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失われた自分を求め探して彷徨って  作者: 数波周
第一話「不凍の港町クアルス 剣の少女」
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8. 始祖族

「君が……お前がッ、フィンを――」


 血にまみれた右手で、目の前の少女を指さす。何を悠長なことを、逃げなければフィンの二の舞になる。胸から血を流し、そしてピクリとも動こうともしない変わり果てた姿に――その意思に押され、また一歩後ずさった。しかしここから逃げようとする理性とは裏腹に恐怖で麻痺をした感情が少女に怒りを向けている。


「何故……何で彼を殺したッ!? フィンが、僕たちがお前に何をした!?」


 少女の顔から場違いな微笑みが消え失せ、そして何も表情を浮かべない無の視線がこちらを射抜く。後ろへとすらした足に、倒れ伏したフィンの体が当たった。人の体だというのに生気が全く存在しない肉塊のような感触に、途端に吐き気がこみ上げてくる。まるで何かを見定めるかのように目を細めてこちらを伺う殺人鬼を目の前にして、全身の震えが止まる様子は微塵も見られない。


「……これが、極寒の海からお前を助け出した代償だとでも言うのかよ……お前なんか、助けるんじゃ……」


 自分の意志とは関係なく後ずさる。靴の裏の血だまりが、雨上がりの地面とは様相のことなる有機的な水音を鳴らした。自身が手を下したというのだろうに、まるで彼の死体なんて存在しないかのように平然とした風をみせる少女の姿が、酷く不気味で恐ろしい。仄暗い空間から浮いたその彼女が、ゆっくりとこちらに歩き出す。背後には、この薄暗い路地の中でももうどこに繋がっているのか分からない分岐の細道。喉の奥から、言葉にならないうめき声が漏れ出た。


 今は、彼女の一挙手一投足全てが恐ろしい。ただこちらに歩み寄るだけの姿、隙間風に揺れる返り血の一滴すらも無い灰色のローブ、こちらをジッと見つめる金色の瞳、そして俄かに伸ばされた細い腕までも、何もかもに恐怖を抱く。逃げなければ、しかしどうやって。そんな押し問答を心の内で繰り返し、そして足元に転がるフィンの死体のことを再度意識してしまい嗚咽混じりに咳き込んだ。


 もう、立っているのがやっとだった。いつの間にか脚が竦んで動かなくなってしまった僕と向き合う彼女は、とうとう軽く駆け出せば容易に僕の胸へ刃か何かを突き立てられる距離にまで近づいていた。己の呼吸が普段では考えられないほどに荒く、そして早くリズムを刻む。


「……ツカサ。私は彼を――」

『――すぐにそこから逃げてください!!』


 頭上から聞こえてきたその大きな声が、全てを塗りつぶす。怒りも恐怖もそれら全部が一瞬の間だけ見えなくなり、そしてそれを自覚する間もなく僕は彼女に背中を向けて駆け出していた。


「だ、駄目!! ツカサ、待っ――」

『後ろは振り返らず、とにかく走ってください!! 時間は稼ぎます!!』


 再び聞こえてきた若い男の叫び声が、僕の背中を力強く押してくれた。後ろから鳴り響くのは、何回も連続して続く甲高い金属音。一心不乱に腕を振り、そして全力で地面を蹴る。奥の細い薄暗い路地をただ彼女から逃げるというその一点のため、ひたすらに薄暗い中を駆けた。


『まだ撒いてません!! そこを右に!!』


 どんどん狭く、そして明かりが無くなっていく裏路地を、頭の上から聞こえてくるその声だけを頼りに走り続ける。そうだ、この声に僕は聞き覚えがある。昨日あの少女に気を付けろと忠告をしてくれた、衛兵のさんに違いない。彼が、この絶望的な状況の中、助けにきてくれたんだ――


 幾多もの剣戟の音が連続して背後から聞こえてくる。剣を弾き、そして石造りの地面へと突き立てられるような耳障りな甲高い音だ。一体後ろで何が起きているのか、彼女がどのような手段をもってしてアリアスさんを攻撃しているのかも分からない。ただただ、もはや存在すらも知らなかった忘却の彼方にあった旧市街の最深部へと足を動かし続ける。




 頭上を古い時代の建物が覆い隠し、そして僅かに出ていたはずの夕日さえも多くが遮られる。地面も気が付けば石畳ではない摩訶不思議な材質でできたひび割れた道へと変貌し、そして苔と埃にまみれた建物の残骸が両脇を固めている。湿気の高さと気温の低さからか、まるで明け方の街のような霧が周囲に立ち込めている。


 長い時間をかけて表層の街に埋もれた廃墟の中で、とうとう僕は息が尽きた。人の気配など微塵も感じられない廃墟の影に身を隠し、そして冷たく湿った苔に覆われた壁に手をついた。いつの間にかアリアスさんの声や少女を足止めするための戦いの音は聞こえなくなり、辺り一面には不気味なほどの静寂が広がっている。


 その静けさの中で、いやに心臓の鼓動がうるさく聞こえた。目を閉じれば、瞼の裏側には薄暗い中べっとりと地面に広がった血の海が、目を見開いたままピクリとも動かないフィンの姿が、そして僕をジッと見つめるあの少女の姿が次々と浮かび上がる。


 なんとかその幻影を頭から追い出すため、強く頭をふった。額を押さえる手は、彼の血によって赤黒く染まっている。それを強く握りしめた。


 生き残る。生き残って、あの薄暗い路地のなかからせめてフィンの遺体を連れていってやらなければならない。たとえそれが彼が殺される様を防げず受け入れることしか出来なかった自分の自己満足でしかなくとも、今の行動力の源なのだ。

 だからただ息を潜めながら、人の気配が無い旧市街の最深部で逃げる機会を伺う。ここがクアルスのどの辺りなのかも正直なところ分からない。だけど、ここに来ることが出来たということは逆に戻ることも不可能なんかじゃない。


『ツカサさん、ようやくあの少女を撒くことができましたよ』


 ふと、霧の奥から声が聞こえてきた。いつの間にかあの場に駆けつけていたアリアスさんが、今になっては唯一の救いの手だった。通りと朽ち果てた壁一枚挟んだ廃墟の中で、ゆっくりと腰を浮かす。ただそれだけの行為でも、小刻みに震える脚のせいでひどくぎこちない動きになった。ただ単に長い距離を全力で走ったからじゃない、ようやく実感として訪れてきた恐怖がそうさせている。


『大丈夫です。顔を出しても、もう危険はありませんよ』


 そう話すアリアスさんの声にようやくの安堵を覚えて通りに出ようとしたその時、ふとした違和感が頭を過った。この人は、フィンがあの少女に殺されてしまったとき、一体どこに居たんだ?


『ずっとここに留まっていたら、また奴が追いかけてくるかもしれませんよ。まずは合流しましょう』


 廃墟の中で、立ち止まったまま考えをめぐらす。そもそも、彼はあの時なんであの場にいたのだろうか。おそらく、僕とフィンが路地に入った瞬間を見かけて追いかけてきたのだろう。でも、逃げろと指示を出した時からここに来るまでの間ずっと彼の声は頭上から聞こえてきた。なんで、そんな僕の目のつかないところにずっといる必要があるのだろうか。


『まさかどこか怪我をしましたか!? ここ一帯は空気が悪いから、移動しなければ傷に障って危険ですよ!!』


 そもそも、今思い返してみたら先ほどの状況は何かがおかしい。フィンは確かに胸を一突きされて殺害されていた。うつ伏せになった彼の死体を抱き起した背後から、あの少女が近づいてきたのだ。言うなれば、彼女はフィンが殺された向きとは真逆の所から現れたということ。まさか、殺したその一瞬で物音を立てずに僕の背後に回り込んだりしたわけも無いだろう。


『どこですか、早く出てきてくださいよ』


 それに、彼女が身にまとっていた灰色のローブには返り血なんてついていなかったはずだ。地面を赤く染め上げるほどの出血量だったにも関わらず、返り血の一切を浴びずに人を殺すことが出来るのか。


 僕は、何かとんでもない思い違いをしているんじゃないのか。本当に、フィンを殺したのは彼女なのだろうか。


「聞こえているんでしょう? あまり私を困らせないで下さいよ」


 彼女が僕の鞄を持って走り去ったことに間違いはない。だけど、もし仮に彼女が直接的にフィンに対して手を下していないのならば――。あの場所にいた人間の中で彼を殺すことが出来た人なんて、あとは一人しかいない。絶体絶命の窮地から僕を救い出して、あの少女から逃げきってこの旧市街の深層部に導いた人物。


「ほぅら、隠れてないで――」


 霧の中、鋭く響く風切り音。ゾクリ、という寒気を感じた時には、僕は勢い良く駆け出していた。アリアスさんの声が、気がつけばかなり近いところから聞こえていて、そしてまるで獲物を追い込むかのような猫なで声と変貌している。飛び出したその一瞬の間をあけて、後ろから耳障りな金属音が聞こえてきた。


「――とっとと出てこいッつってんだよォ!!」


 振り返ったその先で、複数の短剣が真っ赤な炎を纏いながら苔むした廃墟の壁へと突き立てられていた。壁に刺さる赤銀色の短剣を中心に、紅い炎だけではなく纏った熱を可視化しているかのように不気味な橙色の光が漏れ出ている。




 やっと、自分が逃げきったんじゃなくて、追い詰められたんだということを理解した。何が生き残るだ。何が助けに来てくれただ。気が動転した中でまんまとおびき出されて、気が付けば路地裏の中心街どころか旧市街の最深部じゃないか。こんなどうやって出るのかも分からないようなところからは、もう逃げることなんてできやしない。


「み・ぃ・つ・け・た」


 嬉しそうな、見下したような、そんな声が聞こえてきた。いつの間にか壁に突き刺さっていたはずの赤銀色の短剣たちは消えていて、そして廃墟の入り口で灰色のフードを被った人影がこちらを覗き込んでいた。両手に握る何本もの短剣は、暗闇に変貌しつつあるこの空間を照らす赤橙色の光を纏ながら表面が僅かに波打っている。


「霊剣、なのか……」


 乾いた笑いすらも出てこない。掠れた声でそう呟きながら、取り払われたフードの中を凝視する。耳元を覆い隠すほどの、真っ赤な長髪の男。多量の湿りを含んだ風が髪の毛を揺らし、その中に隠れていた彼の耳を露わにする。先端がいびつに千切れているものの、人族とは全く違う長い異形の耳。つい最近、それとよく似たものを僕は目にしている。


 始祖族。それは鋼よりも強固な霊剣と呼ばれる兵器を所有し、そして奇跡とも言える魔術を自在に操る、丸腰の人間がどうやったって敵うわけがない存在。表面が朧げに波打つ赤銀色の短剣を構え、そして何もないところから苛烈な火炎を巻き起こす。この男は、その始祖族に違いが無かった。


「無駄な手間掛けさせやがって。駄目ですよォ、往生際は良くしなきゃ」


 彼は、ただの始祖族の将官に仕える親切な新人の衛兵なんかじゃなかったんだ。その耳を髪の毛で覆い隠して人間の中に紛れていた、恐らく一連の事件を引き起こした張本人。


「……あなたが、全部やったのか」

「全部、ねぇ。船一隻沈めて船員を残らず殺して……ああ、衛兵の連中も殺ったか。そんで君のお友達も殺してと」


 さも当然とばかりに、目の前の男は指を折って自身のやってきたことを数えて言う。フィンを殺したという事実を、口端を吊り上げてのたまうその姿が、ひどく憎らしく、そして恐ろしかった。衛兵だったはずのこの人が何故だなんて、もう今更思わない。人を殺すことに何も感じることは無い、殺し屋なのだろう。


「何で、ですか。始祖族のあなたが、何でこの街で何人も殺して、フィンまでもッ!!」


 気が付けば、そう叫んでいた。目の前に突如降って湧いた、いとも簡単に僕たちの日常を破壊する理不尽な暴力。なんで、僕やその周囲の人間がそれを受けなければならないんだ。


「……"積み荷"の奪取、及び関与している人間全員の始末。この俺が仰せつかった仕事さ。始祖族なんて大層な連中の中にも、俺みたいに殺しに特化したどうしようもない奴もいるんだよ」


 顕現させた霊剣の一本を、手のひらで弄びながらアリアスさん、否、始祖族の男が話し出す。やはり、この男はクアルスの衛兵なんかではない。もっとどこか別の組織に属する、衛兵とは真逆の危険な存在だ。


「どうせ殺すんだから愚痴ぐらい聞いてくれよ。この時のために、何日も前から人間族のふりをして磯臭ェ街に潜伏して、そしてようやく日の目を見たっていうのに……"積み荷"は船から漂流して行方不明、見つけて確保したと思えば逃げ出す始末。おかげで無駄に殺す相手が増えて――面倒クセェんだよ!!」


 饒舌な様子で話し始めたと思えば、廃墟の中に響くような怒気をはらんだ口調で男は吐き棄てた。それと共に手にしていた短剣の一本が、僕の足元へと投げつけられた。途端に巻き起こる火炎と熱波に思わず後ずさり、短い悲鳴が口から漏れ出る。目の前の男はまるで嘲笑うかのようにそれを眺め、いつの間にか投げつけられたはずの霊剣は姿を消して彼の手元へと戻っていた。


 脚が、竦んでしまってろくに動かない。ここから逃げきれる方法が全く思い浮かばない。この男の霊剣は投てきに特化していて、下手に背中を向ければそのまま背中から刺殺される。それに仮に逃げおおせたとしても、こんな旧市街の最深部では地の利も無い上に、暗闇と霧のせいで自分がどこにいるのかも分からない。ただ足掻くための一歩すらも踏み出せず、気が付けば苔むした壁に背中を預けて、そのまま腰を地面につけていた。


「そうだ、殺す前に一個聞いときたいことがあったんだ。俺がこの仕事を受けた時に、一つ念を押されたんだよ。"あの積み荷がもし執着するような人間がいたら、決して油断をするな"。結果、奴は君の名前を呼び、そして君との接触を試みた。だから君を殺すにあたって、わざわざこんな面倒な場所にまで誘い込んだ」


 一歩ずつ、彼が近づいてくる。赤銀色の霊剣を右手に握り締めながら、その刀身に赤橙色の陽炎を煌かせる。ただその光景を、呆として見つめることしかできない。


「君は何だ。あの積み荷との関係性は何だ。何故、そこまでの警戒が引かれていた?」


 フィンを巻き込まなければ良かった。あの時僕が宝探しに行くことに反対していれば、今も僕とフィンは何も知ることが無いまま影に覆われた街の中で暮らしていただろうに。それを思えば、こんな状況なのに知らず知らずのうちに悪手を踏み続けた自分自身に嘲笑が浮かんだ。


「……もう壊れちまったか。なら用もない。じゃあな、ツカサ君」


 せめて、失った記憶を取り戻してから、どこかに置いてきてしまった自分の人生の意味を取り戻してから死にたかった。振り上げられた赤銀色の短剣、その切っ先をまるで人ごとのように淡々と眺め――


「ツカサに――手を出すなァ!!」


 ――その背後から闇と霧を切り裂いて、憤怒の表情を浮かべたあの少女が始祖族の男へ飛び掛かった。

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