9. 剣の少女
まるで、幻でも見ているかのようだった。
霧のなかに軌跡を残す薄桃色の髪。その先端で少女が目の前のアリアスに飛び掛かかる。背中へと振り下ろされた古ぼけた青銅の棒が寸前で霊剣に防がれて、弾けるような音と共に舞い上がる苛烈な紅炎。
重厚な鉄の斧をも切り裂くという始祖族の霊剣が、古びた青銅に打ち負けるわけがない。当然の如く寸断された青銅の棒が空を舞い、しかし少女の姿はもうそこには無い。
「チィっ!! もう追いついてきやがった――」
アリアスの言葉は、強制的に遮られた。彼の体勢は大きく崩された上に、がら空きの腹部へ少女の蹴りが突き刺さる。相当な威力なのか、決して小柄ではないアリアスの体が吹き飛び、廃墟の一画に積まれたガラクタの山へと打ち付けられた。シンと静まり返っていたはずの空間に途端に大きな音が響き渡り、呆然とする僕の腕が強くつかまれた。
「ツカサ、早く!!」
だが一度足が動き出せば、何がどうとか、もうそんなことは気にしていられない。アリアスの体勢が崩れた今しか、ここから逃げるチャンスはない。彼女に引き起こされた直後、そのまま僕たちは廃墟の外へ駆け出していた。
霧と薄暗闇のせいで足元はおぼつかず、それどころか打ち捨てられた旧市街の道すがらも分からない。そんな中を彼女は何の躊躇も無しに全力で駆け、手を引かれている僕も同じ速さで走り続ける。
深層部の出口は、ここからそう遠い場所ではない。このペースで走り続ければ必ず逃げおおせるはずだ。汗が浮かんだ頬を、ひと際大きな風が撫でつけた。夕凪の時間が終わり、陸風が吹き始めたに違いない。強めの風に吹かれて、駆け抜けている旧道の霧がはれた。少なくとも一寸先の視界は劇的に見えやすくなり、この風の吹いてくるところをたどれば、必ずまた表通りにたどり着けるはずだ。
『ちょこまかと、ネズミみてェに逃げてんじゃねェぞ!!』
汚らしい罵声が聞こえた瞬間に、少女は僕の手を引いたまま近くの廃墟の中へ転がり込んだ。ろくに受け身も取れずに痛みを覚える間もなく、驚愕に目を見開く。
連続して鳴り響く甲高い金属音と、次いで生じるすさまじい熱波。ついさっきまで僕たちが走っていた道へ、幾多もの赤橙色の煌々とした光が上から降り注いできた。数分前にアリアスが廃墟のなかで見せたそれよりも、規模と熱量の双方が比較にならない。僅かに残っていた霧を一掃した赤橙色の火炎は、次の瞬間には中心にあったはずの霊剣と共にすべてが消え失せていた。
僕らの頭上には、奴がいる。廃墟を飛び越えて大通りを逃げるこっちを虎視眈々と狙い、そしてふと気を抜けば何本もの霊剣が必殺の威力と莫大な熱量を持って降り注ぎ、周辺を跡形もなく滅却する。淀んだ冷気で満たされていたはずの空間に不相応な熱気が生まれ、そして灰色の路面が僅かに赤熱する有様。その威容に、思わず息を呑む。
「……こっち!!」
立ち止まっていたのは一瞬だった。少女は霊剣が降り注いだ旧市街の大通りではなく、廃墟の更に奥へと走り出す。向かう先には、より一層の霧が満ちているどころか光もほとんど存在しない、一層の闇が広がっている。しかし少女はそこへ何の躊躇もなく飛び込んでいく。ただただ彼女の後をついていくしかない僕には、待ったをかける暇もなかった。
この少女のことを本当に信用していいかなんて分からない。例えフィンに直接手を下したのが彼女では無いにしても、鞄を奪って路地裏へと誘い込んだのは彼女に違いはない。だから、この少女はアリアスと仲間ではないという一点だけが、彼女に手を引かれて走っている現状を肯定するただ一つの哲学だった。アリアスが明確な殺意を持って追い掛けている以上、頼れるのは彼女だけなのだ。
廃墟の奥には、クアルスの表層からの陸風が吹きこまない、やや広めの空間が広がっていた。日はすっかり落ちたのだろう。ただでさえ廃墟に遮られて碌に光も届かない旧市街の最深部において、この場所はどうしようもないほどの暗闇で満ちていた。そして淀んだ空気には多量の霧も浮いているのだろう。肌寒さの中に、顔を濡らすほどの猛烈な湿気を含んだ空気に眉を顰める。目を凝らしてみれば、ようやく全体像がつかめる程度の視界の悪さ。大昔にここは集会所にでも使われていたのだろうか、そんな広さだ。
そんな中でも、手首からはずっと人の暖かさが伝わっている。少女は、僕の手を引いたままこの空間の中で立ちつくしていた。万策尽きたのか、それともここで隠れてやり過ごすのか。どちらかは知らないが、ただ僕は黙って彼女の様子を見つめていた。
何故、彼女は僕を助けてくれたのか。難破船の事故で救出したことを、まさかここまで恩返ししようとしてくれているのだとしたらとんでもなくお人よしだ。そして、何故彼女は僕の名前を知っているのか。彼女を連行するために衛兵が小屋に乗り込んできて意識が僅かに回復したあの一瞬の最中で、フィンが呟いた僕の名前を憶えていたとでもいうのだろうか。
考えれば考えるほど謎が多いその少女が、こちらへと振り返った。この暗闇の中だというのに、彼女の淡い桃色の髪の毛と金色の瞳は、その存在を強く主張している。目と目が合い、そして何かを言おうとしたこちらよりも早く、少女の口が開く。
「あなたの、所属と名前は?」
変なことを、と首をかしげる。難破船事件の被害者の一人である彼女が僕の所属を知りたいというのは違和感があり、そして名前ならば彼女はもう知っている。
「……ツカサだ。読み書きの塾と手紙の代筆をしてて……所属だなんて、一応商工組合に所属してるだけだ。それで、君は一体――」
そこで言葉を区切る。彼女の意図は掴めないが、嘘をはく場面でもないから正直に話すと、少女の顔に影がさしたように見えた。今話した通り、僕は完全に一般の市民であって、腕っぷしに自信がある傭兵なんかではない。あの始祖族の殺し屋から逃げるにしては、確かに心もとないと思われても仕方がないだろう。
「……私はナイン。そう、ただのナインだよ」
しかし再び此方に向けられたその双眼には有無を言わさないほどの強い意志が込められており――
不気味なほど静かな空間に、足音が響き渡る。僕や少女のものはずがない、それがゆっくりとこの広場へと近づきつつある。
「私はこの名前をかけて――」
幾多の赤橙色の光の筋が暗闇を彩り、そして背後の壁へと突き刺さる。寒く暗い空間を照らすぼんやりとした炎は、それがアリアスの霊剣を核にして燃えていなければまるで暖炉のように温かに見えただろうに。広場の入り口に佇む人影が、にわかに浮かび上がった。
「――絶対にあなたを死なせはしない」
獲物を追い詰めたことを確信して歪んだ笑みを浮かべたアリアスが、再び目の前へと姿を表す。直接霊剣でとどめをさすつもりなのだろう、背後で燻っていた炎はふっと消え去り、代わりに彼が弄ぶ赤銀色の短剣に光が灯る。
「……ツカサ、私を使って」
僕の前に体を置いて、少女がそう口を開いた。一瞬の静寂のなか、決して大きくない声で呟かれたその言葉が何故か強く耳をつく。
「ようやく追い詰めたか。どうせ死ぬんだよ。逃げるしか能の無い癖して、たかが人間族が始祖族様から抵抗しようなんて、傲慢も甚だしい」
人を治め世を治めるはずの始祖族とは思えないほどひどく見下したような、それでいながらこの世界における絶対の真理。彼らの霊剣は上質な鋼の斧さえも打ち砕き、そして魔術は霊剣の届かない領域を纏めて薙ぎ払う圧倒的な暴力だ。一度は不意を突いて逃げ出すことが出来たものの、二回目は無い。彼の両手が陽炎で煌めく。
「私を使って戦って」
だというのに、少女は逃げることも隠れることもせずに、再び意味が判然としない言葉をつづける。いつの間にか彼女に握り締められた手が胸元へと寄せられていた。霧の立ち込める寒さにかじかんだ手に、ほのかな温かさが伝わる。そして頬を軽く触られて、アリアスへ向けられていた僕の視線が少女へと移される。
「この国じゃあお前たちはいつも搾取され、そして気まぐれで踏みつぶされるんだろう。良い文化だ。今回も、大人しく身の程を弁えて踏みつぶされときゃァ良いんだよ」
彼がその腕を軽く振るえば、次の瞬間には豪速で迫る霊剣であっけなく僕は死ぬ。それだというのに、視線と意識は無理やりに少女へと固定されていた。彼女の胸に押し付けられた両手に人の肌を通り越した熱い感覚が伝わり、そして目を見開いてその手を放そうとする。しかし少女はそれを許さず、強く僕の両手首を握り締めた。
「た、戦うだなんて無理だ!! い、一体何がっ」
「怖がらないで。やっぱり、ツカサだ。あなたはまだ自分の全てを知らないだけ。大丈夫、あなたは戦える。だって――」
手のひらに、何か熱くてかたいものがあたり、それと共に闇を飲み込まんばかりの白い光が眼前から放たれた。暗闇に慣れた視界を焼き尽くさんばかりの、昼間の太陽を思わせる激烈な光。少女の姿が光の爆発に飲み込まれていき、そして自分の手首を握り締める感触がすっと消えた。
「――あなたには、その能力がある。私の剣を顕現させて、戦う能力が」
光の中からかすかに聞こえたその言葉を最後に、激光は最高潮へと達した。思わず目頭を抑えようと引いた右手に、いつの間にか何か大きなものが握り締められている。目の前の強烈な光は、その両手に持った何かを起点にしてこの空間を照らしあげていた。