四十六話・夜の散歩
気がつくと、俺は孤児院の広場の片隅に立っていた。
あたりは夜で、星と月以外に明かりはない。
涼しくてちょうどいい風が吹いている。
薄く雲がかった月をぼんやり見上げていると、知らない女の人の声が語りかけてきた。
「リュート。久しぶり」
声は背後からだった。
振り向いて声の主に目をやると、少し離れた場所にみすぼらしい服の痩せた女性が立ち尽くしていた。
なにせ暗いので顔はよく見えないが、知らない人だと思ったので俺は頭をかく。
「え……あ、はい」
久しぶり、と言われてもよくわからない。
しかしなぜだか突き放すようなことはしたくなくて、俺はその人に挨拶を返す。
「どうも、お久しぶりです……」
そう言うと女性は笑ったようだった。
それから俺にいろんなことを尋ねてきた。
邪険にしたくはなかったから、俺は一つ一つ丁寧に答えていく。
「ねぇ、リュート。新しいお友だちはできた?」
「友だちは……いっぱいいます。新しいかは、ちょっと分かりませんが」
「勉強も頑張ってる?」
「はい。最近は首積分っていうのを少し習いました」
俺がそう言うと、その人は心配そうに声を落とした。
「……えっと、よくわからないけど、無理してない?」
「全然。面白いですよ」
俺がちょっと笑うと女の人も嬉しそうに笑った。
本当に嬉しそうだった。
「すごいね。立派になったね」
それからしばらく二人で話し込んでいた。
すると段々なぜだか彼女の姿が見覚えがあるような気がしてきた。
一旦そんな気がすると気になってしまって仕方がなくて、俺は思わず話の流れを切って問いを投げてしまう。
「あの……あなたは誰なんですか?」
おそるおそる問いかけると、女の人はなんだか悲しそうに笑った。
それを見て聞くべきではなかったかもしれないと後悔する。
だが俺が言葉を取り消す前に、その人はいつの間にか姿を消してしまった。
まばたきをした瞬間、煙のようにいなくなってしまったのだ。
「…………」
俺は彼女を探してあたりを見回す。
しかし見つけられない。
だがその代わりに、今立っている場所は両親の墓のすぐそばであったということに気がつく。
「あ……」
それでようやく思い出した。
後悔と自責で胸が詰まる。
今の人は俺のお母さんだったのだ。
……俺は母親のことを忘れてしまったのだ。
―――
「っ!」
目が覚めた。
横になって寝せられていた俺は勢いよく身を起こす。
だがその途中で痛烈に弾き返されて、また寝ていた場所に倒れ込んだ。
なにかにぶつかった額が痛い。
「えっ……」
弾き返されたことにびっくりして思わず目を閉じてしまう。
だがそっと目を開けば、夜の天井と驚いた顔のシーナ先生が見えた。
部屋は暗いものの、近くに光源があるらしい。
先生が申し訳なさそうな顔をしているのが見える。
倒れ込んだ感触からしてここはベッドか。
そして俺と目が合うと、シーナ先生はやってしまった……というような顔になった。
「……ごめんなさい。うなされ始めたから、顔を見てたんだけど……」
「はい」
「でも急に飛び起きてきて……ぶつかりそうになって、ガードしちゃった」
申し訳なさそうに眉を下げて先生が言う。
俺はやむをえぬ事情を聞いて深くうなずいた。
「なるほど……」
つまり先生は俺を心配して顔を覗き込んでいた。
だがそこで俺が突然飛び起きたものだから、反射的に軍隊式ガードが決まったというわけだ。
道理で痛かった。
「それは僕が悪いです」
そうだ、これは突然飛び起きた俺が完全に悪い。
百パーセント勢いよく飛び起きた俺の過失だ。
馬車の事故だって飛び出したほうが悪い。
むしろ申し訳ない思いをさせてしまって悪い気がする。
「いや、でも……ごめんなさい。大丈夫?」
そう言って先生は俺の額をさすってきた。
俺は撫ぜる手の甲を軽く叩いて、気にしないでいいのだと言葉を伝える。
「はい。むしろなんか、すみません」
そう言って俺は笑う。
すると先生も手をどけてようやく笑った。
「怖い夢を見ていたの?」
優しい声で問いかけられた。
俺がうなされていたからだろう。
だがよく思い出せなくて、ただ曖昧に笑うことしかできなかった。
「…………」
怖いと言うよりとてもさみしい夢を見ていたような気がする。
でも思い出せない以上なにか言っても心配させるだけなので何も言えなかった。
「……なるほど、覚えてないのね?」
少しの沈黙のあと先生はそう言った。
俺は言い当てられた気まずさに頭をかく。
「実は……そうなんです」
「まぁ、よくあることよ。夢は忘れやすいの」
言葉を交わして俺は改めて身を起こすことにする。
そうしてあたりを見回すと、今寝ている場所が医務室であることをようやく知った。
ちなみに光源の正体は先生がベッドの脇の小さな机に置いたランプだった。
クズ石の魔石でもよく動く、特に便利な魔道具である。
「ねぇ。少し、お散歩に行かない?」
不意に先生がそんな声をかけてきた。
珍しいことだったので少し驚く。
先生が散歩に子どもを誘う、しかも就寝時間後になんて信じがたい。
でもなにか考えあってのことだろうし、俺も散歩は行ってみたいので誘いに乗ることにした。
「はい。行きます」
間髪入れずに答えてベッドから降りた。
勢いよく寝床から抜け出た俺に先生は何かを言おうとした。
だが言葉の代わりに小さな咳払いを一つして、散歩に行くために歩き始めた。
「じゃあ、行きましょう」
穏やかに言って先生は歩いていく。
さっき何を言おうとしたのかは分からないが、もしかしたらお小言かもしれない。
そう思うと何も言われなかったことにほっとしてしまう。
実際小言なのかは分からないが、藪蛇も嫌なので聞かずに雑談することにした。
「あの、先生って嫌いな食べ物とかないんですか?」
「先生は好き嫌いをしません」
「なるほど……」
ちょっと得意げに答えるのが面白かった。
二人で並んで歩きながら、俺は色んなことを尋ねる。
そしてそのまま歩いていると、やがて孤児院の建物の外に出た。
頭上は雲一つない晴れの空で、星と月が眩しいほどに光っている。
夜に散歩なんて、普段ないことだから少しわくわくしてきた。
「先生、どこに行くんですか?」
「さぁ……決めてないわ。どうしましょうね」
そう言って悩むような息を漏らした。
決めていないということは、本当に思いつきで誘ったらしい。
俺にも特に散歩の行き先のあてはないが、思えば先生は前に一人で歩いていた。
そのルートをなぞるのも悪くないかもしれない。
「先生が散歩してる道を歩いてみたいです」
「ああ……そうね。それでいいか」
「はい。痩せるルートなんですよね」
俺がダイエットで歩いていたことを少しからかうと、先生はむせるように咳き込んだ。
そして小さく鼻を鳴らし、どこか恥ずかしさが滲む苦笑いを浮かべた。
「いい? 決して。けっっして、女性のダイエットをからかってはいけないわ」
冗談めかしてはいるもののちらりと本気が垣間見えた。
俺が少し気圧されながらも謝罪を返すと、先生は神妙な顔でうなずいた。
「……すみません」
「分かったならいいのよ」
どうやらこの冗談はまずかった。
俺はちょっと反省して頭をかく。
そうして先生について孤児院の敷地を歩いていると、いつも訓練に使っている広場の前にさしかかった。
見慣れた風景のはずだが、しんとした夜に訪れると別の場所のようだった。
「先生、夜ですね」
なんだか改めて特別なことをしているような気がして嬉しくなってきた。
そして気分が浮ついたせいか、俺はちょっと変なことを口走ってしまう。
すると先生は呆れ半分といった様子で微笑んだ。
「そうね?」
そのまま二人で話しながら進んでいった。
広場には入らず孤児院の建物の周りをぐるりと回るように歩いていく。
でもただ一周するのではなく、時々寄り道をして歩くのが楽しかった。
なぜか厩の裏を通ったりと、先生の散歩コースはどことなく奥深い。
「……懐かしいわね。もうあなたたちが来てずいぶん経つ」
散歩の途中、門の前に来たところで不意に先生は足を止めた。
俺も一緒に立ち止まる。
そして先生が目を細めて呟いた言葉に、散歩の楽しさで忘れていた不安を思い出してしまう。
来てからずいぶん経つということは、巣立つ日も近づいているということだ。
そしていつか俺たちはここを出て兵士にならなければならない。
どこか楽観的に捉えていたその事実は、数日後に死の危険が待つ今では恐ろしいことに思える。
ここを出たらずっと、友だちや自分の死と向き合いながら生きなければならないのだろうか。
「…………」
先生は俺の顔を見て、何も言わずに頭を撫でた。
そして不意に手をつないで歩き始める。
慌てて手を離そうとするが、先生はそうさせてはくれない。
「いいですよ、先生。手なんて……」
「いいから。来なさい」
そう言って連れてこられたのは三人がけくらいの長さのベンチだった。
この孤児院も元は貴族の別荘であったというので、こういった座ったりするような場所はところどころにある。
きっとかつては多くの客人が訪れていたのだろう。
「座って」
「……はい」
言われて先生と一緒に腰掛ける。
隣に座っていても手は握られたままだ。
もし夜じゃなくて、こんな姿をみんなに見られたらからかわれすぎて死ぬだろう。
「…………」
俺は気恥ずかしさをごまかすように頭をかく。
するとおもむろに先生が口を開いた。
「リュートくんは怖いの? 任務に行くのが」
それは……当然恐ろしい。
今だって考えないようにしないと震えてしまうくらい怖い。
情けないことだが、もしかしたら怖すぎて気を失ったのかもしれないと俺は薄々思っている。
「怖かったです。みんな平然としてましたけど。僕は弱虫なので……」
俺は半笑いでそう答えた。
あまり真剣に受け取ってほしくなかったのだ。
でも先生は真面目な顔で俺を見つめていた。
「死ぬのが怖い?」
「はい」
俺は先生の問いにうなずく。
だがもっと怖いことがあったので言葉を重ねた。
「でも一番怖いのは……みんなが死ぬことです。村から逃げた時みたいに、一人になるんじゃないかと思って」
ちょっと言いにくかったが本当のことなので気持ちを伝える。
だが先生は顔をそむけ、短く一言だけ返すと黙ってしまった。
「……そう」
そしてそれきり沈黙が続く。
俺は少し気まずい気持ちになった。
もしかして困らせてしまったかと思い、横顔の表情を伺う。
だが特に変化は見えず、いつも通りの落ち着いたまなざしで星を見ていた。
「…………」
先生が何も言わないので俺は話を変えようと決めた。
だからリリアナたちとひそかに検討している新商品について相談してみようと考える。
でも俺が口を開く前に、先生が視線を合わせて語りかけてきた。
「あのね。任務の話だけど……」
言いにくそうに切り出したのは任務の話だった。
俺がうなずくと、先生は言葉の続きを口にする。
「行きたくないなら行かなくていい。他に申し出る子がいなければ中止にしたっていい。だから、正直な気持ちを教えて」
「え……」
思いがけない提案だった。
だがもしかすると、最初から俺が怯えているのを悟っていたのかもしれない。
だからこうして連れ出して、本音を言いやすいようにしてくれたのだろうか。
「ありがとうございます」
俺は感謝を伝える。
しかしそれは気にかけてくれたことに対してで、辞退する気はなかった。
「でも、行きたいと思ってます」
「どうして?」
真剣な目で理由を問われた。
一応自分なりの理由はあるのだが、あまり上手くまとめられそうにない。
仕方ないので俺は思いつくままに話してみることにした。
「……昔、僕は勇者様みたいになりたかったんです」
よくわからないことを話しているという自覚はあった。
先生も多少困惑しているかもしれないが、ここは何も言わずに聞いてくれるようだった。
ありがたく思いながら俺は話を続ける。
「そうだったら父さんや母さんを助けられたのにって。……でも、やっぱり違ったと思います。後悔すべきだったのは、弱かったことじゃなくて、なにもせず逃げたことじゃないかって」
正直もう記憶が怪しいが、村から逃げる時には二の魔王の魔獣が多くいた気がする。
はっきり言ってあの状況で当時の俺にできることなんてなかった。
千回挑んでも犬死にだっただろう。
でもあの時立ち向かうことはできた。
両親がそれを望んでいたとは思わない。
しかし立ち向かってさえいれば、少なくとも俺に悔いは残らなかった。
「もう同じ後悔をしたくないんです。なので、みんなと一緒に行こうと思います」
「……そう」
俺の言葉に頷いてくれた。
そして握っていた手を離し、張り詰めた表情だった先生はようやく微笑む。
「よく分かったわ。立派ね」
「どうも……」
褒められたことを照れくさく思う。
それになんだかちょっと真剣に語りすぎて恥ずかしくなってきた。
だから別の話に逸らそうと思ったが、どうやらここで散歩は終わりらしい。
先生がおもむろに席を立った。
「そうと決まったらもう寝なさい。明日から大急ぎで準備なんだから。忙しくなるわよ」
「は、はい」
張り切った様子の先生に少し気圧された。
だがなんとか答えて俺は歩き始めた先生についていく。
そして一度立ち向かうと決めたのだから、もうこれ以上うじうじせずに頑張ろうと思った。




