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ロストキルレシオ  作者: 湿った座布団
たとえ灰になっても
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八十八話・おしまい

 


 俺は、戦いの直後に意識を失った。

 死んだと思って目を閉じたが、後で目が覚めて自分が生きていたことを知った。


「…………」


 薄暗い病室で、俺はまだ起き上がれていない。

 全身の切り傷が熱を持って痛む。

 切断された腕は縫合ほうごうでくっついたそうだが、気休めにもならないほど体中が傷ついていた。

 むしろよく……殺さずにここまで痛めつけられるものだと、ハインツはそう言って笑っていた。


「なん、だったんだ……あいつ」


 苦しい息でつぶやく。

 あの剣士は俺の記憶に消えない恐怖としてこびりついていた。

 恐怖の、そして嫌悪の対象であり、また不気味な存在でもあった。


「……どうでもいいか」


 そう漏らして俺は目を閉じる。

 すると、気絶するように眠りに落ちていた。



 ―――



 あれから何日経ったのだろう。

 途中まで順調に回復していたが、ある時から突然俺の状態は悪化し始めた。

 今や怪我がどうなったのかも分からない。


 ただ体が熱い。

 燃えるように熱い。


「……今度は、なんだ」


 視界がぼやける。

 見える限りの世界がぐにゃぐにゃと歪む。


「ううっ……ううぅ……」


 俺は獣のような声でうなる。

 悪い感情が頭の中を満たしていた。

 行き場のない怒りが脳を突き抜ける。


「熱い、熱い……」


 少しでも空気に触れさせて体を冷やそうと思った。

 乱暴に包帯を引きちぎる。

 すると、皮膚のあちこちが真っ赤に熱を持っていた。


「水……誰か、水を…………」


 呼んでも誰も来なかった。

 ここのところ不気味なほど静かだ。

 自分で水を探そうと思ってベッドから転げ落ちる。

 しかしそこで、意識が遠のいていく。


「誰か……」


 俺は、このまま処分されるのだろうか。

 眠りに落ちる前にそんなことを考えた。



 ―――



「おい! 十番! 起きろ!!」


 声がした。

 俺は床の上で寝て、そのまま放置されていたらしい。

 顔を上げる。

 ふらふらしてまだ動きづらい。


 いつも命令してくる、魔術師の男が来ているのがわかった。


「助けてくれ……」


 怯えきった様子でそいつが言った。

 俺は、上手く働かない頭で状況を理解しようとする。

 何らかの危険に脅かされているようだが……首輪があるのでとりあえず従うことにした。


「はい。でも、その前に、水を……」


 注文をつけたので怒鳴られるかと思ったが、案外すんなりと男は水差しを持ってきた。

 ベッドのそばに座り込み、コップには注がずに直接飲む。

 味からしてかなり傷んだ水だと分かったが……贅沢は言わない。

 俺の体なら体調を崩したりはしない。


 飲み干すと、少しだけ頭がはっきりしてきた。


「…………」


 体を見る。

 肌のほとんどがひび割れて、そのひびに沿って赤く熱がくすぶっているのが見えた。

 ああ、ついに化け物になったのだとぼんやり考える。


「助けてくれとは、なんです?」


 敬語で語りかけた。

 すると男は泣きそうな顔で俺にすがりついた。


「ステラが……ステラが……暴走して……」


 なるほど。

 それはここまで怯えるはずだ。


「…………」


 俺は深く納得する。

 多分クリフと同じように首輪を無効化したのか。

 あの悪魔に襲われたら、ただの人間などひとたまりもない。

 ちなみに俺にも止めるのは無理だ。

 絶対に無理だ。


 つい、思わず噴き出してしまう。


「ははは……ははははははは。そうか、そうか……ステラが……ははは……くくっ……」


 俺は、心から晴れやかな気分で笑った。

 こいつらは臆病者だ。

 ずっと俺たちを恐れていた。

 その恐れのとおりに報いを受ける日が来たのだ。


 だが、あいつには俺も恨みがある。

 ちょっと戦うくらいはしてやってもいいと思った。

 どうせ、今さら死のうがどうだっていいのだ。


「何を笑っている!!!」


 今度こそ男に怒鳴られた。

 俺は笑いを噛み殺した。

 ふらふらと立ち上がり、うやうやしく見えるよう頭を下げる。


「すみません。……良ければ、装備を整えさせてください」


 外の地獄絵図を見るのが楽しみだった。

 そして少しだけステラを痛い目に遭わせて、俺の人生は終わりでいい。



 ―――



 剣と鎖、それから『炎』と『土』、『器』のメダルを調達した。

 そういえば『器』のルーンは長いこと使っていなかったが、今日はなんの制限もないので持って行くことにしたのだ。


「……ん?」


 手早く装備を整えたあと、違和感に気づいて俺はポーチを探る。

 すると奥に血がこびりついた『光』のメダルが紛れ込んでいた。

 これはどういうことだろうか。

 前にこのポーチを使った実験体の触媒が紛れ込んでいたのか。

 戻すべきか悩む。


「…………」


 しかし別に、あって困るものではない。

 戻すのも面倒だ。


 そう結論づけたあと、廊下に出た俺は男の後を歩く。



 ―――



 外に出てみれば、まさにそこは期待した通りの地獄だった。

 独房が並ぶ通路にはあちこちで人間が倒れている。

 兵士も魔術師も、逃げ回った末に無惨に殺されたと分かる。

 流石はステラ、あの悪魔だ。


 しかし一つ気になるのが、そこまで時間の経った死体には見えないことだ。


「暴走はいつ始まったんです?」

「少し前だ。今日の……」


 答えを聞いて考えた。

 では、俺が放置されていたのは暴走で余裕がなくなったから……ではないというわけだ。

 あるいは暴走の予兆があって、それを抑えるのに必死で忙しかったとか?


「…………」


 まぁこれもどうでもいい。

 全てがどうだっていい。

 今考えるべきはハインツのことだ。

 あいつが、ステラに殺されるところを見てみたい。

 そして、もしハインツが死んで自由になったら目の前のこの男は俺が殺そう。


「っ……」


 どう殺すかを考えて、俺はつい漏れそうになった笑いを噛み殺す。

 とても清々しい気分だった。


「このあたりに……いる……」


 男がそう言った。

 言ったあと逃げていく。

 だが一度だけ振り返って俺に命令をした。


「命令だ、お前は……『先に進め。ステラと戦え』。お、俺は避難している……」

「……はい」


 楽しみに水を差されたような気分だった。

 俺はこれからステラに殺されるから、もうあいつを殺すことはできない。

 ほんの少し残念に思いながら前に進む。


「――――――――ッ!!」


 すると、遠くで悲鳴が聞こえた。

 あの男ではない。

 この道の先で虐殺が起きている。


 行かなければと思うが、独房と広場への道以外俺は知らない。

 仕方ないので走り回っていると、やがてやけに広けた場所に出る。

 見たことがない場所だ。

 たくさんの通路が合流している、かなり広い空間だった。

 天井も高い。


 そしてその先に、あの悪魔の後ろ姿があった。


「くすくす……」


 笑っている。

 あの時と同じように。

 寝ても覚めても忘れられなかった悪魔の声だ。


 周囲には山のように人間の死体がある。

 今も生き残りと思しき一人の胴体を左手で貫いていた。

 無慈悲に内臓を引き抜いて、まるで玩具のように投げ捨ててしまう。


「…………」


 知らず、息が乱れていた自分に気づく。

 膝が震えそうになる。

 恐怖を感じているのだ。

 だから俺は、念入りに呼吸を整える。


 棒のような足で一歩踏み出した。

 もう一歩進む。

 ステラに向かって。


 しかしその時、あいつが先に俺に気づいて振り向いた。


「……あなただぁれ?」


 甘ったるい声でそんなことを言った。

 にこりと笑いながら俺を見ている。

 だがその姿は……変わり果てていた。


 一糸まとわぬ体はおびただしい、もはや数えるのも馬鹿らしいほどの数の唇に覆われている。

 加えて背中から蝙蝠こうもりのような形の大きな翼が生えていた。

 さらに、極めつけにステラの顔についた本人の、本来の口が……なにか血管のような糸で厳重げんじゅうに縫い付けられてしまっている。


「…………」


 瞳は赤く、暴力的な輝きを宿していた。

 しかしそこにもう悪魔じみた知性はない。

 今俺に語りかけたのも、笑ったのも、本人の口ではなく体中で蠢く真っ赤な唇の一つだろう。

 縫い付けられたステラ自身の口は、もはや一言も言葉を発することはできないようだ。

 穏やかな笑顔を浮かべるあいつの、その縫われた口だけがもごもごと必死に動いている。


「……お前、完全に堕ちたのか」


 俺はつぶやく。

 多分ステラは魔物に堕ちて、正気を失った。

 これもクリフの時と同じだ。

 あまりの末路に俺は少しだけ哀れだと思ってしまった。


「くすくす……」


 ステラは……いや、ステラだったものは笑う。

 その声の数はもはや数え切れない。

 森の木々の葉が揺れてさざめきあうように、不気味な声が重なって無数にわめき立てる。


「私はすごいのよ」

「見て、こんなに殺したわ」

「弱い仲間なんていらないよ」

「……ステラはすごい」

「ステラは賢い!」

「誰よりも強い」

「くすくす……くすくす……」


 俺はため息を吐いた。

 きょうを削がれたような気分だった。

 復讐の相手がこれではどうしようもない。


 だが、そこで敵が杖を向けてきたから俺は身構える。


「三層魔術……」


 微笑んでいるあいつの、杖の先に莫大ばくだいな魔力が収束する。

 当たり前だが魔物に堕ちても実力は本物のようだ。

 戦おうかと思ったが、急にどうでも良くなってきた。

 しかし自殺はできないので適当にやり合おうと考えた……その時。


「惨めだな、ステラ」


 声が聞こえた。

 この声は、まさか。


 俺は目を見開く。


「ウォルター?」


 弾かれたような勢いで声の方に振り向く。

 見た先には通路があった。

 そしてこの広間に向かって歩いてきていた、その少年は……まぎれもなく。


「それは……『キャンセル』だ」


 声と同時、ほんの小さな赤い光が走った。

 離れているのもあり火の粉のようにしか見えなかった。

 尾を引いて駆け抜けたその光は、ステラが作ろうとしていた魔術に触れた。

 さらに接触と同時に炎上する。

 跡形もなく、収束していた魔力が焼き潰れた。


「!」


 炎に怯んだように後退りしたあと、ステラは通路の先の少年を睨みつける。

 しかし彼はそれを気にも留めずに歩いてくる。

 靴を鳴らし、広間に足を踏み入れた少年は、まず俺の目を見て口を開いた。


「久しぶり、リュート」


 正確な期間は分からないが、確かに久しいのだろう。

 本当に色んなことがあって、ずいぶん昔に別れたような気がする。

 俺は、声を震わせながら答えた。

 もう二度と会うことはないと思っていたのだ。


「……う、うん」


 ウォルターも変わっていた。

 俺と同じ実験着を身に着けていて、その左手には身の丈を超える大きさの大剣が引きずられている。

 雰囲気は……全体的にどこかすさんだだろうか。

 きちんと整えていた髪も今は乱れ、目にかかるような長さになっている。

 さらに目の周りにも()()ができて、顔もやつれ、目の色は魔物らしく真っ赤に染まっていた。


 だが変わらないものもある。

 それは瞳の気配だ。

 魔物とは違う、強い意志の光が宿っている。

 彼は紛れもなくウォルターだった。


 俺は重ねてきた罪を思い返して、あいつの目をまっすぐ見ることはできなかった。


「…………」


 そんな俺の気持ちを知っているのかは分からない。

 だが特に表情を変えずに言葉を続けた。


「こいつは殺しておく。俺が……いま通ってきた通路に行け」

「いや、一緒に戦う」


 ステラを前に、ウォルターを一人にはできないと思った。

 今の俺なら手助けくらいはできるはずだ。


 けれど彼は首を横に振った。


「いいから。行け、頼む」

「でも……」


 なおも言い返そうとすると、まるで遮るようにウォルターが言葉を重ねた。


「リリアナがいる」


 その言葉に俺は、思わず剣を取り落とした。

 頭が真っ白になった。

 勝手に涙が出てくる。


「……え?」


 頬に触れた。

 涙が止まらない。

 膝から力が抜けて、崩れ落ちる。

 喉が震え始める。


「う、嘘だ……そんな……そんな、だって……あいつは……死んだって…………」


 ウォルターが、黙ったまま右手の人差し指を俺に向けた。

 その、指が一本だけ燃えていることに気がつく。

 また炎が走った。

 今度は俺の首輪を跡形もなく燃やす。


「あっ……」


 解放された。

 あまりにもあっさりと。

 よく見ると彼にもう首輪はなかった。


「行け」


 指一本にだけ炎を纏わせたまま、ウォルターが言った。

 俺は剣を拾って走り出す。

 返事をするのも忘れていた。

 リリアナが生きている、その事実だけで俺の頭は埋め尽くされていた。


「はっ……はっ……」


 通路を走る。

 疲れてもいないのに息が乱れて仕方がない。


「うっ……うううっ……」


 背後で戦いが始まったのが分かった。

 俺は、泣きながら走っていた。

 首輪が消えたから、重くて仕方がなかった肩が今は軽い。

 リリアナに会っても殺さなくて済む。


 何度も涙を拭った。


「やった、やった、やった……!」


 生きている。

 リリアナが生きている!!

 俺は何度も胸の中で叫んだ。


 そして、今はウォルターだっている。

 あいつはきっとステラを倒すだろう。

 そうなったら……そうなったら……もし、そんなことがありえるなら……また、三人で、暮らせる。

 いや、違う。

 シーナ先生も探して四人で暮らそう。

 そうしよう。


「ああ……」


 めまいがして倒れそうだった。

 だって生きていたのだ。

 俺の、大切な家族が。


「…………」


 俺は浅ましい人間だった。

 合わせる顔がないなんて思っていたのに、また会えると知った途端、それに飛びついてしまっている。

 でも俺ははやる気持ちを抑えることができなかった。


 ただ未来のことを考える。

 これからどうやって生きよう。

 ここを出て、どこか遠くへ行きたい。

 孤児院のみんなの故郷を巡って、謝って弔いたい。


「…………」


 もうなにも言葉にならない。

 涙を流し続ける。

 俺は幸せを失ってしまった。

 でも、それでもまだ夢見ることのできる未来が残されている。

 希望が、ある。

 あったのだ、まだ……!

 なら壊れた俺も、また昔のように……戻れるだろうか。


「リリアナ……!!」


 通路の先に、誰か座り込んでいるのが見えた。

 俺は駆け寄る。

 そこにいたのはリリアナだった。


「…………」


 しかし、彼女の体は醜い魔物に成り果てていた。

 腰から下の半分だ。

 そこからは見るに耐えない、言葉にすることすらはばかられる姿になっていた。

 あとは心も……多分、もう壊れてしまっていたのだ。


「ごめん、なさい……ごめんなさい……ごめんね、もう許してください……お願い…………」


 リリアナは、ずっと何かに謝っていた。

 その、赤い瞳はひび割れて光を失っている。

 目が見えていないと気づく。

 耳が聞こえるのかは分からないが、少なくとも俺の声は届いていない。

 長く伸びてほつれた髪の向こうで、虚ろな瞳は遠くを見ている。

 ひどく怯えきった様子で謝り続けていた。


「…………」


 俺は、言葉を失う。

 息を吸って、それから吐く。

 何度もそれを繰り返す。

 体が震える。


 気が狂いそうだった。

 でもこらえた。

 俺は、たとえどんなことになっても……彼女のそばにずっといると決めた。


「……もう、大丈夫だよ」


 絞り出すような声でそう伝えた。

 謝り続ける彼女の前にひざまずく。

 震える手で優しく抱きしめた。

 温かかった。

 生きている人間の温度だった。


「これからは、ずっと一緒だ。ずっと……そばに…………」


 リリアナは答えない。

 なにかにずっと謝っている。


 俺は、彼女を安全な場所に連れて行くことにした。

 そんなものがあるのかは分からなかったが……万が一戦いに巻き込まれでもしたら困る。

 とりあえずもう少し進んでこの場を離れよう。


「ほら、行こう。俺、お前のこと、ずっと……心配してたんだ……」


 俺は彼女を背負った。

 上半身は人間とあまり変わらないのでなんとか背負えた。

 だが、魔物の下半身を少しだけ引きずってしまっていた。

 なので痛くならないようにゆっくりと歩く。

 たまに背中をさすってやる。


「…………」


 反応はない。

 涙があふれる。

 なんとか声を絞り出す。


「リリアナ、びっくりしたけど、でも、俺の方が、よく考えたら……化け物、なんだ。肌とか、ほら、ひどくて、さ……」


 どうしても涙が止まらない。

 俺はどうなってもよかった。

 でも、リリアナは……おしゃれが好きで、優しい……ふつうの女の子だったのだ。

 あまりにも失ったものが多すぎる。


「ひび、割れて……なんか、熱い、し……ヘン、だろ? ウォルター、は……いいよな。あ、あいつだけ…………ズル、いよ……ズルい……」


 辛くてたまらないから未来のことを考える。

 今が本当に苦しいから、きっと良くなっているはずだと想像する。


「ここを、出たら……なにしたい? もし商人をやりたいなら……俺、すごく、頑張るよ……もう絶対サボったりしない。一生懸命働くよ。だから……」


 幸福な未来を想像した。

 でも、想像の中でさえいろんな不幸が幸せを壊す。

 たとえば俺たちは、こんな姿では、人間の世界で迫害される。

 理由もなく体が震え始めた。

 どうしてこんなに辛い思いばかりしなければならないのだろう。

 人生はいつか、これでもいつか、報われることがあるのだろうか。


「だから……なんか…………なんか、返事しろよ……」


 返事はない。

 俺はもう何かを言うのをやめた。

 何も言わず歩き続けた。

 これからどうなるかは分からなかったが、彼女には時間が必要だと思った。


「…………」


 そうしていると、謝り続けていたリリアナが静かになる。

 続けて急に背中が軽くなった。

 落としてしまったのかと思って慌てて振り向く。


「ごめん……! リリアナ、怪我は……」


 すると、そこに彼女が倒れていた。

 小さなナイフで、自分の首を大きく切り開いている。

 俺の背の上で首を引き裂いて、それから倒れたのだろう。

 これは、もう駄目だと分かった。


「…………あ」


 頭の中で、なにか大切なものが壊れた気がした。

 崩れ落ちた。

 力が入らない。

 もう何も考えられない。

 体がすべて溶けてしまったかのようだった。


「なん、で……」


 俺は、そう聞くので精一杯だった。

 絶望の底に堕ちていく。

 目に見えるもの、耳に聞こえるものすべてを拒絶する。


「…………」


 ふと『光』のルーンを持っていることを思い出した。

 しかしなんの意味もない。

 俺は治癒魔術を覚えていない。

 それに、使えたとしても無駄だ。

 ウォルターならこの傷でも助けられただろうが、俺にはなにもしてやれない。


 役立たずの俺じゃなくて、ウォルターがここにいればよかったのだ。


「リリアナ……なんでだよ……」


 俺は、座りこんだまま彼女を抱き上げた。

 目を見つめるが、小さい声で謝り続けるばかりで俺にはちっとも気づいてくれない。


「一緒にいたかったのに……」


 泣きながらそう伝えた。

 するとリリアナが謝るのをやめた。

 そしてしばらく黙ったあと、不意に瞳に光が戻った。


「……銀貨?」


 やっと俺を見つけてくれた。

 でももう手遅れだ。

 俺は強く強くリリアナを抱きしめる。


 すると、彼女は本当に嬉しそうに笑った。


「ありがとう、会いに、来てくれて……。嬉しいな、ちょっとだけ……見える、よ……えへへ……」

「……もっと早く……気づけよ、バカ…………」


 歯を食いしばりながら彼女をなじる。

 だって、一緒に生きていこうと思っていたのだ。

 俺は。

 どんなに辛くても……ずっと一緒にいたかったのだ。


 なのにあいつは、少し困ったように眉を下げる。


「ごめんね……」


 悲しげな声で言って、リリアナは初めて俺に謝った。

 彼女を苦しめ続けた何かではない。

 ようやく、目の前にいる俺だけに向けてくれた言葉だった。


「ごめんね、ほんとに、ごめんね……」


 そして俺の頬に優しく手を触れて、困ったような笑顔のまま語りかけてくる。


「…………でも、もう……生きていたくなかったの」


 最期の言葉だった。

 瞳から光が消える。

 糸が切れたように、頬に添えていた手が落ちる。

 それきり、彼女は動かなくなった。



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