八十六話・次へ
「…………『魔物化』」
口にした直後、俺の心臓がどくんと跳ねた。
そして黒く染まった魔力が溢れ出す。
痛みが消え、感電で焼かれた左手が動く。
身を焦がしていた炎も消えた。
そして炎が消えた理由は単純だった。
上位魔獣に人間の魔術が通用しないのと同じで、圧倒的な密度の魔力の放出が炎の魔術を消し飛ばしたのだ。
「来いよ。人間らしい死に方を……教えてやる」
人間は、弱い人間は、ずる賢い悪魔の前に地を舐める。
俺たちはステラの前に跪いた。
そしてこいつらを屈服させるのは俺だ。
心に渦巻く敵意や悪意、殺意……すべての負の感情に任せて俺はほくそ笑む。
「なに、こいつ……」
恐怖に染まった瞳で少女が俺を見つめていた。
立ちすくんで動けないようだった。
そんな彼女の肩を揺さぶり、前に出た少年が剣を構える。
「クラリス! 戦え!!」
少年が駆けてくる。
あくびが出るほど遅い動きだった。
もはや生物としてのレベルが違うのだとはっきり分かる。
軽く地面を蹴って彼の前に躍り出た。
体が軽い。
視界がとても鮮明で、クリアに感じる。
「は、速い……」
少年の顔から血の気が引いた。
だが怯まず剣を振ってくる。
場数を踏んでいるだけはある。
しかし俺は、かすりもせずに刃を全てかわした。
「どうした? しっかり当てろ」
剣を振り抜いた隙を狙い髪を掴む。
そして引き寄せて、膝蹴りを顔面に叩き込む。
「がはっ……!」
顔から血を流す少年を見て、少女が叫んだ。
「ディラン!!」
「馬鹿! 準備をやめるな!!」
準備……は言うまでもなく魔術の準備だ。
剣を振って少年が俺の手を振り払う。
掴み続けることもできたがあえて離す。
「ば、化け物が……」
鼻血を垂らし、冷や汗を流しながら彼は言う。
俺は少しだけ微笑んで戦いを続けることにした。
少年は、悪態をつきながら剣を振るう。
「クソッ……! クソッ!!」
しかし魔術を使わない。
おそらくその余裕がないのか、あるいは俺に魔術が通用しないと考えているのだろう。
最低でも杖を使って、本気で練り上げた一撃でなければ。
少女もそれを分かっているのか、必死な表情で詠唱を重ねている。
しかし、魔術が完成する前に少年は限界を迎えつつあった。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ…………」
異常なほど呼吸が早く、浅くなっている。
俺はあえて打撃だけで反撃していたが、彼はすでに半分意識を失いかけていた。
「死ねっ!!」
また刃を振ってくる。
俺は剣を捨てて、その斬撃を右手の指で挟んで止めてみせた。
「なっ……!!」
驚愕に目を見開く敵に俺はささやく。
刃を振りぬこうとしてくるが、俺は強く挟んで離さない。
「……力よ、武器に宿り、鋭利な刃となれ」
それから、俺はこれまでにない速度で詠唱を終わらせる。
使うのは炎の剣だ。
魔術を付与するのは、もちろん少年が握っている剣だ。
「お前っ……」
速すぎる詠唱に反応しきれず、やっと何をするかを理解した少年が手を離そうとした。
だが俺は彼の手を左手で包んで押さえつけた。
炎上した剣を通じて、その両手が炎に包まれる。
「ぐあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
熱に苦しむ少年を見て、少女が悲鳴のような声を上げる。
詠唱は終わっているようだった。
不思議とそれが分かる。
魔力の揺らぎというか、なんとなくの感じで読み取れるのだ。
「やめて!」
そして、その彼女に少年が呼びかけた。
「クラリス! 早く……俺ごとやれ!!」
「そんな……」
「いいから! やれ!!!」
ほんのわずかな躊躇のあと、少女は決意を固めたようだった。
俺は少年から手を離す。
すると逃げると思ったのか、黒く焼け焦げた手で掴みかかってきた。
「お前は、ここで、死ね……!!」
俺は目を細める。
なんだかひどく退屈に感じた。
そろそろ終わらせようと思う。
少女が悲鳴のような声で叫ぶ。
「死ねっ……死ね!! 化け物!!!」
罵声とともに彼女は魔術を使った。
巨大な火球が地を抉りながら突き進む。
少年は鬼気迫る形相で俺を抑えようとしていた。
「…………」
彼の手を引きはがし、じっと目を見つめてささやいた。
「お前は、あの女に背中を撃たれる」
さらに、俺を掴んでいた指をへし折る。
そして首をつかみ上げ、火球の中に投げ込んだ。
「クズがっ……!!」
最後の言葉だった。
爆発と共に、少年は体が消し飛んで死んだ。
「…………」
俺は剣を拾って少女の前に立った。
彼女は涙をいっぱいに溜めた目で俺を睨みつけていた。
「この……化け物……!」
俺は何も答えなかった。
もうこいつらに興味を失っていたのだ。
剣を振り上げる。
そして振り下ろした。
簡単に首が落ちる。
魂を奪う。
戦いは終わった。
振り向かずに広場の出口へと歩いて行く。
次の殺し合いを待つ。
―――
独房に戻された。
黒い魔力は時間が経つと徐々に俺の体から消えていった。
どうやら、今はまだ強く意識して解き放つ必要がありそうだ。
そうしなければすぐに消えていく程度のものだ。
ポンプを押して水を出したあと、何もしなければ勢いが切れて止まるのと同じだ。
また押さなければ水は出てこない。
「…………」
そんなことを考えながら俺はベッドでじっとしている。
肌が、心臓が、とても痛い。
深呼吸で息を整えて横になっていた。
自分の体がどうなっているのかもうわからない。
でもあまり興味はなかった。
命令を待ち続けるだけだ。
―――
「十番、来い」
声をかけられた。
俺は出口へと歩く。
命令を果たしに行く。
そしていつもの通路を通って広場への道を歩く。
「剣と、鎖と、『炎』と『土』のメダル」
いつも通り装備を答えて受け取る。
その時少しだけ自分の腕が見えた。
皮がひび割れて、剥がれて、真っ赤になっているのが分かった。
赤く熱を持った部分も多くなっている。
「…………」
少しだけ、ほんの少しだけ自分の腕に視線を留めた。
しかしすぐにまた前を向く。
歩き始める。
殺し合いの場に立つ。
―――
相手は一人だった。
小柄な人影が、正面の通路を通って歩いてきているのが見える。
闇の中に目を凝らすと大剣を持っているのが分かる。
また、人間の姿をしていないのもすぐに察した。
「…………」
やがてそいつは広場に現れる。
その……実験体は、体のあちこちから骨格が突き出ていた。
異常に成長し、枝分かれし、太くなり、ねじ曲がった骨が肉を突き破り、体にまとわりついている。
それは腕の骨であったり、肋骨であったり、果ては元はなんの骨だったのかすら分からない骨であったりする。
だがそれだけではない。
骨のような質感の外骨格が形成され、鎧のように体を守っているのだ。
とはいえまだ変化の途中であるのか、覆われていない部分もあちこちにある。
刃が通らないことはなさそうではある。
しかし顔は、完全に骨の面に覆われて表情すら伺えない。
ただ外骨格の下で赤い瞳が輝いていた。
「…………」
小さな体で、剣士は軽々と大剣を操ってみせる。
切っ先がまるで流れる水のように淀みなく動き、ぴたりと止まって俺に向けられる。
その構えを見て、明らかに強いと感じる。
「おい、始めろ」
始めろと言われた。
俺は魔物の力を解き放つ。
おそらく相手もそうしたのだろう。
黒い魔力が白骨の鎧を薄く覆う。
それを確認して、俺は『炎剣』を使う。
「…………」
どう出てくるかを見ていた。
敵は動かない。
しかし魔術が使われたのが気配で分かった。
触媒は多分、メダルかなにかだろう。
周囲でなにか起こったわけではなく、武器に変化もないので強化魔術だろう。
あるいは、可能ならだが……自らの外骨格に『構造強化』をかけたとか。
そんなことを考えながら、俺は油断なく敵を注視していた。
しかし、そのはずなのに俺は剣士を見失った。
「!」
わずかな影だけが見えた気がした。
気がつけばもう目の前にいる。
剣を振りかざしていた。
斬撃が来る。
「っ……!」
速い。
ほぼ移動が見えなかったのだ。
そして、繰り出されたのはあまりにも重い一撃だった。
かろうじて受けた俺は吹き飛ばされる。
受け身をとって立ち上がるが、敵は即座に距離を詰めてきていた。
間違いなく強化魔術を使っている。
炎の剣で応戦するもきれいに受け流された。
さらに連撃が迫る。
「……ウォルター?」
剣筋を見て思わずつぶやいていた。
刃の加速の仕方や、細かい特徴に彼の剣の面影があった。
しかし違うだろう。
明らかに体格が一致しない。
剣を極める過程で、偶然似たのかもしれない。
ただ一つ言えるのは、こいつが俺よりも遥かに強いということだ。
「……強い」
一撃をかわし、二撃目をそらし、続く攻撃を剣で受けた。
刃をへし折られた。
俺はまた吹き飛ぶ。
だが今度はわざとだ。
それによってなんとか距離を離した。
「っ……………」
壁に叩きつけられて止まり、俺は予備の武器を急いで手に取る。
掴んだのは槍だった。
さらに『杭』の魔術の詠唱を始める。
「力よ、杭となり、その切っ先をもって……」
敵は近寄ってくる様子はない。
ただ流れるような動きで剣を構えた。
そのままなにか、体が軋む音でも聞こえてきそうなくらい力を込めているのが分かる。
「…………」
構えがあまりにも長い。
なにか来る、間違いなく。
直感した俺は詠唱を中断し、横に倒れ込むようにして回避する。
「!」
すると、ちょうどその瞬間、剣士が刃を振り抜く。
鋭い風のような音が鳴って、斬撃の軌跡から凄まじい衝撃波が駆け抜けた。
衝撃は地面を叩き割りながら進み、さっきまで俺がいた位置の壁を真っ二つに切断する。
「は?」
刃が飛んだ?
しかも魔術ではなかった。
魔力の気配を感じなかったのだ。
ではステラが使っていたような、なにか……魔物に特有の特殊な力だろうか。
それはあるかもしれない。
しかし俺には、目の前の剣士の技量がもたらした現象であるとしか感じられなかった。
倒れて、そのまま地べたにいた俺は立ち上がる。
そして剣を構えた。
もうこいつには勝てないと理解していたが、それでも最後まで戦うことにする。
「……来い」
俺は言った。
剣士が、かすむような動きで間合いを殺す。
加速する刃が幾度も幾度も俺を襲う。
ひたすら後ろに下がりながらなんとか命を拾った。
わずかな隙さえ見えなかった。
俺が動いて攻撃しようとする間に次の攻撃が来る。
そのせいで全く反撃の機会がない。
「…………」
何も言わないまま、骨の鎧の剣士は巧みに刃を操る。
俺は一撃かわすので精一杯……だというのにそれが息つく間もなく何度も続く。
攻撃が見えた瞬間、ほぼ反射で動くことで直撃を免れる。
しかしその刃の軌道が唐突に変わる。
まるで鞭のようにしなって斬撃の方向がねじ曲がる。
俺は、ざっくりと左肩を切り取られた。
痛みに顔をしかめる。
「ぐっ……!」
加速する剣。
右に、左に、自在に持ち替えて、常に最短の経路で届く刃。
生き物のように曲がり、軌道の読めない斬撃と突き。
あらゆる攻撃が通じない卓越した防御。
加えて、極めつけがこれだ。
「武装解除……!?」
信じられなかった。
目を疑う。
剣が軽く触れた瞬間、握っていた槍が手の中から跳ね飛ばされていた。
ウォルターの姿が剣士に重なる。
これも偶然なのか?
「…………」
考える暇はなかった。
目の前で剣士は俺にとどめを刺そうとしている。
終わったと思った。
しかし。
「う、うぅ……」
突然、剣士が低い声で苦しみながら頭を押さえる。
なにがあったのかは分からないが、俺は命を拾ったことを悟る。
「死ね」
槍を拾った。
そして全力で突きを放つ。
しかし、剣士はきわどいタイミングでそれを受け流した。
「……っ」
仮面の向こうで、くぐもった息が乱れているのがわかる。
反撃は来ない。
だから俺はゆっくりとあとずさりをする。
武装解除の危険がつきまとう以上、壁際の、予備の武器の置き場に近い位置に立ちたかった。
逃げ場をなくすことでもあるのは分かっていたが、無手になった瞬間の恐怖が俺にそうさせた。
「…………」
そして息を整えた剣士が構える。
俺も、覚悟を決めて武器を向けた。




