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ロストキルレシオ  作者: 湿った座布団
たとえ灰になっても
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六話・敵

 

 日が明けるとまた授業が始まる。

 ヴィクター先生の授業はまだしも、シーナ先生の授業はあまり好きになれないかもしれないと思った。


 冬の薄い日差しの下。

 昨日の広場で。

 あのウォルターがやっていたのと同じ腕を上下させる運動……腕立て伏せとかいうものをやらされている。

 みんなで先生の声に合わせて回数を数えて、三十回やらなければいけないのだが俺にはできる気がしなかった。


 しかも一度だけならともかく先生は三回はやらせるつもりなのだ。

 今は二度目だからもう腕が震えて半分もできない。


 そんなふうに腕立て伏せは本当に辛いのだが、実は今シーナ先生がこの場にいない。

 きちんとするようにとだけ言い残してなぜだか立ち去ってしまった。


 そのせいか周りのみんなあまりまともに腕立て伏せはしていなかった。

 腰を下げたり腕の曲げ方を小さくして上手くサボっている。


 俺はというと正直迷ったが、もう腕がもちそうになかったので彼らの真似をしようかと思ったその時。


「何故サボっている」


 聞くからにイライラした、低い声で不意に現れたシーナ先生がそう言った。

 俺は落とそうとしていた腰をゆっくりと水平に戻してまた腕立て伏せに戻る。


「いいか。お前たちの限界は私が決める。私には本当に限界でやめたのか辛さに負けて放り出したのかくらいの見分けはつく。判断は私に任せて、お前たちは一切何も考えず倒れるまで動けばいい。分かったな?」

「はい!」


 先生は返事を怠るとひどく怒るので、みんな大声でその問いに答えた。

 そしてそのまま腕立て伏せが終わり、倒れ込んだ俺たちに先生はおかしなことを口にした。


「今日はもういい。特別な訓練がある、列を作ってついてこい」


 もういいなどと、俺たちは言われたことがなかった。

 だから思わずみんな顔を見合わせるが、シーナ先生の鋭い声を聞いてすぐに立ち上がる。


「早くしろ!」


 縦に二列、いつもの移動する時の列だ。

 並んだ俺たちは黙って歩くシーナ先生についていく。

 それからやがてたどり着いたのは一軒の小屋の前だった。


 石造りの、こじんまりとした大きさの家。

 見ているだけで冷たくなるような石の色そのままの小さな小屋には窓がなく、かわり壁の高い位置に鉄格子がはめ込まれている。


「ここから先は一列だ。左の列から先に入れ」


 そう言われるが、なにか不気味な気がして俺は足がすくむ。

 けれど後ろの子供に押されて仕方なく進む。


 錆びかけた鉄の、ドアを開けてシーナ先生が中に入った。

 俺たちもそれに続いて小屋に入ると、俺の耳を打ったのはおぞましい叫びだった。


「ーーーーーーー!!!! ーーーー!!!!!」


 小屋の中には化物がいた。

 正確には小屋の中の一室にいたのだ。


 鉄格子に仕切られた部屋。

 両手と両足をおびただしい数の鉄球つきの鎖に巻かれて、両手の鎖で天井から吊るされている化物が凄まじい声で叫んでいた。


「いいか。こいつがお前らの敵だ。オークと言ってな……まぁ雑魚の部類だ。こいつを殺せなければ話にならん」


 シーナ先生はそう言って仕切る鉄格子の扉を開けて中に入る。

 そしてオーク……というらしい皮を剥がれた男のような化物の前に立った。


「知っているか。こいつらの名は魔獣だ。何人かは見たこともあるだろう……」


 絶叫の中、底冷えするような声でシーナ先生は一人語り続けた。

 しかしうるさげに眉をひそめると左の太腿につけた鞘から大振りのナイフを取り出して逆手に握った。


「……黙ってろ」


 言って、鮮やかな手付きでオークの喉を浅く斬り裂く。

 するとだらだらと不気味なほど赤い血が垂れて、オークはもう叫べなくなった。


 俺はその光景が怖かったし、何人かの子供は泣き始めた。


「何故泣く? 理由を聞かせろ」


 血の滴るナイフで空を切り、血を払うと鞘に戻す。

 そして牢の中から出てきた先生が泣く子供に歩み寄った。


しかるつもりはない。お前はこいつらに酷いことをされたことがあるのか? それとも驚いただけなのか? 私はそれが知りたい」


 なだめるような声でそんなことを尋ねられたのは一人の女の子だった。

 髪の長い彼女は涙に声を詰まらせながらもなんとか答える。


「パパと……ママも……みんな………殺されて……私も……い、いやぁぁ!」


 限界だったのだろう。

 ついに立っていられなくなり、彼女は座り込んで大声をあげて泣いた。


 するとシーナ先生はその肩を抱いて立たせて抜いたナイフを握らせる。


「そうか、それは恐ろしかっただろう。……だがもう大丈夫だ。これからはお前が、魔獣こいつらを殺す側に回る」


 ひゅるりと、喉を鳴らしてなおも暴れるオーク。

 その前にナイフを握った少女と先生は歩いて行く。


「刺せ」


 前に立った瞬間。

 一言だった。


「う……ああ……うわぁぁ!!」


 そしてその一言が放たれた瞬間、別人のような叫び声を上げて少女はオークへとナイフを振りかざす。


「死ね……死ね死ね死ね死ね……!! お前なんかっ……お前なんかぁっ……!!」


 がむしゃらに振り下ろされるナイフはオークの体を刺せていない。

 肉を削いで吊るされた体をかすかに揺らすだけだが、やはり痛むのかオークは斬られた喉から激しく息を吐いている。


「う……うう……」

「よくやった。私がお前を鍛えてやる。だからいつか、自分でこいつらの首を落とせるようになれ」


 刺し疲れてまた崩れ落ちた少女の肩を支え、ナイフを受け取った先生は牢の外に歩いて行く。

 返り血に汚れた少女は泣いていたが、それでもその目にはなにか不気味な光がうごめいていた。


「他に刺したいやつは? ここにいる者にはみなその権利があるが、やりたい奴からやればいい」

「…………」


 誰も何も言わなかったし、名乗り出なかった。

 弱々しいオークの息と数人のすすり泣きだけが小屋に響いていた。

 するとシーナ先生はため息を吐いて、なにやら話を始める。


「そうか。なら勉強の時間だ。知っているか? この魔獣には人を喰うクセがある」


 その声に突然俺の前に立っていた少年が弾かれたように顔を上げた。

 彼はずっと俯いて、何も言わずに震えていたから俺は少し戸惑う。


「クセなんだ。必要なことじゃない。そして喰ったあとどうするか知っているか?」


 冷たい声で、淡々と続いていた話が切れた。

 しかし指先でナイフを弄びながら、数秒の沈黙のあと石壁に寄りかかった先生が言葉を継いだ。


「吐くんだよ。ゴミみたいに。道に撒き散らして。腹の中で溶かしすらせず喰ったそのままを吐くんだ。無意味に喰って無意味に吐く。だから軍にいた頃はよく……」


 そこまで言ったところで。

 俺の前にいた少年が、獣のような声で叫んで走り出した。

 そして先生の手からナイフを奪うように取って牢に駆け込む。


「テメェ……! ふざけんじゃねぇ……!! かあさんを……かあさんも!!」


 少年は何度も何度も腹にナイフを突き刺した。

 時に分厚い肉の前に刃を逸らされながらも刺した。


「喰って……吐いたのか……! 吐きやがったのか!! なんとか言え!! ざけやがって……!! クソ、クソ、クソクソ!!!」


 そして最後に腹の真ん中に深々とナイフを刺して、抜こうとするも抜けずに腰を抜かしたところでようやっとシーナ先生が止めに入る。


「気は済んだか?」

「…………」


 先生の質問に息を切らした少年は何度も何度も首を横に振る。

 それを見て満足げに頷くと、ナイフを抜いて二人でこちら側へと戻ってきた。


「お前たちの人生が壊れたのはすべて魔獣のせいだ。まだ教えることは色々とある。そうだな、この中で家族が兵士だった者はいるか?」


 シーナ先生の話を聞くたびに誰かの中で憎しみが膨れ上がっていった。

 それはいっそ奇妙なほどに子どもたちの過去を捉えていたからなのかもしれない。

 実際のところはどうだったのかは分からないが。


 しかし過去トラウマを刺激されなかった子供もほとんどが場の雰囲気に流され徐々に凶暴な色を浮かべるようになる。


 刺すように言われれば従い、時には自分から名乗り出て刺しに行く者もいた。

 そうして、ついにやっていないのは俺とウォルターだけになった。


「あとは……お前たちか。ウォルター=ラインハルト、お前から刺せ」


 シーナ先生は歩み寄り、血みどろで駄目になりかけたナイフの柄をウォルターに差し出す。

 すると彼は醒めた目でそれを見て、静かに口を開いた。


「俺は強くなるためにここに来ました」

「……それが?」

「いえ。……ただ、こんなことをするより、先に剣の握り方でも教えてもらえませんか?」


 ウォルターの言葉に怒った、というよりは動揺したように見えた。

 シーナ先生はまさか断られるとは思っていなかったのだろう。


 なにか言おうとしては口を閉じて、それを何度か繰り返す。

 しかしやがてはっとしたように表情を引き締めるとウォルターを睨み、低い声で問いを投げた。


「やらないつもりか?」

「……先生」


 やらないつもりかと、すごんで見せる先生にウォルターは静かに語りかける。

 そしてぽつりと、呟くようにして声を漏らす。


「俺の家族をめちゃくちゃにしたのは人間です」


 一言だけ、たった一言だけあいつは反論めいたことを口にした。

 しかし先生は気にも留めずにナイフを差し出す。


「それがどうした。やれと言ったらやれ」

「……分かりました」


 躊躇っていたのが嘘のようにあっさりと短剣を受け取った。

 そして義務のようにオークに突き立てるとあいつは戻ってくる。


 先生はもう柄まで血まみれになったナイフを返されると、今度は俺に視線を向けた。


「リュートと言ったな。やれるだろう?」


 射殺すような視線で俺を見てくる。

 ウォルターのように躊躇うことすら許さないと視線が告げていた。


「故郷を魔獣に奪われたはずだ。できるだろう、それなら」

「…………」


 差し出されたナイフを受け取ることができない。

 俺は自分がどうしたいのか分からなかった。

 ただ断れば殴られるのかもしれなくて、それが恐ろしいと思った。


「やらないのか? お前は憎くはないのか、奴らが」


 やっぱりよく分からない。

 とうさんとかあさんを殺した化物とあれは似ても似つかない。

 魔獣だなんてひとくくりにされてもぴんと来なかった。


 ただ吊るされ、最早息をするのさえ辛そうなあの生き物を刺すのはいやであるような気がした。

 こんなふうに閉じ込めて痛めつけるのはおかしいような気がした。

 たとえ恨みがあったとしてもだ。


「なんとか言え。どうなんだ?」

「俺は……」


 シーナ先生の右手が肩を掴む。

 殴られるかもしれないのが怖かった。

 そして俺が今この場で一番憎いのはそんな臆病な自分だった。


「俺は……やりません……」


 結局どうすればいいのかは分からないまま、気がつけば俺はナイフを拒絶していた。


 はっとして後悔するがもう遅い。

 怖かったから目をぎゅっとつむって、膝を震わせながら身をすくめる。

 しかしいつまで経っても痛みが訪れる事はなかった。


 突き放すように肩に置かれた手が離れ、先生は小さく捨て台詞を吐く。


「……腰抜けめ」


 周りの子どもも、どこか俺に責めるような目を向けていたような気がした。

 だけど誰もなにも言わなかった。


 やがて小屋を出るように言われ、再び列を作って歩いて行く。

 すると前のあの少年が俺のことを肘で小突いてきた。


「…………っ」


 俺は痛みよりも驚いた。

 彼が俺のことを憎しみに満ちた目で睨んでいたからだ。


「早く出ろ! 今日はもう終わりだ」


 シーナ先生の声で彼は前を向き歩き始める。

 俺もついていきながら、ひどく心細い気持ちで俯いた。


 俺が悪いことをしたら両親が叱ってくれたし、いいことをしたら褒めてくれた。

 だけどもう二人ともいない。

 正しかったのかは分からないし答え合わせもしてもらえない。


 俺は一体どうすればよかったのだろう。


 ―――


 広場を出た俺たちは食事の前に風呂に入るよう言われた。

 孤児院の中の風呂は広くて、お湯に浸かれるらしい。

 薪は貴重だからお湯に浸かることなんてほとんどなかった俺にとってそれは驚きだった。


 昔街に行った時に家族で入った公衆浴場、それによく似た造りで床は石張りだった。

 風呂は確かお湯が湧く水盆のそばで体を洗い、その後で浴槽に入るのがルールだったはず。


 体を洗ってお湯に浸かろうと歩き始める。

 床は石張りで濡れていると滑るので慎重に歩を進めていた。


 するとあの小屋で俺を殴った少年が俺に近づいてくる。


「おい、テメェ。今日なんで刺さなかった?」


 もしかしたら彼は俺より痩せているかもしれない。

 背は同じくらいで、目鼻がはっきりとした印象の整った顔立ち。

 そして驚くほど白い肌は細くやせ細った体に刻まれた傷跡を痛々しく引き立てていて、肌と同色の白髪がかかるギラついた赤い瞳が俺を睨みつけていた。


「おい、臆病者」

「…………」

「なんとか言え!」


 怒鳴って、彼は俺を殴った。

 よろめいて尻もちをつくと周りの子どもがざわついて集まってくる。

 しかし俺を殴り続ける少年を誰も止めようとはしなかった。


「この臆病者が! テメェは魔獣の味方か! ああ?!」


 殴られ続けて、俺はどうすることもできずにただ顔を庇っていた。

 するとやがて殴り疲れたのか息を切らして少年は殴るのをやめる。


「クソが……! お前みたいなのは死んだほうがマシなんだよ!」


 そんなことを言い捨てて俺の前から立ち去る。

 すると倒れ込んだ俺を遠巻きにしていた人の輪が散り始めた。


 とはいえ彼らも多分俺のことを心配したわけではなく、むしろどちらかというとあの少年と同じように嫌ってすらいる者もいたような気配があった。


 俺はもうお湯に浸かるような気持ちにはなれなくて、泣くのをこらえながら風呂の外へと歩いて行く。

 そして家に帰りたいと、もう何度目になるかも分からない思いを胸の中で繰り返した。




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