二話・灯火の家
星が明るい夜だった。
見たことがないほど大きな街を抜けて、外れに行くと少し古びた建物にたどりついた。
馬車から降ろされた俺は、その大きな家の姿をまじまじと見つめてみる。
「…………」
開け放たれた門の奥に見える屋敷は村長さんの家よりずっと大きい。
それにその上石でできていたので、ここはいつか聞いた城というものなのかもしれないと思った。
夜なので少し眠かったけれど、それでもずいぶん驚いたのだ。
「さ、行こう。ここが君の家だ」
そう言って、俺の手をとるのはヴィクターさんだ。
背の高い彼は白のマントと神官様の服を身につけていて、短い杖を腰にさしている。
そして昔街で見た絵のようにきれいな顔立ちをしていて、少し癖のついた色の薄いブロンドと大きな緑の瞳の目がとても優しそうに見えた。
実際彼はシーナさんより優しくて、旅の道中でこの人が親切に手当てをしてくれた。
そのお陰で俺はようやく歩けるようになった。
と、そこで。
ヴィクターさんはなにかに気がついたように門の手前で足を止める。
「そうか、君はこういう街は初めてだったかな。珍しいだろう。今度案内してあげようか」
突然聞かれたので答えが出てこなくて黙りこくると、ヴィクターさんは笑って俺の頭を撫でる。
すると御者台から降りたシーナさんが鋭く声をかけてきた。
「外に出るとか、そんなこと勝手に決めないで。言いつけを忘れたの?」
「うん、いや、そんなわけじゃ……」
小さく答えて、苦笑したヴィクターさんはまた俺の左手を引いて歩き始めた。
そして曇った表情でぼそりとなにごとかを呟く。
「堅い」
「?」
「なんでもない、行こうか」
小さく微笑んでヴィクターさんは鼻歌を歌い始める。
俺が一度だけ振り返ると、シーナさんが馬の手綱をひいて夜の中に消えるのが見えた。
「ああ、そうだ。これからは僕やシーナのことは先生と呼んでほしい。分かったね?」
歩いていると急にそんなことを言われて、俺は少し戸惑ってしまう。
だがすぐに答えて従った。
「分かった。……先生」
「君はしっかりしてるね。でも……そんなにびくびくしなくていいんだよ。ここは君の家になるんだからなにも気を遣うことはない」
「…………」
「ちなみに、この孤児院は灯火の家って言うんだ。僕が名付けたんだけどね」
ヴィクターさん……いや先生は優しく言うが、俺にとってここは家ではないと思った。
そうであってはいけないと思った。
どうしてかはうまく言えないが。
「…………」
不意に自分が嫌になって、俯いた俺は右の拳を握りしめる。
「さぁ、ついたよ。入ろうか」
先生が大きなドアを開けて孤児院の中に入れてくれる。
俺は一度だけおじぎをして、先生が開けてくれたドアから中へと足を踏み入れた。
―――
孤児院の中は真っ暗だった。
真っ暗でとても静かだった。
「『灯光』」
しかし突然、暗闇に光が現れた。
ヴィクター先生が杖で魔術を使ったのだろう。
旅の中で何度か目にしていたが、俺はまだまだそれを見慣れない。
村にいた神父さんは魔術を使えなかったから、物語の中と、一度だけ村を通った旅の神官様のものでしか魔術に触れたことはなかったのだ。
少し驚いている俺の様子に気がついたのか、ヴィクター先生は小さく笑う。
「君には才能がある。すぐにこれくらいできるようになるよ。光の魔術が使えれば、だけど」
「才能……」
俺はその響きがどうも信じられなくて小さな声で繰り返した。
物語の使徒の『魔術師』様が使うような魔術を、俺なんかに使えるとは思えなかった。
でもヴィクター先生はもう一度うなずいてくれた。
「そう、才能。魔力の有無。君があの街で倒れていた時、僕が考えた方法で調べたんだ」
「……本当に?」
「ああ。いいかい? 魔物の研究をしてた時に知ったやり方なんだけど、まず採取した血を魔物なんかのと同じように………」
なにがきっかけだったのか、先生は楽しそうによく分からない話を始めた。
それを横目に、俺は照らし出された孤児院の様子へと目を向ける。
よく掃除された板張りの床に、白い壁紙が張られた壁がある廊下だ。
さらに、壁紙にはきれいな紋様が薄く施されているのに俺は気づく。
元は本当にお城だったのかもしれないとなんとなく思った。
さらに長い道にはたまに物が飾られたりしていて、ちょうど今も小さな棚の上に花を入れた花瓶が置いてあった。
なんだか場違いな場所に来てしまった気がして俺は生唾を飲み込んだ。
「よし、ついた」
俺の手を離し、不意に先生が立ち止まる。
すると明かりの漏れる、ひときわ立派な両開きの扉が杖の光に照らし出されていた。
ヴィクター先生がドアをノックする。
「院長先生、入りますよ」
ヴィクター先生は魔術の光を消し、呼びかけたのだが返事はなかった。
それに彼は軽く噴き出して、こちらへ振り向くと微笑んだ。
「寝てるね、これは」
俺は、そんな楽しげな顔を見返しながらふと思う。
「…………」
この中の人はもしかすると一番偉い人だ。
その人に気に入らなければ、また俺はあの街に戻されるのだろうか。
不安に思うがすぐに考えるのをやめた。
助かりたいと思っている自分が卑怯に思えたのだ。
「入りますからね」
ヴィクター先生が呆れたように言って部屋の中に入る。
そしてこちらに向き直り手招きをしたので、俺も続いて部屋に入った。
するとそこは、どういうわけなのか昼間のように明るかった。
俺は目を丸くしていたが、先生は慣れた様子で部屋の中を進んでいく。
その先には、寝息を立てる男性が立派な机の上に突っ伏していた。
「起きてください。子供を連れてきたんです」
先生は声をかけるが返事はない。
呆れたような顔で笑う。
「ははは、だめだこりゃ」
そんなやり取りを尻目に俺はまじまじと部屋の中を見回してみた。
少し物の少ない、近頃越してきたのだと分かる小さな部屋だった。
寝ている男の人の机の他にもいくつかの家具があるが、棚などにはまだ空きが目立つ。
でも豪華な部屋だった。
部屋の後ろの窓には濁りの少ないガラスを使っているし、天井には見たことのない明かりが吊られている。
なにもかも見たことのないものばかりで、何度目かも分からない驚きを感じずにはいられなかった。
それからしばらくして、男の人が目を覚ます。
「……うん、すまなかったね。私の名はセオドア。この孤児院の院長をしている」
眠りから離れた彼は、机の前に立って背筋を伸ばすと俺に微笑みを投げかけてきた。
こうして目を冷ました姿を見ると、気の良さそうな人だと俺は思う。
「…………」
少し焼けた肌と黒髪の短髪、ほの暗い青の瞳。
大きくもなく小さくもない体には、平凡なシャツとズボンを身に着けていた。
でも冬だからか、それだけとってつけたようにコートも着込んでいる。
そして顔つきも優しそうではあるけれど、ヴィクター先生のようにきれいなわけでもない。
本当にどこにでもいそうなおじさんといった印象だった。
「君はヴィクターが連れてきた子だね? 歓迎するよ。これから一緒に暮らしていこう」
「よろしくお願いします」
俺が慌てて頭を下げると、セオドアさんは……院長先生は微笑んだ。
どうやら俺はここに置いてもらえるようだとぼんやり思う。
すると、安心したせいか急に眠くなってきた。
しかしそれでは困るので目をこする。
セオドア先生の声が聞こえた。
「ところでこの子、今日の水浴びは済ませたのかな?」
まぶたが降りてきたので、俺はヴィクター先生たちの会話に耳を澄ます。
それで少しでも眠気をごまかそうとした。
「ええ。晩御飯のあとに魔術で温めたお湯で清めてやりました」
「そうか。……なら今日は寝かせてあげようか。眠そうだし」
「そうですね。それがいい」
声は聞こえるけれど、眠すぎて言葉の意味がわからない。
こくりこくりと頭が傾くのを止めようとするのだが、今度は後ろに倒れそうになった。
ヴィクター先生が笑う声が聞こえる。
「ハハハ……」
「ごめんなさい」
ヴィクター先生は倒れそうになった俺の背中を支えてくれた。
俺はすぐに謝るが、先生が答える前に院長先生が呆れたように声をかけてきた。
「笑ってる場合じゃないよ、ヴィクター。この子を早く寝かしてやりなさい」
「ああ、はい、すみません」
バツが悪そうに笑って、ヴィクター先生は俺のことを抱き上げる。
俺はなんだか悪い気がして声をかけた。
「あの……」
「いいから、気にしないで」
「…………ごめんなさい」
俺が謝ると、先生は背を向けて歩き始める。
部屋の外へと進んでいく。
けれどそこで、セオドア先生に呼び止められた。
「ああ、待ってくれ。大事なことを聞き忘れていた」
「?」
「君の名前を教えてくれ」
まっすぐに目を見て言われて、俺はほんの短い間口ごもる。
でもまたすぐに口を開いて答えを返した。
「リュート」
「リュート君か、いい名前だね。姓はあるのかい?」
「……姓?」
「名字のことだよ。ほら、名前のあとにつけて呼ぶ……」
ヴィクター先生が教えてくれて、眠い頭でも思い当たることができた。
村の人のいくらかはそういうものを持っていた。
けれどふつうは、村の名前が名字の代わりをしていたように思う。
「ない」
「そうか。引き留めてごめんよ。おやすみ」
院長先生は微笑んでおやすみと言ってくる。
俺がそれになんと答えるべきか迷っていると、ヴィクター先生と話し始めてしまった。
「ところで、空き部屋は一つだったな」
院長先生の言葉に、ヴィクター先生は一つ咳払いをして答えた。
その声はなんだか少しだけ困っているように聞こえた。
「そうですね……。まぁ、問題があったらなんとかします」
「問題なんてあるはずがない。あの子はあの子で賢い子だからね。無意味に騒ぎを起こしたりはしないさ」
よく分からない内容で、聞いていると眠気はますます強くなる。
それに加えて抱き上げられた体温も心地よくて、俺はもう目を閉じてしまった。
すると少しずつ耳に聞こえる会話は遠くなってゆく。
―――
「…………」
気がつくと俺は雪の街に立っていた。
壊れた家ばかりが立ち並ぶ、冷たくて誰もいない街だ。
村に帰りたいと思ったけれど帰り道がわからない。
「かあさん」
かあさんを探した。
かあさんならきっと村に連れて帰ってくれると思ったから。
「かあさん……」
もう一度呼ぶけれど見つからない。
破けた靴で歩く。
足が冷たい。
冷えた耳も千切れそうなほど痛かった。
そうしていると、不意に鐘の音が鳴った。
さらに人影を見つける。
「かあさん……?」
死体があった。
かあさんの死体だ。
蟲の兵士の化物が死体を切り刻んでいて、ボロボロにされていたけれどすぐに分かった。
なぜなら思い出したからだ。
村から逃げる途中の道で、俺がかあさんを置いていったのだから生きているはずなんてない。
「っ…………」
声にならない叫びを上げて、俺は後ずさって逃げ出した。
またかあさんを置いて逃げ出した。
「とうさん!」
そして叫んだ。
震える声で何度も叫んだ。
とうさんなら助けてくれるはずだ。
そう思って探しているとまた鐘の音が鳴り響く。
すると俺が逃げていた道の先に座り込んだ人影が見えた。
「とうさ……」
農作業に使う鍬を持って座っている。
とうさんかもしれない。
きっと疲れて休んでいるのだ。
「とうさん!!」
泣きそうになりながら駆け寄る。
そして近くに行くと、その体は腕と足をもがれて、透明な矢で穴だらけにされているのが分かった。
「あ……」
腰が抜けて倒れる。
後ずさりながら思い出した。
とうさんも俺が置いていった。
村が化物に襲われて、兵隊さんたちと村の男の人が戦ってなんとか追い返した。
でもいつまで経っても父さんは帰ってこなくて、俺と母さんは帰りを待たないで他の村人たちと一緒に遠くに逃げた。
思えば村を出る時、遠目に見た大人たちの死体の中にとうさんに似た姿があった気がする。
かあさんは俺の目を塞いで、とうさんは大丈夫と何度も言っていた。
しかしやっぱり殺されていたのだ。
「おとうさん、」
呼んで、けれどどうすればいいのか分からなかった。
涙がほおを伝って俺は意識するよりも前に謝っていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
だけど足音が聞こえて、慌てて立ち上がった俺は走って逃げる。
そんな俺を追いかけるように鐘の音が聞こえた。
するとまた死体を見つける。
鐘の音は止まない。
友だちの、知らない人の、村の人の、いくつもいくつも死体を見た。
そして死体はみんな俺のことを睨みつけていた。
その視線がどこまで逃げるのかと俺に問いかけていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
逃げてごめんなさい。
俺だけ生き延びてごめんなさい。
ずっと謝り続けた。
化物は俺を追いかけてこない。
それでも逃げ続けた。
怖くて怖くて仕方がなかったから。
死体の目から逃れたかったから。
「…………」
泣いていると急に力が抜けた俺は雪の上に膝をつく。
そしてもう一度謝罪を口にしたところで、突然息ができなくなった。
「がっう……あ……」
見えない手に口と鼻を塞がれたように息ができない。
俺は手を引き離そうともがくけれど意味はなかった。
なにもできないまま俺は少しずつ意識を失った。
―――
「知っているか? よく眠る奴はあまり眠らない奴より強くなるそうだ」
目が覚めた俺が聞いたのはそんな言葉だった。
意味がわからないまま息苦しさにもがいていると……いや、息はできた。
でもなぜだか息が苦しい。
寝ていたらしい俺は起き上がって肩で息をした。
「本で読んだ。だから俺は眠りたい。どうかその寝言で邪魔をしないでほしい」
俺が寝ているのは……ベッドだった。
柔らかいベッドだ。
俺の家の寝床とは大違いだ。
夢にまで見たようなふかふかのベッドだ。
……ならここは、家ではないのか。
さっきまで見ていた夢が、嘘ではなかったことを俺は思い知る。
そして俯いていると横からまた低い声がした。
「聞いていたか?」
「えっと……」
声の方に振り向く。
ガラスの窓から差し込む月が明るくて、そのおかげか俺はベッドの脇に立つ彼の顔を見ることができた。
とても意志が強そうな少年だった。
雑に切りそろえられた火のような赤毛。
白い肌に暗くても分かるほどに傷跡がついた顔。
涼しげな目と透き通るような薄い緑の瞳。
不機嫌そうな表情の彼は、少し高い背に白い服を着ていた。
多分だが六歳……俺と同い年くらいに見える。
「ここは俺の部屋だ。でも……少なくともしばらくは君の部屋でもある。お互いに迷惑をかけたくないし、かけるべきじゃない」
低い、すれたような声で彼は言った。
なんとなく俺は丁寧な言葉で返事をしてしまう。
「は、はい」
すると一応は納得したのか、深くうなずいて自分のベッドに戻っていく。
「君にも色々あるんだろう。わざわざ聞くつもりはないけど、夜に大きな音を立てるのだけはやめてほしい」
すぐ隣にもう一つベッドがあった。
子供の俺たちには大きすぎる寝床だ。
そこに身を埋めて、三秒もすると彼は寝息を立て始めたようだった。
俺は何も言えず、しかしまた寝ることもできなくてベッドの中でぼんやりとしていた。
「…………」
そしてふかふかのベッドは居心地がいいと思う。
なにしろ夢に見たようなベッドなのだ。
家族で一つ、薄っぺらな藁の寝床に寝ていた俺はいつもこんな場所で寝られたらなと思っていた。
けれど今はちっとも嬉しくない。
家族で寝ていた狭いベッドが懐かしい。
家が恋しくて仕方がなくなった俺は、彼にまた怒られないように声を殺して泣いた。




