7. 遭遇
「なぁ、それ何持ってるんだ?」
港湾地区を出たところで、彼が僕の鞄を指差して尋ねてきた。確かにこの鞄は見た感じではいかにも何か入ってますと言わんばかりに膨らんでいる。もとが小さい物だから、少しでも荷物を入れるとこうなってしまうのだ。
「さっき買ってきた僕の仕事道具さ。インクと紙、これが無ければ話にならない」
「勉強会でも紙に文字を書きてぇなー。ツカサ、今度それちょっと使わせてくれよ」
「駄目。紙は高価だし使いまわせないからね。それに木版にだって書きやすいし、捨てたもんじゃないよ」
手紙を書くためにはこのような紙とインクが欠かせない。特に紙は決して安いとは言えないが、やはり木版で送るよりは紙の方が軽いし嵩張らないし、配送の時の金額まで含めれば紙と木版はそこまで大きな差は無い。ただ少年少女たちの文字書きの練習に使うには、少々割に合わないのだ。
普段と比べてやや人通りが少ないとはいえ、クアルス中心街はそれでも十分の賑わいを見せていた。気をつけて歩かなければ前から来た人と肩がぶつかりそうなくらいだ。日が落ちてきたこの時間帯では、むしろ一日の〆として人通りが若干増える傾向にある。肩から下げた鞄が人にぶつからないように、一層の注意を払った。
「なぁ、近道してこーぜ。オレ裏道結構詳しいんだ」
「路地裏のこと? 駄目だ、最近物騒なんだから人通りの多いところを行くよ」
歴史の深い街であるクアルスには、表の賑わいから隔離された巨大な路地裏が存在する。石造りの建物たちの間を縫うようにして入ることの出来るのはほんの表層で、その奥には旧市街が広がっている。半年間この街で過ごしてきたけれど、いかにも危険そうなそんな場所には意図して近づかないようにしてきた。
フィンの提案をばっさりと否定をしたら、彼はつまらなさそうに舌打ちをした。だがこんな状況で、わざわざ薄暗く人通りがほとんどない空間を歩くだなんて冗談じゃない。クアルス中心街に面した路地裏であっても、建物が密集した隙間は表通りとは全く異なる雰囲気を放つ。昼は浮浪者が、夜は酔っ払いがたむろするという、お世辞に治安の良い空間とは言えない。
「それにここを抜ければフィンの家はすぐに――ッ!?」
ドン、という強い衝撃が肩に伝わった。ただ人とぶつかっただけじゃ済まされないその勢いに驚いているその間に、肩にかけていた鞄のひもがするりと腕の先へと抜け落ちる。それに気が付いた時には、鞄の本体に引きずられてひもから手が離れてしまった。咄嗟に掴みなおそうとするそれは、落下とは明らかに異なる挙動で指先から逃れた。
目深にフードを被った人物が目の前を走り出し、そして表通りにぽっかりと口を開けた裏道へと向かう。そこに来てようやく、ひったくりに遭遇したのだということに気が付いた。
咄嗟に追いかけようと足に力を入れかけたが、踏み出そうとする寸前に理性が待ったをかけた。このまま追い掛けて、路地裏の深層部に行けばどうなるか。あの鞄の中身は、ただでさえ怪しげな影で覆われた状況下でそんなリスクを背負うほどのものか。たかが紙とインク、また買いなおせばいいじゃないか――
「おい、コラァ!! 返せ!! 逃げるな、待てよ!!」
隣から叫び声が聞こえてハッとする。顔を上げた時には、一緒に連れだって歩いていたはずの少年が、もう目の先を走り出していた。手を伸ばしても間に合わず、フィンは一直線に裏通りへと向かっていく。
「フィン、戻れッ!! そんなもんくれてやればいい、だから――クソッ!!」
呼び止めようとしたが一歩遅かった。フードの人物とフィンは、二人ともがかなりの速さの駆け足で路地裏に吸い込まれていってしまった。追い掛けるための一歩目を踏みとどまったのは、僅か数秒のことだ。鞄を取り返すのではなく、ただフィンを捕まえて表通りに戻る。ただそれだけを考えて、僕も彼らを追って薄暗い細道へと飛び込んだ。
表の通りとは全然違う、淀んだ空気が漂う路地裏の世界。表の街を形成する立派な建物の間を縫うように続くこの道は、当然日陰も多いため薄暗くそして肌寒い。そして空気の巡りも悪いせいか、生臭い磯のにおいが嫌に鼻に付いた。普段であれば決して足を踏み入れない領域に、僅かな音も聞き逃すことの無いようひたすら耳をすませながら駆ける。
小さな駆け足の音を頼りに右へ左へと路地を曲がり、そしてそのたびにどんどんと表の通りからは遠ざかっていることをひしひしと肌で感じた。果たして彼を見つけたところで、スムーズに元来た道を戻れるのか。いや、そんなことは全て彼をひっ捕まえてから考えればいい。いくら裏路地でもここが街である以上いつかは果てがあるはずだ。別に底なし沼でも何でもないのだから。その一心でひたすらに足を動かした。
浮浪者やごろつきすらも見当たらない、裏路地の中に見えた広場で立ち止まった。街の発展と共に置き去りにされた古い建物群、それらがこの路地裏の深層部を成していると聞いたことがある。ここは、その昔は旧市街の交差点か何かだったのだろうか。表通りの喧騒がまるで遠い異世界の出来事であるかのような錯覚を感じた。幾つかの細道がここから伸びていき、その奥からは僅かに表の街の喧騒が聞こえる。今まで走ってきたのも、たぶんその細道の一つなのだろう。流石のフィンもここまでくればひったくりを追い掛けるのも諦めるはずだ。
「……おいフィン、聞こえてるか!! とっとと戻るぞ!!」
その広場の中央で、大きな声で叫んだ。両脇を塞ぐ人が住んでいるのかも怪しい古びた建物によって、その声が反響して路地裏へと響く。しかし、いつまでたっても彼からの返事は聞こえてこない。走った疲れか、それとも冷や汗か、首筋に付着した水滴をすえた臭いの風がそっと撫でつけた。
「鞄の中身なんてどうでもいい、それより早く帰るぞ!! 聞こえているんなら返事をしろ!!」
再びフィンに向けて大きな声を上げる。まさか僕の方が見当違いのところまできたのか、それともフィンはここも通り過ぎて再び表通りまでひったくりを追い掛けていったのか。何か、非常に嫌な予感がする。いくら彼がすばしっこく走るといったって、こっちの足だって負けちゃいない。途中までは確かに彼の走る音を頼りにしてきたし、それにいつの間にか追い越したりいきなり距離を離されるわけも無い。彼の痕跡を追い掛けた結果が、この広場なのだ。
「フィ、フィン!! 何でもいいから返事をしろ!! どこだ、早く家へ――」
その声を遮るようにして、ドサリと何かが倒れるような音が背後から聞こえた。雷にうたれたように振り返り、そして日の光がなくなり暗闇がにじみ出てきた空間の中に何かを見つけた。広場から伸びる細道、その一つの路上に何かが倒れている。
「……フィン、なのか……? お、おいしっかり――」
――僕は、駆け寄ったことを後悔した。小柄な体に茶髪のツンツン頭、それはフィンに違いなかった。彼は仄暗い路上にうつ伏せで倒れ、呼びかけたり背中を叩いてもピクリとも動かず、そして地面についた僕の手に生暖かい何かが触れた。それは液体で、この薄暗い空間でもはっきりと赤色とわかり、止め止めもなく突っ伏したままのフィンの体から流れるのを止めようとはしていない。
「あ……あぁ――」
べっとりと濡れた手が、ひどく鉄臭い。言葉にならないうめき声が口から漏れ出し、そのまま後ろへと倒れこんだ。冷たく硬い石の感触とは真逆の、生暖かい液体。さっきまで一緒に歩いて話していたというのに、その彼に再び近寄ろうとするのがひどく怖い。これだけ呼びかけようが背中を叩こうが、一言も発しないどころか反応すらもしない。
「フィ、ン……起きろよ、なあ!!」
勇気を振り絞り、動く様子のない彼の体を無理やり抱き起す。服が赤く滴る液体で濡れようが構わない。彼の顔を見る、その一心で目にした光景は、ようやく僕の脳に現実を受け入れさせた。
瞬きすらせずに開かれたままの目、そして開けっ放しの口。全身のどこにも力が入っておらず、抱きかかえた体に逆らうようにしてゴロンと首がそのまま下へと向いた。視線を下ろせば、彼の左胸からその赤い液体――血液が流れ出ていた。
「な、何で……フィン――」
ザリ、という背後で聞こえた足音で振り返った。動かなくなった彼の体を地面に下ろし、そして震える足で何とか立ち上がる。いつからそこにいたのだろうか、薄ら闇の路地に立ち、フード姿の人影がこっちを見つめていた。あの時僕の鞄をひったくって路地裏に逃げて、そしてフィンが鞄を取り返そうと追い掛けていった奴だ。手にはいまだにその鞄を持ったまま、そしてそれは一歩こちらに近づいた。無意識に一歩後ずさり、靴がフィンの体から流れ出た血だまりを踏みしめる。
その人物は、フードに手をかけてゆっくりと素顔を僕の目の前へ晒していく。この暗闇の中でもはっきりとわかる、淡い桃色の髪の毛、そして周囲の僅かな光で煌く金色の瞳。その姿が誰であるのかを認識した瞬間、背筋に酷い寒気が走った。
「……ツカサ。やっとあなたに会えた」
数日前に僕とフィンが木箱の中から助け出した少女が、まるで場違いな淡い微笑みを浮かべていた。