四話・優しい先生
ご飯を食べて、俺や他の子どもは朝の列と同じようにして並ばされる。
そして連れてこられたのは日当たりがいい部屋だった。
長机一つに対して椅子が三つ、そんなのが部屋の前から四つずつ並んだのが三列。
さらに部屋の一番前には壁に据えられた大きな黒い板と台が置かれている。
俺はその光景を見て、村の教会を思い出した。
机はなかったけれど長椅子があって、日曜には台の前に立った神父様が説教をする……。
そう、教会のミサだ。
俺もよく、父さんや母さんと三人で出かけたのだ。
ミサの日は仕事が少ないからとても嬉しかったのを覚えている。
あと、そんな日は時々一緒に遊んでくれたりもした。
「さぁ、入ってくれ。みんな今日だけは好きな場所に座ってくれて構わないよ」
俺たちを連れてきたヴィクター先生が席につくように言う。
すると部屋の中で立ちすくんでいた子どもがそろそろと動き始めた。
「ああでも、できるだけ前から座ってね。プレゼントがあるから楽しみにするんだよ」
俺も遅れて列を離れて席につく。
みんなプレゼントがほしいのか、前の席はあらかた埋まっていた。
だから俺の席は三列のうちの左、その真ん中あたりにある机だ。
俺は三つの椅子の右端に座ったのだが、あとから席を探している様子の人が来たので一番左に動く。
すると俺の隣には女の子が二人座った。
「…………」
同い年くらいの女の子はあまり見たことがないのでなんとなく目を逸らす。
そして窓から外の光景を見ようとしたが、窓にガラスが……しかもほとんど透明なものが使われていることに少し驚いた。
でもこういうことにも慣れ始めていたから、俺は気を取り直して外を見る。
するとそこには広い広い、本当に大きな広場がある。
村の真ん中にあった祭りや集会に使う場所より大きいように見えた。
あれは一体何に使う場所なのだろう?
俺がこんなことを考えていると、ちょうど部屋の外、廊下からシーナ先生の声が聞こえた。
「ヴィクター、開けて」
「ああ、ごめん閉めちゃってた」
俺たちは後ろのドアから入ったが、部屋の前にもドアがあった。
声がしたのはそのあたりだった。
なので木のドアに手をかけてヴィクター先生が開く。
すると、両手で大きな木箱を抱えたシーナ先生が教室に入ってきた。
「じゃあ後、よろしく」
シーナ先生は軽々と箱を置いてすぐに帰ってしまう。
台の上に置かれた箱を見つめて、何も言わずにヴィクター先生は去っていく後ろ姿に手を振った。
「じゃあ右の列の前から順番にプレゼントを取りに来てね。ちゃんと二十五人分……全員分あるからさ」
先生の言葉通り、子どもたちがぽつぽつと受け取りに行く。
たが時々待ちきれなかったのか、まだ順番が来ていないのに席を立つ人もいる。
ヴィクター先生はやんわりと注意して席に戻していた。
俺はそんな姿を何も言わず見ていた。
そうしていると、隣の女の子が声をかけてくる。
「きみの番じゃないかな?」
「ごめん」
ぼんやり眺めていたから隣の女の子に言われるまで気づかなかった。
席を立って、俺は先生のもとに向かう。
先生は笑って俺にプレゼントをくれた。
「リュートくん、はい」
「ありがとう……ございます」
しっかり敬語で礼を言って、俺が受け取ったのは木枠付きの石板と布の小物入れだった。
そんな何に使うのかわからない物を受け取って、俺は一度だけ礼をして席に戻る。
石板はずっしりとしていて、気を抜くと落としそうだった。
そして席に戻って小物入れを開く。
すると見たことのない棒と、目の細かい上等な白布の切れ端が入っていた。
畳まれた布を開くとハンカチくらいの大きさだった。
けれどやっぱり何に使うのかはわからない。
「ねぇ、きみリュートくんって言うんでしょ?」
「…………」
話しかけてきたのは、すぐ隣に座っていた女の子だった。
肩で切りそろえた青の髪に、大きな目には明るくて優しそうな緑の瞳。
そういえば彼女はさっきも俺の番を教えてくれた人だった。
「う、うん」
俺はあまり同い年の女の子と話したことがない。
それに話しかけてきた彼女はきれいな顔をしていたから、どう接していいのかわからなかった。
気後れして声をつっかえさせながらも俺は答えるが、彼女は気にも留めずに言葉を続ける。
「よろしくね」
「……ありがとう」
少し笑って、俺から視線をそらした女の子はヴィクター先生の方に向き直った。
「はい、みんな喋らないで。今からお話があります。お話のときに喋りたかったら、これからは手を挙げてね」
そう言ってヴィクター先生は俺たちのと同じ石板を持った左手を上げる。
そして右手には小物入れの棒を持っていた。
「まずこの石板はスレートって言うんだけど、みんなはこれに文字を書けます。あとこっち棒はろう石と言って、尖った方を石板に押し当てて文字を書くためのものだよ」
そこまで言って先生は棒を置く。
今度はあのきれいな布を手に取った。
「で、この布でこすればろう石で書いた文字を消せる。布は洗ったらまた使えるし……ん、なにかな? どうぞ、立ってごらん」
「俺はもう文字が読めるし書けます」
手を挙げて席を立ち、そんなことを言ったのは俺と同室の少年……あのウォルターだった。
彼は一番前の席にいて、だけど隣には誰もいないから一人で座っていた。
そしてちょうどヴィクター先生と向かい合うような様子で話し始める。
「君はそうかもしれないね」
「だったら……」
「でも他のみんながそうだとは限らない。大半は書くどころか読めもしないと思う」
ヴィクター先生の言葉に、彼は苛立たしげにうなったようだった。
「……俺に、魔術を教えてくれるんじゃなかったんですか」
「いずれはそうするつもりだ。そのための授業だよ。……さて、他には?」
「…………」
「じゃ、座ってくれ」
とりあえずウォルターは座った。
座ったのだが、納得していないのは背中から十分に伝わった。
ヴィクター先生は困った顔で彼を見て、それからまた話を始める。
「でもまぁ、今日は最初だしまだ教科書もない。せっかくだから石板で遊んでみようよ。今から僕が黒板に絵を描くから見てて」
そう言って先生は背を向けて石板ではなく黒い板……黒板というらしいなにかに向かった。
そしてかつかつと小気味のいい音を立てながら、俺たちのものとは違う白い棒で絵を描き始める。
「……はいできた、猫ちゃん。別に真似しなくてもいいけど、良かったらみんなもなにか描いてほしい」
人のように笑う猫と、いくつかの花。
そんなかわいらしい絵を見たおかげか、俺の周りでも絵を描く人がぽつぽつと増えていく。
「お友達同士で話しながら描いていいよ。絵を見せ合ってみようね。僕はこれからみんなにろう石の持ち方を教えに行く」
そう言ってヴィクター先生は台から離れて歩き始めた。
隣の女の子二人も絵を描いては話している。
彼女たちは仲が良い、友だち同士なのかもしれない。
「………」
そんな様子を見ていると、突然訳もなく不安になって、俺は周囲を何度も見回す。
自分がまわりから取り残されたような気がした。
俺はなんとか溶け込もうと見様見真似で棒を握る。
だけど何を描いていいのかわからなかった。
なにか描こうと思っても、今朝の悪夢の光景ばかりが浮かんでくる。
いや、浮かんでくるというようなものではなかった。
死体が見えるのだ。
「…………」
とにかくなにか描かなくてはと思って、俺はろう石を動かす。
震える手で三つほどぐしゃぐしゃを描いて、仕方ないので見えるまま……あの夢の風景を描こうとした。
けれど中々うまくいかないから、俺は何度か唸り声を上げる。
「どうしたの?」
隣の女の子が聞いてきた。
突然話しかけられて、驚いた拍子に線がずれて絵が台無しになる。
なぜだかとても恐ろしくなって、俺は反射的にろう石ごと手を机に叩きつけていた。
すると思ったよりずっと大きな音が出て、一瞬で教室が静かになる。
「リュートくん?」
右の列の机でろう石の握り方を教えていた、ヴィクター先生が近寄ってきた。
どうしていいのかわからなくなってとても混乱する。
急にろう石を叩きつけたりして、きっと俺は怒られるだろう。
なんとか説明しなければ。
先生が語りかけてくる。
「どうしたの?」
「とうさんと…………かあさんが……夢で。夢じゃ、なくて……!」
混乱したまま質問に答えようとする。
言い訳をしようとした。
けれどおかしな言葉ばかりが出てくるので焦って頭を抱える。
みんなが俺を不気味なものを見るような目で見ている気がした。
「俺は……その……えっと……」
いやとかあの、とか意味のない言葉が次から次へと口をつく。
とめどなく冷や汗が流れて、真っ白になった頭では何も話せない。
震える喉で声を絞り出す。
「……絵を、描けなくてごめんなさい」
ようやく謝ると涙が出てきた。
するといつの間にか俺の左、すぐそばにヴィクター先生が立っていた。
「何も悪くない。大丈夫」
そう言って、俺の絵を布で消しながらみんなに向けて声をかける。
「ごめん、しばらく好きに絵を描いてて。ごめんね」
先生がそう言うと、部屋のなかには少しずつ話し声が帰ってくる。
俺が頭を抱えたまま震えていると、先生が優しい声で語りかけてきた。
「顔を上げて。大丈夫だから。安心して。一緒に絵を描こう」
優しく背中をさすられて、また涙が出てくる。
先生は俺の手からろう石をとって、まずは握り方を教えてくれた。
「こうしてこうね。……さ、わんちゃんを描いてみよう」
ろうの握り方はフォークのものとよく似ていた。
俺はヴィクター先生に動かされるままぎこちなくろう石を滑らせる。
すると少しずつ、犬の絵ががたがたの線で描かれていく。
先生が微笑んで褒めてくれた。
「上手いじゃないか。いいぞ、じゃあ僕は手を離すからね。なにか描き足してみて」
横向きの、原っぱを楽しそうに走る犬の絵ができた。
なにか描き足せと言われたのだが、俺にはなにも描けなかった。
黙って石板を見下ろしていると、やがてヴィクター先生は俺の頭を優しく撫でる。
「絵は苦手かな。ごめんね」
俺はそれに何も答えられなかった。
ただ俯いて、ろう石をぎゅっと握りしめていた。




