七十七話・家畜の烙印
「一番やりたくないことを、最初にやらせる。これが肝心でね。そうすれば後は夢の中さ」
誰かが、何かを言っている。
だがよく聞こえない。
「大丈夫。君は楽になれる。これからは僕の言うことをよく聞くんだよ。そうすれば、もう辛い思いなんてしない」
言葉を理解できない。
聞こえないのだ。
獣の叫び声のような音が、目の前の男の言葉を遮る。
「……少しうるさいな。いいか、命令だよ。『黙れ』。……だ、ま、れ!」
怒鳴られた。
命令を受けて反射的に息を止めた。
そして自分が叫んでいたことに気がついた。
俺はケニーの遺体の前でずっと叫び続けていたのだ。
「あ……あ、あ……」
殺した死体を見るとまた激情がこみ上げてくる。
後悔、悲しみ、怒り、そして強い自己嫌悪が意識を濁流のように飲み込む。
俺はクズだ。
友だちを殺した。
俺を庇ってくれた仲間を、この手で殺したのだ。
苦しみから逃れるために。
「う、う、あぁ……うわぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
また叫んだ。
するとあの痛みが全ての感情を上書きする。
頭が真っ白になった。
糸が切れた人形のように倒れる。
何も考えず痛みに耐えたあと、俺は黙って涙を流した。
「ごめん……」
こんなものに俺は負けた。
俺は、家族がなによりも大切だと決めていた俺は、しょせんその程度の気持ちしかないクズだった。
自分の醜さに心の底から嫌気が差した。
もう死にたいと思ったが、死ぬことは禁じられていた。
「…………」
だったらヴィクターを殺すしかないと考える。
ケニーの遺体のそばの剣を拾って、俺はあいつを睨みつけた。
「お、まえ……」
「無理だって。理解しろよ。『僕に危害を加えるな』。命令だよ」
余裕に満ちた笑みでそう言った。
だがこいつを殺すなら一瞬だ。
たった一瞬、それだけ痛みに耐えて斬り殺せばいいのだ。
俺はやれると思った。
ふらふらと歩み寄る。
「ああ、そうだ。『僕の前で耳を塞ぐな』。それから……えっと……」
手帳を見ながら、ヴィクターは淡々と命令を続ける。
まるで決められた言葉を読み上げるような様子だった。
どんどん枷が増えていく。
しかし構わず間合いを詰める。
そして剣を振りかざそうとした時、耐え難い痛みが脳髄を貫いた。
「はぁっ……はぁ……」
あまりの苦痛に明滅する視界の中、俺はなんとか剣を振りあげようと力を込める。
しかし叶わず剣を落としてしまった。
膝が震えて倒れ込む。
力が入らない。
「どうしたの? やってみなよ」
ヴィクターは冷ややかな目で俺を見下ろしていた。
その視線に、表情に、初めて俺は悲しみを覚えた。
「…………」
痛みのせいではない涙があふれる。
ケニーが、あまりにも不憫だった。
俺が殺したのにそんなふうに思う資格はないのかもしれない。
でもケニーはこの男を本当に慕っていたのだ。
そして俺も、先生のことが大好きだったのだ。
「う、うううっ……」
泣きながら立ち上がろうとする。
何度も腰が抜けて倒れる。
しかし震える足で必死に立とうとした。
剣を握る。
「ヴィクター……殺して、やる……」
「みんなそう言うよ。でもできなかった。なんでか分かる?」
「殺す……」
なにか言っている。
その内容はわからない。
耳を傾けるような余裕がなかった。
「ぐっ……」
剣を構えたところで罰を与えられる。
強く決意して剣を振りかぶるが、振り下ろす前に痛みに負けて刃を取り落とした。
崩れ落ちるように俺は倒れる。
「殺してやる……殺してやる……」
ぶつぶつとつぶやきながら何度も立とうとする。
しかしその度に痛みに負けて倒れた。
倒れる度に、俺はますます痛みに耐えられなくなっていく。
やがて、剣を握っただけで立っていられなくなる。
そうして最後には、もう立つことすらできなくなっていた。
意志が弱り続けている。
「ケニー……ごめん、俺は……」
続ける言葉など当然なかった。
言い訳なんてできるはずがない。
だから俺は黙って唇を噛んだ。
「…………」
ケニーの死体が見える。
エルマの死体が見える。
ここは地獄だ。
「気が済んだかな? 一応言っとくけど君はいま壊れた。僕がそうしたんだ。もう立派な家畜だよ」
答える気力がなかった。
俺は家畜になったらしい。
それもいいかもしれない。
もう自分は人間ではないと思う。
「これからの話をする。まずは飼い主の名前を覚えろ。僕の名はハインツ。ヴィクターだなんて二度と呼ばないように」
そう言われた瞬間、俺の中からヴィクターという存在が消えた。
もう家族ではない。
この男は憎むべき敵だ。
「…………」
目を向ける気にもならなかった。
だからぼんやりと横たわっていたが、特に気にせずハインツは語る。
「君はこれから独房で暮らす。求められた時だけそこから出る。そして殺したり殺されたり、実験に参加したりする。いいな? 現状は理解したな? ……命令だ。『聞かれたら答えろ。嘘もつくな』」
「…………はい」
嫌悪感を抑えながら俺は返事をした。
痛みを恐れたのだ。
命令に従うたび、ケニーへの罪悪感が膨らんでいく。
「いいだろう。じゃあ状況ごとに分けた命令を仕込む。聞け」
そして俺は、この場でハインツによって無力化された。
おびただしい枷を与えられ、どうしようもない無力感に襲われる。
ここから出られるとは思えなくなっていた。
なにより、出たいとも思わないのだ。
俺はエルマを死なせてしまった。
それに仲間を殺した。
もう誰にも顔向けできない。
今解放されたとしてもこれまで通り過ごすことなんてできない。
ケニーもきっと、俺を許してはくれないだろうと思った。
自由になったなら、俺はまず自分を殺さなければならない。
だったら別にここで殺されても構わない。
「……ケニー、ごめん」
全てが手遅れで、もう二度と元に戻らないのだと悟る。
この手で殺したケニーを見つめ、俺は横たわったまま涙を流した。
どこからか現れた兵士に、連れて行かれるまでずっとそうしていた。
―――
それからは、教えられていた通り独房での生活が始まった。
何日経ったのかもわからない。
昼も夜も知れない、暗い牢獄のベッドにじっと横たわり、ただ呼び出されるのを待ち続ける。
そして出されたあとは戦って人を殺す。
相手はあの黒ローブどもだ。
憎くて憎くて仕方がないあいつらを殺せることは、今の俺の唯一の生きがいだった。
「…………」
今日も薄汚れた牢の壁を見つめながら、次はどんなふうにあいつらを殺すのかを考え続ける。
これは練習だ。
いつかステラとハインツを殺すための練習。
最も苦痛に満ちた死をあいつらには与えなければならない。
灰色の壁に、敵の血肉をぶちまけていく妄想をする。
すると不意に耳鳴りがした。
「憎いんだ? でも俺を殺したのは……リュート、お前だよ」
耳鳴りが声に変わる。
ハッとして身を起こす。
そして周囲を見回すが当然ながら誰もいない。
顔を手で覆う。
そのまま深く深く爪を立てる。
悪夢が覚めることを願うように痛みを与える。
「うっ……うぅ……クソッ、うるさい、うるさい、うるさい……消えろ……」
「なぁ、無視するなよ。心臓を貫くのはどうだ? すごく痛かったよ。俺の経験だけどさ」
「殺してやる……殺してやる……あいつら、全員……」
幻聴が聞こえる。
ここしばらくはずっとだ。
静かな独房に一人でいると耳鳴りがして、耳鳴りのあとには幻聴が訪れる。
悪夢も見る。
俺は毎日ケニーに責められている。
寝ても覚めてもここは地獄だ。
「なぁ、リュート。痛いよ。痛いよ……くくく」
痛い痛いと言っていたケニーが突然笑い始める。
俺は怖くなって叫び声を上げた。
「うわぁぁぁぁぁ!!!」
そのまま部屋の中でめちゃくちゃに暴れる。
ベッドを蹴って薄いシーツを引っ張って裂いた。
壁を殴りつけたあと、鉄の扉に何度も体当たりをする。
「出せ! 出せ!! 出せ!!! ここから出せ!! 出せよぉぉぉぉっ!!!」
ドアについた小さな鉄格子の向こうに呼びかける。
錆びた鉄に強く強く爪を立てた。
開かない。
脳が煮えるような苛立ちを感じる。
食事のあと、そのまま床に放置されていた食器を投げた。
壁にぶつかって木の皿が割れる。
ほとんど手を付けていない残飯が飛び散る。
叫んでそのまま暴れ続けた。
だが突然疲れが押し寄せてきて、俺はズタズタになったベッドの上に横たわる。
「…………」
とても疲れた。
死のうと思うが、あの痛みを味わうと考えたらどうしても実行には移せなかった。
家畜は、自分で死ぬことすらできない。
ぼんやりと横たわっていると、静かな怒りが湧き上がってきた。
「誰のせいで、こうなった」
小さくつぶやく。
俺は今、誰のせいで苦しんでいるのだろう。
「ハインツだ。ステラだ。だがセオドアも怪しい。……いや、シーナ先生だって」
薄暗い部屋で天井を見つめながら、俺はひとりごとを続ける。
頭が重くてよく回らない。
そのせいで声にしないと思考が続かなかった。
もどかしくて爪を噛む。
「急に孤児院を出たのは準備のためか? あの人が作戦を立てたんじゃないか? だから俺たちは……あんなにあっさり捕まったんだ」
「そうだ。お前には味方なんかいない」
ケニーの声が聞こえた。
俺の考えを肯定している。
やはりみんな敵だ。
信じられるのは仲間だけだ。
「その仲間を殺したのはお前だけどな」
…………。
無視する。
何も答えず天井を見上げる。
また、どうやって黒ローブを殺すのかを考え始めた。
そして次は心臓を貫くと決めた。




