二十二話・旅立ち
気がつくと俺は故郷の村にいた。
雪は降っていないけど曇っていて、昼間なのにいつもどおり仄暗かった。
そして誰もいない井戸のそばで泥まみれの手を洗っていた。
据え付けの桶で水をくんで、痛いほど冷たい水に手を浸しては擦る。
だけど洗っても洗っても汚れが取れなかった。
どれだけこすっても手は汚くて、ぱっくりと裂けたあかぎれが痛くて、だからべそをかきながら洗っていた。
「……いたい」
でも少しすると水の冷たさに耐えられなくなる。
一度桶から手を引いてごしごしと服で拭う。
それから手を抱えて痛みにうずくまっていると、後ろからかあさんの声が聞こえてきた。
「リュート」
振り向いた。
するとそこには穏やかな表情でたたずむかあさんがいた。
ゆっくり歩いてきて目の前に立ち止まり、瞳を覗いて問いかけてきた。
だが顔を合わせるのがなんだか後ろめたくて、俺は目をそらして俯く。
「どうしたの?」
「……手が汚れたから、洗おうと思って。でも水が冷たくて……痛い」
俺がそう言うとかあさんはにっこりと笑った。
笑って頭を撫でてくれた。
そうしているとなぜだか泣きそうになった。
別に特別なことでもなんでもないのに。
「汚れてないよ」
かあさんはそう言った。
顔を上げたあと、びっくりして手を見直す。
しかしやっぱり汚れがこびりついている。
言ってることがよくわからなくて目を瞬かせた。
「……ほんと?」
「うん、頑張った手だよ。汚くなんてないよ。……でも痛いのはなんとかしないとね」
かあさんは俺に目線を合わせてしゃがみこむ。
そして固くてかさかさの手で俺の手を包むとふぅふぅと息で温めてくれた。
ポッケから取り出した小さな布きれで濡れたままの手を優しく拭いてくれた。
そうすると手は痛くなくなっていて、汚れもきれいに取れていた。
「手、痛くなくなったでしょ」
「うん。なんで? どうやったの?!」
汚れもあかぎれもきれいに消えていた。
嬉しくて立ち上がるとかあさんも立ち上がった。
どちらともなく手をつないで、家に向かって歩き始める。
おかあさんだからね。
かあさんは照れたように目を伏せてそう言った。
よく分からなかったけれど俺は笑った。
「ちょっと歩こっか。おうちに帰る前にね」
「うん!」
にこりと微笑みながらかあさんが言った。
痛みが消えて、嬉しくなっていた俺は大きく頷く。
繋いでない方の手をぶんぶんと振って歩く。
「かあさん」
「なぁに」
かあさんはずいぶんと機嫌がいいみたいだった。
答えた声からよく伝わった。
「俺ね、字が読めるようになったよ」
「すごいね。お父さんにも知らせてあげなきゃね。きっと喜ぶよ」
褒めてくれたのが嬉しかった。
なにより柔らかな声でお父さんと呼んでくれたのが嬉しかった。
何故嬉しいのかは分からない。
喧嘩はもう終わったのだろうか。
いや、そもそも喧嘩なんてしていただろうか?
ともかくあんまり嬉しいことばかりなので、夢なのではないかと頬をつねる。
するとかあさんが俺を見て目を細めた。
「見て、リュート。覚えてる? よくここでお友だちと一緒に遊んでたよね。いつもなにをしてたの?」
かあさんが足を止めた。
そして指を差したのは俺がよく村の友達と遊んでいた場所だった。
「うん。覚えてるよ。ちゃんばらとか……勇者ごっこしてたよ」
村の隅っこ。
農地の先にある空き地は小さな広場のようになっていて、近くには水路もある。
水路では夏に水の中に入ったり、冬は石を投げて氷を割って怒られたりもしていた。
そして空き地には懐かしいおもちゃがたくさんある。
「かあさん、見て。あれ俺の棒だよ」
空き地の隅、枯れ木に立てかけられた棒を指差す。
ちゃんばら用の棒だ。
みんなそれぞれ探して見つけてきたのだ。
しかし棒は何本もあって、かあさんにはどれか分からなかったらしい。
「どれ?」
優しい声音でそう言うと手を引いて棒に近づく。
俺は目の前まで来てもう一度先が二つに分かれた木の棒を指差した。
「これ」
「へぇ、かっこいいね」
「うん!」
にこにこと笑って、かあさんは俺の話を聞いてくれるらしかった。
だから俺は話したいことを次から次へと言葉に変えた。
俺の棒は先が二つに分かれている。
同時に二人を攻撃できる。
俺が一番ちゃんばらが強い。
三回同じ人に負けたら棒を奪われてしまう。
木の枝を好きな形に折ったりして強くするのはいけない。
でもちゃんばらの中で形が変わるのはいい。
冬は特に強い棒を探すのが大変だ。
水路で氷を割っていたら怒られた。
勇者ごっこではいつも勇者だった。
少し嘘も混ぜてしまったけれどそんなことをたくさん話した。
すると段々話がとっちらかって脈絡がなくなっていった。
それでもかあさんは時々頷いたりしながら目を見てしっかり聞いていてくれた。
「そろそろ行こっか」
「うん!」
話が尽きるとまた手を繋いで歩き始めた。
しかししばらくするとかあさんが俺の目を覗き込んでくる。
「寒くない?」
「ううん」
本当は少し寒かった。
でもまだまだ一緒に歩いていたかったので嘘をついた。
するとかあさんは笑って俺の頭を撫でた。
「うそだ」
そう言ってかあさんが俺の後ろに来た。
後ろから抱きかかえるようにして包まれる。
少しだけ歩きにくかったけれど、すっかり寒くなくなっていた。
「もう寒くない?」
「うん。なんで? ……なんでかな?」
「かあさんが抱っこしてるからだよ」
そのまま俺とかあさんは歩き続ける。
村の中には相変わらず二人だけだった。
どうして誰もいないのかは気になるけど、かあさんを独り占めできるのが嬉しかった。
やがて畑を抜けて家が立ち並ぶ通りへと戻ってくる。
するとかあさんはつと足を止めて立ち止まった。
「懐かしいね。ここで転んで、頭ぶつけたの覚えてる? 血がたくさん出たからリュートが死ぬかと思ったよ」
そこはなんということのない道の半ばだった。
俺はこんなところで転んだ覚えがなかったから首を傾げる。
「分かんない」
「まだ三歳だったから仕方ないよ。でもちょっと目を離した隙にいなくなって、気づいたら頭から血が出ててびっくりしたな。……あの時はちゃんと見てなくてごめんね」
「全然! いいよ!」
そう言うとかあさんは楽しそうに笑った。
俺はちっとも覚えてないけれど、かあさんは俺が転んだ場所まで覚えているのかと驚いた。
また歩き出す。
次に立ち止まったのは村に一つの酒場の前だった。
とうさんがお酒を飲むのについていったことが何度かある。
そういう時はいつも家族ぐるみで付き合いのある人たちと集まった。
そして大人が飲んでいる間、子供は子供同士で眠くなるまで遊んだものだった。
遊び疲れて酒場の床やテーブルに突っ伏して寝ていると、朝には必ず家にいたのを覚えている。
「ここにむかし詩人さんが来たんだよ。まだおばけが出てくる前でね、あの頃はそういう人たちも時々来てたんだよ」
「詩人さん?」
言葉の意味はなんとなく分かるけど、よくよく考えると何をする人たちなのか俺は知らない。
だからかあさんに問い返す。
「音楽を聞かせてくれる人。酒場に来てもらって村のみんなで楽器を聞いたの」
「そうなんだ」
音楽は村でお祭りをする時に聞いたことがあった。
だからそういうことを仕事にしている人たちなのだと理解ができた。
「うん。それで……その時はリュートがお腹の中にいたんだけどね。楽器の音が気に入ったからその名前をつけようと思ったの」
「そうなの?」
「そうだよ。あの楽器の音みたいに優しい人になってほしいと思ったんだよ」
知らなかった。
この名前にそんな意味があったなんて。
俺はそんな人になれるだろうか。
「…………」
黙ったまま俺の頭を撫でた。
上を見上げると、微笑んでいるかあさんの顔が見えた。
「……行こっか?」
「うん!」
答えるとかあさんは俺を抱いたまま歩き出す。
今度はどこに行くのだろうかとふと思った。
「大きくなったね」
「そうかな?」
「そうだよ。ほんとは抱えてあげたかったけど、おっきくなってたから無理だと思って」
また上を見るとかあさんはなんだか嬉しそうだった。
なんとなく俺は胸を張って、鼻を鳴らしてえばってみる。
「いつかかあさんより大きくなるよ」
「楽しみだね。でもかあさん小さいから、もっともっと大きくなってほしいな」
確かにかあさんは他の大人より小さい。
でもまだまだ俺よりは見上げるくらい大きい。
言っておいてなんだけどもこんなに大きくなれるのだろうかと心配になった。
それから俺はかあさんといくつかの場所を回る。
賑やかな街の景色に比べたらなにもない村だけど、それでも思い出はたくさんあった。
話したいことを山ほど話して、疲れ切った頃かあさんが口を開く。
「そろそろ帰ろうか」
「うん!」
答えて、今度は家に向かって歩き出す。
歩いてゆくとすぐにたどりついた。
俺はかあさんの腕から抜け出し、ドアを開けて慣れ親しんだ家の中へと足を踏み入れる。
「ただいま」
俺が言うとかあさんが頭を撫でてくれた。
「おかえり」
家に入るとすぐに分かった。
ごはんのにおいがした。
かあさんに目を向けると笑顔でうなずいた。
今から食べても構わないということだろう。
「少し待ってね」
「うん」
寒くないよう藁が敷き詰められた床を歩いていく。
そうして俺がテーブルに腰掛けて待っていると、かあさんが木の器に入れたいもがゆを持ってきてくれた。
「ありがとう。いただきます」
そう言って食べ始めると、かあさんはにこにこと笑って俺を見ていた。
かあさんは食べないのかと不思議に思った。
「かあさんの分は?」
「いらないよ。お腹減ってないの」
「…………」
俺も子どもとは言ってももうそのくらいの嘘は分かる。
悲しくなってさじを止めると、かあさんも悲しそうに笑って席を立った。
「ごめんね。一緒に食べよっか。……おかわりの分、なくなっちゃうけどね」
そう言って戻ってきたかあさんはおかゆをついだおわんを手にしていた。
俺が安心して笑うとかあさんも笑った。
「リュートは優しいね、ありがとう」
言いながらかあさんは一筋涙をこぼした。
それを見て俺もずっと……最初から我慢していたのに涙をこぼしてしまった。
……本当は俺だって、分かっているのだ。
「ねぇ、もう一回お外に出ない?」
食べ終わると、泣き止んだかあさんがそんなことを言った。
俺は首を横に振って嫌だと答えた。
「……いやだ」
「いいから、ね」
手を引かれて俺は家を出る。
泣きながら歩き始めた。
「お祭り、来年はできるかな?」
涙声しか出なかった。
広場を横切りながら言うと、かあさんは曖昧に笑った。
俺の言葉には答えてくれなかった。
「…………」
そしてそのまま進んで村の出口にまで来た。
……どうして出ていかなくてはいけないんだろう。
俺はまだまだずっと、いつまでだってここで暮らしていたいのに。
「リュート、ごめんね」
不意に後ろに立ったかあさんに目隠しをされた。
声は涙に濡れていた。
「……お話聞いてあげられなくてごめんね。寒い思いさせてごめんね。いつもひもじい思いさせたけど、許してね」
そんなふうに謝られることが切なくて、俺はしゃくりあげながら嗚咽をこらえる。
涙がもうどうしても止まらなかった。
「悪いことばっかりで、なんとかしてあげたくて。でも上手くいかなくて……いつもイライラしてごめんね」
かあさんは何も悪くない。
悪いのは俺だ。
いつも自分のことばかり考えていた。
辛いのは自分だけだと思っていた。
もっとかあさんのことを思いやるべきだった。
なのにそれをできなかった。
そう言いたかったけれど息が乱れてまともに呼吸もできなくて。
ちゃんとした声にはならなかった。
「どうにかできないならそのぶん楽しく過ごせるようにすればよかったのにね。かあさん馬鹿だったね。ごめんね。……ごめんね」
涙でくぐもった声に俺は必死で返事をした。
なんとか声を絞り出した。
「俺の、方こそ……怒らせてばっかりで……ごめんなさい。置いていってごめんなさい……ちゃんとおはか……作れなくてごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい……」
「…………」
なにも答えなかった。
ただ目隠しのまま強く抱き寄せられた。
痩せた体は震えていた。
それからかあさんは何度か大きく息を吸って、また吐いてを繰り返して呼吸を整えるような間を開ける。
「…………!」
目隠しが外れた。
背を押される。
覚えのある状況だった。
「リュート」
呼びかけられた。
俯いたまま言葉を待つ。
俺はもう次に来る言葉を知っている。
「生きなさい」
思った通りの言葉。
だが今度は一言だけ付け足した。
「……幸せにね」
優しい声でそう言われた。
顔を上げる。
すると村の出口がすぐ前にあった。
「…………」
俺は何も言わず、涙をこらえて歩き始める。
生きてと願ってもらったから。
生きた先にある幸せを望んでもらえたから。
だから、もう心配させたくないから振り返らずに行くつもりだった。
でも外に繋がる門の脇に雪だるまがあるのを見つけた。
いつか作って、壊されてしまった雪だるまにとてもよく似ていた。
また涙があふれる。
俺は振り向いた。
振り向いてかあさんの目をまっすぐに見つめた。
「……ありがとう!」
泣きながら言うとかあさんも泣きながら笑った。
「ねぇ、リュート」
最後の言葉だと思った。
だから聞き逃さないように耳を澄ました。
かあさんが涙に震える声で語りかけてきた。
「……よくがんばったね」
くしゃりと笑っていた。
答えようにも息が詰まって言葉が出てこなかった。
「…………」
その言葉に救われた。
生き抜くために逃げたのだと。
誰かを守るために殺したのだと。
そしてそれで良かったのだとかあさんが認めてくれた。
正しいことだけでは生きられなかったけれど、それでも前を向いていてもいいのだ。
俺は自分にできることを精一杯頑張ったのだ。
そう思えたことが嬉しかった。
言葉が出てこなかった。
ようやく重い重い肩の荷が降りたような気がした。
俺は一度だけ大きく頷いてかあさんに背を向ける。
そうしてずっと雪の道を歩いていく。
逃げるのでもなく捨てるのでもなく、旅立つために歩き続けた。
「…………」
離れるにつれて村での思い出がぽつりぽつりと蘇る。
村のみんなでお祭りを楽しんだこと。
冬の前に間引いた家畜の肉をお腹いっぱい食べたこと。
街に行ったときかあさんととうさんが俺が人にぶつからないよう守っていてくれたこと。
どんな些細なことだって幸せな記憶だった。
きっとまた幸せになれるはずだと俺は思った。
故郷はなくしたけれど、それでも俺にはまだ居場所が与えられている。
帰ることのできる家がある。
これがどれほど幸せなことであるのか今の俺にはよくわかる。
「……ありがとう」
もう一度だけ呟いて俺は足を止めずに歩き続ける。
涙を拭い、雪を踏みしめながら歩いていった。
幸せになるために。
これから先を生きていくために。




