三十話・『焼尽』
黒い鎧の騎士が、両の手に握った短剣を油断なく構える。
さらに眼前の敵に昏い視線を向けた。
相対する女は、その視線から継戦の意思を読み取る。
だから戦いが再開した。
女は深く腰を沈め、力強く地面を踏みしめる。
そして、鎧からかすかに軋むような音がした瞬間、彼女は目にも止まらぬ速さで走り始めた。
瞬く間に距離を殺して、放つのは比類なき鋭さを誇る槍の一突きだった。
常人なら初動すら捉えられぬ、閃光のような一突きである。
しかし黒騎士はこれをかわす。
さらに、身を低くしてカウンターの足払いを放った。
女は跳躍でこれをすかし、続けざまに重ねられた追撃の蹴りを槍で流す。
短剣による攻撃はまだ終わらない。
一瞬の停滞もなく、炎を纏う刃を繰り出す。
女が着地した瞬間を狙っての攻撃だった。
格闘と斬撃を織り交ぜた、鮮やかな連撃で攻め立てていく。
「…………」
しかし女は危なげなく対処する。
敵の動きを完全に読んで、移動だけで攻撃をかわしていく。
水際立った足運びのみで翻弄していく。
すると、逃げ回る敵に焦れたかのように黒騎士が短剣を投げた。
女は投擲を槍で弾く。
そして、彼女はようやく攻撃の姿勢を見せる。
敵が武器を投げて、失ったことから、攻撃の機会であると考えたのだ。
腰を沈め、爆ぜるような強さで地を蹴った。
一瞬で接近すると洗練された突きを放つ。
黒騎士は身を反らして、紙一重で刺突をやり過ごす。
さらに槍の穂先が閃いた。
流れるように切り払いが繋がる。
手元を狙ったひと薙ぎが、黒騎士の刃、残された片方の短剣をも叩き落とす。
「……さぁ、どうする?」
女が言った。
無手になった黒騎士へと追撃を放とうとする。
しかし何かを察知して、彼女は槍を引いて下がる。
黒騎士の手に灰が集うと、彼は再び両手に刃を握っていた。
「…………」
女は地に落ちている短剣に顔を向けた。
次に、敵の手にある刃に注意を移す。
それから何か学習したように小さく頷いた。
一足飛びに、近接の間合いに入り込んでくる。
激しい打ち合いが始まる。
「……いい腕。不正抜きなら……私より技術は上かも」
女が言った。
攻撃にかすりもせず、棒読みの声で感想を漏らす。
だが黒騎士は答えない。
ただ絶え間なく、斬撃と打撃の乱打を繰り出していた。
無言のまま、その攻勢は一層熾烈を極めていく。
「…………」
目にも止まらぬ斬撃と打撃に、投擲が不規則に交えられる。
嵐のような密度の攻撃の中、女は不意に一歩引いた。
そして、再び敵へと左の手の平を向ける。
「!」
空気が破裂するような音が響く。
同時に、黒騎士はなすすべなく弾き飛ばされた。
派手に雪をまき散らして倒れ伏す。
けれどまだ戦いは終わらない。
騎士は即座に立ち上がって戦意を覗かせた。
その敵を前に、女はただ静かに佇んでいた。
「……まだやるの?」
低く沈んだ、平坦な声。
問いかける女に答えは返らない。
故にまた槍を構えようとすると……唐突に彼女の真下の地面が爆ぜた。
爆炎が膨張し、地を覆う雪を消し飛ばした。
一瞬の破壊の後、周囲には充満する。
黒騎士は、短剣を捨てて弓に持ち替えていた。
そして、煙の中へと燃え盛る矢を放つ。
彼はまだ、敵が生きていることを知っていた。
すると果たして、甲高い音と共に矢が弾かれる。
やがて晴れゆく煙の中から、凍りついた槍を携える女が現れた。
「…………」
その鎧は、短剣を起爆させた黒騎士の魔法により煤けてひび割れてしまっている。
さらに頭部を守る兜もひしゃげていた。
だからそれを無造作に捨てた。
そして背にかかる長さの銀髪を軽く払いながら、女はまた無感情な声でぽつりと呟く。
とはいえ何故かその口は、声を発しながらも動いてはいなかったが。
「……魔法。人が使うのは……初めて見る」
黒騎士のことを未だ人であると口にした女は、どこか幼い顔つきをしていた。
しかし一方で、達観した静けさのようなものも感じさせる。
「…………」
兜を取り去った彼女は、戦いの最中でありながら目を閉じていた。
そして起伏のない表情で黒騎士に対峙していた。
透けるような白さの肌も相まって、立ち姿は凍った湖に似た静謐を漂わせている。
一方、その容貌は目を引く可憐さも宿している。
彼女の小作りな顔は、まるで人形のように愛らしかった。
こぢんまりとした鼻や口は、どれも花のつぼみのような美しさを湛えている。
さらに、形のいい眉の下の、小顔に不釣り合いな大きな目が、幼い可愛らしさを際立たせていた。
しかしやはり、彼女の目は固く閉ざされている。
戦いの最中でありながら、あまりに無防備な姿を晒している。
それに黒騎士は容赦なくニの矢を放った。
狙いは頭だったが、女は見もせずに正確無比に矢を弾く。
三つ、四つと文字通り矢継ぎ早に、炎の矢が飛んだ。
これを女は見事な槍さばきで叩き落とす。
やがて無駄を悟った黒騎士が走り出した。
同時に女も地を蹴った。
するとその瞬間、周囲一帯が煙幕に覆われた。
「なるほど」
女が声を漏らす。
彼女は目を閉じているのにも関わらず、煙幕の存在を察知していた。
また、即座に黒騎士によるものだと理解していた。
だから小さく呟く。
「……でも、目くらましは無駄」
煙幕の中で、あらゆる方向から矢が飛んでくる。
女は的確な防御で全てを叩き落とす。
撃墜された矢は全て、氷の槍に触れて凍結されていた。
先ほどの短剣のように、起爆の触媒としても用いることはできそうになかった。
沈黙の中で攻防が続く。
「…………」
また、周囲から矢が飛んで来る。
女はそれにしばし付き合っていた。
しかし、やがて短いため息を一つ吐く。
そして煙幕の中で手の平を突き出す。
続けてあの、つんざく轟音を伴う衝撃を、一切の加減なく放出した。
「!」
煙幕の中、目を閉じたままでの一撃だ。
だというのに、放たれた衝撃波は正確に敵を捉えていた。
黒騎士は凄まじい勢いで吹き飛ばされる。
そして煙の外の、離れた場所の地面へと叩きつけられた。
当然、すぐに女は追撃を仕掛ける。
槍を構えて走る。
けれど立ち止まった。
目の前に突然、巨大で分厚い鋼鉄の壁が現れたからだ。
黒騎士の能力によるものだろう。
「…………」
一瞬の停止のあと、彼女は再び走ろうとする。
だがその前に敵が奇襲を仕掛けてきた。
黒騎士が目の前の壁を蹴って、高く高く跳躍する。
さらに、遠い頭上から矢を放ってくる。
一瞬にして三本を番えた。
燃え盛る矢が、赤い流星のように撃ち出された。
しかしそれだけではない。
この矢は魔法の矢だ。
放たれた矢が空中で増殖する。
いや、正確には矢が纏っている炎が分裂したのだ。
ともかく三は六になり、やがて六が無数に至る。
そして接触寸前には、一個の弓隊による掃射のようにまでなっていた。
「……面白い」
小さく声を漏らして、女は魔法に対処する。
槍の柄の中心付近を握り、手を素早く動かした。
すると槍が独楽か風車のように回転し始める。
とはいえ、この回転によって矢の雨を叩き落とす訳ではなかった。
「…………」
女は少しも口を開いていない。
しかしどこからか声が聞こえ始める。
それも無数の声、神官による魔術の詠唱の声である。
これは槍の回転で風を切る音が、詠唱の声に変化したものであるようだった。
声の主は男であり、女であり、若くもあるが老いてもいる。
どういう原理か、女はただ一人でそのいくつもの声を操っている。
「凍りつけ」
「月の風」
「氷雪の加護を」
「吹き荒れろ」
彼女の魔術には、メダルなどの触媒が用いられていなかった。
基礎ルーンすら詠唱に組み込んでいるということだ。
それでも無数の声は一瞬にして詠唱を終わらせる。
瞬きの間に魔術が完成して、最後に全ての声がぴたりと重なった。
「『氷嵐』」
魔術が発動する。
刹那で紡いだその術は、吹き荒れる冷気の嵐であった。
激しい氷雪が炎の矢の熱を消し去っていく。
見事な手際で、女は全ての矢を防ぎきってみせた。
「…………」
それから、彼女は黒騎士に向き直る。
着地した敵へと不敵な笑みを送る。
対して、黒騎士は特になんの反応も見せない。
ただ不可解を感じて、思考に沈むような気配を纏っていた。
何故なら、彼女が使ったのはある程度高等な魔術であるはずだからだ。
しかし反則じみた手段であるべき手順を省略してみせた。
それが、黒騎士にとっては不可解だった。
とはいえすぐに思考を打ち切って戦闘に戻る。
女が肉薄して来たからだ。
弓を捨て、次に握るのは大盾と騎士槍だった。
先ほどとは打って変わった近接戦闘が始まる。
まず、初手を取ったのは女だった。
小さな破裂音と共に、音を超えた速度で刺突が繰り出される。
黒騎士はそれをがっしりと盾で受け止めた。
続けざまに、重々しいランスで反撃の突きを放つ。
そうして突きの応酬が繰り返される。
黒騎士は盾で守り、炎を纏う大槍で反撃した。
女は細い槍を手足のように操り、盾の防御の隙間に差し込むために角度をつけた連撃を繰り出す。
けれどやがて騎士の動きが変わった。
より攻撃的な形に変化した。
すなわち盾で殴り、槍で突進するような戦い方だ。
騎士は常に、前のめりに前進し続ける。
槍で突き、盾の打撃を放つ。
まるで二刀流のようにさえ見える攻撃的な戦い方だった。
しかし、決して防御がおろそかになったわけではない。
盾で殴る一方で、槍でも防御をし始めていた。
つまり時に槍を盾とし、盾を武器とする変幻の二刀流である。
女の槍による神速の連撃に対抗するため、黒騎士はそのように動きを変化させていた。
「…………」
そして黒騎士の手数が飛躍的に増えたことで、戦いの熱がさらに高まり始める。
絶え間なく武器がぶつかり合って、互いの攻撃が鎧を削り合う。
鉄が砕けるような音が何度も響いた。
何度も何度も決して途切れることなく、切れ目が分からないほどの速さで、凄まじい勢いで鳴り続ける。
人には影さえ追えぬような人外の速度で戦いは続いた。
衝撃波で雪が破裂し、魔法の炎が迸り、無差別に破壊を撒き散らす。
いつしか、女は狂気じみた笑みを浮かべていた。
互いに力と技術をぶつけ合い、喰い合うような勢いで続く戦いが、彼女にとっては楽しくて仕方がなかったのだ。
「…………」
女がまた手をかざす。
衝撃を放つが、敵は盾で受けて耐えてみせた。
だから追撃を行う。
槍で突く、と見せかけて地面に深々と穂先を突き刺した。
続けてその、柱のように突き立った槍を両手で握る。
そして軽業師のような身のこなしを見せた。
柄を掴んで、まるで鉄棒かなにかで逆上がりをするように、横向きにぶら下がって回る。
彼女はこの回転の勢いで加速し、離れる瞬間に手で勢い良く槍を押した。
その上で両足で蹴りを放った。
いわゆるドロップキックだ。
回転の遠心力に加え、全身のバネが生み出した力が足し合わされている。
まるで、帝国が誇る大砲のような威力の蹴りが盾に直撃した。
「……っ」
黒騎士が倒れる……というより地面に勢い良く叩きつけられる。
対して、女は跳躍していた。
敵を蹴るのと同時に反動を利用し、かなりの速さで後ろへと飛び上がっていたのだ。
彼女は跳びながら途中で槍を掴んで、一瞬の後に地面に接触していた。
しかし停止しない。
慣性を利用した後方転回……俗に言うバク転で軽快に跳ね回る。
そして瞬きの間に再び地面を蹴った。
最初の跳躍の勢いをそのままに、今度は空高く舞い上がってみせた。
「…………」
上空で、女はまた槍を回す。
槍の回転が風を切る。
その音はすぐに詠唱に変わる。
いくつもの神官の声を操って、氷の魔術を瞬時に紡いでみせた。
「神の栄光に浸りし」
「天を突く」
「どうか楔たる杭を」
「いと高き月の」
「我ら魔力を捧げ」
「刃を」
「刃を」
「刃を」
「刃を」
「刃を」
偽造された詠唱により、ルーンは瞬く間に完成した。
これは聖典の秘術たる『杭』の乱舞の魔術だった。
「『天恵』」
女は自らの声でそう音にした。
瞬間、彼女の周囲には数え切れぬほどの氷の杭が現れる。
それらは鋭さを誇示するようにずらりと並んでいた。
一斉に切っ先を黒騎士へと向けたあと、高速で回転し始めた。
つまり、一つ一つが回りながら貫くことで貫通力を高めているのだ。
やがて『杭』の群れは十分な回転を得て、獲物たる黒騎士へと殺到する。
「!」
迫る猛威を前に、黒騎士はただ低く腰を落として大盾を構える。
すると、構えた盾から防壁のように巨大な炎が迸った。
巨大な炎の壁は、叩きつけられた氷のことごとくを蒸発させていく。
「…………!」
すると女は、その様に一層笑みを深くした。
大量の杭を撃ち出し続けた。
轟音と地を揺らす衝撃が連鎖する。
氷と炎の激突により、周囲には蒸気が充満していた。
一時的な濃霧に覆われて視界が塞がれる。
やがて魔術と魔法の押し合いが終わった。
濃霧の中で女が地面に降り立つ。
黒騎士も走り出した。
二人は、霧を全く気にかけずに戦いを続けた。
再び接近して薄霧の中で刃を交える。
そこで、相手の武器を見た女が訝しげに眉をひそめる。
変わらぬ棒読みの声で疑問を漏らした。
「曲剣……杖?」
黒騎士は右手に曲剣を持ち、左手に杖を握っている。
魔法を使えるはずの敵が、杖を持つのは女にとって不可解なことだった。
しかし、そんな疑問もすぐに流してしまう。
女は再び戦闘に没頭する。
そして、彼女の動きは明らかに、さらに尻上がりの速さで加速し始めていた。
黒騎士にとっては恐らく信じがたいだろうが、これまでの戦闘は余興でしかなかったのだ。
「楽しいよね……こうして、戦うのは、ね」
女が語りかけた。
楽しいと言いながら、声は掴みどころのない棒読みのままだった。
また、不自然に所々途切れてもいる。
しかし表情は違う。
自然な様子で、目を閉じたまま狂乱の笑みを浮かべていた。
銀髪を振り乱し、獣のような勢いで戦っている。
狂気をぶつけるような激しさで連撃を放ち、女は絶えず黒騎士を攻め立てていた。
「…………」
黒騎士は下がって、その苛烈から身を逃した。
距離を取って杖を構えた。
すると詠唱もなしに、先程の女の魔術にも並ぶ密度で杭が撃ち出された。
けれど空を埋め尽くす杭の群れを前にして、女はあえて足を止めた。
そしてにやりと笑って歩き始める。
雨のように炎の『杭』が降り注ぐ中をふらふらと歩いていく。
「…………」
まず一つ『杭』をかわす。
軽やかな足取りで横に動いた。
続けざまに五発も六発も魔法が迫る。
これも女は歩いて回避をしていく。
混雑した街の中で、前から来た人間を避ける程度の、気安い動きだった。
ゆらりと動いて、目を閉じたままあらゆる攻撃をすり抜けていく。
しかし、最後に二十を超えるほどの杭が同時に喰らいついてきた。
するとその時、ようやく女は防御らしき姿勢を見せる。
槍を回して風を切り、氷の嵐を巻き起こして防ぐ。
だが、その嵐を突っ切ってくる物があった。
不敵な笑みがハッとしたように凍りつく。
とっさに左手で右目を庇うように覆った。
するとその手ごと炎の『針』が目を貫いていた。
「っ!」
突如襲ったのは未知の魔術……いや魔法だ。
小さな針のような形をしていた。
女は動じることなく、冷静に槍を一回転させた。
「風よ」
すると詠唱が生まれ、針は燃え広がることなくすぐに鎮火する。
しかし眼球はもはや焼き潰されていた。
黒く焦げた右の眼窩からは、ぽたぽたと煤けた血液が垂れていた。
「…………」
顔立ちが整っているだけに、その損傷は余計に痛々しいものとして映る。
その焼けた右目から手を離して、女は俯いた。
だらりと槍を下げてため息を吐く。
手痛いミスだったと、女は酷く反省をしていた。
けれど少しも怯むことはなかった。
俯きながらも、闘争の愉悦に口の端を歪めていた。
「……どうしたの?」
攻めてこないことが不満だとでも言うように、顔をしかめた。
右手で黒騎士に槍を突きつける。
そして、目と同時に貫かれていた左手を軽く振った。
その場で足を慣らすように、小さく五回ほど跳ねてみせる。
「…………」
軽い準備運動のような動作の後、隻眼になった女は矢のような速度で駆け出した。
「続けましょ」
先程までとは次元の違う速さだった。
雪を巻き上げる踏み込みから、女は槍を引き絞って必殺の刺突を繰り出す。
盾と大槍に持ち替えた黒騎士だったが、その一撃は紙一重で避けた。
盾でも受けきれないと、的確に判断したのだろう。
それを見た女は、称賛も挑発もなくただ無言のまま舌なめずりをした。
戦闘を継続する。
「…………」
女の槍が連撃を放つ。
盾をかいくぐるかのように、下から、右から、あらゆる方向から、角度をつけた刺突を霞むほどの速さで繰り出す。
黒騎士は、なんとかその攻撃を凌ぎ続けていた。
巧みな足さばきで攻撃を避けながら、盾のガードも併用することで受け切っていた。
しかしそこで、不意に女が例の衝撃波を放つ。
また盾で受けられるが、彼女の狙いはまさにこれだった。
衝撃を受けて、黒騎士はほんの一瞬足を止めてしまったのだ。
「…………」
足を止めた瞬間を狙って、女が即座に攻撃を開始した。
獲物に食いつく飢えた獣のような勢いだった。
突いて、斬り払い、また二連突きを放った。
さらに反転した柄による打撃を重ね、とどめの斬り上げで盾を跳ね上げて揺さぶりをかける。
最後に、一瞬の隙をついて槍を回す。
無数の声を操ることで、彼女は瞬きの内に魔術を発動した。
「神聖なる」
「斬り伏せよ」
「『氷刃』」
使用したのは『氷刃』の魔術だ。
槍の穂先に巨大な氷の刃が形成される。
黒騎士が退く時間すら与えない。
一切の容赦もなく、氷の大剣を斜めに振り下ろした。
「っ……!」
黒騎士は盾で受けたが、耐えきれずに呻き声を上げた。
地を叩き割るような、ひたすらに重い……理不尽なまでの衝撃が叩きつけられる。
魔術の刃が地面を叩くと、雪崩のような勢いで積雪が吹き飛んでいった。
当然、騎士の盾も耐えられない。
叩き折られて、構えていた主ごと吹き飛ばされて、どこかに消えた。
「…………」
盾を破られた黒騎士は、遠い地面に叩きつけられていた。
しかし戦意は失っていない。
右の脇腹から大量に流血しているが、構うことなく駆け出した。
そして大槍を捨てて短剣を両手に握る。
同じく走り出した女へと次々に刃を投擲する。
黒騎士の攻撃は、斬撃と格闘と投擲だった。
ひたすらに手数を追求し、いかなる距離でも絶えず攻撃を重ねる姿勢を見せていた。
けれど、その裏には狡猾が見え隠れしている。
「……なるほど?」
女が独り言を漏らした。
だが彼女の異能によって、今の声だけは黒騎士には聞こえないようにしてある。
もし聞こえてしまえば、戦いの駆け引きの雑音になるからだ。
「…………」
目を閉じたまま、周囲へと感覚を張り巡らせる。
黒騎士は投擲し、外したと見せかけて無作為にナイフをばら撒いていた。
外したと見せかけているのは、女に当てれば槍で弾かれるからだ。
氷の槍に触れれば凍結し、魔法で起爆させることができなくなる。
その意図に女は気がついていた。
もちろん投げた場所まで把握していた。
やがて黒騎士は槍の一撃で吹き飛ばされてしまった。
もはや白兵戦においては女の優勢が明らかだった。
しかしそれでも再起して、黒騎士は弓へと持ち替える。
彼は矢を作ってすぐに放つことで、番えるという動作を短縮している。
神業じみた速射で女を狙撃した。
とはいえいくら速かろうが、矢では女を止めることは叶わない。
全て避けられて瞬きの間に肉薄された。
騎士もすぐに対応し、曲剣と杖に持ち替える。
魔術と剣による応戦を開始した。
「……もう当たらない、それ」
声をかけながら、女は見事に針をかわした。
さらに戦いが続く。
黒騎士は杖を向け、『杭』を放とうとした。
けれど女が杖の先を手刀で叩く。
すると杖の狙いが逸れて、放たれた杭があらぬ方向へと外れていった。
そして体勢を崩した黒騎士は、稲妻のような一突きで腹部を貫かれていた。
「急所は……」
外したと、女は恐らくはそう言おうとしていた。
だが口にする前に危機を察知した。
言葉を止めて、槍を引き抜くと同時にその場から飛び退いた。
すると次の瞬間、爆発が起きる。
女と黒騎士がいた場所は、ばら撒かれていたナイフが起こす爆炎に飲み込まれていた。
さらに爆発は連鎖する。
至るところに仕込まれたナイフが、逃げる女を追うようにして次々と起爆していく。
しかし女は、そもそもナイフの位置を悟っていたのだ。
爆発の範囲から皮一枚で逃れる。
しかし離れすぎないことで巧妙に起爆を誘う。
面倒な、爆発するナイフを全て使わせるためだ。
「…………」
敵の立ち回りを見て、黒騎士は何も言わずただ顎を引く。
思案するような仕草だった。
やがて爆発が終わると、彼は大盾とランスを手に女へと駆け寄った。
まず、繰り出したのは大盾による殴打だった。
これはかわされた。
女による反撃の刺突が来る。
黒騎士は大盾を斜めに構えて、盾を削られながらも受け流す。
流した盾の表面に小さく火花が走った。
そして口を開く。
「……『偽証』」
一つとして言葉を話さなかった黒騎士が、唐突にそんな声を漏らした。
女は眉根をかすかに動かす。
けれど、一切の曇りなく槍の穂先で斬りつけた。
「…………っ」
黒騎士は浅く肩を斬られた。
されど怯まない。
そして次の瞬間、二人の周囲にいくつもの鉄の円柱がそそり立つ。
「…………?」
戸惑う敵をよそに、黒騎士は柱の内の一つを大盾で強く殴った。
すると周囲の円柱……いや、円筒が、一斉に共鳴して虚ろな音を鳴らした。
「!」
その刹那。
女は平衡感覚を失ったかのように姿勢を崩した。
焦りを露わに目を見開く。
膝をついたところで大槍の突きが迫る。
「っ………!」
女は初めて口を開いて喉から苦しげな息を漏らす。
槍を盾にして辛くも受ける。
だがさらに体勢が崩れた。
地に左手をついて座り込むような形になった。
その彼女に、黒騎士は一切の慈悲なく大槍を振り下ろす。
鎧が壊れるような音がした。
「……危な……かった」
女が棒読みの声を漏らす。
確かに危機だった。
だが、彼女は生き延びていた。
目を開き、灰色の瞳でじっと黒騎士を見ている。
「…………」
座り込んでいて踏ん張りも効かず、その上とっさに使えたのは片手だけだった。
一撃を防げるはずがない状態だった。
しかし、女はランスの刺突を右手で受け流していた。
結果として、槍を逸らした右手の鎧は無残に壊れ果てている。
かろうじて受け流した形だが、それとて突きの軌道が完全に読めていなければ不可能である。
「……はぁ」
一つ息を吐いて、女は取り落としていた槍を握った。
さらに一瞬で立ち上がる。
そのまま穂先で一閃すると、黒騎士は血を流して倒れた。
反応はできたが防げなかったのだ。
直撃しながらも、黒騎士はなおも立ち上がろうとする。
その腹を女がつま先で蹴り飛ばす。
彼方へと跳ね飛ばされた敵をよそに、彼女は小さく呟きを漏らした。
「なるほど。意味のない目くらましも……ナイフも……確かめるためね」
納得したように、独り言のように女はそんな声を作る。
彼女は生まれつき声を出せないので、最初から『音を操る能力』で声を作って話していた。
そして黒騎士はずっと、この力を見極めようとしていたのだ。
たとえば煙幕による奇襲は、目を閉じている女がどの感覚から情報を得ているのかを絞るためだった。
煙幕に包まれた中でも動けるのなら、少なくとも視覚ではないと黒騎士は判断した。
加えて、戦いを続ける中でも彼は考え続けていたはずだ。
女は随所に手がかりを残していたからだ。
無数の声を操る奇妙な詠唱もそうだ。
あれを見て黒騎士は、音に関連する力ではないかという疑惑を持っていたのかもしれない。
そして、ナイフの爆破への対応を見て確信を持ったのだろう。
どの感覚から情報を得ているのかという謎に対して。
まず、視覚は煙幕の段階で除外されている。
次に嗅覚もありえない。
雪の中に深く埋もれて、匂いを辿りようがなくなったナイフまで女は把握していたからだ。
よって、残るのは聴覚だけだ。
爆発、つまり空気の破裂の範囲を確実に見切っていた姿も後押ししたのかもしれない。
ともかく音を反響させて周囲を確認しているということを、彼は見事に明らかにしてみせた。
一応、偽装詠唱や音の衝撃波など露骨な手がかりもあった。
もしかするとこうした音を使う探知を、どこかで見たこともあったのかもしれない。
しかし、それでも並の戦士にできることではない。
短時間で未知の能力の種を暴き、有効な策を立ててみせたのだ。
素直に称賛に値すると女は考えている。
「音を支配する力を……逆手に取るなんて」
彼女はその目で黒騎士を見ていた。
華やかな印象の、黒目がちな目で灰色の瞳の視線を送る。
視線の先の黒騎士は倒れたままだ。
倒れたまま、赤く底光りする瞳で女を見ていた。
「…………」
彼女がこれまで目を閉じていたのは、決して目が見えないからではなかった。
ただ音に集中するためである。
周囲に絶えず存在する音から、女は情報を得ていた。
音の動静を完璧に把握し、時には自ら音波を飛ばして全方位に広域の感知網を築くのだ。
これによって初動から敵の動きは筒抜けである。
故に女は黒騎士の猛攻を軽くあしらえた。
だが黒騎士はこれを逆手に取った。
共鳴を利用し、複数の場所で同時に大音量のジャミングを仕掛けてきた。
ほんの一瞬だけ感知網を機能不全にしてみせたのだ。
女はまたため息を吐く。
続いて棒読みの声で語りかけた。
「ガルムの言っていた通り……あなたは優秀な戦士よ。刃を交えるのも悪くはない……けど、肩を並べて戦ってみたいとも思う」
作られているが故に、その声は平坦である。
しかし惜しむような表情には確かに感情が滲んでいる。
再び立ち上がろうとする黒騎士に視線を向けて、女は視線を鋭くした。
「だから殺される前に……早く止まって」
黒騎士は立ち上がった。
そして弱り震える手で弓を握る。
矢を作って弦を引き絞る。
女は小さく嘆くように息を吐いた。
しかし、次の瞬間には槍を持って駆け出す。
「教えておく。……私の目には、未来が見える。だからあなたの攻撃は……もう、二度と当たらない」
冷たい宣告の後、女の左目が力強い金色の光を帯びる。
金の残光をたなびかせ、凄まじい速度でもって駆け抜けた。
そして、曲剣と杖に持ち替えていた騎士の懐に入り込む。
曲剣の迎撃をかわして、目の前で槍の刺突を放とうと構えた。
「!」
かすかに黒騎士が驚いたような気配を漏らす。
何故ならなんの障害もなかったかのように、女がするりと間合いに入ってきたからだ。
確かに剣を振ったはずなのに、まるで最初から分かっていたかのように歩いてかわされた。
そして、気づいた時には目の前に立っていたのだ。
けれど、それでも、無駄であったとしても黒騎士は剣を振るう。
やはり当たらない。
ほんの少し体を傾けるだけで、女は見事に剣を空振らせた。
と、同時に槍の反撃が放たれる。
黒騎士の腹を、槍が見事に貫いていた。
「…………」
血があふれるがすぐに凍りつく。
彼女の槍は、魔物の血さえ凍らせる冷たさを纏っていた。
凍傷により戦う力が奪われていく。
ついに黒騎士が膝をついた。
しかしすぐにふらふらと立ち上がる。
この気迫は、魔物に呑まれて狂ったというだけでは説明がつかない。
おぞましいまでの執念だった。
女は悔しげに唇を噛む。
「……死んでも……いいの?」
黒騎士は答えない。
答えずに斬りかかる。
だが全ての攻撃が危なげなくかわされる。
黒騎士は武器を変え、距離を変えて様々な攻撃を繰り出した。
しかし女は、武器を合わせることすらない。
予知の眼による完璧な見切りで一方的にねじ伏せた。
そして始終圧倒したまま、女はついに黒騎士の胸を深々と槍で刺す。
「っ……」
刺された瞬間、彼はかすかに呻き声を上げた。
槍を引き抜こうと柄を掴んでもがく。
しかし、やがてその肉体を冷気が侵し切ってしまう。
糸が切れたように力が抜けて、だらりと腕を下げた。
そのまま、槍を引き抜かれると同時に死体のように倒れた。
―――
力が入らない。
冷えていく指先が、どうしようもなく終わりなのだと訴えている。
勝てないのかと、霞む思考の片隅にアッシュは思う。
無力だった。
弱くて弱くて仕方がない。
思えばいつもそうだった。
諦めかけた、その時。
おぼろげな景色の中に赤毛の少年が立っているのが見えた。
アッシュよりずっと背の低い、幼さを残す少年だ。
目の前に立って、こちらを見下ろしているようだった。
姿が朧で、顔つきさえよく分からない。
けれど彼のことはよく分かる。
なにしろ……そう、彼は古い友達だったのだ。
「ウォル、ター……」
名を呼ぶために声を絞る。
最後の力で必死に呼びかける。
俺はまだ、負けたくない。
頼む、力を貸してくれ。
少年は何も答えない。
答えないまま、ただ倒れたアッシュを見下ろしている。
しかしそれでも、引き下がらずに懇願した。
どうか俺に、弱くて弱くて仕方がない俺に――――
「ほの、お、を……」
熱を希求して右の手を伸ばす。
すると少年もアッシュに手を伸ばした。
そして静かに口を開いた。
『……神はお前を選ばなかった』
彼の、小さな言葉と共に手が重なる。
その刹那。
冷えた指先に熱が帰る。
いや、かつて以上の熱が、灼熱が流れ込む。
『しかし、それでも…………全ての死者が、お前を選んだ』
「…………!」
……ああ、それは、その言葉は。
アッシュにとっては福音だった。
死してなお支えてくれるのだ。
これまでの道を認めてくれるのだ。
それは、たとえ都合のいい幻聴であったとしても、命を捧げるに足る希望だった。
奮い立つ心に呼応するように、触れた右腕が漆黒の炎に包まれる。
すると、火は時を置かずして全身に燃え広がった。
当然のように業苦をもたらす。
「うぅ、あ、ああ、あああっ…………!! ガアァァァァァァァァァァァァッッ!!!!!」
血を吐いて狂ったように叫んだ。
燃えていく、すべてが。
俺が。
もがき苦しみ、のたうち回って炎に焼かれる。
全身を炙られて呼吸すら上手くできない。
痛みのままに叫びを上げ、そのまま灰燼に誘う熱に溺れた。
……しかしやがて、妄執が痛みを凌駕する。
呼吸ができるようになり、アッシュは雪に爪を立てた。
「…………」
それから燃える炎を見る。
……黒い炎だ。
これを見ていると、胸に穿たれた暗い穴が満たされていくような気がした。
ああ。
これでよかったのだ。
そんなことを思い、アッシュは震える膝を地に立てる。
一筋の光すらなくてもいい。
何物をも照らすことができなくてもいい。
かつて夢見た英雄になれなくてもいい。
過去も現在も、この命すら焚べて見せる。
だからただ敵を。
すべての敵を、焼き尽くすに足る熱量を……!
全身をおこりのように震わせながらも立ち上がる。
血を流しながらも拳を握る。
遠のく意識の中、強く強く大地を踏みしめた。
「さつ、り、く、き、か……ん、かい……ほう……」
破れそうな心臓を、意思を振り絞って動かす。
作り出した大剣を地に突き立てた。
左手に巻きつけた長大な鎖が、地に垂れ下がって音を立てる。
そして大剣の柄を握り、アッシュはその名を……もう一つの殺戮器官の名を口に出した。
「――――『焼尽』……!」




