十一話・変化
週に二回の休みの日に。
はらはらと、ほんの少し雪の降る夕暮れに。
休みの日の昼ごはんの後にいつもする孤児院の掃除をして、それから俺はいつも訓練をしていた広場の隅にいた。
あのがれきの街でそうしていたように孤児院の塀に背を預けて座り込んでいる。
宿題も済ませてしまって、やることもなくて友達もいない。
だから俺はヴィクター先生のコートを着て雪を見ながらひとりで隅っこにいた。
そうするとなんだか、あの街にいた頃の静かな気持ちが戻ってくるような気がしていた。
「…………」
かじかむ手に息をかけて暖める。
そして拳を握って熱を行き渡らせながら、俺はゆっくりと想像の世界に沈んでいく。
思い浮かべるのは輝く炎の勇者になって村の人たちを助ける姿。
村に来た化け物をやっつけてみんなを救う夢だ。
よく晴れた空。
いつもどおりの村。
家には山ほど薪があって、寒い思いもしなくていいだろう。
ご飯だってたくさんある。
村を救った英雄の俺はみんなから褒められてお腹いっぱい食べられる。
もちろん祝いの席ではとうさんとかさんも隣にいてくれた。
一度終わればまた最初から。
俺はそんな妄想を、何度も何度も繰り返し繰り返し夢見ていた。
近頃はそうやって時を過ごすことが多かった。
「ねぇ!」
「…………」
誰かが突然話しかけてきて、俺は現実に引き戻される。
どうやってここを見つけたのだろう。
「なに?」
声からしてリリアナか。
俺は彼女の方を見ず、俯いたまま答えた。
するとすぐに答えが返ってきた。
「最近なんか……か、変わった?」
明らかにおかしい発音だった。
だから彼女へ視線を向けると、リリアナは両手で肩を抱いて震えていた。
顔まで青くしている。
「…………」
寒いのだろうか。
外での授業の時も震えている人は結構見かけるし、それは思えば当然だ。
俺たちには肌着と長袖の服がいくつか、それしかないのだから。
とはいえみんな重ね着したりはしてるのにリリアナはいつもそれをしない。
ケチだから重ね着なんかできないのだろうか。
「なんかへん、なこと……かんがえ……て……」
「…………」
ふと。
気がつけばため息が漏れていた。
俺はコートを脱いでリリアナの方に突き出す。
「いいの?」
「いいよ」
きょとんとした顔で尋ねてくるリリアナに頷く。
すると彼女は嬉しそうに笑った。
「ありがとう。一生大事にするよ!」
「一生はだめだ」
やるつもりなんてない。
貸すだけなのに。
呆れてもう一度ため息を吐くと、リリアナはいそいそとコートを羽織る。
そしてどさりと音を立て左隣に座り込んだ。
俺は地面の雪を払わなくていいのか一瞬だけ気になった。
だけど多分大丈夫かなと思い直す。
雪はそんなに積もっているわけではなくて、積もっているというよりは地面にすかすかの雪の粉が散りばめられているというような様子だったから。
「銀貨は寒くないの?」
「銀貨じゃない。……俺の村はもっと寒かったから。だから慣れてる」
これは本当だった。
本当に、とてもとても寒かったのだ。
がれきの街で野ざらしにされていたあの日、よく死ななかったものだといつも思う。
あるいは逃げ込んだ街が村ほどには寒くなかったから生き残れただけなのか。
ずっとずっと長い間村から出て逃げていたような気がするからもしかするとそうかもしれない。
「そうなの? そんなとこなら土地が安そうね!」
けらけらと笑ってよくわからないことを言う。
……土地が安いだなんて、相変わらずおかしなことばかり言うやつだと思う。
「土地……? 安い? お前って……ほんと……」
土地が安いだなんて、そもそも土地は買うものじゃないはずだ。
領主様のものだし、耕すための土地を売ってどうやって生きるというのだ。
だけどそんなことをリリアナに言ったって仕方ないだろう。
彼女と俺は全く考えが合わないのだから。
「リリアナはどこに住んでたの?」
とりあえず話を逸らすと、身に着けたコートの袖を軽く引っ張りながら答える。
彼女は俺より背が高いので少しコートが小さいのかもしれない。
「わたし? そうね、カロンって街知ってる?」
目をキラキラさせてそんな街の名前を出した。
知らなかったので首を横に振る。
「知らない」
「ほんとに? 天下のカロンじゃない」
知らないと言うと、彼女は大袈裟に驚いてみせる。
そしてまくしたてるようにしてなにやら話を始めた。
「有名な『こうえき』の街よ。うちはリンダムとかに小麦を卸す商人の家でね。あそこパンの街だから色んな場所の小麦を持っていくと喜ばれてた。正直違いわかんないけど、でもお父さんはちょっと舐めただけで産地が分かるんだよ。それでね……」
「…………?」
よく分からないけど、リリアナは楽しそうだったので黙って頷きながら話を聞いていた。
するといつの間にか話を終えたらしくて、今度は俺に質問をしてきた。
「銀貨のとこはなにしてるおうちだったの?」
「うちは……畑を耕してた」
俺はそう言う。
彼女はまた目を輝かせた。
「じゃあ小麦作ってた?」
「まさか。そんなの育たないし、作ってもカラス麦とかだよ……」
「そうなんだ……」
あからさまに残念そうな顔をするのでちょっと腹が立った。
鼻を鳴らして俯くとリリアナも鼻を鳴らす。
「別に馬鹿にしてるわけじゃないもん。……他にはなに作ってたの?」
「俺も怒ってないよ。……いもとか? そうだ、いもは好きだろ」
見返してやるつもりで少し胸を張って言う。
すると彼女はにこりと微笑んだ。
「うん、わたしも芋好きだよ! 美味しいよね!」
初めて同じ意見だ。
俺は顔を上げて、彼女に話を合わせる。
「うん。美味いし、いもならたまにはお腹いっぱい食べれるしね……」
リリアナは少し驚いたように目をみはる。
そしてよくわからない質問を投げかけてきた。
「お腹いっぱいって……食べるものなかったの? それとも買えなかったの?」
「なかった」
「ほんとになにもないの?」
なかった、買えなかった、この二つの印象の違いに少し違和感を覚える。
ないものはないので買えるわけがないのだけれど、リリアナが言おうとしていることは多分少し違う。
うまく言葉にはできないけれど、彼女はきっと豊かなところで暮らしていたのだろうと思った。
そんなことを考えながら、俺は彼女の質問に答える。
「なかったよ」
「どのくらい?」
問いが重ねられる。
俺は少しだけ困ってしまう。
どのくらいと言われても何と比べればいいのか分からない。
「……よくわかんないけど。でも俺はお腹が減りすぎて掘り出したいもをそのまま食べようとしたことがあるよ」
ようやっと口にしたそれは、村でもちょっとした笑い話にされていた出来事だった。
ある日俺は腹が減って仕方がなくて、だけどその日は収穫の日だった。
だから後でたくさん食べられるということでずっといものことを考えながら収穫を手伝っていた。
でもやっぱりお腹が減って辛くて、意識がぼんやりとして気がつけば収穫した中で一番大きないもに土も払わずかじりついていた。
後でかあさんがいもをふかしてくれた時、歯型がついた大きないもを見て「これはリュートのおいもさんだね」と言って笑ったことを今でも覚えている。
ふかしたいもはとても美味しかった。
「なんなの、それ」
村のことを思い出す。
そして何故悲しくならないのだろうと気がついたところで、リリアナの笑い声が聞こえて現実に引き戻された。
「……そんなに面白い?」
あんまり笑うので聞くと、彼女は小刻みに震えながら頷く。
もしかしたら今の話を嘘だと思っているのかもしれないと思った。
「そりゃもう。お金払えるくらい」
「う〜ん……」
彼女にとってはすごい褒め言葉なのだろうか。
ツボは分からないが、自分の話で笑ってくれたことは素直に嬉しかった。
村にいた頃……特に最後のあたりは化け物のせいでみんな余裕がなくて、俺の話を聞いてくれる人はあまりいなかったから。
「そういえばさっきの変わったってどういうこと?」
話すこともないので最初の話題に立ち返る。
するとリリアナは俺の目を見てなんだか言いにくそうに目を瞬かせた。
「えっと……勘違いだったかもだけど、ちょっと変わった気がしたの。最近なんか落ち着いてるし……なんか、オークにも、さ……」
「…………」
確かに俺は鐘の音を聞く度に取り乱したりしなくなった。
突然泣いたり叫んだりもないし、今は訓練でもオークを傷つけられる。
そしてそれは、全てセオドア先生のおまじないのおかげだった。
色んなことで悩んでいたけれど、頭の中でおまじないを唱えればそういう気持ちは溶けていく。
なんとなく曇り空を見上げた。
「おまじないのおかげなんだ」
「おまじない?」
不思議そうに聞き返してくるけど、彼女に説明するのはなんだか面倒だった。
だから俺はリリアナに向き直り、代わりに言いにくそうにしていた理由を問う。
「それよりなんでそんなこと聞くんだよ。リリアナだってオークに……」
「それは」
俺の問いに、彼女はバツが悪そうに眉を下げる。
そして目を泳がせながらしどろもどろに、やはり後ろめたそうにして答えた。
「それは、わたしはそうだけど、銀貨はなんか、違ったから……できないと、思ってたから……」
「…………」
意味が分からない。
そんな、悪いことみたいに。
やらなかったらやらなかったで別の奴に文句を言われるのに。
庇ってもくれなかったくせに。
少しだけ腹が立ったから俺は無言で立ってその場を後にする。
すると背後で慌てたようにリリアナが立つ気配がした。
「ご、ごめん……あ、コート……」
「…………」
珍しく弱ったような声が追ってくる。
そして俺は内心しまったと思う。
だけど戻る気もしなかったから着せたままにしておいた。
本当は今すぐ取り返したかったけど、でも今度会ったら返してもらえばいい。
「…………」
心の中でおまじないを呟くと、ささくれた心が落ち着いた気がする。
しかしそれでもなんだかすごく嫌な気分だった。
―――
孤児院の廊下を一人で歩く。
流石に最近は友達同士で遊ぶようなやつらもそれなりに見かけるようになっていて、建物の中はちょっとだけ騒がしかった。
オークを傷つけるようになってからは嫌な目を向けられることも減っていったけれど、それでもやっぱりこの孤児院には馴染めない。
だから俺は人のいない場所で落ち着こうと歩き始めた。
「…………」
ここで暮らし始めてからもうかなり経つのでどこになにがあるかとかはだいたい分かる。
そして俺がいてもいいのは外と食堂、あと自分の部屋に図書室くらいだろう。
さっきのことがあったのでもう外には行けない。
食堂は人が多いし、部屋にはウォルターがいてなんだか気まずい。
最後に残った図書室は本がたくさんある部屋なのだけれど、普通は休みの日しか入れない。
そして休みでも人があまり寄りつかないので行ってみるのはいいのかもしれなかった。
とりあえずでも目的地が決まったので俺は歩き始める。
図書室は孤児院の一番上、三階の真ん中あたり。
南向きにして広い場所がとられていたはずだ。
だから少し遠いのだけれど、訓練をするのと食べ物がいいおかげで前に比べるとずいぶん力がついている。
今ならちっとも苦にならない距離だった。
すぐに目的地に着いて木のドアに手をかける。
そして扉を開けようとした時、ちょうど後ろから声が聞こえた。
「……あっ」
振り向くと一人、小柄な女の子がいた。
銀の髪、青い目、白い肌。
そしておどおどとした表情で見上げる気弱そうな顔つき。
なんだか見覚えがある気がする。
「…………」
そう思ってまじまじと顔を見て、すぐに気がついた。
この子は確かいつかの訓練で背を支えた子だ。
辛くてたまらなかったし、あの後何度かまた手伝ったことがあるからよく覚えている。
正直なところ毎回毎回手を貸すのはきつかったけれど、俺と彼女はいつも最後尾で場所が近い。
それに彼女はシーナ先生におどされるといつからか俺の方を見るようになっていた。
だから俺としてもなんだか見捨てにくくなってしまったのだ。
「あの……ごめんなさい、いつも」
頭を下げて、本当に申し訳なさそうな様子で言われた。
もちろん支えるのはとてもきつかったけれど、ここまで気にすることかと言えばそうではないと俺は思っている。
だからなんと言うべきか困って言葉に詰まっていると、腰を折っていた彼女が顔を上げた。
「だけど今日も、走ったので。もう迷惑をかけないように……。少しずつ頑張るから、だから……」
黙っていたのがいけなかったのだろう。
今にも泣き出しそうな顔になってしまった。
俺は少し慌てて、図書室の扉を開けて中を指差す。
「とりあえず入ろう」
「…………? う、うん」
何故か一瞬首を傾げて、けれど彼女はぶんぶんと首を振って頷いた。
歩き始めた俺の後ろについて中に入る。
「…………」
「わ……」
部屋に入って、それで二人とも言葉を失ってしまう。
図書室という言葉の意味は教えてもらったし、どういう場所なのかも知っていたはずだった。
だけどそこには想像を遥かに超える光景が広がっていた。
まず目が行くのは当然ながら本と本棚だ。
暗い赤の絨毯が敷かれた横長の部屋の左半分が本棚の場所で、そこには俺の身長の倍以上もありそうな本棚がいくつも置かれている。
間に一定の間隔を開けて、本棚の隣に本棚を置いて、その一つの棚には本が入る場所が十段もあって。
隣り合わせて繋げることで長い長い一つの本棚のようになった列が部屋の長い方の壁と平行に五つ並んでいた。
さらに部屋の左半分の壁にぴったりと背をつけて壁に沿うようにして設置された本棚も加えれば、一体何冊もの本があるのか俺には想像もできない。
そして右半分は本を読むためのものなのか長机があったりするのだけど、こちらにも少し本があるようだった。
たとえばすぐそこ、なにか書きつけられた色紙をそばに添えられて、入り口入ってすぐの丸机の上には本がいくつか並べられている。
村にあった本は神父さんの神さまの本くらいだったから、俺は本だらけの光景にとても驚いた。
「本を読みに来たの?」
ずっときょろきょろと周囲を見回していた俺たちに、馴染みのある声がかけられる。
おそるおそる声の方、右手の方に振り向くと、そこには机に腰掛けたシーナ先生がいた。
白いシャツの上に亜麻色のセーターを着て、さらにいつもズボンの先生が丈の長い黒のスカートを履いている。
しかめっ面だけど雰囲気も訓練のときよりはずっと柔らかくて、本当に少し声をかけてみたと言うような感じだった。
「ひっ……」
だけどあの女の子は先生が怖いらしい。
思わずといった様子で声を上げて、俺の背後にさりげなく隠れてしまう。
あれだけ訓練でいびられていては仕方ないと思うけども。
「…………」
そんな彼女を見た先生は少しだけ眉を下げる。
しかしなんだか気まずそうに咳払いをして、またいつもの無表情に戻った。
「……私のことは気にしなくていいわ。でも借りたい本があったらここに持ってきなさい。記録しなければならないから」
とんとんと音を立てて右の人差し指で机の上にある紙束を叩いた。
そこに借りた本や借りた人の名前を書くのだと先生は言う。
「なにか借りる?」
俺は女の子にそう聞く。
すると彼女は首をぶんぶんと横に振った。
「私は、外で見かけて……それでついてきただけなので」
「そうなんだ」
多分彼女は走っていたのだろう。
そして孤児院の中に入る俺が見えて、わざわざ謝るためについてきたのか。
道理で中に入ろうと言われて首を傾げていたわけだ。
「でも本……見てみたいかも」
「…………」
そう言って俺を上目遣いに見つめる瞳は、訓練の時俺に助けを求める目にそっくりだった。
つまるところ彼女はシーナ先生が怖くて、俺についていてほしいのだ。
「入ろうって言ったの俺だから。……俺も見るつもりだったから」
少しだけ嘘をついて一緒に見るのだと伝えた。
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「……ありがとう」
それを見てこの子も笑えるのだなと、俺はなんだか感慨深い気持ちになる。
人のことは言えないけど、彼女も泣きべそばかりかいていたような気がしたから。
そんなふうなことを考えていると、歩き始めた彼女がおもむろに話しかけてきた。
「私、ニーナって言います」
名前を教えてくれた。
少しだけシーナ先生に名前が似てると思った。
「俺はリュート。……知ってるかもしれないけど」
泣いたりわめいたりしたし、オークを傷つけるのを嫌がったりしたせいで俺は孤児院で浮いている。
きっと俺なんてきらわれ者だろうから、名前が知られていてもおかしくない。
俺の言葉に彼女……ニーナは照れくさそうに笑って頷いた。
「おぼえてます。その……話せてよかったかも」
そんなに俺に謝りたかったのだろうか。
だけどこうして謝って、努力していることを伝えてくれたから俺はぜんぜん気にしていない。
だから首を横に振って、もう気にしなくてもいいのだと伝える。
「ほんとに大したことじゃないよ」
「?」
少し噛み合わない気もしたが、あまり話を長引かせても恩着せがましい気がする。
だから話題を変えるために、通りがかりの丸机の上にあった本を一冊手に取った。
「……『月のラッパ』」
少し開いて目を通してみる。
『むかしむかし、ラッパをふくのがじょうずなおじいさんがいました。
おじいさんは毎日山のふもとの湖でラッパを吹いていました』
……読めた。
村にいた頃は字なんて全然読めなかったのに。
なんだか夢中になってしまってページをめくり続ける。
文字が分かるようになっている、そのことを初めて嬉しいと思った。
もっと読めるようになるなら、もっと勉強してみたいかもしれない。
「おもしろい?」
「…………」
ニーナの声に現実に引き戻される。
正直、文字が読めることばかりに関心が向いて内容はあまり印象に残っていない。
もう一度ぺらぺらと本をめくってなんとか感想をひねりだそうとする。
でも結局諦めて、かわりに本を差し出した。
「……読む?」
こくんと頷いたニーナに本を渡す。
受け取った彼女はぽつりぽつりと文字をなぞるようにして読み始めた。
「……かしむかし……のが……ずな……」
声を漏らしながら、一生懸命に文字を追い続ける。
そんな彼女から目を逸らし、なんとなく本が置いてあった丸机に視線を向ける。
白いクロスが引かれた机の上には他にもいくつか本があった。
そしてそれらの表紙を見るともなく見ていると、さっきも見かけた色紙が目に入った。
そして紙には柔らかい字で『おすすめ』と書かれている。
「…………」
まさかと思って先生の方に目を向けると、先生も俺たちの方を見ていた。
「…………」
しかし一秒か二秒か、何秒かは分からないが視線がぶつかると先生は固まる。
続けて小さく咳払いをすると、窓の外に向けて気まずそうに視線を外した。
「……先生かな?」
本を並べたのは。
小さくつぶやいて考える。
実際どうなのかは分からなかったが、なんとなくそうではないかと思った。
「…………」
と、その時。
鐘の音が聞こえてきた。
夕時の鐘だ。
もうそんな時間だったろうか。
でも慣れっこの俺は、口の中でぼそぼそとおまじないを唱えることにする。
「あ!」
声が聞こえた。
俺はニーナの方を見る。
すると彼女は慌てたようにまくしたてる。
「ごめんなさい、約束があるのでもう行きます」
「約束?」
「はい。兄さんがきたえてくれるって……。優しいんですよ、兄さん」
外に出て走ってたのは、もしかするとその前の自主練習のようなものでもあったのだろうか。
ともかく理解した俺は頷いた。
「ああ、そっか。じゃあまた」
俺の言葉に一度だけ頭を下げて走り去って行く。
ぱたぱたと遠ざかる後ろ姿に、沈黙を守っていたシーナ先生が声をかける。
「図書室で走ってはいけないわ」
「は、はい!」
怯えたようにぶんぶんと頷いて、ぎこちなく歩き始めたニーナはすぐに図書室から出て行った。
俺はその背中を見送って、家族がいるのが羨ましいと思った。
ドアが閉まり、図書室はしんとした静けさに包まれる。
俺はしばらくぼんやりと立っていた。
「鐘の音」
「?」
不意に声をかけられて、まともに返事もできなかった。
振り向くとシーナ先生が話しかけてきていた。
「もう大丈夫なの?」
「……はい」
俺が答えると、先生は何度か小さくうなずいてみせる。
そして真顔のままとんでもないことを口にした。
「そう、良かった。……そろそろ鐘を壊しに行こうかと思ってたけど」
「えっ……」
「ナイショよ。誰にも言わないで」
冗談なのかもしれない。
でもしかめっ面だから分からなかった。
また静かになる。
先生はまだなにか言いたそうに俺を見ていて、話すことなんてないのにそれでは居心地が悪かった。
……いや、そういえば聞くことがあったはずだ。
俺はズボンのポケットから、きれいに折りたたんだあの紙を取り出して隅の机に腰掛けた先生の方へ歩いていく。
話しかけるのは少し怖かったけど、ここはセオドア先生を信じることにした。
「あの……先生」
「なに?」
座ってる先生の横に行く。
そして紙を見せて意味を教えてくれるようにお願いした。
「これはどういう意味なのか教えてもらえませんか?」
「構わないわ」
右手で紙を受け取った先生は、数秒の間目を通す。
そして納得したように頷いて紙を返した。
「古い格言よ。昔の軍師が残した格言。……これを出すとなると院長先生かしら? やっぱり、歴史マニアだものね」
「…………?」
前半は俺に向けて。
後半は多分ひとりごと。
でもあんまり意味が分からなかった。
俺が混乱しているのが伝わったのか、先生は眉を下げてこほんと咳払いをする。
「……ごめんなさい。つまりは自分のことが嫌いな人は自分の悪いところをもよく知っているということで、それなら理想通りの立派な人間になるための近道をも知っていると、そういうことよ」
「……えっと」
「あまり分からない?」
少し目を見開いて、きょとんとした表情でそんなことを聞かれる。
おそるおそる頷くと、先生は怒らずに目を瞬かせて喉の奥で小さく唸った。
そして少し考えたあとまた口を開く。
「……簡単に言うなら……悪いところを知ってて、自分が嫌いなら悪いところを全部なくしてしまえばいいってこと。そうすれば良い自分になれるでしょ?」
「なるほど……」
ようやく理解できた。
だから頭を下げてお礼を言う。
「どうもありがとうございます」
「気にしなくていいわ」
「じゃあ僕も、そろそろ行きます」
夕の鐘が鳴ったのでもうしばらくしたら夜ごはんだ。
だからもう出ていくと先生に伝えると、彼女は少しためらったような気配のあと問いを投げかけてきた。
「……その前に私にも一つだけ聞かせて」
「はい」
「本は面白かった?」
俺は、結局ニーナにはなにも言わなかった。
だから先生も俺が本についてどう思ったのかは知らないはずで、それが気になっていたのか。
「おもしろ……かった、です? ……ありがとうございます」
さすがにこの流れなら俺にも誰があの本と、他の数冊を『おすすめ』として並べたのかくらいは分かっている。
だから並べた本人の前でよく覚えてないなんてことは言えず、少し躊躇いながらも面白かったと伝えてみた。
すると先生は表情は変えずに頷いて口を開く。
「それは良かったわ。本を読むのはいいことよ。だからまた来なさい。……本を読むのはいいことなんだから」
勉強して、もっと読めるようになるなら本を読むのも悪くなかった。
だから先生の言葉に俺は頷く。
「はい」
そこで思いあたる。
もしかするとさっきなにか言いたげだったのは、これのせいなのだろうかと。
俺に本の感想を聞きたくてじっと見ていたのだろうか。
「…………」
訓練のときの先生と普段の先生。
あまりに違いがあって、どちらが本当なのかはわからない。
だけど俺は、普段の先生は嫌いではないかもしれないと思った。
「どうしたの? もう行くんでしょう?」
その言葉に頷いて俺は立ち去ろうとする。
しかし咎めるような声で呼び止められた。
「人の前を去る時は、きちんと『失礼しました』くらいは言いなさい」
「あ……すみません。失礼しました」
振り向いて頭を下げる。
そして困ってしまって頭をかくと、先生は少しだけ首を傾げた。
「?」
「いえ……なんでもない。もう行っていいわよ」
「失礼しました」
一応もう一度言うと、なにか小さく空気が弾けるような音がした。
もっと言うなら笑いをこらえるような音が聞こえた気がした。
本当に小さかったから確信は持てなくて、しかも先生の表情は変わっていない。
だから気のせいだったのだと思い直して、俺は今度こそ図書室を立ち去ることにする。




