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失われた自分を求め探して彷徨って  作者: 数波周
第二話「要衝の城塞都市ヴァローナ 黒紅色の戦姫」
18/51

18. 拒絶と逃避

「……名前だよ、な・ま・え。君たち人間族だって普通にあるだろ。別に本名を名乗りたくないなら呼び名でも良いさ。まさかそれすらもど忘れしたんじゃ――」


 目の前のこの人の言葉が、半分すらも理解できない。彼女の素顔を認識したその瞬間から、頭の頂上から足の爪先まで、全身が恐ろしいほどの拒絶感に支配された。焦燥してこわばる頬、握りしめた拳に浮かぶ汗、そして自然と後退る両足。


 快活なはずの声が虚ろに、深紅の瞳からは色が消え失せ、夜の闇になびく髪の毛が無惨に焼け焦げて、そしてその口は力なく怨嗟を告げ――五感の全てがあり得ない妄想へと塗りつぶされる。


 その声を聞くたびに鼓膜の奥が悲鳴をあげ、黒紅色の長髪を揺らす姿から目を離そうとしてももはや金縛りにあったかのごとく首筋のいっぺんすらも動こうとはしない。


「なんだよ、そんなに始祖族が怖いの? でも安心しなよ、別にとって食おうだなんてわけじゃ――」


 こちらに向かって一歩を踏み出した瞬間に、限界にまでに膨れ上がった拒絶が決壊した。自分自身の全身が意識の制御も聞かずに逃げ出そうと足掻き、無様に屋根の上へと転げ倒れる。


 逃げなくては、何処へでも可能な限り遠くへ。目を背けなければ、意識が壊れるよりも前に。拒絶をしなければ、自分を守るために。


 気が付けば、僕の手は空をきっていた。屋根の端をも通り越し、ついさっき駆け登った壁の一部に腰が触れる。そして訪れる浮遊感。こんな体勢で落ちたら、下手すれば大怪我を追うかもしれない。でも、これ以上あの光景を目にいれなくて良いんだったら、ここから逃げるためなのであれば――


「――このっ……バカがっ!!」


 耳をつんざく大声と共に、意味もなく空に伸ばした手が強く捕まれた。


 その瞬間に、全身へ帯びていた何かが霧散した。視線の先で、驚きそして憤りに染まる始祖族の女の人が声を荒らげて僕の腕を掴みあげている。数秒前に幻視した光景など微塵も感じさせず、彼女の視線が僕をいぬく。


「とっとと上がって!!」


 再び聞こえる彼女の声からはただ焦りや苛立ちしか感じられず、どこにも絶望や怨嗟の響きなんて混じっていない。まるで濁った水の中から顔を出したかのごとく、全ての五感が一新された。そして慌てて空いたもう片方の手で壁の一部を掴みあげる。


 ここから落ちて大怪我を負っても良いだなんて冗談じゃない。今までの生活やようやく築いた人々との繋がり全てに背中を向けて、スタートラインにたどり着いたんだ。五体満足で生き残り、自分自身を明らかにする。それが今の原動力の全てなのだから、こんなところで足を掬われている場合などではない。


「……申し訳ございません、いきなりのことで気が動転してたようです」

「本当さ。一体始祖族にどんな印象を抱いてるんだ。敵対もしていない人間にここまで怯えられたのは久々だよ」


 彼女――カタリナと名乗った女性が心外だとばかりにため息をはいた。ようやく屋根の上に登ったところで、再度彼女の姿を視界に納める。


 カタリナ・フォン・アストランテ。先ほど聞いたばかりの、僕のような庶民は直接会って話すことなど絶対に無いだろうと思っていた、天上の高貴なる存在。この国で過ごして未だ半年程度の僕にだってわかる、彼女の名前はアストランテ王国を統治する国王一族のものだ。支配階級である始祖族の中でも、その頂点にいる存在。それが、彼女なのだ。


 それにもかかわらず、ついさっき見た光景と何ら変わりもなく、彼女はこちらを怪訝そうに眺めている。赤みがかった黒い長髪を夜風に靡かせながら、暗闇のなかで存在を主張する紅い双眼がこちらを向いていた。もうその姿を上書きするような妄想は何処にも浮かぶことはなく、一瞬の最中に見えたのはただの白昼夢だったのだろうか。


「……殿下のお手を煩わせてしまい、本当に申し訳ございま――」


 クアルスにいた頃から知っている。始祖族たる彼らには敬意を示し、決して立ち向かってはならない。それも彼らの頂点に立つといっても過言ではない王族なのだから、彼女がフードを取り去る前にしていた己の言動なんて不敬も不敬。なんとか失礼を払拭しようとしたその矢先に、露骨に不満げな視線が僕を射抜いた。


「そういうの、嫌いなんだよね。別に公的な場でもないし、今さら取り繕うとしなくても良い。それにボクが聞きたいのは取って付けた謝罪じゃなくて、君の回答だよ」


 しかし幸いにも――そして不幸にも、このカタリナという人は始祖族としてみても変わり者であったようだ。頭を下げて敬意を示さなければいけないというわけではなく、そしてたとえ頭を下げてても物事が勝手に通りすぎていくわけでもない。


「ボクが探しているのは、すぐに頭を下げるような奴じゃない。さっきの君みたいな、明らかに只者じゃない感じを出していたボクにすらも懐疑的な意思を向けることができて、そしてボクについてこれる奴が欲しいのさ」


 再びカタリナさんの表情が笑顔に染まる。それも、まるで獲物を追い詰めたかのように鋭く、そして見せつけるようにして舌なめずりをするような、目の前にして逃げたしたくなるような質のもの。


 無意識のなかで後ずさろうとした直後に、隣接する建物の壁に背中があたる。彼女の口角は、はっきりとつり上がっていた。


「副官っていうのはね、いわばボクの直属の部下さ。誰もが尻込みする火の出るような争いに、将官のボクと一緒に先陣を切る――ああ、本当に楽しみじゃないか」


 深紅の目はまるで楽しい夢を語るかのように輝き、しかしその内容は僕にとってみれば楽しいどころか忌避感しか浮かぶことはない。霊剣という分かりやすい力だけではなく寿命すらも違うから、僕ら人間族と彼ら始祖族の価値観は大きく異なる。それは、始祖族の中では変わり者かもしれないカタリナさんであっても同じなのだろう。


 いくら戦場に飛び出す自分を想像しても、そこに楽しさなんて感情が湧くはずもない。目の前に立つ彼女との間に横たわる隔絶した価値観の違いは、そう簡単には乗り越えられるものじゃない。しかしカタリナさんは、壁に背中をつけた僕にその笑みを深くして、僕らの間に隔たる見えない価値観の壁など存在しないかのように腕を伸ばす。


「なぁに、悪いようにはしない。戦乱なんていつ起きるかも知らないけど、それが起きた暁にはつまらない傭兵よりもよほど面白いものを見せてやるよ。だからボクと――」


 その手が僕へと届けば、絶対に逃げられない。彼女のなかには、もはや僕が否定をする可能性など存在しないのだろう。頭の中に浮かんでは適さないと消えていく否定の言葉が流れていき、まるで蜘蛛の巣に絡め捕られた羽虫の如く碌に身動きも取れない。


 細く、そして白いカタリナさんの指先が顎先をとらえようとし――触れる寸前に、彼女の手に何かが打ち付けられた。


「いっ――!?」


 直後に足元へこつりと小さなものがぶつかった。指の長さよりも小さな大きさの小石。音もなく投擲されたそれによって、カタリナさんの意識は反れている。こんなものをわざわざ彼女の手に狙って投げつけるなんて――一人だけ心当たりがあった。


 再びカタリナさんが顔をあげるよりも早く、石が飛んできた方へと駆け出した。表通りへと続く細道の中に、僅かにその人物の姿が見え隠れしている。


「待てよ、話は終わっちゃいない!! いいから名前を――チッ!!」


 走り出した頬の脇を、再び投擲された小石が通りすぎる。これだけお膳立てされれば、少なくともこの場所から逃げるだけならば造作はない。まるで歪な階段のように連なる半壊した塀を足場にし、その都度に蹴り出したところが音をたてて崩れていく。


 そしてようやく地面に両足が到達した瞬間、息をつく暇もなく片手が引かれた。目の前に映りこんだのは、夜のなかでもよく目立つ淡い桃色の髪の毛。やっぱり、僕の手を引いて連れ出してくれた人物は想像をした通りだ。


「……助かったよ、ありがとう」

「私は何があってもツカサを助けるよ。それに……」


 表通りへと向けて走る最中、助けに来てくれたナインが後ろを振り返りながら口をつぐみ、その表情を強張らせる。無理もない、つい先日にカタリナさんと同じ始祖族の男に殺されかけ、そして結局僕が殺したのだ。どうしたって始祖族の人に対して色眼鏡をつけてしまうし、ナインにしてみればカタリナさんだってアリアスのように理不尽な暴威の塊に見えても仕方が無いだろう。


『明日の昼、中央広場に来なよ。ボクの所信表明で、君の価値観にヒビを入れてやるさ』


 石を投げてナインが注意を反らせてくれたおかげで、恐らくカタリナさんは追ってきてはいない。その証拠に、後ろに残してきた建物の奥から、かすかに彼女の最後の言葉が聞こえてきた。


 彼女が来いと言っているのは、イモ焼き屋台の店主が話していた戦姫の演説とやらのことだろう。週末に合わせて行われる、辺境に訪れた王族の挨拶。多分彼女を崇拝する傭兵や正規兵たちだけじゃなくて、数多くの市民もそれに赴くことだろう。そんな集いの中心たるカタリナさんから直々に来いと言われるだなんて、ずいぶんと光栄な話だけど……


「明日の予定、少なくとも一個だけは決まったよ。何があっても、中央広場にだけは行かない」

「……それがいいと思う。この街であなたの痕跡を探すのは、また今度でも出来るもの」


 僕の目標は成り上がることではなく、自分を探すということだ。そしてその目的は未だに入口にようやく立ったばかりで、まずは地に足をつけて行動しなければならない。


 少なくとも今の段階では、カタリナさんのような劇物は必要などではない。むしろ彼女のように人の価値観を上書きしうるような豪傑さは、戦いに身を置く傭兵たちにとっては良い薬であっても僕にとってはただの毒になる。王族である彼女の誘いに乗らずきっぱりと断るには、十分すぎる理由なのだ。

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