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ロストキルレシオ  作者: 湿った座布団
たとえ灰になっても
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四十一話・職員会議(3)

 


 夜更よふけの孤児院、明かりのついた院長室にはいつもの三人が集まっている。

 それはお決まりの職員会議だった。


 子どもたちを迎え入れてからすでに六年が過ぎ、七年に迫ろうとしていた。

 だから席順や発言順も板につき、普段の会議では砕けた雰囲気があることさえ珍しくなかった。


 しかし今回は普段と異なる様子で会議が進んでいる。

 シーナは俯き、セオドアは言葉もなく腕を組んでいた。

 ヴィクターだけは普段の温和な表情で席についていたが。


「…………」


 やがてしばらくの沈黙の後、深く息を吐いたシーナが口を開く。

 その声には重々しい苦悩が滲んでいた。


「子どもたちだけで……魔獣の群れを倒させる、ですか」


 口に出したのはこれから子どもたちに与える任務の話だった。

 標的は中規模の下位魔獣の群れ。

 素質を伸ばし精鋭に育て上げたとは言え、まだ多く伸びしろを残す彼らを送り出すには不安が残る。

 訓練で魔獣を狩る時は、必ずシーナたちがついていたからなおさらだ。


「……院長先生。やはり、どうしても必要なのでしょうか」

「ああ」


 間を置かずセオドアが答えた。

 必要であると。


 そして、それからすぐに言葉を続ける。


「特に優秀なメンバーは王都の守備隊に配属したい。もし可能なら偽の経歴を与えて聖堂の護衛にも推薦するつもりだ。敵の懐に彼らを置きたい」

「そのためには有用性を示さなければならない……と」

「そうだ」


 セオドアは孤児たちの強さを王都に示すためになんらかの任務を与えようとしている。

 それをシーナは止めようとしている。


 しかし立場上従わなければならない彼女は強く反対できない。

 だからまた沈黙し、今度はセオドアが重いため息を漏らす。


「まぁ、つまりまだ早いと言いたいのだろう。君は」

「はい。実力は十分ですが……経験があまりにも……」

「気持ちはわかるが、必要なことだ。王都の連中には戦士の目利めききなど期待できん。子供に成し遂げさせてこそ目を引くことができる」


 どれほど強かろうが聖職者たちには分からない。

 彼らがそばに置くのは自らの思い通りに動く者たちだけだ。

 しかし例外もある。

 十二歳やそこらの子供が魔獣の群れを始末したとあれば、少なくとも興味を引くことはできる。


 無論、あの歳で高い練度を誇ること自体に軍の関与を疑うかもしれない。

 だがそこはなんとでも誤魔化せる。

 たとえば適当な勢力からの献上品とでも銘打めいうてばなんの問題もない。

 自分たちの覇権が揺らぐなどとはつゆほども思っていないから、聖職者たちは……特に、好奇心を抱いている時はひどく無防備だ。

 そうして珍品好きの貴人きじんたちにとびきりの精鋭を与えてやればいい。


 そんな理屈を理解したからこそシーナは何も言えなかった。

 これは殺しを引き受けた夜、あの日伝えられた過酷な運命が動き始めたというだけのことだ。

 今さら止めることなどできるはずがなかった。


「……分かりました。私も、教官として最善を尽くします。彼らが生き残るために」


 長い沈黙のあと、シーナはようやくそう言った。

 俯いた顔からはかすかに血の気が引いていた。

 ヴィクターは彼女の横顔をじっと見ている。


「…………」


 セオドアは小さく咳払いをして、部隊のメンバーの選出に話題を移す。

 すると他の二人の視線は彼のもとに戻された。


「さて。伝えておいた通り、今回の任務は六人で行う。五人は筆頭から選ぶとして、あと一人を決めたい」


 六人にしたのは全ての孤児院の子どもを集めて分隊に割り振る時、余りが出ない数になるからだ。

 そして最精鋭を選ぶ都合上、筆頭の五人が割り当てられるというのも道理が通る。

 これは事前に決めてあるので、これから三人は最後の人員の選出について話し合うことになる。


「じゃあヴィクターから。意見を言ってくれ」


 セオドアに促され、ヴィクターが少し驚いたような表情を浮かべた。

 あまり訓練に関わっていない、自分から聞かれるとは思っていなかったのだろう。


「僕ですか?」


 小さく口にした後、数秒考えるような間を取って言葉を続ける。


「僕は……そうですね、エヴァンズくんがいいと思います。彼はかなり強いと思いますよ」

「確かに。単純な戦闘なら筆頭のクランツくんと遜色ない水準にあると思う。戦力としては適切ね」


 シーナがヴィクターの言葉に頷いた。

 訓練を受け持つ彼女からしてもエヴァンズの練度は評価できるものであるらしい。

 この分ではシーナもエヴァンズを挙げるつもりのようだと、セオドアはそうあたりをつけた。


 そして二人の会話を聞き、今度は彼が声を上げる。


「なるほど。だが私は、リュートくんを推薦したいと思っている」

「彼を?」


 聞き返したのはシーナだった。

 訝しげな彼女にセオドアが頷く。


「そうだ。この前の対抗戦とガーランドを私も見ていたんだがね。行動のレパートリーが多いし、発想もなかなか面白い。エヴァンズくんも強いが、あのくらいの実力差なら部隊の行動の幅を広げられる方がいい」


 だがその言葉を受けてなお、シーナは納得していないように見えた。


 発想というなら、リュートの考えを恐らくリリアナが網羅し、さらに上回っている。

 あらゆる武器を扱えると言うが、ニーナもウォルターもその気になれば同じレパートリーをより高い練度で使いこなす。


 少し説得力に欠けるのではないかとシーナは考えていた。


「それに……対抗戦の固有魔術。あれも良かった。あれは誰にもない火力だ。少し『薄氷』の伝説を思い出したよ」


『薄氷』は剣騎士が使ったとされる伝説の技だ。

 今なお剣に魔力を纏わせる『剣』の系統の最上位に君臨するとされる。


 それを引き合いに出すのも理解できるほど、あの魔術が可能性を秘めているのは間違いない。


 しかし下位魔獣の群れの討伐に大技は必要がない。

 適切に過不足なく命を損ない、長い時間を戦い抜くペース配分と基礎力こそが求められるのだ。


「…………」


 生死を左右するかもしれない場面で甘い議論は許されない。

 シーナは不満を隠そうともせず眉をひそめている。

 それを見て、セオドアは小さく苦笑した。


「……もちろん、結局は多数決だよ。強権きょうけんを振るうつもりはない。どうだ、ヴィクター。君はどう考える?」


 話を振られ、ヴィクターが穏やかな様子で口を開く。

 その答えは、少なくともシーナにとっては、意外にも肯定を返すものだった。


「僕は院長先生が正しいと思います。実戦は何があるか分かりませんからね。強さだけではなく、対応力で選ぶのもいいでしょう。ガーランドでニーナちゃんに負けたのも、紙一重でしたし……」


 それに火力は間違いなく彼固有の要素ですから……と、ヴィクターは続けてシーナを見る。


 彼女は不満、と言うよりは不可解を浮かべてヴィクターとセオドアの間に視線を彷徨わせた。

 どうもまだ納得できていない。

 彼女はリュートが必要になる不測の事態とは、下位魔獣よりも強力な存在に遭遇した時だと理解した。

 火力とは、強力な敵を倒す時こそ求められるものである。

 しかし、それはある意味見当違いだと考えていた。


「リュートくんも戦力として不適切なわけではありません。しかし我々が……司令する側が正しく敵の情報を収集すれば不測の事態は起こり得ません。想定した状況に特化した人員を選出し、送り出すのが我々の役目です」


 想定しきれない時ならばそれも別だ。

 だが今回はそうではない。

 領内の魔獣と交戦する以上、今は調査し判断を下すことが可能な状況だ。

 ならば不測の事態を排除するのがこちらの役割である。

 強敵の乱入など決してあってはならないことだと言える。

 そして万が一予想外の状況に陥ったのなら、撤退を支援し新たに部隊を編成するのが正道だ。


 だというのになぜ強敵への対応力を重視するのか。

 リュートを選んだことより、むしろその判断基準がシーナには理解ができなかった。

 そんな疑問がセオドアにも伝わったのだろう。

 苦々しげに頭をかいて、弁解の言葉を投げかける。


「……まぁ実のところ、そう手厚く補助人員を用意できているわけではないんだ。非公式な作戦だし、彼らは精鋭だ。ある程度の不測の事態には自分で対応してもらいたいと考えている」

「……では、せめて私が」


 隠れてでもついていきたい。


 そう言おうとしたシーナをセオドアの声が遮る。

 有無を言わさぬ気配をまとった、紛れもなく配下へ向ける声だった。


「認められない。最低限必要な支援は私が手配する。何か反論は?」

「…………」


 明言こそないが、これは上官の命令だ。

 背くことはできない。

 さらに多数決もヴィクターを入れて向こうに軍配が上がった。

 もはや言えることはなかった。


 彼女の判断を見越したか、セオドアが穏やかな声で決定を下す。


「では決まりか。六人目はリュートくんにしよう」


 返事もなく再び俯いたシーナ。

 対してセオドアは、ふと思い出したように声を漏らした。


「ああ。それと、君が言っていた職業見学だが……許可できない。最悪兵士以外の道を認めてもいいが、わざわざ率先して違う道へと送り出すのは違うだろう?」

「はい、おっしゃるとおりです。……すみませんでした」


 これに関してはセオドアが正しい。

 彼は兵士を育てるために彼らの命を救い、シーナやヴィクターを雇っている。

 決して慈善事業ではない。

 だというのに、雇い主の利益を積極的に阻害するのは背信に他ならない。

 兵士としての役目を終えたあとならば、話は別だろうが……。


 相手が悪いのではなく自分が入れ込みすぎている。

 そもそもそういう職場だった。


 なんとか言葉を飲み込んで、シーナは素直に頷いた。

 セオドアは薄く微笑んで言葉を返す。


「良かったよ。これからも君の働きには期待している」


 これで任務についての話は一応の合意を得た形になった。

 だがそれから発言する者はおらず、部屋にはしばらく沈黙が満ちる。


「…………」


 どこか重い空気の中、頭をかいたセオドアが沈黙を破る。

 どうやら会議は終わりにするらしい。


「なにか話せるような雰囲気じゃないな。子どもが大切なのは分かる。今日はここで解散して……自分の中で折り合いをつけてほしい」


 ヴィクターは何も返事を返さなかった。

 だがシーナは目を伏せながらもそれに答えた。


「……はい。失礼いたします」


 そして彼女は席を立ち部屋を後にする。

 後に残ったヴィクターは去る背を見送り、足音が遠ざかるのを確認するとおもむろに口を開いた。


「ねぇ、院長先生。どうして嘘をついたんですか?」

「なんのことだ?」


 いずれかの発言を嘘と断じる言葉に、しかしにこやかに返したセオドア。

 ヴィクターはその反応に声を出して笑う。

 清々しい冗談でも聞いたかのようになごやかな様子で笑ってみせた。


「はは……面倒な建前はやめてくださいよ。僕は効率がいいのが好きだ」


 ヴィクターの様子を見てセオドアも皮肉げに唇を歪める。

 隠しきれないと見たか、また頭をかいて謝罪を返した。


「……そうか、悪いな。職業病だよ。どこに耳があるとも知れないのさ、宮廷には」


 それにヴィクターはにこやかに言葉を重ねる。


「職業病? 僕の肩こりのようなもんですか?」

「? まぁ、そんな感じだ」


 普段より砕けた口調で、分かるような分からないような冗談をのたまうヴィクター。

 セオドアは愛想笑いで聞き流し、話を本筋へと引き戻す。


「で、嘘と言うと先ほどの任務に関する話かな?」


 質問に、ヴィクターは笑みのまま頷いた。

 さらに自ら話の続きを語り始める。


「ええ、そうです。中位魔獣がいるでしょう、標的にした群れには」

「教えてはいないというのに、耳ざといものだ。どこで知った?」


 苦笑するセオドアに対して、ヴィクターはやはりにこやかだった。

 そしてセオドアは内心で、先ほど彼があっさり賛同したのは任務の本来の姿を知り得ていたからだったのかと納得する。


肉袋・・どもに探らせました。連中、すっかり僕の手足だ」

「勝手な真似をする。存外ぞんがいに過保護か。ヴィクター先生は?」


 肉袋にくぶくろと、ヴィクターがこう呼ぶ者たちが探りを入れていたらしい。

 セオドアは表情こそ崩さなかった。

 だが側近が職務を逸脱した行為をおこなったことに、わずかに腹を立て皮肉を返した。

 もっともヴィクターはどこ吹く風と受け流したが。


「ご冗談を。ただ僕は計画にイレギュラーを許せない。大切な夢ですからね」


 大切な夢であると語るヴィクターの目に、一瞬恐ろしい執念がちらついた。

 どうやら彼も怒っているらしいとセオドアは思い当たる。


「…………」


 一応、ヴィクターはかなりの功労者だ。

 というより最早全ての発端であるとも言える。

 この計画の始まりを招いた、幼い狂人の姿は今でも覚えている。

 故に彼自身思い入れも強く、説明もなくセオドアに勝手な行動をされて腹に据えかねているのかもしれない。


 納得したところでぽつりぽつりと真実の話を始める。


「悪かったよ。では、その件について語ろうか」


 ヴィクターは無言で先を促した。

 小さく頷いてセオドアは告白を続ける。


「いずれ伝えるつもりだったが、先日ステラが中位魔獣を倒した。今回と同規模の群れの討伐任務で偶発的に遭遇した個体を、だ」


 ステラと、口に出した名前は他の孤児院にいる子供の名前である。


 彼らが運営する多数の施設の中で、特に優秀な孤児として目をつけられていた一人。

 十二歳にして高位魔術師を圧倒する魔力量、加えて、全ての基礎ルーンへの適性を誇る完璧な魔術師だ。

 彼女は任務……否、選別試験・・・・で中位魔獣を撃破してみせた。


 そしてその言葉を聞き、ヴィクターは驚いたように目を見開く。


「へぇ、ステラが……」


 セオドアは深く頷き、小さな含み笑いを返す。

 彼にとってそれは喜ばしい出来事であったのだ。


「ああ。乱入は向こうの施設の不手際。完全な事故だったが、結果としては成功だ。部隊の全員が死に、しかし彼女だけは生存した。メダクの首を手土産にな」

「なるほど。彼女もまた、素晴らしい天才であったということですね」


 で、それが今回の話にどう関係がある?


 とでも言いたげな視線をヴィクターが向けてくる。

 それを受けて、苦笑したセオドアはようやく核心に触れる。


「まぁ。簡単に言えば、私は迷っているんだよ。計画の中心に据えるべきはステラ=ガイストなのか、あるいはウォルター=ラインハルトなのか」


 ここで語られる計画、その中心に据えるのはウォルターであるべきだと二人は考えていた。


 彼の戦士としての天稟てんぴんは計り知れない。

 ある時から訓練で本気を出さなくなったが、おそらくその力量はすでにシーナやセオドアを遥かに超えている。

 魔力が少ないという深刻な欠点こそあるものの、計画が成就すれば些細な問題だ。


 故に戦闘の資質が一段劣るとされていたステラやニーナあたりはあくまで予備。

 サブプランに過ぎないと位置づけられていた。

 下位魔獣討伐の選別試験を経ても、よほどのことがなければその決定は覆らないはずだった。


 あくまで最強はウォルターであり、予定されていた選別も資質の確認作業に過ぎない。


 しかし今回、図らずもステラは力を証明した。

 中位魔獣は本物の強者のみが立ち向かえる存在である。

 仲間の犠牲があったとはいえ、打ち勝った彼女は人の強さのいただきに届きうる才を示してみせた。


 そして、だからこそウォルターにも同じものが求められる。

 見せていない底を確かめる必要がある。

 中位魔獣を相手に死ぬようなら、器ではなかったということだ。


 セオドアの言葉で十分にそれを読み取ったのだろう。

 だがそれでも首を縦には振らない。

 どうやらまだなにか言い足りないらしい。


「……僕は反対ですがね。中位魔獣の相手はシビアすぎる。試験向きじゃない。それに、そもそも実際に当ててみればいいだけの話じゃないですか?」


 不満げなヴィクターの言葉。

 セオドアは苦々しく笑った。

 そして応接机の席を立ち、執務台の背後の窓へと向かった。


「…………」


 背を向けた彼は夜の闇を見つめている。

 何を感じてかは分からないが、表情を隠すためにそうしたのかもしれない、とヴィクターは考える。

 が、それはともかく会話は続く。

 言葉を返すセオドアの声は普段と変わりないものだった。


「いずれそうするつもりだが、その手法は良くない。計画の柱は確定させた方がいい。そもそもは君が言い出したことだろう?」


 これには言い返せなかった。

 実際、計画の柱を決めてから動くべきだと進言したのはヴィクターだ。

 様々な都合、準備を考えるとそれが最善だった。


 だからヴィクターはもう何も言わず、ただ「すみません」とだけ口にした。


「…………」


 またしばらく沈黙が続く。

 なにか思案している様子のヴィクターに、セオドアがつと声をかける。


「情が湧いたか?」


 子どもを死なせたくないから非合理的な反論をおこなったのか、と。

 言外げんがいに意味を持たせてセオドアが問いかけた。

 ヴィクターは窓の前に佇む相手に視線を向ける。

 そして呆れたような笑みを浮かべた。


「いいえ。特には」

「……そうか。私は予定より入れ込んでしまったがね」


 その言葉を受けて困惑に眉をひそめる。

 なにか感想を抱く以前に、彼にとってそれは理解できない発言だった。

 心境を知ってか知らずか、セオドアはひとりごとのように言葉を続ける。


「かわいい子どもたちだ。こんな仕事、人に任せればよかったな」


 それは狭く暗い部屋で一人、死にかけの孤独な老人が人生を悔やむような。

 何気ない声ではあるが、どこかやりきれない想いが籠もったひびきだった。


「…………」


 だがヴィクターにはなにか言えることなどない。

 彼にはセオドアやシーナの感情が分からない。

 ただ小さく鼻を鳴らし、席を立ってその場を立ち去ることにする。


「理解できませんね。もう帰ります。……ステラは、余計なことをしました」


 冷たく言い捨てて部屋を出た。

 そうしてセオドアだけが部屋に残される。

 背後で閉まる扉の音を聞いても、彼は一人で立ち続けていた。


「……理解できない? その割にヴィクター。君の部屋も、ずいぶんと物が増えたじゃないか」


 そしてつぶやいた。

 今度は正真正銘、ただのひとごとだ。


「…………」


 静寂の中、セオドアはヴィクターの部屋の様子について思い返す。

 彼は幼い頃から私物というものを決して持たず、十年以上からっぽの部屋で寝起きしていた男だったが。


 二年ほど前のことだが、部屋を訪れて驚いた。

 彼の部屋には様々な物が置いてあった。


 机の上に飾られた折り紙、いつのものともしれない色あせた押し花、つたない似顔絵、子どもからの手紙、いくつかの椅子や机、幼いリリアナから買い取ったいくつかのがらくた、部屋に入りびたる子どもの私物……。

 とにかく色々だ。


 これらはおそらく、ほぼ全てが子どもたちによって持ち込まれたものであろう。

 そしてセオドアはそれこそが幸せの証であると知っている。

 だがそれを教えることはできなかった。


 ヴィクターもセオドアも止まるにはもう手を汚しすぎている。

 今さらすべてを投げ出すことはできない。

 ならばいずれ壊さねばならないと決まっているものを、どうしてかけがえのない物であると伝えられるだろうか。


 彼がいつか手の中の幸せを握りつぶす日が来るのなら、せめて知らぬままでいられるよう願うだけだ。



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