八十九話・炎上
時間が過ぎていく。
固く抱きしめていたリリアナの体からは、すでに熱が失われようとしていた。
からっぽの、冷たい死体になろうとしていた。
「……………………やめろ」
俺はつぶやいた。
誰に言ったのかは分からない。
ただ恐ろしいほどの怒りが湧き上がってくる。
「もうやめてくれ…………頼む……」
体が冷たくなる。
時間が過ぎていく。
止めたくても止められない。
いつもそうだ。
泣いても怒っても俺には何もできない。
「……リリアナ」
名前を呼んだ。
そしてひび割れた瞳を閉じてやった。
もうこんな世界を見なくてもいいように。
きっと悲しい事ばかりだっただろう。
かわいそうでかわいそうで、胸が張り裂けそうになって俺は泣く。
「…………」
それから、また時間が過ぎた。
やがて遺体は冷え切ってしまった。
無機質な物になってしまった。
だから俺は、ゆっくりと彼女を地面に寝かせる。
何も考えずに、ふらふらと歩き始める。
「っ……」
頭が痛い。
割れるように痛い。
俺は呻いた。
十歩も進めずにうずくまる。
そのまま歯を食いしばっていると、突然全てが真っ白になるような激情が脳を貫いた。
「う、う……ううぅ…………!」
顔を覆っていた手が、指が、そのまま肌に爪を立てる。
衝動的に深く傷をつける。
爪で強く肉を抉り、剣を抜く。
剣を振り下ろして、壁に叩きつける。
何度も斬りつけた。
そして絶叫した。
「ああぁぁぁぁっ!! があぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!」
獣のように叫んで壁を斬る。
叫んでいると喉が引きつって、せり上がる悲鳴が笑い声に似た音に変わる。
「ははは……あはははっ……ひっ……あああ……ああ……うううう………あ、あああ……うぅ……あぁ、ぁ…………」
悔しい。
悔しい悔しい悔しい悔しい。
どうしても許せない。
「なんでだよ……なんで……なにも……なにも上手くいかないんだよ……」
歯を食いしばった。
壁に剣を突き立てる。
俺は泣きながらわめいた。
「なんで、こうなるんだよ……なんでいつも台無しにするんだよ……!!」
また崩れ落ちた。
頭を抱えて考える。
リリアナがどんな気持ちだったのか、どんなに苦しんだのかを考える。
俺の友だちが、どんなにひどいことをされたのかを想像する。
「…………」
俺は、あいつがどんな地獄を見たのか知らない。
でも、だからこそ、あらゆる苦しみを思い浮かべてしまう。
考えれば考えるほど心が軋んで苦しくなる。
リリアナはなぜ、あんなふうにずっと謝っていた?
あいつにいったい何をしたんだ。
何をしたんだよ。
どんな……ひどい仕打ちをしたらあんなことになるんだ。
「辛かったよな……」
妄想の光景が、リリアナの苦しみを知らないことが、彼女が死んでしまったことが。
その全てが、頭がおかしくなるほどの怒りを湧き上がらせる。
「う、うぅ……」
歯を食いしばる。
自分の表情が恐ろしい形に歪むのがわかった。
「……殺してやる」
やがて、燃え上がる憎悪が俺の足をつき動かした。
絶え絶えの息で、世界への呪詛を吐き散らす。
「殺してやる……全員…………みんな、殺してやる……」
剣を握りしめる。
もういい。
殺す。
もう誰でもいい。
誰でもいいから頼む、死んでくれ。
「おかしいだろ……リリアナだけ……あいつだけあんなに苦しむなんておかしい!! 絶対におかしいっっ!!!」
憎悪のままに叫ぶ。
何もない場所に剣を振り下ろした。
すると体が唐突に平衡感覚を失う。
倒れた。
手をついて、ふらつきながらもゆっくりと立ち上がる。
「許さない……。許さない、許さない……謝れ、リリアナに……! クソ……待ってろ、リリアナ。みんな同じにしてやるからな…………」
人間を皆殺しにする権利が俺たちにはある。
だってあいつらは、リリアナが苦しんでいたのに誰も助けてやらなかった。
彼女を、誰も助けなかったのだ。
「俺が……俺が……あいつらを……」
リリアナは自殺するくらい苦しんだのに、平穏に生きているならそれだけで許せない。
俺が、やつらを殺さなければならない。
そういえば、シーナ先生がこの施設は王都の地下にあると言っていた。
なら今から外に出て、最初に出会った相手を斬り殺す。
そのまま殺して殺して、まずはこの街の人間の首をリリアナの前に並べてやる。
「殺す……殺して、やる……一人も…………逃さない、絶対に……」
憎悪を言葉に変え続けた。
しかし俺は、自分が泣いていることに気がつく。
怒りを口にするたび、俺の目からはとめどなく涙があふれ出す。
「…………」
リリアナの、最期の姿を思い出した。
俺の頬に優しく触れていた。
ずっと昔に同じようなことがあったのも思い出す。
あいつは俺の頬に触れて、嬉しそうに笑っていた。
『ありがとう。信じてるよ』
記憶の奥から声が聞こえた。
急に膝から力が抜けて、俺はその場にうずくまる。
涙を流す。
「う、うう……ううう…………」
……違う。
俺は、そう認めるしかなかった。
本当にこんなことを思ってるわけじゃない。
関係のない人を殺していいなんて思ってない。
なによりリリアナが、無関係な人を傷つけたら悲しんでしまう。
「でも、俺は……どうすればいいんだ…………」
泣き続けた。
俺はただ悲しいだけだった。
ただただ悲しい気持ちをどうしていいのか分からないだけだ。
俺も、本当はみんなを殺してしまいたいわけじゃない。
でも、そうしないとやりきれないのだ。
悲しい気持ちを一人では抱えることができない。
だったらもう悲しみを世界に叩きつけるしかなかった。
そうしないと、俺は、生きていることができなかった。
「…………もう、俺だって……生きていたくないよ」
俺は、自分に剣を向ける。
間違いを犯す前に死のうと思った。
だが止まった。
「…………」
理由に思い当たったからだ。
リリアナがわざわざ俺の前で自殺した理由に。
「……そうか」
理由は、俺たちが取り込んできた魂だ。
それを誰かに渡すために、無駄にしないために、リリアナは待っていたのだ。
別に俺でなくても良かったのだろう。
ウォルターの前で死ななかった理由は分からないが……とにかく、あいつは力を継承しうる誰かを待っていた。
「…………」
俺は、それに気づいたから踏みとどまった。
ウォルターに全てを繋ごうと思った。
あいつならきっとこの力を正しく使える。
魔獣に侵された世界を救ってくれる。
「……行かないと」
俺は、ふらつく足で来た道を戻り始めた。
戻ってステラとの戦いに手を貸して、それから俺は、死ぬ。
―――
しかしあの広間にはもうウォルターはいなかった。
ステラもだ。
壁があちこち破壊されて……戦闘の痕跡は残っている。
だが今は二人ともいない。
大量の死体が放置されているだけだ。
周囲を見回していると、山積みの死体の中にハインツの姿を見つける。
「…………」
特に感傷はなかった。
かつてはヴィクターと呼び、慕っていた男ではある。
そしてハインツとしては殺しても足りないくらい憎んだ相手でもある。
でももうどうでもよかった。
俺の人生にはもう何もない。
ウォルターを探す。
それだけ考えて歩き出す。
やはりどこにもいない。
足を急がせる。
走る。
地下施設は思ったよりずっと広かった。
かなり探したが見つけられない。
「……外に出たのか?」
施設をすべて探せたとは思わないが、死んだように静かなこの場所で二人が戦っているとは思えなかった。
「じ、十番……! ステラは倒したのか!?」
そんな声をかけられた。
物陰からあの魔術師の男が出てきていた。
俺は何も言わず歩み寄る。
ちょうどいいと思って首を掴みあげた。
「ひっひぃぃっ……なんだお前! やめろ! やめろと言っている……これは」
まだ立場が分かっていないようだった。
殺さない程度に手加減をして、俺は何度も殴りつける。
無心で、黙るまで顔を叩き続ける。
しかし少しやりすぎたことに気づいた。
「…………」
殺す前にと思って下ろした。
すると、男は泣きながら俺に命乞いをした。
無視して、体を踏みつけながら問いを投げる。
「出口を教えろ」
聞けば、俺が行ったあの広場に出口への通路が繋がっていたらしい。
やけに広かったのは外から物資を運んだりする出入り口だったからなのだろう。
しかも俺とリリアナが通った道も、そういった出口の道の一つだったそうだ。
ステラがあそこにいたのも、逃げ出そうとする人間で遊んでいたからか。
「…………」
何も言わず俺は立ち去る。
この施設を出るつもりだった。
―――
また通路を進む。
リリアナがいない、さっきとは別の道を選んだ。
また死に顔を見たら心がくじけると思ったからだ。
「…………」
黙って歩く。
ウォルターはきっとこの力で世界を救うだろう。
俺は、生まれてきた意味があったのかもしれないと思った。
というよりそう信じたかった。
「…………」
ふと思う。
もしかするとリリアナは、ウォルターに全てを背負わせたくなかったのだろうか。
あいつもきっと、ウォルターには救世主として生きることを望んだだろう。
だからせめて別の人間の前で死のうとしたのか。
世界を背負うその肩に、自分の死までは負わせないように。
なら、俺もそうするべきなのだろうか。
俺もなにか、彼の心を傷つけないように、死ぬ方法を……。
「…………」
さらに進む。
俺は……………いや、どうでもいいか。
もう何も考えたくない。
後は、ただ死ぬだけだ。
どうかそれだけでもう、許してほしい。
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……俺は、道の終わりにたどり着いた。
開け放たれた扉からは光が漏れている。
赤い光が見える。
「…………」
怪訝に思って目を細める。
この先には一体何がある?
ふと鼻を、なにかが焦げるような臭いがかすめた。
目の前には、やはり赤い光がある。
「……炎?」
俺は歩いた。
奇妙な感覚だった。
赤い光が見える先へ。
殺し合いの場に向かう通路を思い出す。
あの時の記憶が今の俺に重なる。
俺は、外の世界に出た。
街を見て目を見開く。
「なんだよ……これ…………」
俺が立っているのは民家に偽装された出入り口のようだった。
そして、窓から見える外の世界は燃えていた。
炎が燃えて、夜の街を真っ赤に染め上げていた。
「なにがあったんだ……」
街が、王都が……炎に包まれていた。
遠くから人々の叫び声が聞こえる。
俺は燃えている家を飛び出した。
すると火だるまになった人間と、必死にその誰かに桶の水を浴びせる少女の姿が見えた。
「火が! 消えない! 消えないの!! 誰か助けて!!」
助けなければと思う。
だが次の瞬間、二人とも崩れた家の瓦礫に呑み込まれてしまった。
「はぁっ……はぁっ……」
頭がおかしくなりそうだった。
息が乱れる。
嫌な予感がする。
これも俺のせいなのか?
ウォルターの、指が炎を纏っていたことを思い出す。
まさか。
でも、まさか、そんなことは……。
「ウォルター……どこにいるんだ……」
俺は空を見上げた。
真っ赤な炎が夜空を薄赤く染めている。
俺は周囲を見渡す。
深く集中する。
「…………」
すると魂が、どこかに引き寄せられているのが分かる。
この炎が奪っているのだ。
だから俺は感覚を信じて走り始めた。
燃える街を泣きながら走った。
消えない、さらに魂を奪う炎……こんな物を見せられてしまっては、疑いは深まるばかりだった。
「なんでだ……」
ウォルターが仮にこれをやったとするなら、俺はどうすればいいのだろう。
少なくとも死ぬわけにはいかなくなった。
……しかしなぜ?
あいつは、こんなことをするような人間ではなかった。
俺のように世界を憎んだのだろうか。
気持ちは分かる。
本当に分かる。
でもこれは、あまりにも…………。
『もしわたしやウォルターが間違えたら……助けてね』
記憶が蘇る。
今がその時なのか?
それから、俺はたどり着いた。
炎と、叫びと、死の中を駆けてそこに立った。
「……ウォルター」
俺は呼びかけた。
あいつは俺に背を向けていた。
ここは……普段は自由市として、出店が出るような場所なのだろう。
地面は石畳で、いくつもの道が合流した先の広い空き地だった。
周囲に武装した兵士の死体が数限りなく倒れている。
それに、彼の隣には血がこびりついた大剣が突き立っていた。
「…………」
ウォルターは、傷だらけでそこに立っていた。
傷は……ステラにつけられたのだろうか?
そしてその右腕を、どんな炎よりも力強く燃える火が覆い尽くしている。
俺は、兵士を殺したのかと聞こうかと思った。
でも先に炎のことを問いただそうと考える。
しかし実際は、知るのが怖くて俺はなにも言えなかった。
「リュートか」
あいつは普段通りの様子で声に振り向く。
俺は、なにかの間違いであることを祈っていた。
「ステラは倒した。リリアナは?」
こともなげにステラを倒したと言って、あいつはリリアナのことを尋ねる。
俺は、何も言えずに俯いた。
「…………」
すると彼は深くため息を吐いた。
「……まぁ、そんな気はしていた」
ウォルターは再び背を向ける。
それから、まるでひとりごとのようにつぶやきを漏らした。
「もう会えないんだな、あいつには」
もう会えない。
そう言われて悲しみが蘇る。
止まりかけていた涙があふれる。
「あの時。俺は……なんとなく最後だって分かってたんだ」
ウォルターの言葉だ。
あの時……つまり、俺にリリアナを託す前の話だろう。
彼も最後に何かを話したのか。
「けど、なにも言えなかった。ありがとうも、楽しかったも、幸せだったとも、なにも。自分のことで手いっぱいで……」
悲しみが滲む声だった。
初めて聞くくらい打ちひしがれた声だった。
本当に小さな声で彼は続けた。
「やっぱり、俺はバカなんだろうな」
俺は涙を拭う。
そして同じだと思った。
俺も、もっと彼女に言うべきことがあった。
でも今さら気づいたところでなんの意味もない。
リリアナにはもう会えないのだから。
「…………俺も、言えなかった」
涙に濡れた声で伝えた。
すると、ウォルターは振り向いて悲しげに微笑んだ。
「そうか。……バカだな、俺たち」
「……うん」
俺は、やはりこの炎がウォルターによるものではないと思えてきた。
彼は変わっていない。
確信できる。
ウォルターはウォルターのままだ。
だから、俺は少しだけ冷静さを取り戻し始めていた。
「ウォルター、この炎は? ステラの仕業か?」
「ああ……」
どうでもいいことを聞かれたかのような相槌だった。
彼は周囲で燃える炎をじっと見つめる。
それから少し考えるような素振りを見せたあと、答えを口にした。
「いや、俺の火だ。俺の力で……街を焼いている」
理解できなかった。
なぜ、そんなことをするのだろう。
どれだけの人間が死ぬのか分かっているのか?
「…………」
言葉を失った。
ひどく息苦しい。
立ちくらみがする。
何故か思い出が浮かんでは消えていく。
重苦しくのしかかる絶望を押しのけて、俺はなんとか声を絞り出す。
「なんで、こんなことした?」
その問いを受けて、ウォルターは俺の目をまっすぐに見据えてきた。
一点の曇りすらない、静かで強い意志を秘めた瞳だった。
口を開く。
「世界を救うためだ」
あいつは、たった一言そう答えた。