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ロストキルレシオ  作者: 湿った座布団
たとえ灰になっても
185/250

七十六話・開始

 


「うっ……」


 俺は目が覚めた。

 薄暗い場所だった。


「ここは……?」


 声を漏らす。

 固い地面の上に俺は寝ていた。


 薬で眠らされていたのか、意識がどうもはっきりしない。

 視界がぼやけている上に暗いから何もわからない。

 しかしどうやら室内だということは理解する。

 床が冷たいから石材が敷かれているのだろう。


「しっかりしろ」


 自分に言い聞かせる。

 だが心は折れたままだった。

 与えられた絶望はあまりに深かった。


「いや、リュート。しっかりするのはお前だよ」

「?」


 声が聞こえた。

 よく知っている声だった。


「……ん? 俺に言ったんじゃないの?」


 振り返るとケニーがいる。

 地べたに座り込んで壁に背をつけている。

 薄暗いのは変わらないが、視界がはっきりしてきたのでわかった。


「……ケニー。生きてたんだ」


 思わず俺は彼に抱きついた。

 ステラは俺たちを殺さなかったが、実際に元気そうに微笑むケニーに出会えたことは救いだった。


「リュート。なんだよ、急にハグするな」

「うううっ……ううっ……」

「まぁ泣きたくなる気持ちはわかるけどさ。ここはどこなんだろうなー」


 のんびりした声だった。

 怖くないのかと訝しんだが、彼の瞳の奥にはかすかな恐怖が見えた。

 だから必死に押し殺しているのだと気がつく。

 俺はケニーから離れて、なんとなく頭をかいた。


「……ごめん、嬉しくてさ」

「俺も嬉しいよ。へへへ、すぐ先生たちが助けに来てくれるだろうな」


 それには頷けなかった。

 俺はもう先生たちを信用していいのかよくわからない。

 だって、黒ローブは任務で先生たちが合流させた部隊に似ていた。

 それに、俺たちは丸め込まれて武器すら持っていなかったのだ。

 育ての親とはいえ信頼はもう揺らいでいる。


「じゃ、出るか」


 こともなげにケニーが言った。


「えっ」


 驚いて周囲を見渡す。

 ここは独房だとわかった。

 ボロボロのベッドが一つ、最低限の一人用の生活設備。

 それから窓がない石の壁、あと同じく石の床と鉄の扉。


 しかしその、小さな窓がついた鉄の扉は開いている。


「……出れる」


 つぶやいた俺にケニーが笑った。


「そうだな、出るぞ」

「でも、罠じゃない?」

「ここにいるのが正しいとも思えないけど」


 結局、ケニーに従うことにした。

 二人で牢から出る。

 ひたひたと裸足で廊下を歩く。

 窓がないからここがどんな場所なのかわからない。

 ずっと同じような独房が並んでいるだけだ。

 廊下の石材の隙間にまばらにはめ込まれた、ぼんやり光る魔道具だけが唯一の光源だった。

 人影はなく、誰かいるような気配すらなかった。

 静かだ。


「靴はどこに行ったんだろう? 神様、どうか靴をください」


 ケニーがつぶやいた。

 確かに靴があれば……なんて考えたところで俺は笑う。

 敵にバレないように、小さい声でだが。


「俺は靴より武器がほしい」

「武器になるような靴にするか。間を取ってさ」

「ならハイヒール?」

「さぁね……」


 ひそひそ話していると少しだけ元気が出てきた。

 ケニーがいつもどおり振る舞ってくれることに、本当に勇気づけられる。


「にしてもこの服。どっかで見た覚えないか?」


 ケニーがぽつりと漏らした。


 俺は着ている服を見る。

 気づかない間に着替えさせられたようだ。

 妙な首輪をつけられているのも気になる。


「なぁ、見覚えあるだろ?」


 もう一度聞いてきた。

 確かにこの白い服には見覚えがある気がしないでもない。

 そういえば黒ローブたちがローブの下に着ていた……。


「…………?」


 いや、それより前だ。

 ようやく思い当たる。

 前もこんな違和感を抱いた気がするが、ようやく核心にたどり着けた。


 これは俺たちが孤児院に来た時、最初に配られた服に似ているのだ。


「……そんな」


 恐ろしい事実だった。

 ここに来て最後のピースが見つかった気がした。

 もう間違いない。


 あの孤児院は俺たちの味方ではない。


 ケニーに伝えようとした、その時。


「――――――――!!」


 悲鳴が聞こえた。

 女の悲鳴。

 いや、エルマの悲鳴だ。


 凍りついたような表情でケニーが俺に振り向く。


「聞こえたか?」

「……うん」


 俺はもう泣きそうだった。

 ケニーも同じだ。

 まともな装備もないのに行けばどうなるかわからない。

 それに、もしステラがいたらと……考えるだけで恐怖が蘇ってくる。


 しかし、それでも俺たちは助けに行くことを決めた。


「行こう。エルマを助けないと」


 そうして悲鳴が聞こえた方向に向かって、俺たちは二人で走り出す。


 ―――


 冷たい廊下をひたすらに駆ける。

 すると、特に行き止まりもなく俺は廊下の出口に行き当たった。

 廊下の終わりには扉があった。

 鉄の扉は、独房のものと同じく開け放たれている。


「…………」


 扉からは少しだけ赤みがかった光が漏れていた。

 不気味さに思わず足を止める。


「……どうする? 行くか?」


 ケニーが聞いてきた。

 俺は何も言わずうなずく。

 だってエルマがいる、行かなければならない。


「行こう」


 慎重に、足音を殺して扉の先に足を踏み入れる。

 すると廊下よりは少し広い通路に入る。

 全て石造りだ。

 その先には砂が敷かれた広場が見える。


 光は、どうやらそこから漏れているようだった。


「助けて! 誰か!!」


 今度ははっきりとエルマの声が聞こえた。

 だから俺は走り出す。

 一瞬でも早くたどり着きたかった。

 そして広場についた俺が見たのは、想像を絶する地獄だった。


「なんだよ……これ……」


 十字架に人が磔にされている。

 エルマだった。

 裸にされ、体中にルーンのような……そうでないような、不気味な傷を刻まれて吊るされているのだ。

 さらに周囲には、槍や剣を持った黒ローブたちが何十人もいる。

 円形の広場を囲むように赤みがかった光の魔道具が配置されていて、その光を受けた敵の長い影が不気味に伸びていた。


「助けて! リュートくん!!」


 エルマが呼びかけてきた。

 俺に気づいたのだ。

 恐怖に染まった声で助けを求めている。

 すぐに駆け寄ろうとする。

 だがその前に、たどり着く前にエルマは殺されてしまった。

 まるで俺たちを見てから殺したかのような動きだった。


「あっ……あああっ……エルマ……!」


 槍が貫く。

 何度も彼女の腹部をえぐる。

 恐ろしい絶叫が聞こえた。

 エルマは、死にものぐるいで俺とケニーの名前を何度も呼んだ。

 でも助けられない。

 槍が二本、体の深くを貫いた。

 するとぐったりしてもう何も言わなくなる。


「エルマ!!!」


 ケニーが叫ぶ。

 だがもうどうにもならない。


 あいつらは、エルマを殺した。


「うわぁぁぁぁ!! ああああぁぁぁっっっ!!!」


 喉から獣のような声が出た。

 でも、どんなに叫んでも耳から断末魔が消えない。

 憎しみに任せて足を動かす。

 走って、エルマを殺した奴らの一人を思い切り殴る。

 そして手から槍を奪って刺し殺した。

 エルマがされたのと同じように、何度も何度も穂先を叩きつける。


 フードが取れて、覗いた顔は苦痛に歪んでいた。

 気づけばそいつは顔に穴が空いて、血まみれになって痙攣けいれんしている。


「はぁっ……はぁ……」


 肩で息をする。

 エルマの方を見た。

 だが耐えられなくてすぐに視線を外す。


「うっ……おぇっ……」


 彼女の口からは泡になった血が噴き出していた。

 はらわたがこぼれて力なく垂れ下がっている。

 光が消えた目は完全に死体のそれだった。

 歯を食いしばる。


「お、お前ら……お前らは……」


 震える声で黒ローブの敵に呼びかける。

 あいつらは俺を遠巻きに取り囲んでいた。


「お、お前ら、なん、で……」


 だが言葉にならない。

 もう憎しみをどう表現していいのかわからなかった。

 こいつらは一体なんなんだ。

 なんの目的があってこんなことをする。

 気が狂うほどに憎い。


「なんで、殺した?」

「…………」


 何も答えない。

 だから殺すことにした。

 身を守るためではない。

 憎いから皆殺しにすると決めたのだ。


「うわぁぁぁっっ!!!」


 叫びながら敵の一人に飛びかかる。

 剣を構えていたが、孤児院の仲間に比べれば素人同然の腕前だ。

 難なくまずは一人殺す。

 それからさらにもう一人倒す。

 次に殺したところで槍の穂先が取れた。

 だから、襲いかかってきた敵の剣を奪って戦いを続ける。


「リュート! 落ち着け!!」


 戦い続けていると横にケニーが立っていた。

 俺は一瞬だけ目を向ける。


「手伝ってくれ、ケニー!」

「わかってる……でも少し落ち着け」

「落ち着けるわけないだろっ!!! あいつら、こんな……こんな……うっ、ううっ……!」


 言葉の途中でまた憎しみが膨れ上がる。

 だから戦いに戻った。

 俺は、こいつらが生きていることに耐えられない。


「…………」


 戦いながら、エルマが任務の時見送りに来てくれたのを思い出した。

 頑張ってねと言ってくれた。

 いつもにこにこと笑っていて、彼女と話していると穏やかな気持ちになった。

 襲撃された時も敵を、この黒ローブたちを殺せないと言って泣いていた。

 そんな彼女を裸にして、傷つけて、吊るして殺した。

 仮にこいつらを百人始末しても、エルマを殺した罪には全く釣り合わない。


「死ね! 死ねっ!!」


 殺し続けていると腕が鉛のように重くなってくる。

 だが、ケニーも戦っているからまだまだ渡り合えていた。

 薄赤い光に照らされた広場に、次々と血液が撒き散らされていく。

 そして殺し続けていると、なぜか左肩のあたりが奇妙な熱を帯び始めたような気がした。


「はぁっ……はぁ……」


 敵を斬りすぎた。

 血と脂にまみれて剣の刃が潰れてしまった。

 最後の方はほとんど殴り殺していた。

 だから、俺は落ちている剣と持ちかえようとする。

 しかし落ちていた剣の柄を握ったところで、俺は背後に敵がいることに気がついた。


「しまった……」


 周囲はほぼ片付けたつもりだったが、不注意で見落としていたのだ。

 槍の攻撃が来る。

 でも体が重くて避けることができない。

 ペース配分を考えていなかった。

 ずっと全力で、少しでも大きな痛みを与えたくて剣を振っていたせいだ。


「…………」


 槍を握る敵はやはり無言だった。

 不気味さすら感じる。

 こいつらは何を考えているのだろう、なんて場違いなことを考えた。

 もうどうしようもなさそうだったから、せめて相手も殺そうと剣を強く握った。


 しかしその時、俺は誰かに突き飛ばされた。


「……え?」


 座り込んだ俺は、おそるおそる敵の方に目を向ける。

 すると、半ば予感していた通りケニーが身代わりになっていた。

 腹を貫いた槍が、貫通して背中へと突き出ている。


「バカ。落ち着けって……言っただろ」


 苦しげに息を途切れさせつつケニーが言った。

 俺は助けるために剣を拾おうとした。

 だが震えてどうしても持てない。


「ケニー……そんな……」

「いいか、リュート。落ち着け。冷静になれ……ここは、本当に、ひどい……場所だぞ」


 そう言って、槍を引き抜いて倒れる。

 敵も同時に倒れた。

 ケニーが持っていた剣で刺し違えていたようだった。


 そして、よく見ればその敵が最後の一人だ。

 俺は本当に周りが見えていなかった。

 ほんのわずかしか敵が残っていなかったのに、その前で武器を持ちかえようとしたのだ。


「うっ……」


 ケニーが苦痛に呻く。

 俺は這うようにして彼のそばに行った。


「ご、ごめん……俺のせいだ……ケニー。血を、止めるから、今……」

「いや、もうだめだ。クソ、死にたくない、怖い……」

「……でも、でも、なにか……まだ……」


 エルマは敵に殺されたが、ケニーは俺が殺したようなものだ。

 流れる血を止めたくて必死で手のひらを押し当てる。

 だがどうしても血が止まらない。

 なんとかしてケニーを助けられないか考えていると、不意に背後から声が聞こえた。


「そろそろ終わった?」


 よく知った声だった。

 ヴィクター先生の声だ。


「先生! ケニーが……ケニーが……」


 振り返りながら呼びかける。

 すると後ろに立っていたのはやはり先生だった。

 色んな疑念があったが、それは忘れて先生にすがりつく。

 治癒魔術でケニーを助けてほしかったのだ。


 しかし。


「ごめんね、もう先生じゃないんだ」

「えっ……」

「ヴィクターでも、ないんだ」


 いつもどおりの微笑みを浮かべたまま、先生は俺を拒絶した。


「だから助けてあげられない。仕事が変わっちゃったからね」

「変わったって……先生! ケニーが……死にそうなんですよ!!」


 俺が呼びかけると、青白い顔のケニーが目を開いた。

 乱れた息で先生に助けを求める。


「先生……俺、先生が……来るの……待って、たんです」

「…………」

「俺は、もう……手遅れですか? でも、俺、死ぬのが……怖いです。助けて……ください」


 ガタガタ歯を鳴らして、絶え絶えの息でなんとか絞り出した声だった。

 呼吸が浅くなって小刻みに震え始める。

 本当に手遅れになってしまう。


 俺は地べたにひれ伏して先生に頭を下げた。


「お、お願いします……ケニーを助けてください……なんでも、言うことを……聞きますから……お願いします……」


 少しの間地面に頭をこすりつけていた。

 しかし、ため息が聞こえて俺は顔を上げる。

 先生はいつの間にか俺の前に立っていた。


「命令だ、『立て』」


 そう言われた瞬間、立たなければならないという気持ちが湧き上がってきた。

 不思議な感覚だった。

 言われたから、というのとは違う気がする。

 なんの前触れもなく湧き上がってきた感覚だ。


 だが俺は先生がうなずくまで頼むつもりだった。

 無視して頭を下げ続けようとすると、唐突に脳に電流が流れたような衝撃が走る。


「っ……!」


 意識する間もなく俺は叫んでいた。

 なぜ自分が叫んでいるのかもわからなかった。

 呼吸すら上手くできない。


「がぁぁぁぁぁっ!!! うわぁぁぁぁ!!!!」


 意識を埋め尽くした刺激が苦痛であると気がついた。

 いや気がついたのではない。

 まともな言葉など俺の頭の中にはもうなかった。

 理性や思考が蒸発し、ただ苦痛を感じるだけの存在になった。

 視覚や聴覚、触覚も含めてあらゆる感覚が消滅した。


 残ったのは痛みだ。

 ただそれだけが俺を埋め尽くす。

 耐えることなどできなかった。

 苦しみにのたうち回って体中をかきむしった。


「はぁっ……はぁっ……」


 そして、どれほどの時間が経っただろう。

 少なくとも俺には永遠のように感じられた。

 だが実際は永遠には程遠い時間だったはずだ。

 痛みから解放され、俺はようやくまともに呼吸をする。

 意思や感情とは関係なく涙があふれて止まらなかった。


「うっ……」


 ふらつく体をなんとか起こした。

 どんなきっかけで痛みが生まれたのかわからない。

 だから些細な動きすらおそるおそるだ。

 あの痛みがさらに訪れたらと思うと怖かった。


「…………」


 そこで気がつく。

 また立たなければならないような気がしてきた。

 なんとなく、本当になんとなくだ。

 強制力はほとんどない。

 しかし俺は立った。

 それが正しいような気がしたからだ。


 すると痛みは訪れなかった。

 そんな俺を見て先生が小さくつぶやきを漏らす。


「動作は問題なし、か。じゃあ調教を始めよう」

「……えっ?」


 調教?

 何を言っているのかわからない。

 もう俺には先生のことがわからない。


「…………」


 俺は剣に手を伸ばした。

 こうなったら脅してでも、殺してでもケニーを治療させる。

 もうそれしか方法はない。

 このまま剣を握って突きつけるつもりだった。


「命令だ。『ケニーを殺せ』」


 しかしそこで耳を疑うような言葉を聞いた。

 思わず手を止める。


「……は?」


 何を言ってるのかと、問い詰めようとした俺の脳裏に不自然に意思が挟まる。

 ケニーを殺さなければならない。

 いや、殺そう。

 そんな風に俺は確かに考えた。


「違う!」


 反射的に否定した。

 おぞましい考えを振り払うように何度も首を横に振る。

 すると奇妙な感覚が消えたが、代わりにあの痛みが訪れる。


「うっ……ぐぁぁぁぁぁぁ!!!」


 感じたことのないほどの痛みが神経を満たす。

 俺はステラの前で胸を貫いたが、それすら比べ物にならないほどの苦しみだった。

 ようやく痛みが引いた頃には、もう力が抜けて動くことすらできなくなっている。


「はぁ……はぁ……」


 うずくまって恐怖に震える。

 絶えず冷や汗が流れ続けた。

 痛みのことばかり考えて、ケニーのことを忘れている自分に気づく。


「ケ、ケニーを……助けないと……」


 先生にまた治療を頼もうと思った。

 だが、もしそうしたら痛みが訪れるのではないかと思って身がすくむ。

 俺は本当に臆病者だ。

 ケニーは俺を庇って刺されたのに、本当に醜い人間だ。


 自分を責めて、それでどうにか恐怖を抑え込んだ。

 歯を食いしばりながら俺は頭を下げる。


「お、お願い……します……ケニーを……ど、どうか……」


 痛みが訪れるかもしれない。

 その恐れで声が震える。

 俺は固く目をつぶって震えながら懇願こんがんした。


 だが先生は気にも留めずに話を始める。


「その痛みを与えているのは僕だ。つまりこれは拷問だ。君が言うことを聞かない限りは続く」


 その言葉と同時、さらなる痛みが感覚を支配する。


「――――――――!!!」


 言葉にならない絶叫が喉をついた。

 痛みだ。

 ただひたすらにそれだけで埋め尽くされていく。

 もう何も考えられない。


「あ……あ、あ……」


 少しして痛みが引いた。

 俺は涙を流しながら先生を見上げる。

 力が入らない。

 もう何も言葉が出ない。


「ちなみに今一番重要な命令は、『ケニーを殺せ』だ。早くやりなよ」


 殺さなければならない。

 そう思う。

 這うようにして剣を手に取った。


 だがすぐに我に返る。


「いやだ……」


 するとまた痛みが訪れた。

 拷問が始まる。

 これが何度も続いた。

 痛みに苦しみ、ケニーを殺さなければならないと思う。

 しかし拒否して痛みにあえぐ。

 その繰り返しだ。


「……………」


 質問したり、逆らったりするような気力がもうなかった。

 思考は完全に停止していた。

 再び剣を手に取る。

 限界だと思った。


 もう自分で死ぬしかない。

 ケニーを俺の手から守るにはそれしか方法がない。


「だめだ、『自殺は禁じる』。これは命令だ」


 逆らってひと息に首を斬ろうとした俺は、しかし果たせず地面に倒れ込む。

 また痛みだ。

 恐ろしい罰の時間だ。


「殺すしかないよ。さぁ、殺せ」


 自殺をやめると痛みから解放された。

 つかの間の平穏だ。

 俺は、あいつがわざとこのタイミングで自殺を禁じたのだと察する。

 死を願った瞬間にそれを奪う。

 深い絶望に突き落とす。


 俺は、もうだめだ、気が狂いそうだった。

 不意に優しい声であいつが語りかけてくる。


「ケニーはもうじきに死ぬ。僕でも治せないんだよ。とどめを刺してあげよう。苦しみを終わらせてあげてくれ。苦しいのはかわいそうだろう?」


 その言葉が、俺の頭の中で言い訳が作られるのを手助けする。

 ケニーを殺さなければならない。

 いや、殺してあげないとかわいそうだと。


「……リュート?」


 ケニーの声が聞こえた。

 俺はなんとか彼の方に向ける。

 すると虚ろな目をして倒れているケニーが見えた。

 血が流れて今にも死にそうだ。

 でも、俺を心配しているように見える。

 こんな状況なのに。


「う、うぅ……いやだ……いやだ……いやだ……」


 涙があふれてきた。

 彼を殺したくない。

 でも痛みが怖い。

 この地獄から解放されたかった。

 どうすればいいのかわからない。


「楽になりなよ、ほら。ね?」


 そして何度拷問を繰り返しただろう。

 慣れるということは決してなかった。

 俺は、もうほとんど意識をなくしていた。

 夢の中にいるような心地だ。

 全てが朦朧もうろうとする中で、鮮明なのは痛みだけだ。


 何度か吐いて、何か意味のない言葉を叫んだ気がする。

 それから痛みに倒れた。

 全身がひどく震え始めて、俺は剣を握った。


「ケニーを殺せ」


 誰かが言った。

 何度も言った。

 従わなくてはならないと思う。


「…………」


 剣を振り上げた。

 下にはか細い息のケニーがいる。

 彼はもうほとんど目を閉じていた。

 真っ白な顔だった。

 俺は夢の中にいる。

 これはただの悪夢だ。


「ごめん……」


 謝ったが、何に謝っているのかもうわからない。

 俺は謝るようなことをするのだろうか?

 この行為が何を意味しているのかよく理解できない。


「ごめん、ケニー……」


 もう一度言う。

 勝手に涙があふれる。

 返事がない。


 俺は、彼の心臓に剣を突き刺した。

 そこで初めて、まるで息を吹き返したかのようにケニーが目を見開いた。

 刺した瞬間、言葉にできない感触に息が止まる。

 俺の存在そのものが呪われた気がした。


「リュー……ト……」


 ケニーはそう言って胸に突き立った剣を見る。

 それから俺の目をまっすぐに覗き込んできた。

 吐き気がこみ上げてくる。


「リュート……なんで……」

「…………」

「でも、わかるよ……」


 わかると、ケニーは言った。

 俺にはもう何もわからない

 ただ背筋におぞましい寒気が走る。

 息ができなくなった。


「大丈夫……わかってる。お前は、悪くない。わかんないけど、でも……悪くないんだ」


 彼は俺にそう伝えた。

 悪夢だ。

 悪夢が続いている。

 ステラに襲われたあの時から、ずっと悪夢が続いている。

 目覚めたらきっとまたケニーに会えるはずだ。

 そうに違いない。


「ケニー……ケニー……ごめん、俺……」


 これはただの悪い夢だ。

 そのはずなのに、俺はケニーに謝っていた。

 あとからあとから涙があふれてくる。


「怖い……」


 小さく声を漏らして、ゆっくりとケニーが目を閉じる。

 死への恐怖に凍りついていた瞳が隠れる。

 そして最後に、彼は泣きそうな声でぽつりとつぶやいた。


「エルマ……助けられなくて……ごめんな……」


 最期の言葉だった。

 俺はケニーから剣を抜く。

 そして首輪の痛みが来ないことに気づき、ようやく自分が何をしたのかを理解して、絶叫した。




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