四十九話・作戦開始
谷に入った日は、結局なにもせずにただ雨を待った。
しかし願いは通じず日が明けて、今は二日目の昼である。
俺たちはずっと、二時間に一度くらい山伝いに移動しながら魔獣の監視を続けていた。
でも魔獣たちが道を通る以上はおおよそのルートは予想できているし、夜はやつらもあまり動かなくなる。
だから見張るのもやれないことはなくて、群れの数や編成に変動がないかを見るくらいしか注意事項はなかった。
移動以外は大体がこんな様子なので、事前に覚悟していたよりはずっと穏やかに時間が流れていた。
そして俺は現在の拠点にしている洞窟で休憩していて、同じく隣で休んでいたリリアナに声をかける。
「なぁ、これ……ほんとに今日降るの?」
すると、休みつつも弓の手入れをしていた彼女は顔を上げた。
それから、やけに自信満々な様子で言い切ってくる。
「降る降る! ほんとに降るよ」
「そっかー……」
まぁ、こんなに言うんだから間違いないのだろう。
天候の見方も俺より詳しいだろうし、というか俺の見立てでもそろそろ雨が来そうな気はしていた。
雲の感じとか……日暈の様子を見るにそんな気はする。
でも魔獣が谷を抜けるまでに間に合うかが心配だったのだ。
けれどそんな俺の懸念を読んだかのように、彼女は力強くうなずいてみせる。
「間に合うよ。大丈夫。もし間に合わなそうだったら……他の作戦に変えるし」
「へぇ。やっぱリリアナはえらいね」
予想が外れた場合もケアしているのは素晴らしいと思った。
だからそう言って褒めたたえると、あいつは嬉しそうに微笑んだ。
「うん。一番偉いよ」
彼女にはこうして自信満々に言い切る時がたまにある。
そしてこういった予想は基本的に外れたことがない。
しかし何故か根拠を聞くとはぐらかすので、謎の自信の理由は誰も知らない。
俺たちの間でもなにをもって断言するのかは長い間議論されていたが、本人が口を割らないので不明のままだ。
誰かが金を払えば言うと思うのだが……みんな無料で知りたがっている。
「でもね、ほんとにそろそろ降るかもしれないから。心の準備をしといてよね」
「わかったよ」
つい偉いと口を滑らせたせいか、ちょっと偉そうにそんなことを言ってくる。
俺は返事をして、言われた通り気持ちを落ち着けることにした。
ちゃんとした実戦は初めてなので、とにかく自分がすべきことを確認して反復して頭に刻み込むようにした。
焦らないためにそうするのがいいと先生に聞いている。
「…………」
そうしてしばらく待っていると、不意にかすかな雨音が聞こえた気がした。
まさか予言の通り降ってきたのだろうか。
訝しんでいると、不意にリリアナが顔を上げる。
「あっ」
彼女にも聞こえたのだろう。
小さく声を漏らした。
だから俺も確かめるために耳を澄ましてみると、やはり雨が木の葉や地面を叩く音が聞こえた。
これは間違いないだろう。
「降ったよ、リリアナ」
俺が驚きつつそう言うと、同じくこちらを見ていた彼女は頷いた。
喜んでいるかと思ったが、存外にこわばった表情だった。
緊張しているのかもしれない。
「うん……じゃあ、行く準備しないとね」
ちょっと憂いを含んだ口調でそう言ったあと、リリアナは立って歩き始める。
雨が降ったら監視地点に集まる手はずだ。
そしてそのまま攻撃に移るというのを事前に決めていた。
だから雨の中で山道を歩いていくのだが、雨が体を濡らすのにリリアナがいやそうな声を上げた。
「うぅ……濡れる……」
「仕方ないよ」
俺は彼女にそう声をかける。
普通は兵士に雨具はない。
行軍が長い場合、寒い場所への遠征の場合は与えられる場合もあるが、濡れっぱなしで戦うのが普通である。
基本的に身につけるものは効果が薄いし、戦えば破れるし、傘やらは手が塞がるのであまり良くない。
さらに言うと全員に雨具を与えるくらいなら、まとめて馬車にでも詰め込んでしまうのが早い。
なので常に世話係がつくくらい偉い人たち以外は雨避けをしないのだ。
「でもなんかキモチわるい……」
「じゃあ俺の上着使っていいよ」
まだ雨足も弱い。
そこまで服も濡れていないだろうし、分厚い血よけの外套を身につければ下着までは濡れずにいられる。
そう思って言ったのだが、彼女は俺の申し出を断った。
「いいよ。どうせあとで濡れるし……銀貨が着てなよ」
そう言って、あいつはちょっと優しい感じで俺の肩を叩く。
するとなんだかありがたいことをしてもらったような気がして、思わず感謝の言葉を口走ってしまう。
「ありがとう」
「いいよ!」
お礼を言って、二秒くらい経って別に感謝することはなかったかもしれないと思い当たる。
元々は俺の上着だ。
でもリリアナが少しごきげんになったから、言って損はなかったかもしれない。
そんなことを考えつつ歩いていると、やがて監視視点にたどり着く。
そこは山腹の一画にあったとある高台だ。
木々が途切れている上にいい具合に見晴らしがいいので、谷道を歩む魔獣の動向は筒抜けだった。
そして今はこの場所にあの黒ローブの少女を加えた部隊のみんなが集まっている。
二人一組に分けて行動していたのだが、雨が降ったら移動のために集合すると決めていたのだ。
見張りの当番の組だけはあの少女と三人でずっとここにいたのだが。
「みんな集まってるね」
リリアナが声をかける。
するとクランツくんが言葉を返した。
「ああ。そろそろ行くのか?」
彼は出発にあたってバラしていた鎧を身に着けなければならない。
準備に時間を取るからまず聞いたのだろうが、リリアナは首を横に振る。
「もう少し待つ。敵が十分濡れるまで」
「わかった」
クランツくんが頷くのを横目に俺は考える。
このまま全員濡れて待つのだろうかと。
雨もだんだん強くなってきているし、今は暑い時期とはいえ少しこたえる……。
「…………」
誰も口には出さないがみんな思っているのだろう。
自然とリリアナに視線が集まるが、彼女は難しそうに眉を寄せて首を横に振る。
「我慢よ。わかった?」
「はい」
それぞれに返事をする。
異論はなかった。
この場を離れたら魔獣を捕捉できなくなるので仕方ない。
そう思いつつ俺はちらりと崖の下に視線を向ける。
離れた谷道に目を凝らすと、魔獣たちが歩いているのが目に見えた。
あれを見失わないようにしないといけない。
「……そろそろかな」
またしばらく待ったあとリリアナがそう言った。
みんな彼女に視線を向ける。
次の言葉を待っていると、あいつは深く頷いてみせる。
「行こう。準備して。攻撃する」
その言葉を皮切りに全員が準備のために動き始めた。
馬の荷物からそれぞれの必要なものを取り出す。
そしてクランツくんがバラしていた鎧を組み立てて身につけ始めた。
クリフは鎧の装着を手伝い、リリアナは使う矢を確認してウォルターは拠点に馬を繋ぎに行く。
そんなふうに各々で準備を済ませたあと、俺たちはようやく出発に至った。
魔獣の現在地と進む道を確認して下山を開始する。
今やそこそこ雨は激しいので、足を滑らせないように注意する必要があった。
ふと後ろを見ると、黒ローブの少女は俺たちから少し離れてついてきていた。
彼女は戦闘には一切参加しないことで合意できている。
あと、もし危険が迫れば俺たちを置いて逃げてくれていいとも伝えていた。
「作戦、分かってるよね。質問はない? 最後の確認よ」
緩やかな山道を下りながら、先頭を歩くリリアナがそう言つ。
だが誰も質問は返さなかった。
一日も時間があったのだから、もう十分に意思疎通はできている。
「ないよ」
代弁するつもりで俺がそう言うと、リリアナは一度振り向いて頷いた。
「わかった。じゃあ今からはわたし以外は勝手に喋らないでね」
そうでないと指示が通りにくくなる。
だから喋るなと言ったのだろう。
もちろん、報告などは別だと思うが。
「…………」
沈黙の中で下山を続ける。
リリアナの足取りは慎重で、山のふもとが近づくと時折立ち止まるようになった。
多分雨の音に紛れてハーピィの羽音がしないか確かめているのだろうと俺は思う。
空からの視線は把握しにくいので、ハーピィに気づかず無用意に近づけば事故が起きかねない。
なので距離を詰めるなら、まず奴らの行動に注意を払うのは必要な警戒だと言える。
そうして歩き続けていると、やがて山道の終わりにたどり着いた。
ここからは谷の一本道で魔獣を追跡することになる。
「武器を使えるようにして。道に降りたら奇襲を仕掛ける」
ぱっと見出てすぐ敵がいるような様子はない。
だが魔獣のすぐそばに出られるようなルートで下山してきた。
だから道に出てすぐに戦闘になる可能性もあるので、俺は剣の柄に手をかける。
かなり緊張してきた。
深呼吸をしようとすると、ちょうどすぐ左で同じように深く息を吐くのが聞こえたので振り向く。
すると胸に手を当てて深呼吸をするニーナが見えた。
「…………」
彼女も緊張しているのかもしれない。
会話することはなかったが、目が合うと深く頷いてくれた。
得物の山刀を抜いて彼女は前を向く。
それにならって俺も剣を抜いた。
そして全員が武器を手にしたのを確認すると、リリアナはさらに指示を付け足す。
「じゃあクリフ、杭の詠唱お願い。銀貨は炎の剣の準備。あとクランツは壁を使えるようにして。最悪出てすぐ使うからね」
「ああ」
三人で返事をして詠唱を開始した。
彼らはこれから詠唱を完了したところで魔術を使わずに待機する。
いつ敵と出会うかは分からないが、二人なら長く詠唱が完了した状態を保てるだろう。
仕込める時に魔術を仕込んで維持するのも、優秀な魔術戦士には必要なことだ。
俺も……彼らほどではないが、長持ちする方だと自負している。
「できた? じゃあ行くよ。わたしが先行するからクランツだけついてきて」
詠唱が済んだのを見計らってリリアナが先行する。
敵の影を探りながら先に彼女が出る。
特に止まるように指示はされなかったのでみんなあとに続く。
そして一本道にたどりついたが、ぱっと見て敵の影は見つけられなかった。
雨の降る道には、ただ強く打ち付ける雨の霧が漂っているだけだ。
「……ここは通り過ぎたみたいね」
周囲に視線を彷徨わせたあと、リリアナがぽつりと言葉を漏らした。
俺にはわからないが、なにか痕跡を見つけたらしい。
そんなことを考えつつ俺は左の袖で顔を拭う。
山を抜けて、今は木々の葉の傘がなくなったので雨足が急に強くなったように感じる。
「追いかけよう。まだそんなに離れてないと思うから」
張り詰めた声で言って彼女は歩き始める。
そうしてゆるやかに曲がった谷の道を進んでいくと、二つほど曲り目を越えたところで先に魔獣の姿が見えた。
雨の先の魔獣たちはとても恐ろしく感じる。
大人よりも大きい姿、生物と死体をこね合わせたような異形を前に、俺は思わず息を呑んだ。
「……いた」
リリアナが呟く。
他のみんなは何も言わない。
多分、勝手にしゃべるなと言われたのを守っているのだろう。
沈黙の中で、詠唱の効果が切れたので俺はこっそり『剣』の魔術を唱え直しておく。
こういう細かいところも次席と筆頭の差なのかもしれないと少し思った。
「オーク十八体、ハーピィ七体、ヒュドラ四体。最後の観測から変化なし」
手早く魔獣を数え上げたあと、リリアナは振り向いて指示を出してくる。
「まだ気づかれてない。先手を取れそうだし、作戦通り仕掛けよう」
「はい」
異論はないので返事をした。
そして俺は事前に聞いた作戦を頭の中で反芻する。
やることを決めて、それだけで頭を埋めて、恐怖や緊張に囚われないようにしたかった。
「みんな……無理はしないでね」
最後にリリアナがそう言った。
顔を見れば、俺たちのことを心配しているのがよくわかる。
俺は何も言わず頷いて、魔獣に立ち向かうための覚悟を決めた。




