4. 月に照らされる赤銀色
時期としては満月であるはずの空はどんよりとした雲で覆われてしまい、普段ならば明るく照らされるであろう夜道はほぼ完全に闇に包まれていた。冬が明けてからまだ間もないために夜の気温は非常に低く、通りに面するいずれの建物の窓も閉め切られている。閉じた窓の内側に街灯の弱々しい光が差し込むなどという事は無く、ただでさえ暗い夜の中で一寸先も見えるかどうか怪しい暗闇に覆われていた。
――――
この通りに面するとある診療所も例に違わず暗闇と静穏に支配されていた。煉瓦造りの建物の一階にある部屋の中には均等にベッドが並べられており、誰もが時間相応に寝静まり穏やかな寝息が聞こえるのみであった。部屋の中で眠る彼らは全てが海難事故から救出された生存者だ。
初春の海の冷気で著しく体力を損ないつつも奇跡的に生還した彼らは、この診療所にすぐさま搬送されて治療を受けた結果こうして一命を取り留めているが、体調が回復し聴取が可能になるまで入院を余儀なくされている。しかし心停止一歩手前まで来ていた者もおり、こうして安らかに眠れるのは幸運に違いが無かった。
――、――
部屋の入り口には木製のドアが備え付けられている。鍵穴も無いような簡単な作りであり、部屋の中と廊下を仕切る以上の事は求められていないようにも見える。質素な木の板は廊下の音も特に遮断せずに伝えてしまうだろう。
――リ、ヒタ――
本来ならば寝息や時折吹き付ける風が窓を叩く音以外がする筈が無かった。しかし何かが地面を押し付ける音が聞こえたと同時にドアの取っ手がゆっくりと軋みを挙げながら動き始めた。鍵など存在しないドアノブは何の抵抗も無く回り、なるべく音をたてないようにするためかゆっくりとした動きでドアが開いていく。
――タリ、ヒタ――
誰もが多少の音では覚めないほど深い眠りにつき、扉をゆっくりと開けた軋みに気付く者はただの一人もいない。それでも扉を開けた存在は過度な用心を心掛けているのか、開けすぎて壁とドアノブがぶつからないよう半開きに留めつつ、僅かな軋みのみを響かせながら部屋の中へ立ち入った。視界をほとんど遮る暗闇の中でも何の抵抗も無くゆっくりと足を進める侵入者が纏うのは頭まですっぽりと覆う黒っぽいローブだ。診療所の癒術師が普段着る白いローブとはまるで違うそれは、まるで闇と同化しているような錯覚をしてしまうほど侵入者の存在感を覆い隠している。
――ヒタリ、ヒタリ――
ベッドの支柱にローブの端が擦れることもなく、僅かな足音のみを残して侵入者は一番窓側のベッドの脇へと辿りついた。やや前屈みになりながらローブの奥から覗き込む先には、何も気付くことなく眠り続ける中年の男性の姿があった。規則正しい寝息を立てる彼の姿を前にして、侵入者はローブの奥に手を入れる。目当ての物はあらかじめ外へ出しやすいようにしていたのかすぐにローブから出された手には、板状の何かが逆手で握られていた。もう片方の手を目の前の男へとかざし、侵入者は更に一歩ベッドへと近づく。
ふと、窓の外が少しだけ明るくなった。どんよりとしていた雲の僅かな切れ間が幸運にも月へと重なり、明るい青白い光が暗闇を打ち払うように照らされる。やや曇った窓からも光は差し込み、窓枠をかたどった影が床に映った。月光は侵入者の輪郭をはっきりさせると同時に手に握りしめるものも照らしあげ、赤銀色の刃を輝かせる。
妖しげな色合いの刀身を携える突剣の輪郭が薄れた暗闇に浮かび上がり、侵入者はより見やすくなった患者――獲物の口元へ手をかざした。寝息が手に掛かるほどの位置まで近づけて、短剣を握りしめる手をゆっくりと上げていく。布団の下でゆっくりと上下する胸に狙いを定め、断末魔も手で覆い隠せるように準備を終えた侵入者は、何のためらいも無く腕を振り下ろした。
* * *
朝靄の漂う冷たい港町の空気を、ごうという音と共に振り抜かれた長剣が切り裂いた。
咄嗟に一歩後ずさったその目の前を、剣の切っ先が通過する。風切り音すらも伴い前髪を震わせるその斬撃は、すぐ様に角度を変えて袈裟懸けに振り上げられた。今度はそれを横っ飛びすることで避け、着地と同時に姿勢を変えて空振りした剣先へと向き直る。
「クッ……ちょこまかとッ!!」
長剣を構えた相手がそう吐き棄てて、こちらへ突進しながら剣を構えた。移動をしながらの線攻撃、単純にその場で回避を繰り返すのでは危険に過ぎる。後方へバックステップをして剣戟から逃れた隙に、両手を腰脇に伸ばした。
しかし相手の突進は終わらず、更に剣先が横薙ぎに目の前へ迫る。相手の速度から考えて再び後ろに跳んで逃げるのでは次くらいで捉えられる。だから今度はそれを避けるのではなく、受け流す。
「ようやく抜刀したなっ!!」
子気味の良い甲高い音が鳴り、向こうの長剣と今しがた腰から抜刀して構えた二振りの短剣が打ち合わされた。短剣を交差して相手の剣戟を受け止め、すぐ様に剣の腹に打ち付けて右後方へと勢いを流す。その隙に再び相手の後ろへと逃げるべく足を踏み込もうとするが、それよりも姿勢が崩れたはずの相手の剣が再び襲い来る方が先になった。
「逃げるな!! 正面から打ちあえ!!」
相手は腕の長さを優に超える長剣、一方こちらは二振りの短剣。重量が違い過ぎる両者がまともに打ち合えば、こっちが力負けするのは当然だろう。
一瞬の間をおき出た結論は、ひたすらに受け流すこと。再び片方の短剣で重厚な一撃を一瞬だけ受け止めて、すぐ様にその勢いを横へと追いやる。手に伝わる激しい衝撃、ただ受け流しただけでこれなのだから、相手の言う通りにして真正面から受けたらすごく不利になる。フリーになった右手の短剣で決着をつけようと振りかぶり――無意識のうちに後方へと飛び跳ねた。
「こんのぉッ……!!」
長剣の勢いをそのまま使った強烈な回し蹴り。剣戟に勝るとも劣らない鋭さのそれを寸でのところで回避する。
ドッと吹き出る冷や汗、あれが腹部に直撃していれば剣がどうとか関係無しに一撃でノックアウトだ。バックジャンプした勢いをそのままに、背後の壁にまとめて積んであった木箱たちの上に駆け上がり、そして空振りさせた蹴りの姿勢から再び剣先をこちらに向けた相手の姿を目に入れた。
「こらっ、降りてこい!! それでは剣術の練習にならんだろう!!」
「いや、剣術って……元々は護身術の練習会でしょう、これって」
ドスリと練習用の木剣を地面に突き立てて今しがた護身術の練習をしていた相手を、僕は呆れたように見つめた。革製の鎧に身を包んだ、やや長めの金髪を振り回して怒る一人の女性。普段はすごく落ち着いたまともな雰囲気の人なんだけど、自称剣術練習になると途端に負けん気の強さでああなってしまうのだ。
「ツカサは甘すぎるぞ。今は凶悪犯が街に解き放たれた状態だ。そんな危険な状況では剣術こそが己の身を護る唯一無二の道具となるというのに」
「……ジャンヌさんにはいつも組手の練習をしていただいて感謝しています。でも、僕らはあくまで一般市民。戦うよりも、まずは逃げろです」
足場である木箱を崩さないようにして飛び降り、覚悟が足りて無さ過ぎると怒る彼女をなだめるべく歩き出す。この人の名前はジャンヌ・シーツ。僕が住んでいるクアルス郊外の街の警備を担当する、衛兵の内の一人だ。クアルスに住み始めた当初から挨拶を交わす程度には顔見知りであったが、最近ではどういう縁かこうして一緒に体を動かして護身術の練習を見てくれている。曰く、筋がよさそうだったとのことらしい。
「相変わらずツカサはすっげーな。ウサギみたいにぴょんぴょん跳んで避けるし、いざとなったらちゃんと打ち合うし。お前、記憶失う前は傭兵か何かだったんじゃねーのか?」
僕らの練習を近くの木箱に腰かけて眺めていたフィンが、感心した様子でそう言った。僕にとって、彼は読み書きの先生である僕の生徒の一人であると同時にもっともよくつるんでいる腐れ縁でもある。たぶんジャンヌさんとの訓練の三回目くらいから僕を訪ねてきた彼も混じるようになったはずだ。
彼の言う通り、僕は自分自身について妙に反射神経が良いなと疑問に思ったことはある。それは日常生活の中で羽虫を捕まえる際だったり、こういう運動をしている時だったりと大小さまざまだ。でも一番大きかったのは、数か月前の出来事だろう。
数か月前、街道の一画で馬車の馬が暴れてしまい坂道を暴走するという危険な場面に遭遇したことがあった。商会ギルドに代筆した手紙を届けるためにそこを歩いていた僕は、まさに坂道をおちる馬車の直撃コースにいた。大きな物音とともに振り返ったところでようやく目の前にまで迫った馬車に気が付いた僕は、次の瞬間には何事も無かったかのように馬車が通過していったはずの道の上に立っていた。近くの人に聞いてみたところ、どうやら通過する馬車の縁を足場にして飛び上がって避けていたらしい。
常識で考えてそんなこと無意識のうちに出来ることじゃないが、事実自分の体はそれをやってのけたのだ。僕は半年よりも前の記憶を無くしている。フィンのいう昔は傭兵だったなんて話も、もしかしたら嘘じゃないのかもしれない。
「だがツカサ、お前は敵の剣戟を防ぐことは出来ても、その剣で敵に向かってくるのはからっきしだ。何故そう極端なんだ」
「……どうしてでしょうかね。ジャンヌさんから見て、何か理由みたいなものってわかりますか?」
「さっぱり分からん。少なくとも言えるのは、攻めに転じたお前はそこらの素人にも劣る」
呆れ気味にそう話すジャンヌさんの言葉は、まったく否定することは出来なかった。さっきの打ち合いの中でこちらから仕掛けなかったのは、その気がなかったというよりも、攻め口が全く思い浮かばなかったからという方が大きい。
何となく手に合うという感覚で選んだ小ぶりな二振りの短剣は、ジャンヌさんの剣戟を交わす分には大きな働きをするけど、攻める側に回ったら悲しいくらいにさっぱりだ。手ごたえありと思ったら盛大に空振りし、それどころか小さな木剣なのに振った勢いでこっちの重心がぶれる始末。数かいの練習会を経た今は、ただ身を護る分ならば別にこれで良いんじゃねと諦めの境地にいる。
解決しようと考えたことも無いわけではないけれども、悲しきかな突破口はさっぱり見つからない。一応剣を扱う職にいる彼女で分からないことを、素人の僕が分かるはずもないんだ。
「なぁー、ジャンヌー。難破船について教えてくれよ。衛兵なんだからなんか知ってんだろ?」
「……私のような下っ端はあまり情報が与えられていないんだ。昨日も、いきなりの厳重な警備態勢を敷けとしか言われていないよ」
木箱に座って悩んでいる向こうで、フィンがジャンヌさんに纏わりついていた。僕だけではなく、フィンも一昨日の衛兵たちの行為を目の当たりにしていた。衛兵の冷徹な治安維持部隊としての側面。僕たちにこうして時間を割いてくれているジャンヌさんも、一応はその衛兵に所属する一員だ。フィンは、ジャンヌさんならば衛兵の事情について少しは教えてくれるんだろうと期待をしているようだけど、多分何も聞きだすことは出来ないだろう。
昨日アリアスさんから言われたことを思い出す。僕らが助けた少女は、何人かの衛兵を殺害した。それも始祖族の人間まで犠牲になった。これだけでも途轍もなく重大な案件なのに、一番の問題はその少女がこの街のどこかに潜伏しているということだ。そんなことがあれば、昨日の衛兵たちの厳重な態勢も理解できる。
ジャンヌさんのような一般の衛兵全員にその情報が伝わっているかは定かじゃないし、それに伝わっていてもそんな重大なことは話してくれないだろう。少し気まずそうにフィンをあしらう姿から、多分後者なんだろうなと踏んだ。
たぶん明け方にいきなりフィンを連れたって訓練をするぞと押しかけてきたのも、僕らの無事を確かめるための方便だったのかもしれない。夜も開ける前に扉がどんどんと叩かれた時はまさか例の少女が戻ってきたのかと恐怖でガタガタと震えて布団を被っていたが、それは直後に聞こえたきたジャンヌさんの大声でふっと消え去ったものだ。
「さて、私はもうそろそろ戻らなければならん。お前たち、くれぐれも夜遅くまで出歩いているんじゃないぞ」
「わーってるよ!! ジャンヌ、ありがとなっ」
髪を纏めなおしたジャンヌさんが木剣を両手に抱えて立ち上がった。今の時間は夜が明けて早々といったところ。朝市もまだ始まっていないような早朝で、港の沖合から上がってきた太陽で本格的に街が照らされ始めている。
去り際に手を振る彼女を僕とフィンの二人で見送った。彼女はまた、昨日と同じく特別態勢の中物々しい警備任務に就くのだろう。色々とイレギュラーなことが一昨日昨日と続いている。街の人たちを見てみても浮足立った空気が満ちている。そんな何処か嫌な予感と雰囲気が蔓延するこの街に、新しい朝がまたやってきた。