七十五話・悪魔(3)
「……おい、ドブネズミども。戻ってこい。今からこいつを処刑する」
それは、言ってはならない言葉だった。
あの悪魔はどこまでも、どこまでも、泣きたくなるくらい、人間を壊す方法を熟知している。
「うぅっ……」
リリアナが立ち止まった。
俺も思わず足を止めていた。
止まってはいけないと分かっていたのに止まってしまった。
そして、リリアナが泣きながら叫ぶ。
「……や、やめて!! お願い! 友だちなの、お願い……殺さないで……!!」
彼女が走って戻ろうとする。
俺はその背中を抱き留めて、なんとか行かせないようにした。
でも今ので絶対に居場所がバレた。
「もうだめだ……」
あいつが来る。
俺が止めるしかない。
それに、黒ローブたちも動き始めた。
周囲から足音がする。
ようやく、俺は覚悟を決めた。
「リリアナ、逃げるぞ」
「いやだ!! だって、ウォルターが……殺されちゃう……」
「殺されない。あいつは俺たちを殺す気がない」
思い出したのだ。
何度も捕獲と口にしていたことを。
それに、ステラは俺たちには致命傷を与えずに戦っている。
あの雷を消した時点でおかしいとは思っていた。
味方でさえあれだけ残虐に、躊躇いなく処刑していたのに俺たちを殺さない理由がない。
だからあいつは俺たちを殺せない、これはステラに存在する唯一の弱点だ。
気づけたのはみんなの戦いのおかげだ。
この事実に気がついて、リリアナを生かす……そのために俺が最後まで残ったのだと信じたかった。
「俺が戦う」
リリアナに言う。
するとまた彼女は泣く。
もう何度目だろう。
本当に、今日はひどい日だ。
俺もリリアナもずっと泣いている。
「やだよ……」
また、嫌だと言う。
泣きながら俺にしがみついてきた。
状況は分かっているはずなのに置いて行こうとしない。
「やだやだやだ! 絶対行かない!!」
それは、もう誰もいなくなったからだろう。
指揮官として家族の命を背負っていると思っていたから、あいつは常に正しい判断を下せていたのだ。
しかし誰もいなくなった今、リリアナはもう普通の女の子でしかなかった。
泣き叫んで俺を止めようとするだけだ。
「…………」
俺も、心が弱っていたのかもしれない。
一緒に死んだほうがいいのだろうかと、少しだけ考えてしまう。
この場で殺されることはなくても、捕まればいつかは殺されるだろう。
俺がリリアナの立場だったら一緒に捕まって死ぬ方がいい。
一人で生き残って、そんなにも悲しい思いをして逃げる意味があるのだろうか。
『泣いたあとには笑うのよ、絶対。どんなにあとになっても』
しかしすぐに思い直す。
これからどうなるとしても、リリアナには生きていてほしい。
生きてさえいれば……きっといつか笑えるはずだ。
それが、俺たちの生きた証になるのだ。
「……いいから行け!!」
リリアナの手をはねのけた。
それからなんとか逃がそうとした。
風の魔術は使えるはずだから、落下速度を落とす魔術も使用できる。
一人でここから逃げられる。
「やだ!」
「行けって!!」
「やだ! 行かない!」
押し問答を繰り返す。
俺は焦っていた。
もう時間がない。
というより、瞬間移動を使えるはずのステラがまだ来ないのはおかしい。
処刑された、黒ローブの少女の言葉を思い出す。
『もし逃げられるとしたら……それはあの悪魔が遊んでいるうちだけよ』
ステラはまだ遊んでいるのだろうか?
そうであることを願った。
「リリアナ、行けよ。頼むから。行ってくれよ。一人で行けるだろ……?」
彼女は首を何度も横に振る。
どうしても言うことを聞かない。
震える声で俺に語りかけてきた。
「やだ……。だって……一緒じゃないとだめだって……言ってたじゃん…………」
一緒にいないとだめ?
そんなことをいつ言っただろうか?
少なくとも今日じゃない。
だから少しだけ考えて思い出す。
確か任務のあとだったか。
助けてくれてありがとうと、俺たちにお礼を言うリリアナに伝えたのだ。
「…………」
幸せだったな、と思った。
本当に、本当に、俺は幸せだった。
もっと一緒にいたかった。
でも、今日はもうお別れをしないといけなかった。
「……嘘だよ、そんなの」
泣きながら言った。
リリアナも、ただでさえ泣いているのにもっと悲しそうな顔になる。
「行けよ」
「やだ、行かない……」
ぼろぼろの泣き顔で首を横に振る。
もうどうしていいのか分からない。
言葉にしがたい感情があふれてきて、俺はリリアナを強く怒鳴りつけた。
「いいから行け!! このバカ! お前には足止めなんか無理だろ!! 弱いくせに!! 早く行けよ!!!」
「うっ、うぅぅ……」
「なんでわかんないんだよ!! 早く行けって!! このバカ! バカ! バカ! バカ!! お前なんか嫌いだ!!!」
嫌いだ、と言うとリリアナは心から傷ついたような顔になった。
どんなに喧嘩をしても、俺たちは嫌いだなんて言い合うことはなかった。
彼女は泣きながら背を向けて走り出す。
去っていく背中を目の端で見届ける。
俺は低く低くうなだれて、震える声でつぶやいた。
「ごめんね。今まで、ありがとう……」
リリアナには聞こえていないだろう。
俺は喉の奥で消えるような声で言った。
聞かせてはいけなかったから。
これ以上ためらわせてはいけないから、聞こえないように言ったはずだった。
「…………」
そして準備をしようとした。
最初に一人敵を殺す。
次に死体にリリアナのジャケットを着せて、庇うように立つ。
まずはこれだ。
だから敵を探す。
俺たちを探しに来ていたのをちょうど見つける。
二人殺して、体格が似た女の方にジャケットを着せた。
「……で、私を殺す準備はできた?」
くすくすと、笑ってステラが現れた。
ゆっくりと歩いてきていた。
遊びはまだ続いているのか、いないのか。
俺は、リリアナに似せた死体の前に立つ。
庇うように剣を構えながら呼びかける。
「リリアナ、動くなよ。怪我が悪くなる」
「なにそれ? ねぇ、付き合ったほうがいいの?」
下等なゴミを見るような目でステラが俺を見た。
バレているということだ。
ならこいつを殺すしかない。
リリアナが逃げ切る道はそれだけだ。
「くすくす……本当に馬鹿ね」
ステラは楽しげに笑う。
きっと本心から楽しんでいるのだろう。
俺たちは弱くて、馬鹿で、何一つとしてこいつに及ばない。
ただの玩具でしかないのだ。
「さぁ、来なさい」
歓迎を示すように両手を広げた。
かかってこいと言っている。
だが俺は刃を自分に向けた。
思いっきり胸を刺し貫く。
「なっ……」
ステラが絶句の表情を浮かべる。
その反応を見て、俺は推測が当たっていたのだと理解する。
やはりこいつは俺を殺せない。
殺してはならないのだ。
「ざまぁ、みろ」
激痛の中で、俺は笑う。
玩具に反抗されてどんな気分だ? と、嘲るような視線を送った。
「……本当に、馬鹿ねぇ」
呆れたような表情のステラに杖を向けられた。
俺の体が動かなくなる。
ニーナを止めた魔術だ。
これ以上刃をねじらないように止めたのだろう。
「…………」
俺はわざと急所を外していた。
だからすぐには死なない。
それに気づいたのか、もう焦った様子はない。
「最後の最後で……困った人が残ったものね。ふふふっ」
ゆっくりと俺に歩み寄ってくる。
目の前に来ると動かない体を蹴り倒してきた。
地面に転がされ、乱雑な手付きで剣を引き抜かれる。
血があふれてきた。
俺は意識を失わないようにするのに必死だった。
「お前の想像どおりよ。死なれたら大変なの。治すから動かないでね。動いたら、捕まえた仲間を拷問するから」
動くな、とステラは言った。
つまり体が動くようになっている。
おそらく拘束の魔術は、継続して使わなければ効果が消えるタイプのものなのだろう。
だから治癒魔術を使うために解除したのだ。
この怪物も、同時に行使できる魔術の種類は一つだけだ。
人間と同じルールで魔術を使っている。
「…………」
ステラは俺に杖を向ける。
そして治癒魔術をかけ始めた。
恐ろしいほどの速度で傷がふさがっていく。
「ステラ」
「なに?」
「いま、舌を噛み切る」
俺の言葉を聞いて動揺を見せた。
隙を逃さず剣を拾って斬りかかる。
だが素早い手刀で肘を砕かれた。
剣が落ちる。
単純な腕力すら、人間の範疇を超えているのが分かった。
「ぐっ……!」
うめきながらも動きは止めない。
そのまま組み付いて押し倒す。
必死だった。
舌を噛み切ったと言ったせいだろう。
治癒魔術を解除するのが遅れて、敵は瞬間移動の魔術を使いそこねた。
さらに揉み合って杖を落とす。
転ぶようにもつれて倒れたあと、馬乗りになってあいつを見下ろした。
それでもやはりくすくすとほくそ笑んでいる。
「……で? 首でも締めるのかしら?」
無視して俺は矢を取り出す。
さっき仲間と一緒に弓を使っていた時のものだ。
聞いた話によると毒が塗ってあるかもしれないらしい。
なら、こいつで試してみるのは悪くない。
「それは……」
矢を見て驚いたような表情を浮かべる。
構わず振り上げた。
あとはどこかに突き刺すだけだ。
だがその攻撃に対するステラの反応は、俺の想像を超えたものだった。
「や、やめて!」
恐怖に引きつった表情を浮かべていた。
俺はひたすらに混乱して手を止める。
今日初めて人を殺した。
命乞いをされるのも当然初めてだった。
「殺さないで……!」
……こいつは、悪魔ではなかったのか?
どうしてこいつが泣きそうな顔をする?
かわいそうなのは自分だと、そう言わんばかりの目で見つめてくるのはなぜだ?
「私も、仲間が人質に……」
もうそれ以上は聞けなかった。
矢を振り下ろす。
「だめだ、死ね」
だがおそらく、戸惑ったほんの一瞬が命取りだった。
背後から誰かに蹴り倒される。
押さえつけていたステラがその隙に抜け出した。
「くすくす……」
笑い声が聞こえた。
蹴られて、倒れた俺は土を掴む。
とてつもなく大きな後悔が渦巻いていた。
「クソっ……!」
命乞いを前に手を止めた。
失敗してしまったという事実が重くのしかかる。
俺は、唯一の機会を失ったのだ。
「うふふ、あはははは……」
すでに立ち上がり、ステラは声を上げて笑っていた。
心底楽しそうに、愚かな俺を馬鹿にして笑っている。
もう心が折れそうだった。
しかしそれでもなんとか立ち上がろうとする。
どうにか、ふらつきながらも俺は立つ。
そこで、冷え切った命令の声が聞こえた。
「跪け」
目の前に来たステラに右足を蹴られる。
膝が砕けたのがわかった。
俺はよろめく。
続けて背後から左足を蹴り折られる。
ステラに杖で腹を突かれた。
立っていられず倒れそうになるが、倒れる前に背中を蹴り飛ばされる。
なすすべもなく地面に叩きつけられた。
まだ動こうとすると、今度はステラに頭を踏みつけられる。
地面に、頭を擦り付けるように足が動く。
「くすくす……」
笑い声はふたつ。
やがて足がどけられたから、這いつくばりながら視線を上に向けた。
すると目の前にはステラと、全く同じ姿を黒く塗りつぶしたような影が立っていた。
杖も含め、双子のような背格好の影だ。
黒く塗られて顔立ちも何もわからないが、口だけは影に覆われていない。
深紅の唇が際立って鮮やかに見える。
「お前が私を虚仮にするから。いじめたくなっちゃったわ」
二人で俺をあざ笑っていた。
虚仮にした、というのは恐らく自殺するフリをして逆らったことだろう。
「でも発想は悪くなかった。私を殺せていたかもしれない。残念ねぇ……。まさか、命乞いを聞いてくださるなんて」
わざとらしくそう言って、ステラは俺の額に自分の額を触れさせた。
鼻が触れるような距離で、美しい悪魔がささやいてくる。
ぞっとするような輝きの瞳が俺を見据える。
「……もっと狡猾になっておいで。でないと、戦いにすらならない」
嘘だ。
こいつを殺すチャンスなど最初からなかった。
命乞いを聞いたことなんて関係ない。
今わかった。
こいつは、本物の化け物だ。
絶対に勝てない。
何をしても勝てない。
押し倒されたのもわざとだ。
矢を振り下ろす俺を止めることも簡単だった。
ただ気に食わない俺を、弄ぶために演技をしていた。
こんな怪物に一矢報いるには、もう。
本当に。
「死ぬしか……ない」
俺にも意地があった。
こいつに、みんなを弄んだこいつに……どうしても報復がしたかった。
無様に負けて終わることだけは耐えられない。
そうだ。
どんな手段でも、こいつには絶対に吠え面をかかせる……!
「…………うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
即座に自決を選ぶ。
恐怖を振り切るように叫び、俺は矢で首を貫いた。
だがステラは笑った。
「それはダメ」
その声が聞こえた瞬間、赤い光が周囲を染める。
でももう何が起ころうと関係はない。
痛みの中で、俺の意識は急速に薄れて……。
―――
死んだはずの俺は、何故かステラの前に立っていた。
状況が理解できない。
ステラと影がくすくすと笑っている。
「ほら、跪いて」
全く同じように二人に足を蹴り折られた。
地べたに這いつくばる。
また頭を踏みつけられる。
「せっかくだし、もう一回死んでみる?」
今度はステラに剣を突き刺された。
這いつくばった背中から、正確に心臓をひと突きだ。
激痛が走る。
「うっ……」
血があふれた。
確実に死んだ。
意識が閉ざされていく。
「…………」
死ぬ前にまた赤い光が見えた。
俺はその光がステラの体を覆う、口の一つが発しているものだと気がついた。
―――
そして、何事もなかったかのように俺は立っている。
悪夢だ。
そうとしか思えなかった。
俺は死ぬ権利すら剥奪されたのだ。
「くすくす……馬鹿ね」
「ね?」
影と共に、全く同じ声で会話を交わしている。
そしてステラは地面を指差して俺に言った。
「跪け」
「…………」
足を折られるまでもなく、俺は従っていた。
ゆっくりと足を震わせながら跪こうとする。
しかしその途中で、やはり同じように足を砕かれた。
「ありがとう。でも、無理やりのほうが好きなの」
背中を蹴りつけられて転ぶ。
悪夢だ。悪夢だ。悪夢だ。
もう何も考えられなかった。
「素敵なおすわりね。負け犬らしくなったじゃない」
恍惚とした笑みを浮かべ、ステラが治癒魔術を使い始める。
その間、俺の体は縛られたように動かない。
これも魔術だ。
あいつは、一度に並行して複数の種類の魔術を使える。
使えないように見せたことすら弄ぶための布石だった。
「それと、今……私の影があの女の子を捕まえたって」
あの女の子。
リリアナだ。
そして影とは、今ちょうど目の前にいて俺をいたぶっているような存在だろう。
「…………ぁ」
もうだめだ。
心が折れた音が聞こえた。
こいつは悪魔だ。
ステラに逆らってはいけなかった。
「は、ははは……ははは……」
虚ろな笑い声がひとりでに喉から漏れる。
楽しげにくすくすと笑いながら、ステラが俺の頭に杖の先を触れさせた。
意識が遠ざかっていく。
ようやく、現実から逃げることを許されたのだ。
「――――いいえ? 逃したわけじゃない。次に目が覚めたら、もちろん……そこは地獄よ」
ステラが最後に、甘い声でそう告げた。
だから俺は絶望の中で意識を手放した。
くすくすと、笑う声が聞こえる。




