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ロストキルレシオ  作者: 湿った座布団
たとえ灰になっても
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五十一話・撤退戦(1)

 

 撤退戦だと言われた。

 俺はそれに正直救われたような思いだった。

 だってあんな化け物とやり合うなんて無理だ。


 見るからに生物としての格が違う。

 前に立っているだけで限界だった。

 普通にやっても今の俺たちでは勝てないだろうし、そもそも今回の標的は下位魔獣の群れだった。

 戦うとしても大人に任せるとしても、ここは一度引くのが賢い判断だろう。


「いい? 今から来た道を戻る。戻って拠点に引き返す」


 リリアナが一歩後ずさりながら言った。

 聞いたとおり、俺たちはこの道をまっすぐ逃げ帰らなければならない。


 なぜなら今すぐ山に入っても道がわからないし、そもそもどこに行き止まりがあるかも知らないからだ。

 もしまともに進めない地形に行き当たれば、その時点で追いつかれて詰みになる。

 山に入るなら通ってきた道を戻るしかないし、その道には撤退の備えもしておいた。

 だから危険でも、しばらくはこの開けた道を逃げ帰るしかない。


 そんなことを考えていると、近くで硬いものが壊れるような音がした。

 霧の名残なごりで遠くはよく見えないが、オークをせき止めていた氷の壁が砕け散ったのだろう。

 一か所が欠けたのを呼び水に、壁があっという間に破壊されていくのがわかる。

 オークの残りと中位魔獣の合流……最悪のケースを想像して、俺は背筋が冷えるのを感じた。


「まずい……早く逃げないと」


 リリアナが表情に焦りをにじませる。

 霧は徐々にだが薄まりつつある。

 なので道の輪郭くらいは判別できるようになってきた。

 もうなんとか進めないことはないので、そろそろ走りださなければ危ないだろう。


「行こう」


 だが彼女がそう言った直後。

 地を震わせるような咆哮を皮切りに、ディティスも追跡を開始する。

 俺たちが走り出したのとほぼ同じタイミングだった。


「――――――ッ!!!!」


 走りながら、恐ろしい咆哮に思わず視線を向ける。

 すると周囲に三つ、巨大な氷の塊を形成しながら駆けてくるのが霧の向こうに見えた。

 肥大し続ける氷塊ひょうかいは、さながら城攻めの投石の縮小版といったところか。

 まだ大きくなるようだし、今にも飛ぶのではないかと思うと血の気が引いた。


「……どうしよう」


 思わず小さなつぶやきが漏れた。

 想像もしなかったくらい情けない声だった。

 聞こえてしまったのか、リリアナが一瞬だけ余裕のない顔で俺に目を向ける。

 しかし彼女は何も言わず、また前を向いて走り続けた。

 なんとかしなくてはと必死で考えていただろうに、俺の弱音で追い詰めてしまったかもしれない。

 そう思うと自分がいやになった。


「…………」


 彼女をなんとか助けられないかと、今の状況について考えてみる。

 だがすぐにどうしようもないと思い当たった。


 あの魔法を背にするのは危険だが、かといってここで防御を選べばすぐに追いつかれる。

 ……いや、といってもそもそも脚力きゃくりょくが違いすぎるか。

 どちらにせよ追いつかれてしまう。


 あの巨体で、ディティスは凄まじく速く動く。

 みるみる距離が縮んでいく。

 だから追いつかれまいと必死で足を急がせていると、突然目の前に行き止まりが現れる。

 霧の向こうから姿を見せたのは、高くそびえる無骨な氷の壁だった。


「えっ……」


 頭が真っ白になった。

 想像の及ばない展開だった。

 反射的にリリアナに目を向けると、彼女は動揺にうわずる声で疑問を絞り出す。


「なんで…………魔法?」


 その言葉通り、この壁はディティスの魔法なのかもしれない。

 だがそんな素振りはなかったし、そもそも今は氷塊ひょうかいの魔法を使っている最中だ。

 なのにこんなに大きな壁まで作れるものなのか?

 この壁は俺たちがオークを止めるのに利用した壁より高く、それでいて軽く四倍は厚さがありそうだ。

 もはや壁というより小さな氷山だった。


 状況を受け止めきれずにいると、クランツくんが口を開いた。

 焦った様子だった。


「リリアナ、山の方から迂回うかいするか?」


 道はほぼ完全にふさがれているが、確かに山を通れば壁を避けて通れるはずだ。

 しかし彼女はそれを却下した。


「だめ……もう追いつかれる。戦うしかない……」


 悲痛な声で戦うのだと言う。

 策はあるのか……なんて聞いても困らせるだけだろう。

 リリアナは完全に混乱している。

 こんな事態は誰にも予想できなかった。


「わかった……」


 盾を構え、クランツくんが答えた。


 振り向くとすでに敵は近くまで迫ってきていて、普通に考えればもう交戦は避けられない。

 だがまだ一つだけ逃げられる方法がある。

 リリアナは決して使わない作戦だが、誰かがおとりになればいい。


「…………」


 最前で盾を構えるクランツくんより一歩前に出た。

 そして俺は剣を固く握りしめる。


「……お」


 声を出した。

 俺の臆病さをそのまま表すような小さくか細い声だった。


「俺が……」


 まだ誰にも聞こえていない。

 喉がこわばってまともな言葉が出ない。

 恐ろしくなって俯くが、俺はなんとか声を絞りだそうとする。


「…………うっ、う……」


 俺が行かなければならない。

 何度も自分に言い聞かせる。

 早く言わないとすべてが手遅れになる。


 俺はこの中で一番弱いし、生き残ったところで大した役には立てない。

 それにみんなには生きていてほしい。

 だから俺がここに残るのだ。


「俺……」


 今度はちゃんと声が出た……と思ったのもつかの間だった。

 誰かに軽く手の甲で額を小突かれる。

 そのせいで途中で言葉を失った。


「あっ」


 叩いた手の方向……左に目をやるといつの間にかウォルターが並んで立っていた。

 言うかどうかの葛藤かっとうで気がつかなかったが、彼は俺のそばに来ていたようだ。


「ぼんやりするな。こんな時に考え事か?」


 いつも通りの澄ました顔だった。

 剣まで背の鞘に収めてしまっていて、どうやら今も怯えていない。

 俺はひたすら混乱してウォルターを見ていた。

 すると今度はリリアナが困惑した様子で声をかけてきた。


「……どうしたの? そんな……二人で前に出て……」


 そう言われて振り向く。

 俺は問いに答えようとする。

 だがその前に、彼女の悲鳴に近い声が俺の答えを遮った。


「っ……危ない!!」


 彼女の視線は俺の向こうを注視していた。

 だから反射的に振り向く。

 すると魔法が前に出た俺へ向けて放たれているのがわかった。


「っ………」


 皮肉なことに霧が薄れたおかげで、迫る魔法ははっきりと見える。

 だがもう避けようにも体が動かなくて、真っ白になった頭で死ぬのだと思った。

 まるで足が地に根を張ったように動けない。

 こんなことは初めてだった。

 しかし、俺は唐突に誰かに押されて地面に倒れ込む。


「すまない」


 ウォルターだった。

 彼は素早く反応し、棒立ちの俺を突き飛ばしていた。

 ならば今の言葉は突き飛ばしたことへの謝罪だったのか。


 まったく理解が追いつかない中、抜く手も見せずに背に吊った大剣を構えている。

 さらに飛来する魔法へと向き直り、高速で飛来する氷塊へと流れるように刃を振るった。

 するとまばたき一つのあと、剣に接した氷が斜めに切れて軌道が逸れる。


「!」


 しかも一つではない。

 息つく間もなく、ほぼ時をおかずに迫る三つの全て。

 ウォルターと俺を狙って飛んできた氷は、目にも止まらぬ迎撃で裂かれて大きく狙いがズレる。

 だが逸れたとはいえ氷の残骸の速度は全く衰えておらず、着弾と同時に地鳴りのような衝撃と轟音が肌に伝わった。

 一瞬遅れて、俺は自分が助かったことを悟る。


「…………」


 声すら出せず、あらぬ場所に突き刺さった氷を見つめた。

 目の前で起きたことが信じられなかった。

 ディティスの魔法は、クランツくんの壁でかろうじて防げたものなのだ。

 本当は剣でどうにかできるものではない。


「斬った…………いや……」


 目の前の現実を確かめるように震える声を漏らす。

 そこで俺はようやく気がついた。

 あれは斬ったのではない。

 受け流したのだ。

 受け流しつつ氷に刃を沿わせた時、あまりに完全に力をはね返したので勝手に壊れたのだろう。

 そもそもあの魔法は人間の力では割れないし、受け流したのでなければこうも軌道は逸れたりしない。


 こんなことをほうけたように考えていると、今度はディティスが追いついてきていることに気がつく。


「―――――!!!!」


 恐ろしい咆哮とともに大鉈を振りかざしている。

 刃渡りが俺の身の丈近くもある巨大な得物だ。

 絶対に受けてはいけない。

 追い立てられるように立ち上がり剣を構えるが、腰が引けているのが自分でもわかった。

 震える喉で強がりの悪態を吐く。


「クソ……」


 恐怖で頭が回らない上にリリアナの指示もない。

 剣を構えたはいいが、指一本動かせていない。


「…………」


 しかし隣に立つウォルターはやはり動じていなかった。

 氷塊を流したあとの残心の姿勢を崩すと、剣の切っ先を力なく下げて地に触れさせる。

 恐怖も焦りもなく、平常心を示すように脱力して立っていた。


「まぁ、やってみるか」


 気負わず言って躊躇なく前に出た。

 接近し、斬り殺すための間合いの詰め方だった。

 あいつは本当に、たった一人でやるつもりなのだ。


「ウォルター!」


 呼び止めようとしたのか、リリアナがまた悲鳴のような声をあげた。

 だが構わずディティスの間合いに入る。

 すると敵は半ば飛びかかるような勢いで攻撃を仕掛けてきた。

 それは人の構えなら大上段、遠目に見ても体重が乗った必殺の一撃だった。

 唸る風をまとって、氷の大鉈がウォルターに叩きつけられる。


「…………」


 それにあいつは素早く剣の先を合わせる。

 ガードでもなく攻撃でもなく、ただ軽く切っ先を触れさせただけだ。


 当然、これでは力で拮抗きっこうすることはできない。

 しかし剣の先が大鉈に触れると、それだけでディティスの刃は手から抜け落ちて地に刺さる。


 信じがたい光景に目を疑い、数瞬の後に思い出した。

 これは何度も見てきた武装解除の剣技だ。


 そして標的は武器を失った。

 ウォルターの剣が霞んで怒涛どとうのような三連撃が放たれる。

 正確に両膝を斬りつけたあと、大剣のリーチを活かして背の高い敵の喉を叩く。

 一瞬の猛攻を受け、凍りついた巨体がよろめいた。


「――――ッ!!!」


 しかし三度斬られたにも関わらず、氷の鎧のせいでさほど効いた様子がない。

 また咆哮をあげ、無手のままウォルターへと反撃を試みる。

 けれど、そのどれもがあいつを捉えることができなかった。


 氷を纏う鉄拳の猛打は虚しく空を切り、蹴りつける足は身をかがめてすかされた。

 そして蹴りで出した足の膝裏ひざうら、関節にある鎧の隙間を剣の刃が正確に抉る。

 浅かったのかディティスは倒れない。

 苛立ったような荒々しい雄叫おたけびを上げ、地面に叩き落された大鉈を乱暴に引き抜いた。


 だが鉈を持っても形勢は変わらない。

 恐ろしい速度の攻撃はその全てが命中しない。

 嵐のように振るわれる刃に対し、ウォルターはまるで手足のように剣を操って防いでいる。

 攻撃の多くは足運びで回避しているものの、剣もまた攻撃を流し、あしらい、フェイントで無駄に刃を振らせている。


 大鉈のまっすぐで剛直ごうちょくな攻撃に対し、あいつの防御の動きは絡まった糸のように複雑でしなやかだった。

 鮮やかな剣さばきと緩急をつけた動きは、人外の暴力を完全に封殺していた。

 だが決して防戦一方ではなく、一度標的を定めたなら閃光のような鋭利えいりが剣に宿る。

 いまも攻防の隙間に刃が閃き、瞬きより早く敵の喉への突きが放たれた。


 ディティスは大鉈を振るい、その喉を刺す一撃を打ち払おうとする。

 だが大剣の軌道がなんの前触れもなく直角に変化する。

 減速も予兆もなにもない軌道変化は、中位魔獣にすら反応を許さない。

 下へ、すなわち右足の先にさくりと突き刺さり、足の指を根こそぎに削ぎ飛ばした。


「――――ッッ!!!」


 ディティスが痛みに叫びをあげる。

 でも中位魔獣は、体内の寄生体により指の欠損程度はすぐに再生してしまうらしい。

 俺も実際の様子は初めて見たが、噂に違わず十数秒で指を再生しきった。

 そして地を震わせるような踏み込みで、肩を当てる体当たりの反撃を即座に仕掛ける。


 轟音が響く。

 ただの体当たりも中位魔獣が使えば必殺だ。

 硬質と重量、そして矢のような速度をも併せ持つ必殺の重撃だった。

 鉄塊と同等の破壊力を秘めた体躯たいくは、予備動作すらほぼ見せずに風を切って質量を叩きつける。

 それでもウォルターは完全に見切り、半身になって身をそらすことで突進の軌道から逃れてみせた。


 体当たりを外したディティスは、そのまま振り向きざまに横薙ぎで大鉈を振るう。

 だがあいつは、当然のようにその動きを読む。

 角度をつけた大剣で敵の刃を受け流しつつ、身を低くかがめて敵の間合いの内側に入り込んだ。

 さらに低くかがんだ体を伸ばす勢いすらも乗せ、全身の力を集めたような一閃で強靭な顎を打ち上げた。


 まっすぐに振り上げられた鋼鉄のアッパーカットは、凍てついた鎧にヒビを入れる。

 氷が壊れる音がいやに大きく響き、二歩ほど後ずさった巨体はふらりとよろめく。

 放っておいても倒れそうなほどの目眩めまいに襲われているのだろうが、ウォルターは間髪入れず、容赦なしの追撃を叩き込む。


 刹那の内に六閃、人なら即死の剣の連携。

 その上トドメとばかりにダメ押しの飛び蹴りがディティスを押し出した。

 なすすべもなく蹴り飛ばされ、ふわりと宙を舞った巨体が吹き飛んで地を転がる。


「……すごい」


 凄まじい戦いを前に思わずつぶやいた。

 まさに圧倒だった。

 無敵の剣技で完全に中位魔獣を制圧している。


 訓練で戦っても、力の底が見えないような気はいつもしていた。

 でもまさかこんなことがあり得るなんて夢にも思わなかった。

 あいつは本当にすごいやつだ。


 そんなふうに思考が熱を帯びて、いつの間にか恐怖は忘れていた。

 ウォルターに勝てる敵などいない。

 俺は本気でそう信じた。

 あいつと一緒なら、絶対にみんな生きて帰れる。


 だからリリアナに加勢を提案しようと思った時、俺が口を開くより先に彼女が声を漏らした。


「なにあれ」


 ウォルターの戦いぶりに驚いた……というような言い方ではなかった。

 瞳にははっきりと恐怖が現れていた。

 なにより視線がウォルターとディティスの上に向いている。

 俺は嫌な予感がして彼女の視線の先を追った。


「…………」


 するとそこには遠く、風を纏って滞空するなにかがいた。

 人に翼をつけたような影が、荒れ狂う風を従えて俺たちを見下ろしていた。

 もちろん空気の流れが見えるわけはないが、激しい気流の乱れが雨を巻き込んでいるからかすかに見える。

 水を散らす暴風は、明らかに宙に浮く敵を取り巻いて覆っている。


「いくらなんでもおかしい……こんなの……絶対おかしい……」


 リリアナが言葉を重ねた。

 あれもおそらくは中位魔獣、風の寄生体がとりついたヒギリの翼獣よくじゅうと呼ばれるハーピィだ。

 そして彼女は中位魔獣が二体も現れたという現実を受け入れられていなかった。

 ついに青ざめ、肩を震わせながら呆然としている。


「…………」


 誰も何も言えないまま、現れた脅威を見上げることしかできなかった。

 ディティスに応戦するウォルター以外、全員が戦意を喪失していた。

 いくらなんでも二体を相手にして戦えるはずがない。

 思考はすでに停止し、なぜこんなことに? という疑問がただ頭をいっぱいに埋め尽くしていた。


 しかし当然魔獣は情けをかけたりもしない。

 離れた空で、ヒギリが纏う風がひときわ大きくなった。

 降る雨の向こうで魔法の嵐が膨張し、その余波で一陣の風が谷の道を通り抜ける。

 そしてそれから少し風を育てた後、敵は身に纏う気流を刃に変えて解き放った。


「…………!」


 反射的に飛びのいて地面に伏せる。

 それからすぐに凄まじい勢いで魔法が降り注いだ。

 無数の風の刃は、つんざくような音を鳴らし無差別に地表を叩き割る。

 おそらく俺は運良く狙いから外れていたが、それでも非現実的なまでの衝撃を受けて脳すら揺れるように感じた。

 だが地面にしがみつくようにして衝撃に耐え、軽いめまいを感じながらも身を起こす。

 すると同じように伏せている他の面々の姿が目に入った。

 リリアナ以外は、無傷ではなくてもなんとか立ち上がろうとしている。


「大丈夫……」


 大丈夫か、と。

 そう聞こうとして俺は言葉を失った。

 倒れ伏したリリアナが血を流しているのに気がついたからだ。

 脇腹と左腕のあたりからじわじわと流血りゅうけつしている。


「リリアナ……!」


 ぞっとした。

 つららを突き刺されたように背筋が冷たくなった。

 我を忘れて駆け寄り、すぐに彼女の左にひざまずく。

 すると泥の上で歯を食いしばって痛みに耐えているのがわかった。

 真っ白になった頭で、俺は冷たい左手を握る。

 そして腕の傷に目をやるが、ざっくりと何箇所なんかしょも裂けて腕が千切れそうになっているのがわかった。

 赤黒い傷口がいくつも大きく開いて血液を吐き出している。

 さらにそれよりも左の脇腹の傷がよくなかった。

 傷の深さは正確に分からないものの、絶えず血が流れてしまっている。

 これは死ぬかもしれないと俺は思った。


「……っ」


 リリアナが弱々しくうめき声を漏らす。

 あまりの痛々しさに思わず俺は目をそらした。

 早く止血しなければならないのに、手が震えるばかりで行動に移せない。

 傷に触れた手が真っ赤に染まったのを見て気が遠くなった。

 もしリリアナが死んだらと思うと泣きたいくらい怖かった。


「……ニーナ」


 なんとか絞り出せたのはそんな声だった。

 敵のことも忘れて呼びかけた。

 リリアナを助けてやってほしくてニーナの姿を探す。

 すると彼女は俺のすぐそばにいた。

 だが様子がおかしい。

 まじまじと見つめると、すぐに泣いていることに気づく。

 彼女は声を詰まらせながら何度も目元を拭っていた。

 短剣も取り落として、湿っぽい涙の息で肩を震わせている。


「え、あ……どうすれば……わたし……ど、ど、どうしよう…………」


 ニーナが泣きながらか細い声でそう言った。

 気弱だった頃の彼女の記憶が蘇る。

 すっかり強くなったと思いこんでいたが、今でも本当はそうだったのだ。

 だから敵のことやリリアナの怪我のこと、自分や他の仲間も死ぬかもしれないことを思って、追い詰められて強く振る舞えなくなってしまったのかもしれない。


「…………」


 俺は愕然がくぜんとする。

 ニーナがこうなってしまってはもうリリアナは助からない。

 腕はともかく腹の傷は治癒魔術がないと助けられない。

 他に高等な治癒魔術を使える仲間はいない。

 リリアナが死んでしまう。


 ……いや、そうじゃない。


「そうだ、ウォルター……」


 俺は声を漏らす。

 実は、ニーナよりも誰よりもウォルターが一番治癒魔術を使いこなす。

 なぜならあいつの『光』の基礎ルーンへの適性は異常なまでに高いからだ。

 魔力が少ないから使う機会はあまりなかったが、彼ならリリアナを助けてやれる。


「ウォルター!!」


 呼びかけた。

 そして剣を持って走り出す。

 あいつが治療している間、俺が中位魔獣を止めなければならない。

 恐怖はもう微塵も感じない。

 リリアナの傷は一刻を争う。

 怖いなんて考えるような余裕がもうなかった。


「リュート」


 ディティスと斬り結んでいたウォルターがこちらに目を向ける。

 彼は、ヒギリの援護で中位魔獣たちになぶられていたのかもしれない。

 すでに何箇所なんかしょかの負傷を見て取れた。

 無敵のはずのウォルターがボロボロになっている。


 俺がリリアナの傷にだけ気を取られていたせいで、彼に負担をかけてしまったのだと今さら気がついた。


「リリアナを助けてほしい!」


 だが今は罪悪感に浸る暇はない。

 言うべきことを言うと、彼ははっとした表情を浮かべた。

 そしてちらりと後方に視線をやったあと、俺の目を見て頷いた。


「……わかった! ここを頼む」


 あいつはディティスの猛攻をかわし、明らかに焦った様子で敵の足へと反撃を繰り出す。

 すると盛大に泥を跳ねさせながら巨体が転んだが、ウォルターの右肩からも血が流れ出た。

 しかしそれすら気にも留めずリリアナの方に走っていく。

 その隙に、俺は入れ替わるようにディティスの前に立ちはだかった。

 剣を構えて敵を強く睨みつける。


「…………」


 すでにオークも集まってきているし、ヒギリの相手もしなければならない。

 普通は無理だ。

 だから俺は生き残るより、時間を稼ぐ方法を考えなければならない。

 そう思っていたところで、後ろから駆けてくるクランツくんの声を聞いた。


「おい、相手するのはいい。でも逃げながらだぞ! 俺とクリフでヒギリと雑魚を止める!! お前はディティスを頼む!」

「……逃げる?」


 思わず聞き返す。

 逃げるも何も、背後は氷の壁だ。

 囮が時間を稼がないともう逃げられない。


 しかしそんな疑問をわかっているかのように、クリフがすぐに言葉を重ねる。


「さっきの魔法で壁がかなり壊れた! ニーナが今残りも爆破してる! すぐ道ができる!」

「……そっか」


 ばらまかれた魔法の刃で壁も壊れていたのか。

 俺はその可能性に気が付かなかった。


 頭に血がのぼっていたのだ。

 思いつめて、もうこの場で死ぬつもりでいた。

 すっかり思考がせばまって、逃げることを考えるのすら忘れていた。

 ……俺も、生き残らなくてはならない。

 リリアナもウォルターも、他のみんなも先生たちも俺が死んだらきっと悲しむ。

 生き残る可能性を諦めてはいけない。

 俺だって別に死にたいわけではないのだ。


「…………わかったよ」


 震える涙声で答えた。

 クランツくんとクリフが来てくれたことが嬉しくて、頼もしくて、今度は気が緩んで泣きそうになった。

 俺の仲間は頼りになる。

 だが今はなんとか涙をこらえた。


『みんなを守ってあげてね』


 シーナ先生の言葉を思い出す。

 俺はリリアナを死なせない。

 力及ばず倒れたとしても、絶対にあいつを助けてみせる。


「…………」


 覚悟を決めて、起き上がりつつあるディティスに殺意の視線を向ける。

 そして『火』のメダルを取り出すと、俺は戦うために魔術を仕込み始める。


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