八十一話・実験終了
俺はまた、あの白い空間にいた。
しかしもう不気味な影はいない。
俺が一人で立っているだけだ。
「…………」
前に来た時とは違って全身が痛い。
喉も渇いていた。
夢だとわかっていたから、俺はなにもせずに立ち尽くしていた。
「…………」
すると、やがて自分の体が少しずつ崩れ始める。
俺はぼんやりとそれを見つめていた。
表面からぼろぼろと、体がひび割れて剥がれ落ちていく。
「…………」
心臓が、妙に重く鼓動を響かせたような気がした。
服の上から触れると、左胸の周囲の血管が異様に太くなり肉を押し上げているのがわかる。
「…………」
それから、俺はぼんやりとした意識のまま歩き始めた。
目的地は特にない。
何も考えていない。
すると白い世界の中で、黒色の湖のようなものに行き当たった。
小さな湖だ。
あるいはとても大きな水たまり、くらいの呼び方のほうが収まりがいいかもしれない。
不気味に思ったが構わず水面に手を伸ばす。
とても渇いていたから、手にすくった水を飲み干した。
崩れかけた手で、何度も何度も迷わず口に運ぶ。
「……………」
いつしかまた皮膚の下に泥のような汚れが滲み出てきた。
でもほんの少しだ。
しばらく飲み続ける。
すると痛みが消え、喉の渇きも収まった。
体が剥がれるのも止まった。
しかし代わりに体が重くなって、無力感を感じる。
振り出しに戻ったということだろう。
「…………」
もう何かを考えるのは面倒だった。
俺は水たまりの中に足を踏み入れる。
最初は浅いが徐々に深さを増していく。
特に考えはなく、水に潜るのが気持ち良さそうだと思ったのだ。
「……………………」
黒い湖は俺が思っていたよりもずっと深かった。
ある程度歩くと深みにはまる。
沈んでいく。
思った通りひやりとした感触が心地良かった。
どこまでも沈んでいきながら、俺は力を抜いて赤子のように体を丸めた。
息苦しさは不思議とない。
ここは暗くてとても安心する。
目を閉じて、深く穏やかな安堵のため息を吐く。
―――
黒い水の中を堕ちていく。
閉じたまぶたの裏にはこれまでの人生が浮かんでは消えていた。
回想、というほどあやふやな光景ではなかった。
ただ追体験というほど意識がはっきりもしていない。
妙に鮮やかな記憶を、ぼんやりとした頭で傍観しているだけだ。
「…………」
村で過ごした日々が見える。
忘れてしまった思い出もたくさんある。
幸せなこともあった。
苦しいこともあった。
最後は泣きながら生き延びたが、逃げた先ではまた家族に恵まれた。
「…………」
これまでのたくさんの記憶が俺の中を駆け巡っている。
俺が覚えていないことも水の中には記録されているようだ。
深く堕ちていくにつれて時間は進む。
やがてステラが目の前に現れた。
その時だけ俺は思わず息を呑んだ。
なにもかもめちゃくちゃにされて、この牢獄に記憶が追いついてしまう。
「…………」
俺はここで、たくさんの人間を殺していた。
命乞いをされることもあった。
だが首輪の痛みを恐れて彼らを手にかけてきた。
「…………」
子どももたくさんいた。
俺よりずっと幼かった。
数をそろえるため、無力な孤児をさらってきた結果なのだろうか。
とにかくたくさん殺してきた。
「…………」
そこで俺は気がつく。
俺以外の記憶もほんの少しだけ混ざっていることに。
記憶の主はおそらく俺が殺してきた人間だろう。
そして見ることができるのは、俺に関係する記憶だけのようだ。
だから、どれも殺そうとする自分の姿ばかりだった。
ある時は憎悪に満ちた表情で人を殺している。
ある時はやつれた顔で、落ちくぼんだ瞳を震わせ、悲しそうな顔で剣の先を向けていた。
ある時は虚ろな目をして、ぶつぶつとなにかを呟きながら血にまみれている。
「…………」
全てを見届けると、また静寂と暗闇が戻ってきた。
静かで平穏な時間だった。
目を開く。
暗い水底に俺はいた。
上に戻る気はしなくて、ただ黒い水に漂っている。
「もう人間じゃない」
小さくつぶやいた。
自分がやってきたことを見た感想だった。
友だちを殺して、多くの人を殺して、俺は人の道を踏み外した。
人間の資格を失った。
「俺は化け物だ」
そう漏らした瞬間、再び意識を失う。
―――
「おめでとう、終わったよ」
そんな言葉とともに光が見えた。
蓋を開けられた棺の上、吊るされた魔道具が光を放っている。
長く闇の中にいたから、輝きは痛いほどにまぶしかった。
でも目をそらす気力もない。
「…………」
ぼんやりと視線をさまよわせていると、やがてその光がほどよい程度の明るさに変わる。
魔道具が操作されたわけではなく、俺の目が適応したのだろう。
試しに光から視線を外し、部屋の隅の暗がりを見つめてみる。
すると壁の石の欠け方からなにまで細かく見通せた。
明暗差に関わらず、俺の目はいつでも視界を確保できるように変わったと分かる。
いや、目だけではない。
注意深く耳を澄ませば、遠くの物音まで聞こえる気がした。
異常に鋭敏な知覚を手に入れたようだ。
鼻は……飲み続けた血の匂いで潰れて使い物にならないが。
「…………」
これが魔物になったということだろうかと思う。
照明の下に立っているのはハインツだ。
こいつが来て、終わったと言うからには成功したのだろう。
機嫌がよさそうに笑っている。
なら、棺からは出られるということだ。
「……うんざりだ」
小さく咳き込む。
そしてかすれた声で、吐き捨てるように言って意識を失った。
―――
目を覚ましたあと治療を受けた。
さらに病室に安置されることになった。
これまでもいつもの殺し合いのあと、小さな傷を負って治療を受ける機会はあった。
だがここに留まるのを許されたのは初めてだった。
身を清めて、水を飲んで、わずかな食事を摂って眠る。
そうしていると俺はすぐに気力を取り戻した。
もうまともな感覚がないので時間は全くわからない。
しかし食事の時間が二回訪れる頃、もう問題なく動けるようになっていた。
このしぶとさも、魔物になった影響か。
「……これから、どうなるんだろう」
部屋に戻されて、俺はひとりごとを口にする。
治療とともに、力の安定のための封印処置を受けた。
そのせいか、姿も見る限りではあまり変わっていない。
だが昔話に出てくる魔物はどれも怪物だ。
自分がこれからどうなっていくのかは不明だった。
「…………」
しかしそんな考えも長続きはしない。
疲れのせいか、あるいは封印の影響なのか珍しく俺は普通に眠気を感じていた。
無理に起きている理由もないので身を委ねることにする。
「……リリアナ」
薄いベッドに横たわり、最後に一度だけ名前を呼ぶ。
彼女は人間のまま死んだ。
だがここで人を殺さずに死ねただろうか?
そして悪い魔物と優しい女の子は、死んだあと同じ場所に行けるのだろうか?
下らない疑問を思い浮かべて、俺は眠る前に少しだけ泣いた。
―――
魔物化の実験が終わると、すぐに殺し合う日々に戻った。
だが一つ違うのは相手が変わったということだ。
いつからか黒ローブの敵は見かけなくなり、俺と同じ実験着をまとった少年兵が標的になった。
「装備は?」
またいつもの通路で問いかけられる。
俺は普段使うものを答えた。
「剣と『炎』のメダルと鎖」
「……終わったら返すんだぞ」
特に答えず装備を受け取る。
そして歩きながら戦いのことを考える。
相手が強いので死ぬ可能性はあるが、正直黒ローブを相手にするよりは気が楽だった。
実力が近い相手と同じ条件で殺し合うのであれば、いくらか罪悪感は薄れる。
それも、言い訳に過ぎないことはわかっていたが。
「…………」
広場に出る。
今日の敵は三人だ。
俺も含めて四人が最後の一人になるまで殺し合うことになる。
「……始めろ」
入り口まで付き添っていた魔術師の男が俺に言った。
出揃うまでは手を出してはいけないことになっていて、俺が最後だったので今から戦いが始まる。
俺は剣を抜いて敵の装備を確かめた。
一人が槍、一人は杖と短剣、一人は斧と大盾を持っている。
全員が男で、歳は俺と同じくらい。
体格もそこまでの差はない。
それから……。
「……いない」
敵を観察する間、俺は無意識に相手の顔を確認してしまっていた。
仲間がいないかを見るためだ。
だから漏らしたつぶやきは安堵の声だった。
どうやら今日は仲間を殺さなくていい。
そんなことを考えながら俺は詠唱を終わらせる。
「『炎剣』」
剣に炎をまとわせ、まず誰を狙うかを考える。
位置的には北東に斧の少年、北西に槍の少年、そして正面に杖の少年という配置になっている。
敵の立場で考えるなら、炎の剣を持った俺には近づきたくないだろう。
そして、逆に狙いたいのは杖を持った相手だ。
触媒の差で、杖持ちは魔術の使用速度に大きなアドバンテージがある。
放置すれば『杭』などを使って横槍を入れてくる可能性が高い。
だから、多くの戦いで真っ先に潰されるのは杖持ちだ。
思い違わず、斧と槍の二人は杖の少年へと距離を詰めていく。
「…………」
俺も走り出した。
狙いは斧の少年だ。
鎖を投げることができる俺には、杖を持った敵は一騎打ちならやりやすい相手だ。
だから序盤の流れを利用して他を始末する。
特に剣と鎖が苦手とする、盾の敵を不意打ちできるなら、その方が大きなメリットになる。
剣を構え飛びかかるが、盾の少年は敏感に察知してかわしてみせた。
そのまま向かい合う。
不意打ちは失敗した。
このままやるしかない。
そして俺たちをよそに、槍の少年と杖の少年の戦いも始まっていた。
「…………」
斧の少年は、隙なく構えて得物を向けてくる。
やはり無言だ。
お互いなにか話しても無駄だと分かっている。
首輪に支配されているからだ。
ただ血走った目で俺を見据え、舌打ちを打つ。
彼の痩せこけた顔からは感情が削ぎ落とされ、異様な殺気だけが満ち満ちていた。
俺も同じ顔をしているのだろうかと、そんなことをふと思う。
「…………」
すぐには近づかない。
杖の少年の動きも横目で見る。
戦闘中、仮に俺へと魔術を使ってきたら簡単に死ぬからだ。
同時に斧の少年の装備を観察した。
ああいった大盾を持つ敵は、多くの場合武器か盾にルーンを刻んでいる。
でないと魔術を使えない。
だからルーンを見分け、何を使ってくるのかを見定める必要がある。
しかし盾の裏にでも刻んであるのか、今はまだ正体を見切れなかった。
「……来いよ」
低く抑えた声で少年が言った。
俺は答えなかったが、代わりに剣を構え直し地を蹴った。
そのまま斬り結ぶ。
だがあまり踏み込まず、まずは警戒しながら戦う。
俺が『炎剣』を使ったように、事前になんらかの魔術を仕込んでいる恐れがあったからだ。
しかしやがて、少年が魔術の詠唱を始めたことでその線は消える。
俺は、一歩深く踏み込んだ。
「…………」
いい動きだった。
斧の斬撃とシールドバッシュで攻め立ててくる。
かなり前のめりだが、盾を持つだけあり防御には全く隙がない。
俺の攻撃はすべて防がれている。
そしてなにより、魔術の使い方が上手い。
武器がぶつかった瞬間、遠くで杖の少年の魔術が爆ぜた瞬間、音が聴こえにくくなるタイミングに小声で詠唱を重ねている。
そうして密かに少しずつ魔術を構築し、工程を維持しながら戦っている。
俺はまだ、相手の魔術を特定できていない。
おそらく偽装用に別の魔術の詠唱も少し混ぜているだろう。
ここまで徹底して隠すなら、仕込んでいるのは一撃で俺を殺せる魔術だ。
だからこのままでは、魔術を最初に使われるタイミングで何もできず殺される可能性がかなり高い。
「……強い」
俺はつぶやく。
接近戦の中で強力な魔術を仕込み、避けられないタイミングで使って敵を殺す……こいつはその一芸を極めたタイプだ。
実戦で最も力を発揮できる戦士だ。
だから俺は考える。
こいつが作り出す、避けられないタイミング……魔術を使う瞬間はなにか。
使う状況さえ分かれば、使ってくる魔術も逆算できる。
と、考えながら炎の剣で斬りつける。
斧へ向けて鎖を投げる。
しかし鎖はかわされた。
同時に、押し出した盾で俺の剣を退けてみせる。
一歩後退する。
さらに武器を交える。
盾の使い方が上手く、炎の剣でも決め手にならない。
加えて盾がぶつかる度に、その音に隠れて詠唱を続ける。
武器を当てるふりをして引き、詠唱を聞こうとしてみた。
「重く鋭い切っ先を……」
あっさりと引っかかって俺は声を聞くことができた……などと思ったがどうやら違う。
策にかかった割には敵に動揺がない。
これはわざと聞かせてきたと判断する。
元々かかるとは思っていなかったが、なんでもやらなければ戦いには勝てない。
「――――」
武器を合わせている間に、また密かに詠唱が進んだ。
偽装し、少しずつ唱えているとはいえ、もうそろそろ完成してもいい頃合いだ。
魔術の完成を急いでか、敵は積極的に盾を俺の武器に当ててくる。
それを見て、俺は小さな違和感を感じる。
斧を振れる場面でも盾を使ってくることが多い。
盾を前面に出すことでガードの機会を増やしている。
詠唱を重ねるためかと最初は思っていた。
だが違う気がしてきた。
序盤に比べてあまりに多すぎる。
そして気づいた。
「…………」
俺の攻撃をガードしたがっているのは、おそらくそれが敵にとって攻撃に適したタイミングだからだ。
つまり攻撃を盾で防いだ瞬間、あいつは魔術を使ってくる。
攻撃をガードされた俺が動けないタイミングで、だ。
さらに考える。
では、確実に殺すなら何を使う?
答えは広域爆破だろう。
かけた時間と相手の腕前からして、かなり強いのを仕込んでいる。
ガードと同時に、避けようがない広範囲の爆破で敵を吹き飛ばす。
悪辣な連携だ。
初見での対応は不可能に近い。
気づけなければ確実に死んでいた。
そして最後にもう一つ考える。
俺はこの情報をどう利用すべきなのだろう。
「…………」
答えが出た。
俺は強く地面を蹴って跳躍する。
魔物化してから身体能力は上がる一方だ。
軽々と敵の頭上を越え背面に回る。
すぐに向き直って対応してきたが、そこで俺はささやいた。
「今、ルーンが見えた」
跳んで、頭上にいる時に。
あるいは背後に回った時に。
そういう意味で伝えた。
しかし実際には見えなかった。
それでも敵は見えたかもしれないと思っただろう。
少なくとも、盾の裏を覗き込めておかしくない状況だったから。
「…………」
相手は答えない。
彼も考えているはずだ。
盾に刻んであるのはおそらく基礎ルーンだけ。
だからなんの魔術を使うかまで特定できているはずはない。
しかし、たとえば『炎』なら攻撃を仕掛けてくるだろうとか……基礎ルーンから行動の傾向くらいは割れてしまったと思っている。
つまりこれ以上知られる前に、あるいは俺が警戒して守りに入る前に、無理やり仕掛けてくる可能性が高い。
俺は、次の行動が読めた。
シールドバッシュだ。
ガードのタイミングを待たず、俺に強く盾をぶつけてくる。
同時に爆破し、必殺のタイミングを作ろうとしてくる。
「……当たりか」
突っ込んできた。
盾にぶつかれば、その瞬間俺は粉々になる。
だが、分かっていたのだから完璧に対処できる。
突っ込んでくる相手とすれ違うようにして、斜め前に飛び込んだ。
相手が動く前に、ほぼ読みで動いていたので魔術の使用は無理だっただろう。
「しまった……」
敵はミスに気づいたようだった。
盾の先には誰もいない。
おまけに、前のめりの状態からすぐ振り向くのは無理だ。
俺は相手の足を斬りつける。
剣は届かないが、炎の刃が足首を焼き斬った。
「……っ!」
敵はよろめいた。
だが崩れ落ちるまではいかず、残る片足で飛び退こうとする。
なんとか立て直そうとしている。
畳みかけたいところだが、追いかけたら魔術に巻き込まれるだろう。
安易に近づくのは危険な判断だ。
だから俺は剣を投げて、まずは少年の左腕を切り落とす。
腕と一緒に盾も落ちた。
もう仕込んでいた魔術は使えない。
間髪入れず距離を詰め、少年の腹を蹴り、首に鎖を巻きつける。
「ぐっ……!」
少年が苦しげに呻く。
構わず鎖を引いて締め上げると、斧で反撃してこようとした。
だが、俺は鎖を引きずり回して敵の体勢を崩す。
それにより攻撃を空振らせる。
片足を失ったせいで踏みとどまって抵抗することができていない。
なすすべもなく引きずられ、敵は気力を削られていく。
ポーチに触媒を隠し持っているかもしれないから、このまま首を絞めて詠唱を封じながら殺そうと、考えた……その時。
不意に悪寒を感じ、鎖を手放して少年を蹴り飛ばした。
すると彼は、飛来したいくつもの氷の『矢』に蜂の巣にされて崩れ落ちた。
ちょうど俺の身代わりになった形だ。
やがて白い煙が死体から立ち上り、俺の左肩に触れて消えていく。
「…………」
杖の少年が俺を狙ってきていた。
多分、斧の少年の負けが色濃くなった時点で狙っていたのだろう。
俺は死体の首に巻きついた鎖を手繰り寄せる。
そして斧を拾う。
敵の人数を数えて、小さく声を漏らした。
「あと一人」
槍使いはもう死んでいた。
そして杖の少年には一切の手傷がない。
最初に狙われやすいと分かっていて杖を使うあたり、彼も相当に腕が立つ戦士なのだ。
だから俺は意識を研ぎ澄まし、最後の敵へと油断なく構えて斧を向ける。




