五十話・下位魔獣殲滅戦
交戦を前に、俺は昨日の作戦会議を思い出す。
あれは曇りの空の暗い昼過ぎのことだった。
使っていた監視ポイントの小さな高台の地べたに集まって、座り込んだ俺たちはみんなで話し合った。
そしてリリアナはまずこう言ったのだ。
「最初に言っておくけど、わたしたちはみんな強い。普通にやったら負けるのはありえない」
俺は少しその言葉に驚く。
最初にこんなことを言う意図が分からなかった。
だが先の話を聞けば分かるはずだと思ったので、口を挟まずに続きを聞く。
「……シーナ先生から聞いたんだけどね。ふつうの兵隊さんの戦術とか何人で魔獣十体を倒すのかとか……色々詳しく確認してそれは納得した。ちゃんと強いと思う。今回も基本は負けない」
まだ話の核には触れている感じはしない。
だけど俺にはちょっと何を言いたいのかが見えてきた。
彼女は普通なら負けないと繰り返し言っている。
だから要は普通じゃない場合、敗北するケースについて話したいのだろう。
「でもね、初めてだから……。恐怖と緊張で半分も力が出せないかもって先生が言ってた。負けるとしたらそのときだとも」
「最初だからなんだよ。俺はビビらねぇぞ」
眉をひそめてクリフが言った。
彼は魔獣を憎んでいるから、緊張はともかく恐怖で負けるなんて言わたことが気に障ったのかもしれない。
「そうかもね。でも、敗因が絞れてるなら万全の対策をしていったほうがいい」
こういう時のリリアナの話し方は、普段よりちょっと淡々としていて賢く感じる。
その雰囲気に少し気圧されたようにクリフが黙った。
彼女はさらに話の続きを語り始めた。
「だから先生と一緒に考えたんだよ。仕留める時は背中を狙えばいいんだって」
「どういうこと?」
背中を狙う、という発言の意図を俺は尋ねた。
それに彼女が答える。
商売のアイデアを考え付いた時に似た、自信を含む表情だった。
「つまりね。背中からいけば怖くないし、あんまり緊張もしないでしょ?」
「たしかに、そうかもしれないけど……」
同意しつつも、やはり俺はまだ飲み込めなかった。
もし敵が孤立しているのなら、背面攻撃は安全で安心なやっつけ方ではある。
でも敵は群れで固まっていて、無防備の背後にたどり着くのは難しい。
仮に一体の背を襲えたとしてもすぐに他の敵に囲まれてミンチにされるからだ。
状況によっては背後を狙うメリットもあるだろうが、そう単純な話でもないような気がするのだが。
「…………」
でもそれをリリアナが分かっていないとは思えなかった。
だから反論はせず、ただ黙って視線で続きを促す。
するとまたすぐに話し始めてくれた。
「まぁでも、背中を狙うのはけっこう難しいよね……」
そんな言葉を皮切りに、背を狙うことの難しさを言い連ねていく。
いわく、敵は群れであるので背後にたどり着くのが難しい。
ハーピィが上空から邪魔をしてくるので背後をとっても気を抜けない。
味方ごと強酸を浴びせてくるヒュドラの不意打ちを避けるためにも乱戦は避けたい。なので敵の群れの中に入っていくのはかなりイヤだ。
他にも色々、問題はたくさんだった。
だが一通り言ったところでリリアナは力強く頷いてみせる。
「でも大丈夫。ちゃんと作戦があるから」
「どんな作戦だよ?」
クランツくんが眉をひそめて尋ねる。
なぜだか少し胡散臭そうにしているように見えた。
いまいち信用してないのだろうか?
「雨を使って分断するの」
彼女はそう答えた。
俺はよくわからなくて首を傾げていた。
―――
頭の中で作戦会議の内容を思い返したところで、俺は改めて敵に向き合う。
仕掛けるまで秒読みといったところか。
偶発的な遭遇に備えて唱えていた壁や杭の魔術はキャンセルして、俺たちは改めて準備を始める。
「作戦どおりに始めるよ。まずはヒュドラを脱落させる。クリフ、いい?」
すでに準備は済ませたのだろう。
落ち着いた声で彼が答えた。
「ああ」
返事をすると同時に杖を構える。
それを確認してリリアナが弓を引いた。
狙いは、翼を畳んでオークの行列のそばを歩くハーピィだ。
さらに使うのは魔術の触媒の矢である。
この矢は魔道具の加工は施していないものの、矢じりに『剣』と『雷』のルーンをあらかじめ重ねて刻んであるので大幅に詠唱を省略できる。
「……これ、当たらなくていいやつだから」
外したときの予防線だろうか。
ガチガチに緊張した顔で矢をつがえ、小さな声でつぶやいた。
「…………」
かなり真剣な状況のはずなのだが、そんなことを言ってくるものだから少し困惑した。
いや、いくらかみんなの緊張も緩んだ気がするからそっちが目的なのだろう。
多分……。
そんなことを思っていると、リリアナの雷の矢が放たれた。
真っ直ぐに飛んでハーピィの胸部を焼き貫く。
「命中。ハーピィ一体撃破。残り六体」
どうやら当たったらしい。
少しほっとしような声で報告した。
そしてそれからすぐに標的の群れに動きがあった。
「――――!!!」
群れの他のハーピィが甲高い叫びを上げる。
獣のものでも人間のものでもないただただおぞましい叫びだ。
他に類を見ないほど不吉な声なので、聞いていると活力が失われるような気がする。
「来るよ……。気をつけて。準備してね」
声を低くしてリリアナが言った。
彼女も警戒しているように、この叫びはただ不愉快なだけではない。
周囲の魔獣に警戒を促し、襲撃者の情報をいくらか伝える役割があるのだと言われている。
この話に確証はないが、兵士の間の経験則でもこちらの方向くらいはバレるとされていた。
だから先制攻撃のあと、叫びによって即座に敵がこちらに来ることも作戦の前提には含まれている。
要はハーピィを射ることで敵をひきつけたのだ。
「みんな後退して。なるべく引きつけてから動く」
「わかりました」
それぞれでリリアナに返事をした。
さらに指示どおりに移動を開始する。
「来た」
叫びの効果の真偽はともかく、果たして魔獣の群れは俺たちを捕捉したようだった。
群れは進行を止めてこちらに振り向き、無機質な殺意と共に突き進んでくる。
濡れた地面をめちゃくちゃに踏み荒らしながら、オークを先頭に凄まじい勢いで距離を縮めていた。
やつらは俺たちよりずいぶん足が早い。
「そろそろやって。済んだらまだ下がる」
敵がある程度近くに来たところでリリアナが指示を出した。
それに反応してクリフが地面を広く凍らせる。
すると少ししてオークたちが氷を踏むが、大半は進行を阻まれることなく突き進んでくる。
一部は足を滑らせて転んだが、数秒後には立ち上がってまた走り始めた。
しかしあくまで遅延の標的はヒュドラだ。
振り返って成功を確認し、リリアナは小さくうなずく。
「うん、よさそう。……もう少し進んだら次の合図を出す。そしたらまたクリフお願いね。クランツも」
「了解。しかし、ほんとに進めなくなってるな」
クランツくんが感心したようにつぶやいた。
その言葉通り、ヒュドラはもうすばしこく動くことはできない。
なぜならやつらはヘビなので、雨に濡れた氷……つまり摩擦がほぼない地面では移動が阻害されるからだ。
這って移動する以上、この氷の上では大幅に速度が落ちる。
氷を張ろうが強靭な脚力で踏み抜いて突破してくるオークとは違う。
虚しくのたうつヒュドラは氷に足を取られて……いや、足はないか。
とにかく大幅に遅れを取る結果になった。
「うまくいってるよ。怖いけど慌てないで。ちゃんと合図を待ってね」
リリアナが言い聞かせるように言った。
俺は走るのに必死で表情まで見る余裕はなかった。
ヒュドラとの分断をさらに確かなものにするために、俺たちはさらに後退し続ける。
少ししてオークが追いついてきそうになった頃合いで、彼女はようやく次の指示を出した。
「今、お願い。クリフから」
「わかってる!」
リリアナの声に荒っぽく返事をする。
そして声と同時、彼が一人で立ち止まって杖を構えた。
すると魔術により、彼の正面前方に高い氷の壁が生成される。
広域の壁は道を完全に塞ぐが、一方で厚さは少し足りない。
大人の身長の倍と半分くらいの高さの防壁は、十センチ程度しか厚みがない。
おそらくオークの怪力の前には簡単に砕けるだろう。
進行を阻むのには心もとなかった。
「クランツが交代。そのまま壁を維持して。クリフは戻ってまた準備! ウォルターは壁のそばで護衛について」
流石に焦りが出てきたのか、リリアナの声はちょっとうわずった様子だった。
ここからは敵を仕留めにかかるので、本格的に危険になってくる。
一つのミスが誰かの死に繋がりかねないと分かっているのだ。
だがそんな張り詰めた声に、クランツくんはいつも通り陽気に答える。
「わかった。そっちもしっかり頼むぞ」
みんな余裕がないから誰も答えない。
しかし彼も別に答えを待つでもなく、自分の仕事に取りかかった。
「『構造強化』」
彼は盾に刻まれた土のルーン、武具の触媒を使って『構造強化』を発動した。
これにより氷の壁は金属並みの硬度を得る。
魔術で作ったとはいえ、ただの氷ならオークを止められない。
しかしクランツくんが手を打ったことで、一時的に猛攻を凌げる堅牢な壁になった。
とはいってもヒュドラなら酸で溶かすことができただろう。
山を経由して壁を迂回したかもしれない。
けれどオークにはどちらも無理だ。
なので壁は突破できないだろうが、一応彼の横にはウォルターがついている。
いざという時の護りになってくれる。
「リリアナ、こっちは二分くらいはもたせられる。お前も気をつけろよ!」
クランツくんがそう言った。
補強しているとはいえ、オークの攻撃によりかすかな損傷が蓄積し続ける。
だから短い時間しかもたない。
リリアナが激励を返した。
「わかった! クランツ頑張って!」
それに答えは返らなかった。
次のタイミングで『構造強化』を使うために、すでに詠唱に入っているからだろう。
「大丈夫かな……」
氷一枚を隔ててオークに対面するクランツくんが心配だった。
だからつい状況を忘れて彼の背中に気をとられた。
しかしクリフの声で現実に引き戻される。
高揚と殺気と不安がないまぜになったような、低く抑えた声だった。
「おい、リリアナ。タイミングは任せていいんだよな?」
「うん。合わせられるようにしておいてね」
対するリリアナは沈着な声で答えた。
少しずつ状況に適応しつつあるのだろう。
いつもの余裕を取り戻しかけている。
「…………」
彼女は黙ったまま壁の向こうに視線を向けている。
敵が来るのを待っているのだ。
そしてこの敵とはハーピィのことだ。
なぜならいま、ヒュドラが脱落し、オークが壁にせき止められているからだ。
壁を飛び越えられるハーピィだけが俺たちのもとにたどり着ける。
そして、リリアナはまずハーピィを孤立させるために布石を打ってきたのだ。
だから彼女はじっと黙って雨の向こうに耳を澄ましていた。
やがて十秒ほど待った頃、ついに口を開く。
「来た。みんな集まって」
来たと、彼女が言った。
数秒遅れて俺にも羽音が聞こえた。
そして少しすると、果たして壁の上をハーピィが通過した。
不吉な声とともにバラバラに飛び交っている。
奴らを前に、まずはクリフが魔術を発動する。
「『氷嵐』」
魔術が発動する。
俺たちを取り囲むように氷の嵐が吹き荒れた。
すると飛びかかってきた標的全てに凍結の風が直撃する。
それによって、数体のハーピィが飛行不能になって叫びながら地に落ちる。
「――――ッ!」
雨に晒された羽に氷が張り、上手く羽ばたいて風に乗ることができなくなったのだろう。
コントロールを失って地面に突っ込む敵を尻目に、なんとか落ちずに済んだハーピィをリリアナが完璧に捕捉する。
「残存二体。方向は八時と十時」
その言葉と同時、吹雪の中から現れた二体のハーピィの喉に一瞬で投げナイフが突き立つ。
ニーナのしわざだ。
接近されてしまったが、逆にこの距離なら彼女が外すことはない。
投擲で即座に双方の急所を貫き、最後の息で飛びかかってきた片方も山刀の早業でまたたく間に仕留めた。
「あとはオークだけ……」
刃物の血を払い、納刀しつつニーナが呟いた。
ハーピィの爪の襲撃をかわし、すれ違いざまに一太刀を入れたのに返り血すら浴びてはいない。
だが身のこなしの鮮やかさとは裏腹に、表情も声も緊張に固まり顔色はわずかに青ざめている。
平静を装ってはいるが、かなり参っているように見えた。
「…………」
なんとか励まそうと思ったが、うまい言葉が思いつかない。
しかしいつまでも考え込むわけにもいかないので、俺はクリフとともに次の仕事に向かう。
落ちたハーピィにとどめを刺さなければならない。
「……やっぱり、人に似てるよな」
俺はつぶやいた。
よく言われることだが、ハーピィは人間に似ている。
人間の女の餓死死体のような気味悪い姿に、カラスの翼が背についている。
さらに同じくカラスの下半身をこねあわせたような姿だ。
なので斬る時には少し罪悪感が湧く。
あまり何も考えないようにして、立ち上がろうとしていた一体を殺した。
それから翼が折れたもう一体に近づく。
でも弱りきり、顔を歪ませてもがく姿を見ると思わず手が止まる。
「…………」
躊躇いというほどのことではなかった。
今までだって何度か殺したことがある。
だからすぐに剣を振り下ろそうとしたが、その前に横からクリフがハーピィの右手を斬り落とした。
「あっ……」
俺が声を上げる間に、手を落とし目を斬りつけ首を切断する。
一連の動作は淀みなく行われた。
危なげない一瞬の殺害だった。
「……なにしてる。かわいそうとか思ってないよな?」
「ま、まさか……」
キツい口調だったのでオークを殺さなかったことで意地悪をされたことを少しだけ思い出した。
そして彼も同じことを連想したのかもしれない。
気まずそうに咳払いをして目をそらし、ハーピィの亡骸につばを吐いて歩き始める。
「行こうぜ。さっさと残りも殺そう」
「うん」
早足に戻ると、リリアナはもう俺たちを待っていたようだ。
ある程度近くに戻るとすぐに話し始める。
「次の作戦に移ろう。銀貨、ウォルターと合流して。すぐね」
「わかったよ」
返事のあと、俺は足早に壁のもとまで向かった。
氷の壁はもう破壊寸前……というわけでもなさそうだった。
かなり余裕を持ってハーピィを始末できたからだ。
「力よ、武器に宿り、留まって……」
魔術を仕込みながら移動する。
そしてちょうど壁のそばに来た頃詠唱を終えた。
準備ができたから俺はウォルターに視線を向ける。
「俺はもうできる」
アイコンタクトで意図は伝わったらしい。
彼の方も準備はいいと言ってきた。
抜き身の大剣を楽に構えて、どうやらいつでもいいようだ。
「じゃあお願いね。せーので振り下ろすのよ」
リリアナがそう言った。
彼女の指示に従って行動を起こすことにする。
まずは魔術を発動させ、いつでも斬りかかれるように剣を構えた。
「『炎剣』」
ちゃんと使えた。
剣が燃えている。
この魔術も、今の俺の魔力ならしばらくはもつ。
余裕を持ってリリアナの合図を待っていると、背後から彼女の声がかかった。
「行くよ。せー……のっ」
ちょっと溜めた『の』のタイミングで俺は壁に剣を振り下ろした。
ウォルターも多分そうしただろう。
すると氷の壁に二つの切れ目が入ることになった。
ただでさえ薄い壁なので、両方切れ目の間を蹴り飛ばせば立てた板のように氷が倒れる。
それにより氷の壁の一部が消えて、壁に誂えられた入り口のようになった。
「配置について。急いでね」
リリアナが次の指示を出した。
俺たちはそれに従い配置を変える。
クランツくんは少し離れて壁の穴の正面に。
ウォルターと俺がそのまま壁の左右についた。
さらにリリアナとクリフがクランツくんの後ろで援護を担い、ニーナが俺の隣で待機する。
ちなみに黒フードの少女は、気配を消して最初からずっとリリアナのそばにいた。
「よし。そのまま待機ね」
これは壁の隙間を通って入ってくる敵への備えの陣形だ。
ハーピィを殺した時点で、壁の耐久と『構造強化』の効果時間に余裕がある場合の作戦だった。
壁を切断し、穴を開けて、そこから少しずつこの場所に通していく。
来た敵を一体ずつ始末するのだ。
そしてさっそく壁の隙間の前に来た敵に、リリアナが弓を引いて狙いを合わせる。
抜け目なく、事前にオークの頭の高さに狙いを合わせていたので正確で素早い射撃だ。
「命中」
頭部を矢がえぐった。
しょせん子供の矢なのでオークの強靭な骨格を貫通することはできなかったが、頭部に刺さり悲鳴をあげさせた。
殺害には至っていないものの、怒り狂ったオークが雄叫びとともに突っ込んでくるのがわかる。
リリアナの前についたクランツくんが盾の構えを取った。
「今だ」
ウォルターが言う。
言葉と同時、壁を抜けて猛進するオークが視界に入った。
横で待機していた俺は、とっさに炎の剣をオークの足に当てる。
さらにウォルターの一撃も腹に入ったが、オークはまだ死んでいない。
とはいえ見るからに速度を落とした敵の背に飛びつき、ニーナが首を断ってとどめを刺す。
さらにもう一体来ていたオークをリリアナの矢が止め、今度はウォルターが背後からばっさりと斬り捨てる。
ニーナが俺の隣に戻り、山刀を手に深呼吸をした。
彼女は俺たちが仕留め損なった時にだけ動く。
「そうだ。クリフ、魔力はどれくらい残ってる?」
リリアナが問いを投げた。
それにクリフが短く答える。
「『杭』なら八発。『矢』なら十三」
「わかった。まだまだ働けそうね」
俺たちは魔力が切れるまで何度も魔術を使うことで、自分の魔力量の感覚とよく使う魔術の消費を把握している。
よって『杭』を何回使えるか、というような会話で互いの余力も理解できる。
彼はそれなりに魔術を使ったので余力が心配だったが、リリアナの言う通りまだやれそうだ。
「ごめん、外した」
と、そこでリリアナが矢を外す。
だがミスはクリフがカバーしてくれた。
仕込んでいた氷の矢で、オークの首を貫いて即死させる。
入り口の洗礼は矢と魔術の二段重ねだ。
「……やった。追撃もいらない。次に備えろ」
もはや壁の前にはオークの死体が折り重なっている。
すでに五体か。
血を噴き出して倒れるオークを見ながら、俺はふと疑問に思う。
俺たちはもう少し、楽をして倒すことができたのではないだろうかと。
「…………」
またたく間に七体。
オークたちは絶え間なく来ては死んでいく。
上手く事が運んでいるが、俺は少し今の状況に違和感を感じた。
上手く行き過ぎている、というような不安ではない。
リリアナが必要以上に消耗を恐れている気がしたのだ。
たとえば、みんなで順番に『杭』の魔術を使うような戦術ならば近づく必要すらなかった。
クリフだけでも残り八発も『杭』を使えるし、ウォルター以外の全員で使ってもいい。
分断し、ハーピィを倒すところまではいいが、そこからは魔術を乱発する戦術に変えても安全だった気がする。
それを、なにもここまで最低限の力で手堅くやる必要はあったのだろうか?
俺はそんな疑問を抱いた。
だがそんなな考えはすぐに振り払う。
リリアナはいつか戦場で戦うことを意識して温存に努めているのだろう。
思いがけず余裕が出すぎたせいか、変なことを考えてしまった。
「残り九体。あっという間に半分ね……」
リリアナの声だ。
また一体死んだ。
俺とウォルターが殺しきれなかった敵を、ニーナが確実に殺した。
かなり順調だが、そろそろ壁がだめになるだろうか。
次の段階に移るべきかもしれない。
そう考えつつリリアナに視線を向けると、彼女も頷いた。
「集合して。次に移る」
ちなみに今は三段階目だ。
まずヒュドラを引きはがし、ハーピィを撃墜する。
これが一段階と二段階。
次にオークを始末するのが三つ目の段階。
だからこれから本格的にオークを殲滅し終えたら、次の四段階目に入る。
つまり、追いついてきたヒュドラを始末する。
それで仕上げだ。
「『氷杭』」
示し合わせておいたクリフが、氷の杭を突き刺して簡易的に壁の入り口を塞ぐ。
壁の破壊にどれだけ時間がかかるかはわからないが、これで陣形を改める時間は稼げるだろう。
死屍累々のオークの死体を越えて、俺たちは急いでリリアナのもとへと集まる。
「……ん? 待って」
そこで不意にあいつが声を上げた。
でも俺にはなにか異変があったようには思えない。
彼女は何かを感じたようだが、俺たちにはわからない。
なのにうろたえた様子で頬を引つらせた。
「ちょっと怪しくなってきた。……逃げる?」
その言葉にクリフが声を荒立てる。
実際リリアナは突拍子のないことを言っているが、どちらかというと魔獣を見逃すのが嫌で食ってかかっているように見えた。
「逃げるってなんだよ。ふざけてんのか」
クリフの剣幕にリリアナが怯んだ。
だがそのクリフの尻をニーナが鋭く蹴り飛ばす。
そして冷たい声で言い聞かせた。
「兄さん、一度で仕留めなければならないという決まりはありませんよ。言うこと聞きなさい」
「て、テメェ……」
蹴られて少しは頭が冷えたのだろう。
不服そうではあるが話を聞く姿勢を見せた。
それにあいまいに笑って、リリアナが話を再開する。
「いやね、なんかヤな予感がしてね……」
「やな予感って……お前は……」
「でも、ほら、霧も出てるし……」
まさかの理由だったので流石になにも言えなかった。
だが続く霧が出ているという言葉で、俺はようやく不審に気がついた。
きっと最初は足元から。
だんだん高く、先ほどから少しずつ、多分ずっと霧が濃くなり続けている。
低いうちは、降りしきる雨の霧と混ざってわからなかったのだ。
「霧?」
クリフが不可解そうにつぶやいた。
雨の霧ではない。
そうこうしている内に、もう腰のあたりまで来ている。
そして急激に広がってあっという間に視界を塞いだ。
「……撤退しよう」
クランツくんが言った。
慎重な彼のことだ、この状況なら異論はないのだろう。
そして副隊長も同意した時点で、逃げるのは決定事項になった。
だが肝心の逃走が、この濃霧の中ではなかなか難しい。
「銀貨、風の魔術使える?」
「あ、うん……杖を貸してもらえるなら」
言いつつクリフに杖を借りる。
そして風の嵐の魔術を使うことにする。
周囲だけでも霧を晴らしたい。
「…………」
ふと黒フードの少女の方を見ると目が合った。
気配を殺して黒い影のように俺たちのそばに立っていた。
彼女は何も言わず、俺の目から視線をそらした。
「……だめだ」
ため息を吐く。
魔術の嵐でも視界は晴れない。
俺の言葉を受けて、リリアナは苦々しくうなずいてみせる。
「わかった。ありがとう。みんな、このまま待つけど警戒を怠らないで」
今のところオークはこちらに来ている気配がない。
でも何があるかわからないので、全員で背中合わせに周囲を警戒する。
そうして霧が晴れるのを待っていると、近くでなにか重いものが落ちるような音がした。
リリアナが音の方向に振り向く。
そして動転した様子で指示を出した。
「クランツ、五時の方向に盾を。『障壁』の魔術を使う」
「わかった」
迅速に指示に従って魔術を展開した。
異変はない。
壁には雨が打ち付けているだけだ。
「…………」
だが唐突に寒気がした瞬間、クランツくんの壁になにかおそろしい速度の物体が衝突する。
空気の壁に追突したなにかは、それでも止まることなく切削の音と共に壁を削っている。
「なんだよこれ……魔術じゃねぇか……!」
必死に壁を維持しながら、クランツくんが苦しい息でそう言った。
やがて凄まじい威力の魔術……らしきものは砕け散るような残響を伴って消えたようだ。
だがそれと同時にクランツくんは大きく体勢を崩す。
なんとか受けきったが、この様子だと次は無理だろう。
「クランツくん……」
名前を呼んだが、かける言葉は見つからなかった。
俺だって錯乱しそうなのを抑えるのがやっとだったのだ。
さっきから何故か寒気がするのも薄気味悪いし、なにもかも予想外でどうすればいいのかわからない。
意見を聞きたくてリリアナの方を見ると、青ざめた顔の彼女はかすかに震える声で小さく呟いた。
「魔術じゃない……」
多分、あれは魔法よ。
リリアナがそう言った時、ようやく霧が晴れ始める。
急激に濃くなったのと同じように、消える時も不自然なくらいに早かった。
みるみる内に薄まって、霧の向こうの景色が露わになった瞬間。
俺はようやく寒気の原因を悟った。
単純に周囲の気温が下げられていたのだ。
「なんで、あんなのが……」
ニーナの放心したような声が聞こえた。
目に入ったのは氷の怪物だった。
ベースはオークと同じに見えるが、明らかに違う存在だ。
全身に鎧のように氷を纏い、通常のオークよりふたまわりは体が大きい。
周囲に冷気を撒き散らし、足元にも薄く氷が張るほどの強大な氷の魔法。
そしてなにより体のあちこちからのぞく寄生体の触手。
見るのは初めてだが間違いない。
あれは氷の中位魔獣だ。
凍てついた大鉈を手に、血走った目で俺たちを見ている。
「この場は逃げる。後のことは逃げてから考えよう」
冷静を装うようにリリアナが言った。
声には隠しきれない動揺が滲んでいた。
そして俺たちも……ディティスと分類される中位魔獣、その圧倒的な存在感を前に誰も声を出せなかった。
沈黙の中で、彼女が最後の言葉を重ねる。
「全員生き残ることだけ考えてね。ここからは……撤退戦になる」




