八十四話・深みへ(2)
「……久しぶり、シーナ」
ハインツはそう言ってくすりと笑った。
孤児院にいた頃と何も変わらない様子で微笑む。
シーナ先生は、それを射殺すような目で睨みつけた。
「なぜ一人で出てきた? 死にたいの?」
「生きていたいよ、もちろん」
「……そう。でも殺すわ」
殺すと言いながらも先生は動かなかった。
罠であるのかを見極めている様子だった。
ハインツはそれを分かっているのかどうか。
へらへらと笑って懐に手を入れる。
そして投げナイフを三つ先生へと飛ばした。
「来いよ、シーナ。今度は邪魔はなしで……やり合ってみよう」
全てかわす。
避けたナイフが俺の足元に刺さる。
続けて、先生は何も言わずに地を蹴った。
罠がないと確信できた、というよりは怒りを抑えきれなくなったように見えた。
「…………」
先生は以前持っていた物より小ぶりな、屋内戦を意図したようなブロードソードで斬りかかる。
対してハインツは腰に吊るしていたレイピアを抜いて応戦した。
「おい、十番。命令だ。『手を出すなよ』」
俺は、その一言で動けなくなった。
そこでシーナ先生が問いかける。
低い声で、斬り合いながらだ。
しかし答えが来る前に殺しても構わないと思っているような殺気を纏っている。
「十番ってなに? あの子のこと?」
「そうだよ」
「……かける言葉もないわ」
先生は強い。
だがハインツも相当な使い手だった。
俺は何年も一緒に暮らしてきたが、あいつが剣技に優れているなんてことは知らなかった。
全てをずっと隠し続けてきたのだ。
あいつは後手に回りながらもシーナ先生の攻撃をいなし、軽口を叩いてみせた。
「今日は毒針はないの? 仕込みナイフは?」
答えはない。
最初の会話以降は一切言葉を返さなかった。
そしてやがて、先生はレイピアをへし折って叩きのめす。
「……負けちゃったか」
地面に倒れ、口の端に血を垂らすハインツが言う。
喉元に剣を突きつけられていた。
だが動じた様子すらなく微笑んでいる。
「で、殺せないよね」
その言葉に、先生の肩がぴくりと震えた。
図星をつかれたように見えた。
「子どもの居場所を……聞き出したいからね」
それからあいつは声高く笑った。
悪魔のような笑い声だった。
先生が剣を振り上げる。
だが振り下ろす前に、ハインツが俺に呪いをかけた。
「命令だ、十番。『ナイフを拾って、シーナを刺せ』」
……俺が、ほんの一瞬でも抵抗していれば違った未来があったのかもしれない。
でも足元には投げナイフが落ちていて、俺の心はもう壊されてしまっていた。
「っ……」
ナイフを即座に手に取る。
踏み込んだ。
その速度はどんな人間よりも速い。
先生は反応できない。
驚きに目を見開く先生を刺した。
背中にナイフが突き立つ。
本当に嫌な感触がした。
なにか骨を、貫いたような手応えだった。
「リュート、くん……?」
理解できない、という顔で俺を見ている。
その目を見て、刺してから……自分が何をやったのかに気がついた。
だって、そうなるように……刷り込まれてしまっていたのだ。
俺は、先生を、刺したかったわけではない。
呼吸が乱れる。
「はぁっ……はぁっ……お、俺は……」
ナイフを手放した。
先生が倒れる。
俺は後ずさりをして、腰が抜けたようにへたり込む。
「い、いやだ……違う、違う違う違う違う違う」
人生に希望があると信じてしまった。
そのせいでまた俺は苦しい思いをしている。
地獄だ。
先生を俺は刺した。
俺を助けに来た先生を傷つけた。
ほんの一瞬、痛みを我慢していれば……そうしてさえいれば何もかも救われたのに。
「ご、ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
俺は何度も謝る。
先生は立ち上がれないようだった。
地面に流れ出した血が広がる。
俺は、血を止めたくて傷口に手を当てた。
ケニーのことを思い出す。
「お、俺は……首輪が……首輪が…………く、首輪の、せいで……足を、あいつらに……怖くて…………」
上ずった声で支離滅裂な言い訳を口にする。
その俺の前で、腹を抱えてハインツが笑っていた。
「ははは、家族ごっこなんてするからだ。血も繋がってないくせに! はははははは……」
あざ笑う声を背に、苦しげな息の先生が俺を見た。
傷口に当てていた手をそっとどかして、虫の息の体で寝返りをうつ。
それから、俺の目を見て語りかけてくる。
「先生は、大丈夫。あなたは……悪くない。知ってるわ。優しい……子だもの」
「先生……俺は……もう、死にたい……」
声を震わせて、何度も俺は死にたいと言った。
すると、背中を刺されても声一つ上げなかった先生が泣いた。
本当に悲しそうな顔で涙を流した。
「ごめんね。助けてあげられなくて、ごめんね……」
そして俺の頬に触れて、目を見ながら語りかけてくる。
ゆっくりと、優しく諭すような声だった。
「これからすぐに、聖職者の軍が来る……。だけどもしかしたら、あなたたちを……捕まえて、別の実験に……使うかも、しれない」
その言葉を聞いて、先生が危険を冒して一人で来た理由がわかった。
これ以上俺たちが誰にも利用されないように、聖職者の軍が来る前に逃がそうとしてくれていたのだ。
息を詰まらせながら、俺は先生の話を聞く。
「だから、しっかりして。先生のことはいい。みんなで、戦いの隙をついて、生きて……ここを、出るのよ……」
もう声も出せなかった。
ただ息苦しくて、本当に本当に息苦しくて、涙にえづいてしゃくりあげていた。
するとハインツがまた笑う。
「聖職者の軍? 来ないよ、そんなの」
空気が凍りついたような気がした。
先生の瞳が絶望に染まる。
あいつは、そのまま笑いながら言葉を続ける。
「その仲間とやらは僕の仕込みだ。君が脱走したあと……おびき寄せるために実験体の救出計画を広めたんだ。絶対に合流してくると分かってたからね」
先生と俺の絶望を楽しむかのように笑っている。
耳を塞ぎたいような気分だった。
だがあいつの言葉に耳を塞いではいけないと、すでに命令されている。
「だから聖職者に接触したというのももちろん嘘だ。君の仲間はみんな僕の手下だよ。……というか、そもそも裏切り者なんているわけないだろ。しそうなやつはとっくに始末してる。ちょうど、君みたいにね」
シーナ先生はその言葉に歯を食いしばった。
そして剣を握り立とうとする。
だがすぐに崩れ落ちる。
しかし、それでもまだ強く睨みつけていた。
「人を、なんだと思ってる……」
「いつか君の言った通りだ。……道具としか思ってない。善人は使い捨てる、悪人は使い潰す。それだけだね」
先生は何も答えなかった。
何度か苦しげな息を吐いたあと……力尽きたように倒れ込む。
「さぁ、十番。命令だ……」
とどめを刺せと言われると思った。
だから俺は、その前に先生を守るように覆いかぶさった。
言葉を止めてはいけないと命令されていたから、こうして意思を伝えることしかできなかった。
あいつは察しがいいから絶対に分かる。
「……ふふっ」
考えが伝わったのかハインツは笑う。
「……殺したくないんだ?」
「…………はい」
俺はそのまま頭を下げた。
もう泣きながら懇願するしかなかった。
「も、もう……逃げ出そうとしません……」
「なるほど?」
楽しそうに笑っている。
俺は、ハインツの興味を引けているらしい。
先生から離れる。
そして、もっとあいつが楽しめるように惨めに這いつくばった。
頭をこすりつけて土下座をする。
「……なんでも、言うことを聞きます……死ぬまで、忠誠を、誓います……どんな実験にも……つ、つ、使って、ください……罰も……受けます。また、拷問をしてくださっても……構いません…………」
「それで?」
「あ、あなたに、逆らおうとしません……命令されて……いなくて、も……二度と……裏切るようなことは、しません……だから、だから……………………」
悪魔がげらげらと笑う。
息を切らしながら俺の前に立った。
頭をこすりつけているから表情は分からない。
「どうしてほしい?」
「せ、先生を……助けてください……」
息を止めて答えを待つ。
祈るような気持ちだった。
少しの沈黙のあと、ハインツが小さくため息を吐く。
「まぁ、いいよ。楽しめたし、ただ殺すのはもったいない。……でもいいの? ほんとに罰を受けられる?」
そこで、シーナ先生が弱々しく声を漏らす。
泣きながら俺を止めようとする。
「やめて。私なんかの……ために、こんな……」
俺は何も答えず頭を下げ続けた。
先生の顔を見るのが怖かった。
俺は地面に、額が割れそうなくらい頭を押し付けて答えた。
苦痛の記憶への恐怖を押し込めて声を絞り出す。
「はい。……お願いします」
「じゃあいいよ。部屋に戻りな。シーナを治療してあげないとねぇ」
思わず顔を上げると、へらへらと笑って俺に手を振るのが見えた。
蝿を追い払うような手付きだった。
「どうした? 戻れよ」
言われて、俺は立ち上がって背を向ける。
本当に先生を助けてくれるのかは分からないが、俺は言うことを聞くしかなかった。
壁に寄りかかりながら、ふらふらと歩いて、自分の足で独房に戻る。
その間も、先生のすすり泣く声が聞こえ続けた。
最後までずっと、俺に謝っていた。
―――
――
―
白い空間に俺はいる。
真っ白の世界の地平を、黒い水が浅く浸している。
そして俺は水の上で仰向けに寝ていた。
地べたに寝ていても背を濡らす程度の水位だった。
「…………」
漂白された空を見ながら思う。
俺はいったい何なのだろうと。
……俺は先生を刺した。
助けに来てくれた先生を裏切った。
その前にはクリフも、ケニーも殺している。
こんな醜い存在を人はなんと呼ぶのだろう。
答えは悪魔だ。
多分、生まれた時からそうだった。
家族が大事だなんだと言っても結局俺は殺した。
痛みに耐えかねて殺した。
かわいいのは我が身だけなのだ。
笑ってしまうほど情けない話だと思う。
痛いのが怖いから、俺は家族を殺す。
やっとわかった。
俺は化け物になったんじゃない。
最初からそうだった。
もう自分に正直に生きよう。
無駄に苦しむ意味がない。
俺は悪魔なんだ。
優しさや愛、そして心を知らない悪魔だ。
だから何も感じない。
ケニーを殺したことも、クリフを殺したことも、エルマやリリアナが死んだことも、先生を刺したことも。
全てがどうでもいい。
俺は気にしているフリをしていただけだった。
本当はどうでもよかったんだ。
「やっと分かったの? 何度も教えてやったのに。お前は、聞こえないフリをしてたよね」
不意にケニーの声がした。
まともに意味が通る声を……いや、幻聴を聞いたのは久しぶりだった。
「…………」
立ち上がる。
すると目の前にケニーの幻覚が立っていた。
俺は何も言わず立ったまま首を絞める。
強く強く、締める。
幻覚が笑った。
「俺はもういらないね。……ばいばい、リュート」
幻聴が俺に別れを告げた。
すると消え去ってそれきり声はしなくなった。
一人になった俺は、黒い水の上でずっと立ち尽くしていた。