」
駆け寄ろうとするダンを止めて、アッシュは今度こそ走り出す。