二十一話・屍の道
俺の番が来た。
ついに俺が死ぬ番が来たのだ。
『……行きなさい』
また急かされた。
大丈夫。分かってるよ。かあさん。
鐘の音を聞いてからずっと心が乱れて仕方がない。
幻の声に背を押されながらクリフを探して走っていた。
「ニーナ。ずっとまっすぐ行くの?」
「うん」
雲間から差す星と月の光が際立って明るい夜。
さいわいにも少し弱まった雪が降る中。
ニーナと俺は孤児院の外に出て走っていた。
とはいっても街の方ではない。
俺たちはちょうど孤児院の裏手の塀をよじ登って外に出た。
門を開くわけにはいかなかったから。
そして向かうのは、そこからさらに進んだ先にある緩やかな丘。
今は雪に埋もれた街外れの場所だ。
「……大丈夫?」
ニーナが立ち止まったから声をかける。
顔は青ざめている。
なにかオークに関する嫌な記憶があるのかもしれないと思った。
「なにかクリフがいる場所の目印になるようなものはある?」
俺が聞くと、はっとしたようにニーナが答える。
「目印は……一番近くの風車。決めてたわけじゃないけど……でもいつもそこに集まってたから」
「ありがとう。……もう場所は分かったから……だから孤児院で待っててもいいよ」
俺の言葉にニーナは目を丸くした。
隠しようのない安堵がにじんだ。
星と月の明かりの下、その表情は俺にも見えた。
「……わ、わたしは」
言い淀んで唇を引き結ぶ。
足を踏み出すのも忘れて悩んでいる。
彼女なりに恐怖と戦っているのだろう。
「わたしも行く……わたしの、おにいちゃんだから……」
「……分かった」
死ぬかもしれないのに結局行くのだと言った。
彼女は俺とは少しだけ違うのかもしれない。
「じゃあ行こう」
「うん……!」
走り続ける。
息を乱しながらもずっと走る。
ニーナはその後も何度かためらったし、俺も待つことはしなかった。
だがそれでも遅れずに必死についてきた。
そうやって道を急いでいるとやがて風車のふもとにたどりつく。
するとかすれた声で吠えるオークの姿が見つかった。
「――――――――!!!」
オークは丸太のような腕で風車小屋の扉を何度も殴りつけていた。
頼りない木の扉はひしゃげてもうほとんど壊れかけている。
後ろで必死に押さえているであろうクリフは……本当に危ないところだったようだ。
「…………」
それにしてもこんなところまで来るとは。
もしや逃げたのを自分が仕留めたのだとでも先生たちに言うつもりだったのか。
そしておそらくは手足は縛ったまま連れてきたたのだろうが、どういうわけか足枷も手枷も血まみれの状態で雪の上に散らかっていた。
「おにいちゃ……!!」
叫ぼうとしたニーナの口を塞ぐ。
今ここで気づかれたら二人とも死ぬからだ。
俺がどうにかして気を引いてやらないといけない。
「ここで待ってて」
「…………!」
いざあの大きな体を目にするとやはり怖い。
だけどなんとかするために考えを巡らせる。
するとおそらくはクリフが持ち出したであろう剣を見つけた。
牢に置いてあったオークを傷つけるためのものを持ってきたのだろう。
「…………」
俺は剣を手に取るかどうか迷った。
だが結局使わないことに決めた。
単純に俺では急所に手が届かないし、殺し切るだけの自信がない。
持っていれば荷物になるだけだ。
だから他にはなにかないかを探す。
しかし周囲にはもう何もなさそうだった。
なので近寄ってオークの気を逸らすことにする。
ほんの少しだけ驚かすのだ。
そうしてその隙に二人が逃げればいいのだから。
「いい? 俺がなんとかあいつの気を逸らす。それでニーナはクリフを連れてすぐに逃げていい」
「……え? でも……」
頷きかけて、流石にニーナも俺のことに思い当たったようだった。
それを言葉にする暇も与えず走り出す。
だがある程度近づいたところで足を踏み出せなくなった。
まっすぐ走って行くつもりだったのに。
なのに足が凍りついたように止まってしまったのだ。
「っ……」
ぞくりと寒気が背筋を走る。
もう冬なのに冷たい汗が肌を濡らす。
恐ろしくてどうにかなりそうだった。
やはり死ぬのは怖い。あの大きな怪物が怖い。
先生は人を食うのだと言っていた。
俺も生きたまま食われるのかもしれない。
無理矢理に押し殺したけれど、実際に死を予感すると恐怖が再び蘇った。
傷だらけの背中は近づくとより大きく見える。
皮が剥がれた真っ赤な体は不気味で仕方がなかった。
ようやく自覚する。
これはどうしようもないほどに現実なのだ。
本当に俺は死ぬのだ。
『行きなさい』
声が聞こえた。
左手で怯みきった膝を叩く。
すると一歩だけ踏み出せる。
さらに勢いに任せてもう一歩踏み出す。
それでようやく走り出せた。
「クリフ! ここから逃げろ!!」
ある程度近づいたところで叫んで雪を固めてオークの背中にぶつける。
ようやく気がついたのかオークはこちらに振り向いた。
全身の毛が逆立つような恐怖を感じながら、俺は走り出した。
少しでも長く気を引くために。
「ニーナも来てるんだ! だから早く!!」
怒り狂ったオークがこちらに向かってきた。
前に先生に喉を切られたせいで吠え声はかすれている。
だがむしろそれがより恐ろしく聞こえて、必死に逃げながらも涙がこみ上げてきた。
「しに……たくない……」
切れ切れの息の中弱音が漏れる。
後ろでオークの手が風を切るのを感じた。
足を止めたら終わりだ。転んでもそこで死ぬ。
何度も何度も俺を掴もうとしている。
一瞬生き延びるのだって必死なのに。
なのにまだニーナたちが逃げない。
それに腹が立って大声で怒鳴りつけた。
「なんで逃げないんだ!」
「おにいちゃんが怪我してて……!」
返ってきた言葉、かすかに耳に届いた言葉に危うく立ち止まりそうになった。
クリフが怪我をしているのなら、簡単には動けないほどの傷であるのなら、ニーナだけで彼を連れて逃げるのは時間がかかる。
「クソ……!」
目の前が真っ暗になったような気がした。
これ以上どうやって時間を稼げばいいのか分からなかった。
だがそれでもやらなければならない。
なんとかして二人が逃げる時間を稼ぐ必要がある。
「っ……!」
息が乱れる。
冷たい空気に肺が凍りつくように痛んだ。
空気が吸えなくて頭が石になったかのように重くなる。
ここに来てずいぶん鍛えられはしたが、それでもこんなにずっと死ぬ思いで走ったことはなかった。
限界が近くなっていた。
それからどれくらい走っただろうか。
もしかしたらそんなに時間は経っていなかったかもしれないが、俺にはもう何も分からなかった。
だがそれでも俺は薄れる意識の中で風車小屋の扉が開いているのを見た。
開いた入り口の中に誰もいないのを見た。
ニーナたちは本当に逃げたのかとか。
余裕を持って逃げ切れる場所までたどり着いたのかとか、決してそんなことを考えたわけではなかった。
でもその光景を見た時俺は反射的に足を止めていた。
すると次の瞬間。
右の脇腹が火の塊を押しつけられたかのように熱くなり、気がつくと俺は冷たい雪の上に倒れていた。
「…………っ!」
激しく咳き込む。
だが仰向けに倒れたせいで雪に顔が埋まってうまく息ができない。
もがくように体を返して仰向けになる。
すると星空が見えて、次に歩いてくるオークが見えた。
ずきずきと傷んで呼吸するだけで涙が溢れそうになる。
ようやく少し息を吸っても熱にうなされたように頭ははっきりしない。
なにがどうなったのか分からなかったが、もう逃げられないことだけは理解できた。
ゆっくりと迫ってくるオークを見て、俺は心底振り返ったことを後悔した。
「死にたくない……」
無意識にそんな言葉が漏れる。
見逃してくれるわけではないのだろうが不思議と走っては来なかった。
ゆっくりと歩いてくる。
俺は怯えながらまた咳き込んだ。
すると口の中に血が広がって、自分が血を吐いていることに気がつく。
もしかするとオークも俺が弱りきったことを理解しているのだろうか。
それとも逃げられるようならまた逃して俺をいたぶるつもりなのか。
俺たちが牢に繋いでオークを痛めつけていたように?
「いやだ……」
ぼろぼろと涙が溢れてきた。
クリフなんかを助けるために死ぬなら俺は逃げずにかあさんと死ぬべきだった。
そうすればこんな場所で一人で死ななくても済んだのに。
ずっとずっと苦しんで後悔して責められて。
死が怖くて逃げ続けて、それでも最後には一人ぼっちで死ぬ。
無意味で惨めで辛いばかりの人生だった。
なぜ俺は生まれてきたんだろう。
がたがたと歯の根を震わせながら俺は近寄ってくるオークを見る。
やはり近寄ってくる速度は遅い。
違和感を感じた。
なにかがおかしいが、それがなにかは分からない。
だが考える気にもならなかった。
俺はもう死ぬからだ。
「……ごめんなさい」
オークはもう目の前にいる。
生き延びることを諦めた俺の喉から最後に出たのは誰かへの謝罪だった。
なにを謝っているのかは自分でもわからない。
でもそれだけ言って涙をこぼし続ける目をぎゅっと閉じた。
だが。
「…………」
死はいつまでも訪れない。
聞こえた足音に閉じたばかりの目をまた開けた。
するとオークの背後で剣を振りかぶる少年が……ウォルターが見えた。
「なんで……」
すぐには理解できないできごとだった。
なぜ彼がここに来て俺の命を救うのか。
どうやってここまで来たのか。
なにより命を張って俺を助ける理由なんてないはずだ。
しかし俺の疑問など彼は気にも留めていないだろう。
新たな敵の存在に気づき、どこかぎこちない動作で振り返ったオーク。
その足をためらいなく斬りつけた。
だがまだオークは倒れず、ウォルターも止まらない。
剣を振り抜いたあと。
無言のまま股の間を滑り抜ける。
それで右膝をついたオークの背後を取った。
「…………」
そして逆手に持ち替えた剣を振りかざす。
背中はがら空きで、しかし背丈の差で胸や首には手が届かない。
だから俺にはどこを狙うのか分からなかったが、彼はオークの右足の裏に刃を振り下ろし突き刺した。
両手の、しかも体重をすべて乗せた突き。
子供の一撃とはいえ足の甲を貫くには十分だった。
悲鳴をあげたオークが倒れ込む。
剣を引き抜き追撃を加えようとしたが、苦し紛れか大きな腕が振るわれた。
だがウォルターはそれをかすりもせず回避した。
分かっていたかのように身を引き、一度俺の前まで戻ってきた。
「怪我をしてるな」
「腹を殴られて……」
「立てないなら無理をしなくていい。悪くなる」
「うん……」
答えながら気がつく。
俺の無事を確かめに来てくれたのだということに。
また意外に思いながら、俺はさっき浮かべた疑問を彼に問いかける。
「……なんで助けてくれたの?」
俺の問いに唇をまっすぐに引き結ぶ。
そうして少しだけ沈黙を守ったあと、かすかに顔をしかめて答えた。
「借りを返すと言った。だから……なにかおかしいと思ったからついて来た」
そんな理由だとは思わなかった。
確かに俺は彼をリリアナに引き合わせたけど、それだけのことのために命を賭けるなんて信じられなかった。
まして彼の性格ならなおさらだ。
俺がそんなふうに思ったことが伝わったのか、小さくため息を吐いて彼は言葉を続ける。
「釣り合わないから出る気はなかったし……命まで賭けるつもりもなかったよ。……でも、死なれたら返せないだろ」
釣りはとっておけばいいと、皮肉げに言ってウォルターは振り返る。
オークが立ち上がったのだ。
「あいつの足を見ろ」
言われて俺は慌てて視線を向ける。
腹が痛むから寝たままで。
「…………」
するとすぐに気がついた。
ウォルターの意図と、さっき感じた違和感の正体に。
あのオークの足はもう十分に機能していないのだ。
逃げないように足の重要な部分を切っていたのかもしれない。
あるいは枷を外す時になにかあったのかもしれない。
いや、多分その両方なのだろう。
だがとにかく大きな足はウォルターが傷を入れた以上に損傷していて、立っているだけでかすかにふらついているようにさえ見えた。
「追ってこられなくなるまで足を傷つける。それか殺す。少し待てるな?」
「でも……そんなこと……」
ただの子供にできるとは思えなかった。
だがなんとなくそうは言えなかった。
それでも消えいった言葉の余韻から察したのだろう。
振り向いて口を開いた。
「そんなに心配なら這ってでも逃げるといい」
「……違う。俺じゃなくて、お前が」
なにもできないから言いづらかった。
でも目をそらしながら言うとウォルターは小さく鼻を鳴らしたようだった。
「余計なお世話だ。俺は別に生きていたいわけじゃない」
聞いていて苦しい言葉だった。
なにも返せずに黙り込むのを見て、あいつはまたすぐに前を向く。
彼の視線の先には右足を引きずりながらも走りだすオークの姿があった。
「―――――!!!!」
おそろしい叫び声をあげて強い拳を振りかざしている。
当たれば体がばらばらにされてしまうような、受けることさえできない一撃だ。
しかしそれでもウォルターの背中に恐れる気配はまるでない。
ただ教えられた通りに剣を構えていた。
右手は逆手。
左手は順手。
剣先は下で、かつ右の後ろに流すように。
「…………」
オークの拳が振り下ろされる。
何度も何度も叩きつけられる。
だが風を切る腕はウォルターを捉えられない。
ある時は殴り、またある時は掴もうとする腕をすり抜けていく。
背を向けて逃げているわけではない。
だが的確な判断で後ずさり身を翻す彼は、紙一重でオークの猛攻をいなしていた。
また腕をくぐり抜ける。
同じ子どもだとは信じられないほどにずば抜けた身のこなしだった。
そして彼は避けるだけではない。
剣先を上手く使って絶えずオークに浅い傷を入れている。
習っていない斬り方だった。
体重の移動で剣を動かすような、腕力以上に刃の重さを感じさせない振り方だった。
今も掴みかかってきたオークの指を切断した。
突進をすり抜けてすれ違いざまに転がりふくらはぎに傷を入れる。
素早く動き回って安全圏から少しずつ肉を切り落としていた。
そうしてずっと傷を増やしていき、オークはついに崩れ落ちた。
「!」
ウォルターはその隙を逃さなかった。
座り込んだことで手の届く位置まで来た首を斬ろうとする。
すんでのところで盾のように出された腕に防がれた。
だが止められた刃を滑らせて、左の眼球に切っ先を突き込んでみせた。
オークが悲鳴を上げて倒れる。
そして今度こそ無防備に晒された喉元を裂くために刃を振り上げた時。
「―――――!!!」
唐突にオークが一際大きな叫びを上げた。
もがくようにして腕を振るった。
本来なら腕は届かないはずだった。
しかしウォルターは防御の姿勢をとった。
それも間に合ったように見えた。
「っ……!」
だが鎖が鳴る音に加えて鈍い打撃音がかすかに響く。
吹き飛ばされた。
でも悲鳴は出さなかった。
かわりに小さく血を吐く息が聞こえた気がした。
「ウォルター?!」
何が起こったのか分からなかった。
オークはよろめきながらも立ち上がろうとしていて、対するあいつはぴくりとも動かない。
状況を理解するために視線を巡らせると、オークの手に足枷が……鉄球つきの鎖が武器のようにして握られているのが見えた。
振るわれたのは枷がついている方だったようだが、それでも硬質の金属が当てられた事実は変わらない。
「そんな……」
ぞっとして思わずつぶやく。
鎖だったから剣のガードは間に合ったのに攻撃が当たったのだ。
それ以上に寝た姿勢、苦し紛れとはいえあの怪力で鉄枷をぶつけられた体のことが気になった。
「ウォルター!!」
叫ぶと腹が痛んだ。
返事はない。
だがまだきっと死んではいない。
オークに目を向けるとまだ立ち上がれてはいないのがわかった。
何度も転んでいる。
俺がウォルターを助けなければ。
そう思って立ち上がろうとする。
ずきずきと痛む腹のせいで何度か力が抜けた。
手をついて、また泣きそうになっていた弱虫な自分に気がつく。
唇を噛み締めて、痛む場所を押さえつつ歩き始めた。
「ウォルター! ウォルター、しっかりしろ!」
かすかに動いた。
雪の中に埋まっていた顔がわずかに上がる。
だが見えた顔は血まみれで、俺よりもずっとひどく吐血していた。
「……悪いな、できると……思ったんだけど」
「ウォルター!」
まだ生きている。
確信を得て足を早める。
そうして彼の横に膝をつくと、息も絶え絶えに口を開いた。
「なにしてる。歩けるなら……逃げればいいだろ……。しばらくは俺のこと……食ってると思うよ、あいつ……」
どこか投げやりに、自嘲するようにそう言った。
気がつけば俺はぼろぼろと涙をこぼしていた。
「なに言ってんだよ! だめだそんなの……俺は……! 俺は……!!」
「いいよ、そういうの」
返ってきたのは冷たい言葉だった。
目を見開いた俺に、焦点の合わないうつろな視線を向けてきた。
そして続けられたのは穏やかな謝罪だった。
「……ごめんな。気に病むよな。そういうやつだもんな。……それくらい、分かるよ。短い付き合いでも」
死ぬのを恐れていないかのように。
いや、歓迎してさえいそうなほど穏やかな声だった。
出会ってから今までで一番安らいだ声だった。
「でも、もういいんだ。助けたり助けられたり……それがいやだから俺はここに来たんだ。借りを消したかったんだ」
「…………」
「だから……俺は……」
痛みに呻いて言葉が切れた。
数度苦しげに息を吸って、ウォルターは続けた。
「俺は……一人でいい。君とは違うんだ」
一人でいい。
一人で死にたい。
ウォルターは本気でそう言っている。
だが俺はぶんぶんと首を横に振った。
それだけはだめだと思った。
俺は知っている。
どんなに一人が寂しいか。
どんなに一人で死ぬのがおそろしいか。
理由はどうあれウォルターは来てくれたのだ。
さっき一人で死のうとしていた俺のために。
そんな彼を置いていけるはずがなかった。
「……なにを」
ウォルターの言葉を無視して剣を拾う。
手が震えて仕方がない。重い。
授業で教わった構えを思い出せなかった。
俺はただ両手で剣を固く握りしめて、前に突き出して構えた。
オークを見ると足を引きずりながら歩き始めたところだった。
「……無理だ、君には。やめろ。無駄死にするつもりか」
たしかに無理だ。
それにそもそも俺にあのオークを傷つける資格なんてあるのか?
オークは苦しそうに足を引きずっている。
体中を傷と古傷に覆われている。
俺たちがしたことだ。
恐怖と罪悪感に腰が引ける。
俺はずっとあのオークを閉じ込めて傷つけてきたのだ。
憎まれて当然のことをしたのだ。
「…………!」
荒い息を吐いた。
腹が痛む。
近づいてくるオークは大人よりもずっと大きい。
悩むまでもなく勝ち目なんてないことがはっきりと分かった。
俺はウォルターと違ってただの子供でしかない。
親でさえ置いて逃げたような弱虫な子供が勝てるはずなんてない。
冷や汗を流す。
だらりと剣を下ろした。
固く目を閉じる。
ああ。
やっぱり無理だ。
せめて俺が死ねば時間を稼げるだろうか。
俺が食われてる間に助けが来ないだろうか?
先生たちが兵隊さんの手を借りて探しているのだと聞いた。
なら間に合うかもしれない。
そうだ、剣なんか捨てて食われてしまおう。
弱い俺にできるのはそれだけだ。
……きっとそうだ。
腹の痛みで朦朧とする意識の中。
諦めた俺はしゃくりあげて俯いた。
するとどこからか鐘の音が聞こえた気がした。
「…………」
今度こそ俺の番が来たのだと告げる音だ。
恐ろしい鐘の響きだ。
きっともう死ぬからだろう。
まぶたの裏に今までの人生の記憶が巡り始めた。
居場所のない村での暮らし。
みんなで故郷から逃げ出した日。
一人で走り続けたこと。
行き場もなく死のうとしていた時。
なじめなかった孤児院での生活。
思い出したいことなんてないのに。
幸せだったことなんかないのに。
それでも記憶は溢れて止まらない。
ああ。
やっぱりいいことなんかなかったんだな。
記憶をさらってみた俺は改めてそう思う。
不幸せな人生だったと。
「……ごめん。……せめて俺が……先に……食われるよ……」
震える声で伝えた。
ウォルターがなにかを叫んだ気がした。
よく聞こえない。
きっと止めようとしているのだろうけど、俺は死んだほうがいいのだから構わない。
生きる資格もなく、不幸なだけの人生を生きるよりは幸せだろう。
むしろどうして今まで怖がっていたんだろうか。
俺は本当に馬鹿だ。
生きていたってなんにもいいことなんてなかったのに。
……………………。
…………。
……。
「……………………」
……本当に?
ふと疑問を覚えて顔を上げる。
そして目を開けた時。
幻の鐘の音に混じって、今度ははっきりとウォルターの声が聞こえた。
「ふざけるな!! お人好しも大概にしろ!! まだ俺に借りを作らせるつもりか!」
懸命な声が閉じ込めていた記憶をわずかにこじ開けた気がした。
あと少しでなにかを思い出せそうな感覚に、俺は束の間死への恐怖すら忘れる。
「諦めるな! 諦めるな!! 生き延びろ!!」
生きろと言われた。
目を見開く。
そうだ。俺は生きなければならない。
どうして?
そう思った時、鐘の音が消えた。
雪混じりの風が頬に吹き付ける。
『リュート』
幻の鐘の音のかわりのように懐かしい声が名を呼んだ。
すると唐突に見覚えのない……いや、俺が捻じ曲げていた記憶が蘇る。
ところどころ赤く染まった雪の道。
涙を凍らせながら微笑む誰か。
俺の頬を愛おしそうに撫ぜた指先。
……ああ。
ああ、そうだ。
思い出した。
俺は。
『生きなさい』
不幸ではなかった。
決して不幸ではなかったのだ。
大切にされていた。
孤独ではなかった。
俺はたくさんの祝福の中で生かされてきたのだ。
「……ごめんね」
俺は確かに色んなものに隠れて逃げてきた。
多くの人を見捨ててしまった。
でもこれだけは勘違いしてはいけなかった
かあさんは俺を見限ってなどいなかった。
なのに後ろめたい気持ちに任せて記憶を捻じ曲げていた。
生きなさい。
かあさんはそう言ったのだ。
きっとそうだったのだ。
あのときかあさんは怯える俺の頬を撫でた。
震えて動けない俺に触れた。
そうだ。撫でたのだ。優しい手付きで。
そして小さく、ため息のように微笑みかけて送り出した。
背を押して。最後まで俺の無事を祈って。
叩いて突き放したりなどするはずがなかったのに。
「……ありがとう」
とうさんは村のために戦った。
かあさんは一人残って化け物の気を引いた。
二人とも俺を守ろうとしてくれた。
必死に守って生かしてくれた。
だからきっと俺は幸せな子どもだった。
生きていてもよかったのだ。
意識するよりも前に剣を握り直す。
強く意思を抱いた。
とうさんとかあさんの想いを無駄にするわけにはいかない。
そう思うと体の奥からなにか温かい力がこみ上げてくるように感じた。
血のように熱い涙が溢れた。
「…………」
……ずっと、あの雪の街で考えていたことがある。
どうしてこんなことになってしまったのかということだ。
だけど今分かった。
立ち向かわなかったからだ。
なにも特別な力などなかったとうさんとかあさんは俺を守り抜いた。
なら俺にだって……少なくとも挑むことだけならできたはずなのに。
『自らを嫌悪する者は、自ら沿わんとする理想を知る者である』
今ならこの言葉の意味が分かる。
俺は本当は立ち向かいたくて、でも恐ろしかったから。
だから勇者様のように強くない俺には無理なのだと自分を誤魔化していた。
戦って立ち向かうことから逃げ続けてきたのだ。
そんな自分がいやで、死ぬべきだと言い聞かせて責め続けてきたのだ。
……だが、もう俺は逃げることをやめる。
今度こそ立ち向かってみせる。
敵はたった一体。
傷ついた化け物。
かあさんたちが立ち向かったものに比べればなんということもない脅威なのだ。
剣を前に突き出して構える。
すると背後から訝しむような声が聞こえた。
「……リュート?」
初めて名を呼ばれたが振り向かなかった。
自分を奮い立たせるために敵を睨みつけた。
苦しそうな息を吐くオークはゆっくりゆっくりと、時々立ち止まりながら。
開いた傷も合わせて全身からだらだらと血を流しながら近づいてくる。
「…………」
死ぬつもりはなかった。
傷つけたくないだなんてきれいごとももう言わない。
俺が殺されてでも時間を稼ぐだなんて馬鹿なこともしない。
死ぬわけにはいかなかったから。
生きてほしいと願ってもらった幸福に、俺は報いなければならないから。
だから語りかけた。
傷だらけのオークへと。
「ごめんな……」
きっと痛かっただろう。
俺は何度も何度もよってたかってお前を傷つけた。
怒るのも当然の話だ。
殺されたって文句なんか言えない。
……だけど。
これ以上お前を傷つける権利なんてあっていいはずがないけれど。
お前に恨みはないけれど。
それでも。
「……死んでもらう」
雪の中。
震える声でそう伝えた。
左手で涙を拭って息を吐く。
……白い息。鼓動が聞こえた。
騒がしいほど打ち鳴る心臓。
実感が訪れる。
俺はまだ生きている。
ここに生かされている。
だからもう迷わない。
殺さなければ生きられないなら俺はそうする。
生きるために、誰かを守るために俺は敵を殺す。
たとえその選択が相手にとっての邪悪でも、理不尽でも、それでも俺は殺すことを選んでみせる。
屍を踏みつけてでも生き抜いてみせる。
生きていたいから。
生きていてほしい人がいるから
……生きてと願ってくれた人がいたから。
かじかむ左手でお守りのメダルを取り出す。
剣にかざした。
勇者のようにはなれなくても、俺にできる最善を尽くすことはできる。
たとえ勝てなくても生き抜くために戦いを挑むことはできる。
そんなふうに自分を勇気づける。
そして教わった詠唱を唱え始めた。
「力よ、剣戟を高めよ。勇壮を纏い、あらゆる盾を破れ。叡智を重ね、術威を示せ」
まだ終わりではない。
震えそうになる声でなんとか発音し続ける。
正確に形を思い浮かべる。
なんとか最後の一節を唱えきった。
「月におわします神よ。どうか神罰を担いし聖剣の栄誉を。輝かしきその片鱗をお預けください」
唱えきる。
祈るように剣を見つめた。
初めて使った。
ちゃんとできたかは分からない。
できなくても諦めるつもりはなかった。
しかしその上で、どうか炎を得られるように願った。
「…………」
剣を見つめる。
するとちろりと赤い光が剣の腹を舐めるのが見えた。
目を疑うが、次の瞬間には大きな炎が生まれた。
剣が燃え始める。
俺の力ではないと思った。
かあさんやとうさんが助けてくれたような気がした。
言葉にできない思いを飲み込んで前を向く。
オークは少しずつ少しずつこちらに向かってくる。
俺は痛みをこらえて歩きだした。
「…………」
お互いにゆっくりと近づいている。
だから傷だらけの姿はよく見えた。
星と月に照らされた体はもうぼろぼろだった。
きっと俺やウォルターよりも深く傷つけられていた。
苦しみに乱れた息は荒く、気配は血走っている。
もしかすると人間のように痛みを感じ、怒ることができる生き物なのかもしれないと思った。
だがそれでも殺すことは決めていた。
もう迷ったりためらったりすることはできなかった。
燃える剣は俺からどんどん力を奪い去っていく。
尽き果てる前に終わらせなければならない。
ずっと苦しめてきたオークのためにも、せめて最後くらいは一瞬でなくてはならない。
「…………」
踏み込めば剣先が届く距離に来た。
オークが震える手を振り上げた。
鎖が鳴る。
俺は鉄球の一撃よりも早く、目一杯前に出て手を伸ばして刃を突き出した。
それは刃の重さに負けた、本来なら厚い胸板に遮られる弱々しい突きだったかもしれない。
だが纏う炎に胸の真ん中が焼き抉られ、剣はあっさりと向こう側へと突き抜けた。
振りおろされようとした手が止まる。
そして剣の炎による真っ黒い焦げ目が広がると小さな呻き声が聞こえた。
腕が下がり、オークは膝をつく。
そしてそのままゆっくりと前に倒れ込んできた。
俺は後ずさりながら剣を抜き、息絶えた体の横顔を見下ろす。
死んでいるのだと分かった。
俺が殺したのだと実感が湧いた。
水に泥を溶かしたように心が罪悪感に染まっていく。
「…………」
何も言えないまま佇んでいると、やがて剣から燃え盛る火が消えた。
それと同時に力が抜けて俺はオークの隣に倒れ伏す。
そしてぼんやりとした頭で死に顔を見ていた。
謝ろうかと思ったが、殺してから謝るのはおかしいと思ったので何も言わなかった。
ただただ背に重い石をくくりつけられたかのように罪の意識がのしかかってきた。
「――――――――!!」
しばらくするとなんだか遠くが騒がしくなったような気がした。
だが確かめる間もなく俺の意識は薄れていく。
疲れと痛みと……あとは魔力を使いすぎたからだろうか。
水の底に堕ちていくような感覚だった。
死んだオークの、潰れていない右の瞳に星が映っているのが見えた。
やがて指の一本さえ動かせなくなった俺は、目を閉じて抗えない眠りに身を委ねた。




